■制裁/アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム 2019.8.26
人はときに、粉々に砕け散るまで抱きあうことがある。
いとおしい、と彼は思う。自分の、娘。実感するまでずいぶん時間がかかったが、いま、はっきりと分かる。娘を、愛している。
『制裁』 は、誰がだれに対する制裁の物語か。
考えさせられたミステリでした。
五歳の娘を殺されて、自らその犯人を射殺した父親に、皆の注目が集まっている。
娘を失った悲しみをともにする人々。
理由は何であれ、人殺しは人殺しでしかない、と考える人々。
社会が始末できなかった人間を始末して、社会を守った、その勇気をたたえる人々。
復讐を目的とした殺人であったことは明らかだ、だから見せしめのためにも長期刑に処するべきだと、考える人々。
地方裁判所の正当防衛を盾にして、ほかの性犯罪者たちにリンチを加え、殺害した人々。
あらゆる人々の目が、フレドリック・ステファンソンに向けられている。
グレーンス警部 とは、長いながいおつき合いになりそうなので、彼の人となりの情報を出来るだけ集めておきましょう。
グレーンス自身、白黒写真のような、シーヴの歌声が転調したような、そんな存在だ。
スヴェン・スンドクヴィストは、エーヴェルト・グレーンスに好感をもっている。その毒舌も、気難しい性格も、べつに我慢できないほどではない。ある日突然引退の日がやってきて、数十年が無駄に過ぎ去ってしまったと感じるのが怖い、その気持ちもよく分かる。少なくとも、エーヴェルトには仕事への意欲がある。陰気で怒りっぽい男だが、信念を持って仕事をしている。そこが、ほかの同僚たちとはちがうところだ。
しわくちゃのシャツ。丈の短すぎるズボン。そわそわと張りつめた身体。エーヴェルトを怖がる人は多い。すぐに怒鳴る男だ。スヴェンも以前はエーヴェルトを避けていた。やたらと人を怒鳴るのはよくないことだ。そう思っていたから。しかしやがてどういうわけか、エーヴェルトのほうから歩み寄ってきた。選ばれた、と言ってもいいかもしれない。エーヴェルトも、誰かを必要としていたのだろう。そこでたまたま自分に白羽の矢が立った。
エーヴェルトには家族がいない。彼にとっては勤務時間こそがすべてだ。警察の仕事を飲み、食い、吸っては吐いて生きている。それでもエーヴェルトはスヴェンと同じことを感じていた。仕事が自分のすべてになってしまうなんて、ちっぽけで無意味なことだ。なぜって、仕事はある日突然終わるのだから、そうしたら自分も終わっちまうんだろうな、分かってるんだ。エーヴェルトはいつもそう言う。分かっちゃいるんだが、考えたくないんだよ。
この鬱積した怒りがどこから来るのか、なぜこんなにも強い怒りを感じるのか、自分でもよく分からない。いずれにせよ、しかたのないことだ。もうこうなってしまったのだから。人は皆、時が経ち、年を取っていくにつれ、自分自身でいる権利、なんの言い訳もせず好き勝手にやる権利を勝ち取るものなのではないか。他人はわけ知り顔で、あの人は気難しいから、などと言う。何と言われようと気にしない。なんとでも好きなように呼べばいい。いつも人に好かれる必要なんかない。自分のことはよく分かっている。この自分自身に、自分なりに耐えてきたのだから。>
人の話もろくに聞けないのは、悪態や文句抜きで話すこともでないのは、いったいどういうわけなのか。これまでに耳にしたグレーンスの評判を思い出す。大学時代からすでに、噂が耳に入ってきたものだ。グレーンス警部。わが道を行く刑事。誰よりも有能な男。しかしいまのグレーンスときたらどうだ。評判倒れもいいところではないか。追いつめられた、みじめな老人。消耗しきった、孤独な男。オフィスから出て行くことさえ、ろくにできない。なにもかも軽蔑し憎んでいる。どうやって家に帰ったものかさえ分からずにいる。
刑務所も主要な舞台になります。
スエーデンの事情も、このミステリでは述べられています。
囚人たちは皆、恥辱や自己嫌悪の念を抱いている。そのはけ口が必要だ。塀の外の社会で馬鹿にされるのには、とても耐えられない。だから代わりに、自分とはちがう罪を犯した囚人を馬鹿にしてやる。自分よりも醜く、もっと病んだ、もっとのけ者に去れているやつがいる、みんなでそう決めてしまえば安心する。それが、世界中の刑務所に昔からある、暗黙の了解だ。人殺しをやった俺は、レイプをやったおまえより偉い。他人の生きる権利を奪った俺は、他人の安心感を永遠に奪ったおまえよりも、価値ある人間だ。他人を踏みにじったのは同じだが、俺のほうがだんぜんましだ。
生きるための知恵でしょうか。
こうして自分たちを、会議という名の迷路に閉じ込めておく。無意味な定例業務に関する、無意味な決定。元からある体制に、ただひたすらしがみつく、なにか問題を解決しようと思ったら、鋭い頭脳とかなりのエネルギーが必要だ。その代わり、会議の議事規則をどんどん膨らませれば、繰り返しによる安心感が生み出される。こうして、無駄はそのまま維持される。
食べるということはすなわち、まるでなにごともなかったかのように生きつづけることのような気がする。食事さえしなければ、この人生に参加もしなくて済む。これは、自分の人生ではない。自分で選んだ人生ではない。
読書メーター
『 制裁/アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム
/ヘレンハルメ美穂訳/ハヤカワ・ミステリ文庫 』
人はときに、粉々に砕け散るまで抱きあうことがある。
いとおしい、と彼は思う。自分の、娘。実感するまでずいぶん時間がかかったが、いま、はっきりと分かる。娘を、愛している。
『制裁』 は、誰がだれに対する制裁の物語か。
考えさせられたミステリでした。
五歳の娘を殺されて、自らその犯人を射殺した父親に、皆の注目が集まっている。
娘を失った悲しみをともにする人々。
理由は何であれ、人殺しは人殺しでしかない、と考える人々。
社会が始末できなかった人間を始末して、社会を守った、その勇気をたたえる人々。
復讐を目的とした殺人であったことは明らかだ、だから見せしめのためにも長期刑に処するべきだと、考える人々。
地方裁判所の正当防衛を盾にして、ほかの性犯罪者たちにリンチを加え、殺害した人々。
あらゆる人々の目が、フレドリック・ステファンソンに向けられている。
グレーンス警部 とは、長いながいおつき合いになりそうなので、彼の人となりの情報を出来るだけ集めておきましょう。
グレーンス自身、白黒写真のような、シーヴの歌声が転調したような、そんな存在だ。
スヴェン・スンドクヴィストは、エーヴェルト・グレーンスに好感をもっている。その毒舌も、気難しい性格も、べつに我慢できないほどではない。ある日突然引退の日がやってきて、数十年が無駄に過ぎ去ってしまったと感じるのが怖い、その気持ちもよく分かる。少なくとも、エーヴェルトには仕事への意欲がある。陰気で怒りっぽい男だが、信念を持って仕事をしている。そこが、ほかの同僚たちとはちがうところだ。
しわくちゃのシャツ。丈の短すぎるズボン。そわそわと張りつめた身体。エーヴェルトを怖がる人は多い。すぐに怒鳴る男だ。スヴェンも以前はエーヴェルトを避けていた。やたらと人を怒鳴るのはよくないことだ。そう思っていたから。しかしやがてどういうわけか、エーヴェルトのほうから歩み寄ってきた。選ばれた、と言ってもいいかもしれない。エーヴェルトも、誰かを必要としていたのだろう。そこでたまたま自分に白羽の矢が立った。
エーヴェルトには家族がいない。彼にとっては勤務時間こそがすべてだ。警察の仕事を飲み、食い、吸っては吐いて生きている。それでもエーヴェルトはスヴェンと同じことを感じていた。仕事が自分のすべてになってしまうなんて、ちっぽけで無意味なことだ。なぜって、仕事はある日突然終わるのだから、そうしたら自分も終わっちまうんだろうな、分かってるんだ。エーヴェルトはいつもそう言う。分かっちゃいるんだが、考えたくないんだよ。
この鬱積した怒りがどこから来るのか、なぜこんなにも強い怒りを感じるのか、自分でもよく分からない。いずれにせよ、しかたのないことだ。もうこうなってしまったのだから。人は皆、時が経ち、年を取っていくにつれ、自分自身でいる権利、なんの言い訳もせず好き勝手にやる権利を勝ち取るものなのではないか。他人はわけ知り顔で、あの人は気難しいから、などと言う。何と言われようと気にしない。なんとでも好きなように呼べばいい。いつも人に好かれる必要なんかない。自分のことはよく分かっている。この自分自身に、自分なりに耐えてきたのだから。>
人の話もろくに聞けないのは、悪態や文句抜きで話すこともでないのは、いったいどういうわけなのか。これまでに耳にしたグレーンスの評判を思い出す。大学時代からすでに、噂が耳に入ってきたものだ。グレーンス警部。わが道を行く刑事。誰よりも有能な男。しかしいまのグレーンスときたらどうだ。評判倒れもいいところではないか。追いつめられた、みじめな老人。消耗しきった、孤独な男。オフィスから出て行くことさえ、ろくにできない。なにもかも軽蔑し憎んでいる。どうやって家に帰ったものかさえ分からずにいる。
刑務所も主要な舞台になります。
スエーデンの事情も、このミステリでは述べられています。
囚人たちは皆、恥辱や自己嫌悪の念を抱いている。そのはけ口が必要だ。塀の外の社会で馬鹿にされるのには、とても耐えられない。だから代わりに、自分とはちがう罪を犯した囚人を馬鹿にしてやる。自分よりも醜く、もっと病んだ、もっとのけ者に去れているやつがいる、みんなでそう決めてしまえば安心する。それが、世界中の刑務所に昔からある、暗黙の了解だ。人殺しをやった俺は、レイプをやったおまえより偉い。他人の生きる権利を奪った俺は、他人の安心感を永遠に奪ったおまえよりも、価値ある人間だ。他人を踏みにじったのは同じだが、俺のほうがだんぜんましだ。
生きるための知恵でしょうか。
こうして自分たちを、会議という名の迷路に閉じ込めておく。無意味な定例業務に関する、無意味な決定。元からある体制に、ただひたすらしがみつく、なにか問題を解決しようと思ったら、鋭い頭脳とかなりのエネルギーが必要だ。その代わり、会議の議事規則をどんどん膨らませれば、繰り返しによる安心感が生み出される。こうして、無駄はそのまま維持される。
食べるということはすなわち、まるでなにごともなかったかのように生きつづけることのような気がする。食事さえしなければ、この人生に参加もしなくて済む。これは、自分の人生ではない。自分で選んだ人生ではない。
読書メーター
『 制裁/アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム
/ヘレンハルメ美穂訳/ハヤカワ・ミステリ文庫 』