10月の3、4日は「岐阜信長まつり」でした。
新装なったJR岐阜駅から市の中心街、そして市役所にかけて、たくさんの催しが行われました。
秋晴れの天候に恵まれるなか、前にここでも紹介しましたJR岐阜駅の一連の整備計画の完成と、折しも岐阜市制120周年とが重なり、過去最高の50万人という人出を見るに至りました。岐阜市の人口が約40万人ですから、人口の120%の人が集まったことになります。
鵜飼い太鼓
まつりは、岐阜の街の発展にとって大きな足跡を残した、というか、「岐阜」という地名の名付け親でもあった信長公の功績を偲び、私たち後継の岐阜市民の発憤を促すものでしたが、難しい主旨はともかく、岐阜らしい暖かさが随所に見られるとても楽しいお祭りでした。
まつりの若い衆
ここに書ききれないほどのたくさんの催しが束になったまつりなのですが、そのメインとして一本ピシッと筋を通すのはやはり「信長公騎馬武者行列」でしょう。
4日に行われたこの行列は、岐阜市市出身の俳優、伊藤英明さん(34)が分する信長公役を中心に絢爛豪華に展開され、沿道の市民の喝采を浴びていました。ナイス・ガイの伊藤英明さんは若き日の信長公にピッタシカンカンで、その装束も甲冑ではなく自由に城下を駆け回る信長公を模したものでした。
伊藤英明さん扮する信長公 「岐阜新聞」から
この同じ4日、お隣の愛知県名古屋市では、名古屋まつりの一環として織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の「三英傑」を柱にした郷土英傑行列が行われました。
名古屋ではこの三人は平等に扱われますが、岐阜ではそうではありません。秀吉も家康も、信長の家来なのです。
信長の鵜飼いに対しての思い入れは前回見ましたが、この信長の後継者たちの鵜飼いとの関わりはどうだったのかを調べてみました。
まず秀吉ですが、やはり、信長などのお供で鵜飼いを見て感激したのでしょうか、後年自分の代になってから、岐阜から鵜匠をつれていって三隈川(大分県日田市)で鵜飼いを行い、これが今も続く三隈川の鵜飼いの起源といわれています。
続いて家康ですが、彼は元和元年に鵜飼を見物し、石焼きの鮎に感嘆したという記録があります。以来、江戸城に毎年鮎を献上するのが慣例となり、鵜匠21戸に各10両の扶持を給与したとあります。
まつりといえば屋台の買い物が楽しみ
戦国武将と長良川の鵜飼とはかくも深い縁があったのですね。
鵜飼いの終盤にいたって、これらの武将たちが岐阜と名古屋でそれぞれ絢爛として練り歩くというのは、やはり歴史のもたらす面白さだろうと思います。
これら先人たちが鵜飼いに注いでくれた愛情のようなものに感謝しながら、この風物を守り育て、全国からお出かけのみなさんにその魅力を十分味わった頂くよう万全のおもてなしをすること、それが歴史が育んでくれたものへ応答して行くことだろうと改めて思った次第です。
新装なったJR岐阜駅から市の中心街、そして市役所にかけて、たくさんの催しが行われました。
秋晴れの天候に恵まれるなか、前にここでも紹介しましたJR岐阜駅の一連の整備計画の完成と、折しも岐阜市制120周年とが重なり、過去最高の50万人という人出を見るに至りました。岐阜市の人口が約40万人ですから、人口の120%の人が集まったことになります。
鵜飼い太鼓
まつりは、岐阜の街の発展にとって大きな足跡を残した、というか、「岐阜」という地名の名付け親でもあった信長公の功績を偲び、私たち後継の岐阜市民の発憤を促すものでしたが、難しい主旨はともかく、岐阜らしい暖かさが随所に見られるとても楽しいお祭りでした。
まつりの若い衆
ここに書ききれないほどのたくさんの催しが束になったまつりなのですが、そのメインとして一本ピシッと筋を通すのはやはり「信長公騎馬武者行列」でしょう。
4日に行われたこの行列は、岐阜市市出身の俳優、伊藤英明さん(34)が分する信長公役を中心に絢爛豪華に展開され、沿道の市民の喝采を浴びていました。ナイス・ガイの伊藤英明さんは若き日の信長公にピッタシカンカンで、その装束も甲冑ではなく自由に城下を駆け回る信長公を模したものでした。
伊藤英明さん扮する信長公 「岐阜新聞」から
この同じ4日、お隣の愛知県名古屋市では、名古屋まつりの一環として織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の「三英傑」を柱にした郷土英傑行列が行われました。
名古屋ではこの三人は平等に扱われますが、岐阜ではそうではありません。秀吉も家康も、信長の家来なのです。
信長の鵜飼いに対しての思い入れは前回見ましたが、この信長の後継者たちの鵜飼いとの関わりはどうだったのかを調べてみました。
まず秀吉ですが、やはり、信長などのお供で鵜飼いを見て感激したのでしょうか、後年自分の代になってから、岐阜から鵜匠をつれていって三隈川(大分県日田市)で鵜飼いを行い、これが今も続く三隈川の鵜飼いの起源といわれています。
続いて家康ですが、彼は元和元年に鵜飼を見物し、石焼きの鮎に感嘆したという記録があります。以来、江戸城に毎年鮎を献上するのが慣例となり、鵜匠21戸に各10両の扶持を給与したとあります。
まつりといえば屋台の買い物が楽しみ
戦国武将と長良川の鵜飼とはかくも深い縁があったのですね。
鵜飼いの終盤にいたって、これらの武将たちが岐阜と名古屋でそれぞれ絢爛として練り歩くというのは、やはり歴史のもたらす面白さだろうと思います。
これら先人たちが鵜飼いに注いでくれた愛情のようなものに感謝しながら、この風物を守り育て、全国からお出かけのみなさんにその魅力を十分味わった頂くよう万全のおもてなしをすること、それが歴史が育んでくれたものへ応答して行くことだろうと改めて思った次第です。