北九州八幡から発信
八幡、やはた、やわた、はちまん
【走れ!くまごろう】、八幡の古き思い出
【走れ!くまごろう】【くまごろう旅を行く】/本村義男
公演が終わると指人形モンタは、子供たちから握手ぜめ
になる。 ありったけの力で握手する子も多くモンタは手を
痛めてしまうから、妻はその治療(補修)に追われっぱなしだ
「モンタを寝かせますから起こさないようにね。シーッ・・・」
と、私が唇に指を当てると園児たちはシーンと静かになり、
お互いシーッと注意しあいながら静かに会場を出て行く。
なかにはもう一度引っ返してモンタの寝ている手品の箱に顔
を近づけて「モンタ、お利口に眠れよ、ちょっとだけ起きろ」
と話し掛ける子もいる。
これは、ご夫婦で全国の幼稚園・保育園などを訪問して、
紙芝居や口演童話、手品などの公演が終わった時の会場の
ひとこまです。
私が小学生の頃、当時の八幡市では、公園や空き地に子供達を
集めては紙芝居や人形芝居等をして、子供達を喜ばせてくれる、
改良バス型の移動式児童館?が、ありました。
その中心人物が、この本の著者、本村義男さんでした。
私は転校生(市内間の)で習ったことはなかったが、地元の
小学校の元教諭で、子供達に抜群の人気があったようです。
この車が来た時、「本村せんせ~い、本村せんせ~い」と、
みんな追いかけ廻していたのをよく覚えています。
兎に角、この本村先生の話は面白い、手ぶり動作のからだ全体
で話す姿は、子供の心を引き付ける。
私が住んでいた所には、月に1回は、来てくれる。
当時の楽しみのひとつでした。
この車は当時の八幡市が企画して、市内各地を巡回していました。市の児童課の施設の一部として新しい試み?で、車体に小鹿のバンビの絵が描かれていて、「こじか号」とか「バンビ号」とか呼ばれていました。まだ、テレビの無い時代、紙芝居の全盛期の頃です。
その本村さんはその後、市の児童課、教育委員会関係、少年自然の家の所長、児童文化科学館の館長をされていましたから、ずっと、子供と関わりのある仕事をされていた様です。
定年前の55歳の時(昭和60年3月)退職されて、長年の夢だった全国の子供達に紙芝居や口演童話をと、その年の5月から、実行された。
この本は奥さんと二人で車で、全国を廻られた時の記録で、地元の新聞に連載されていたのを単行本に纏めたものです。
この本では、約5年間かけて全国3周までの記録ですが、実はその後、2周して、計5周しています。 又その後、近く等の公演で、現在まで約6000箇所にも及ぶと言う。
運転免許を取ったのが、奥さんは出発の1年前、本人は直前で奥さんの方が上手いので運転は奥さんに任せたそうです。
本の内容は、公演の様子や旅先での出来事、人情溢れるものや、夫婦喧嘩など55歳で役所を退職されての第二の人生の生き方に、敬意を表さずにはいられません。
念のため記するが、全てボランティアで無償で遣っています。寝泊りも基本的には車の中、駐泊出来る場所探し、及びトイレの確保に苦労したとか。
本の中で、自分の生い立ちを書いているところがあります。沖縄県・多良間島の出身で、父親が製鐵所に就職し、後から家族全員で小学6年生の時(昭和16年)、八幡に引っ越した。
転校のあいさつで「君の故郷をこの地図で説明してごらん」
と、先生は竹のむちをくれた。
「鹿児島から汽船で24時間南へ行くと沖縄の那覇です。
さらに、・・・・・・・ 」と一気にしゃべった。
沖縄なまりが可笑しかったのか、何人かが笑った。
その時、先生は
「なぜ笑うんだ。一生懸命説明したのになぜ笑う。
本村君は八幡の言葉になれるまで大変だよ。
笑って悪かったと思う人は、本村君に八幡言葉を
教えてやりなさい。」 と、叱った。
休み時間になると特訓が始まった。
「沖縄にはハブがいます。」「ダメ、おるっちゃあと言え」
「その話をします。」「ダメ、するっけのウと言え」
「よく聞いて下さい。」「よう聞いちゃりイと言うんだ」
「あのですねエ」「あんのウだ」
転入学の不安も淋しさも吹き飛ばす毎日だった。
その時の先生の影響で、自分の進路(学校の先生)を決めた。
八幡生まれの八幡育ちの私は、八幡言葉とは?
荒っぽい言葉だが、成る程と、感心した次第です。
私が本村先生に、実際に会ったのは、
50数年前の”こじか号”の時だけで、
その後の活躍は、新聞なんかで、知っていました。
”くまごろう号”で、全国を廻る時の出発の様子や、帰られた時も
新聞や、テレビのローカルニュースでも報道されましたから。
この本が発行されたのは、15年前の平成6年ですが、
今年の正月過ぎに、図書館で偶然にも見つけて、
改めて、本村先生の偉大さに感動しました。
現在も、お元気で活躍されているようです。
今宿(福岡市西区)を歩く
JR九州の「ウォーキング 秋編」が始まりました。
今回(9月13日)、歩いたコースのテーマは、
「今宿の自然散策と彼岸花・JA田んぼアートまつり」です。
今宿は福岡市の西の端、唐津街道の宿場町として栄えた所で、
JR今宿駅は、昔の宿場の陣屋風に出来ていました。
駅から5~6分も歩けば、海岸に出る。
白い砂浜は海水浴にもってこいだ、すぐ前は能古島。
蒙古襲来、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)で、
戦った場所です。
当時、造られた防塁が今でも保存されています。
福岡市でも、ここまで来れば、JA(農協)が、
幅を利かせています。
この日は「J A田んぼアートまつり」がメインです。
彼岸花はチラホラで、一気に、これからでしょう。
「田んぼアート」とは、田んぼをキャンパスに見立て、
植えたイネで文字や絵を表現しています。
好いとう 今宿
の文字が読めるでしょうか?
会場では、獅子舞や太鼓の披露、「絶叫大会」、
農産物や飲食物の販売などもやっていました。
この日(13日)は、前日とは、うって変わって、好天気。
汗ばむくらいで、周りが畑の田舎道を、約11Km、
約3時間かけて歩きました。
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フォトストーリーに纏めました。
阿修羅さまに会う
興福寺創建1300年記念して、「国宝 阿修羅展」が、
九州国立博物館で7月14日~9月27日まで、開かれています。
"奈良興福寺の阿修羅さまが、ガラスケース無しで観られる。
それに、もうこんな出張展示は無いだろう!”
こんなキャッチフレーズで、
西日本の各地から日帰りツアー、宿泊ツアーも組まれ、
大フィーバーしている。
入場の1時間待ちは当り前、
2~3時間待ちもあり得るらしい。
それが思いもよらぬことから、
休館日の特別開館のVIP待遇で、
行くことが出来ました。(関係者に感謝です。)
何の混雑も無く、ゆっくりと充分に観賞できました。
阿修羅さまの前に10分は居た。
後から引っ返してまた10分。横から観たり、後ろから観たり
阿修羅と聞いて、どんなイメージが沸きますか?
”修羅場のごとき獅子奮迅” とか、
”修羅場と化した戦場” など、
すさまじい闘いのありさまを思い浮かべる。
阿修羅はインド神話では軍の神で、
激しい怒りを表すのが一般ですが、
興福寺の阿修羅像に激しさはどこにも見られません。
そこには、これまでの罪を懺悔して、
釈迦に帰依することが説かれ、
阿修羅の表情は静かに自分の心をみつめ懺悔する姿を
表したものと考えられます。(説明パンフレットより)
不謹慎かもしれないが、仏教・仏像と見るより、
天平の芸術品・美術品として観ていた。
身長153cm、均整のとれた8頭身。
正面の顔の、眉を寄せて何かを訴え、
祈っているような愁いと、
かげりのある顔にひきよせられました。
初秋の皿倉
9月に入り、久しぶりに皿倉山に登った。
お目当ては、ヤマボウシ(山法師)の実の観察と試食。
チョット早かったかな?
それでも、かなり熟れているのもある。
3粒、頂戴した。
甘くて、とろけるようで、マンゴーみたいな味。
「ごっさん」でした。
・・・・・、これが原因か? 弁当を食べて、
30分後、帰りにトイレに駆け込んだ。
山頂にて、
友人が買った高度計。(今日が試運転?)
(高低地の)気圧の変化により、計測するらしい。
その日、その時の基準となる気圧値(海抜ゼロm)は、
各地の飛行場(航空局)から発表されていてるそうで、
インターネット(携帯)で知ることが出来る。
(此方では北九州空港発表のを入れた。)
高度計:619m 設定ミスか、誤差の範囲内か?
それとも? (皿倉山は、標高622mです。)