ものの芽には、不思議な力がある。説得力がある。
落ち込んでいても、背中をドヤしつけられるような迫力がある。
時には、そっと背中を撫でてくれる優しさもある。
上の写真俳句は、2月16日の句だ。
まだ昨年の花が枯れ残っている中、紫陽花の芽が吹いた。
「そうだ、もう春じゃないか!」
そう思った瞬間、ずっと残っていた背中の痛みが消えた。いや、現実には消えなかったが、忘れることができた。
その時の句だ。
名草の芽背なの疼きの忘れいて 鵯 一平
後日、薔薇園へ行った。
薔薇が芽を吹いていた。愚痴を言ったら、薔薇の芽に咎められそうな雰囲気を感じた。
薔薇の芽が、鋭い棘に守られていたせいかも知れない。威圧感があった。
薔薇の芽や病ひの愚痴はもう言へぬ 鵯 一平
「もう愚痴は言えないなあ」 そんな感じだ。
とは言っても、いずれ愚痴を言うには違いないが。
今日は外出の折、牡丹の芽に出会った。
赤い芽が芽吹いていた。まるで扇情的ではないか。
老いたりと言えど、熱き鼓動があっても悪くはあるまい。
老いらくの恋と敢えて言わないが。
老いて今熱き鼓動や牡丹の芽 鵯 一平
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