考え方そして、教え方。
私が学校の先生にイマイチ憧れられないのは、学生時代の感動が、社会に出てからの感動の足元にも及ばないからだと思っている。
卒業してからの出来事や先輩方から、圧倒的な感動を植え付けられてきたからだ。
だから「社会教育」の方がカッコ良く見える。
さすがに考え方が
隔たっている事を自覚しても、
感情はコントロール出来ない。
なぜ大人になってからの「教え」が感動するのか?そこにヒントが隠れているのではないか?と仮説を立てて進める。
大人になってからの「教え」が感動する理由を
3つを挙げる。
1.教えが生きている
2.教えが楽しい雰囲気の中で
3.「考え方」を語る
これだけでも十分。
学校で上の3つが出来るかを先生なりに工夫すればいい。
その方法が先生の個性、あなたじゃないとそのクラスは成り立たない存在価値になる。
しかしここまで言ったら、解説しなければなりますまい。
1.教えが生きている
「今」生徒に教えなければならないことを、「今」教えられるかどうかだという事。
生徒や受講者、聞き手は「学びたい」「知りたい」欲望を持っている。いや、持っていたはず。
合わせてあげよう。もしくはその欲望を呼び起こしてあげよう!
教育とは生ものなのだ!
2.教えが楽しい雰囲気の中で
笑い、雑談、自由、は授業中の敵である。
しかし学生時代に本当に覚えている事は、休み時間や体育祭などで、涙が出るくらい笑い転げた事。
その時に学びが存在しているのだ。
だから、学習を共同作業やグループワークを取り入れて、自由、雑談、笑いを表現できるクラスに環境を整える。
それだけで学びは深くなる。
学びは、楽しさの中に!
3.「考え方」を語る
初任者研修を指導していた時も、「考え方」を学ぶ事の大切さを訴え続けてきたのだが、研修内容を「ネタ集め」の場としか捉えられないカチカチ頭の若者達がいる。
つまり私の指導不足は歴然としていた。しかし9割責任は私だとして、1割の原因は彼らの「考え方を学ぶ」という意味がわかっていないからだとも言える。
体験から学んでもらう、気付いてもらうしかできないファシリテーションのジレンマを感じながら、考え方を伝える事はこれからも続けたいと思う。
そして今の子供達にも同じ事が言える。名称や年号や読み方を覚える事に必死だし、価値が高いと考えがち。それは成績表がそう、評価するからだ。
備考欄で子供を評価できる一部の保護者もいる。学校教育に限界を感じて、キャンプ団体などの社会教育に委ねていくことも見られる。現代の教育の一筋の光だ。
しかしそれは一部で、大多数が成績主義だ。大学や企業でさえ、そんな記憶力主義の社会評価を参考にする。
しかし本当に差が出てくるのは、これからの時代だと思う。
年収200万からは「幸せ」と感じる指数が下がり始めるという。
つまり、金持ちになればなるほど、不足感が沸くという。
ではこれからは?
社会起業家、地域ビジネス、など。やりがい、社会貢献などを感じられる職業が注目されつつある。
幸せと感じるためにはお金ではないということが、うすうす感じてきているのだ。
そういう時代になっていくとしたら、高い年収をもらえる一流企業で「歯車の一部」で働くよりも、「地元の社会貢献を行う企業」及び「社会起業家」を目指す。
そうなると、当然記憶力を評価されて生きてきた子供は使い物にならない。
アレンジ力、判断力、コミュニケーション力、などの人間力がものをいう。
そのためには、考え方を学んでいないといけない。
そして、子供のころに、ゲーム業界に心を奪われてしまった子供は「本当に面白いこと」を要素で分類できない。
誰かが作り出した「面白いこと」を消費するだけの受け身の人間になる。
自分で自分が面白いと思うことを生み出すことが出来ないのだ。
そして、成績のいい、何も学んでいない、体験もしていない優等生が、学校の先生になる。
そして、人生や体験を語れない、授業だけの担任に教わる子供がどれだけ不幸なのか?
ストレートに学校の先生になるのは辞めなさい。
語れない。
遊ぶ時間がない。
同じ種類の人間とばかり話をしてしまう。
そんな先生にはなってはいけない。
経験し、感じ、遊び、考え、
それらを熱く、伝え方を工夫し、語りかける。
真実味を帯びて、真剣に語ることができ、絶妙の間とタイミングで、子供達に自主的に行動させる場作りと仕掛けを出来る指導者になってくれぃ!
そして、自分の仕事を楽しめぃ!