■ヒロイン 2024.1.15
桜木紫乃さんの『ヒロイン』を読みました。
主人公、岡本啓美の逃走中に遭遇する様々な出来事が思い白かった。
例えば、こんな話。
「今日は梅乃さんいい声で、クリスマスソングを歌ってちょうだいね」
啓美が勧めると、梅乃もその気になったようだ。あとは客が来ればいいが。クリスマスイブに、ひとりでスナックにやって来るような顧客を思い浮かべる。
「タコちゃんは、今年はどうなんだろう」
「またひとりで、葉っぱ丸めて神様と対話でもしてるんじゃないだろうかねえ」
「タコちゃんにも、ケーキを届けようか」
「あの子は呼びつけてやるよ。歯医者をケーキで釣るなんて、おかしな話だけど」
「そんなことが、あったなんて」
父には、内緒にしておいてもらえますか」
みどりは「もちろんです」と頷いた。
結局、母から逃げるつもりで入った教団施設だったけど、風に押し出されるみたいにして、また逃げ始めることになりました。最初から東京にでも出ていれば良かったんかなあ」
みどりの瞳が翳った。
「啓美さんにも、奥様にも、わたしたちはひどいことをしました。人を不幸にしてまで手に入れるものではなかったと思います」
梅乃ばあちゃんが、たまらなく魅力的に描写されています。
こんなお年寄りになりたいものだ。こんな最期を迎えたいものだと憧れすら感じました。
「ねえ梅乃さん、カラスウリの花って、いつごろ咲くんでしたっけ」
「夏から秋にかけてだったかねえ。九月あたりまで見かけたはずだけども。カラスウリがどうかしたかい」
「ひと晩で咲いてしぼむんでしたよね」
「ああ、そうだよ。毎年、同じ場所で咲いて同じ場所で実をつける。赤くなって、誰にとられることもなく、冬を越すんだよ。面白いことに、雄株と雌株があってさ。夜の翅虫に花粉を運んでもらわないと実が生らない。あの実には大黒様って呼ばれる種が入っていて、昔の結び文みたいなかたちをしてるんだ。おみくじを結ぷときの、あのかたちだよ。ラブレターだ。なにもかもが道理に従っているなんてね」
聞こえるか聞こえないかの声でジュリー・ロンドンの曲を口ずさみ、梅乃が黙る。
その後つぷやいたひとことが、幾度も耳の奥で繰り返された。
----カラスウリの種を麻袋に入れて誰にも知られないように床下に隠しておくと、お金持ちになれるという言い伝えがあるんだよ。真琴、これはお前にはまだ言ってなかったねえ。
昼どき、啓美は記憶を頼りに、河川敷近くに実をつけたカラスウリを探しに出かけた。真夏の暑さを手放して、鬼神町もあと半月もすれば毎日秋の風が吹く。
九月も後半、もう花を咲かせそうな株を見つけるのも難しくなった。せめて縁起がいいという種を取り出して、少しでも梅乃が喜ぶようなことをしたい。
河川敷の土手に上がって少し歩くと、半分赤くなったカラスウリを見つけた。数メートル先にある実も、まだ熟してはいなかった。
岡本啓美は、なぜ、さして意味のない、楽しみのない逃走を続けるのか。
「バレエ、好きじゃなかったの」
「嫌いじゃなかったけれど、バレエを好きでいるにはちょっとしんどいこともあって、思い切って逃げました。遅れてきた反抗期やね」
素直なまなざしの前で恥ずかしいことを口にするのは爽快だった。
[お肉やご飯をお腹いっぱい食べてみたかったし、甘いものも我慢したくなかった。食べるのを我慢していたら。気持ちがトゲトゲしてくる。誰にも優しくされない人間は、誰にも優しくできなくなるの。だから、そういう場所から逃げたんだ」
「逃げて、どこへ行ったの?」
「同じような人がいっぱいいるところ、でも、そこももうなくなっちゃった。戻るところがないんで、すみれちゃんのお家にご厄介になってるの」
「お前には隠し事が多すぎるんだよ」
男の顔には、啓美も知らない岡本啓美の物語がある。彼が持っている物語を否定するのはたやすいが、それもまた意味のないことだった。思いたいように思い、見たいように見ることしかできないからふたりは一緒にいられたのだ。
啓美は朝までのあいだに、男の胸に向かってぽつぽつと語って聞かせた。
なぜ彼女は17年も逃げたのか
たまたま誰にも見つからなかっただけだと思っている。
面倒からは、遠いところにいたかったから
『 ヒロイン/桜木紫乃/毎日新聞出版 』
桜木紫乃さんの『ヒロイン』を読みました。
主人公、岡本啓美の逃走中に遭遇する様々な出来事が思い白かった。
例えば、こんな話。
「今日は梅乃さんいい声で、クリスマスソングを歌ってちょうだいね」
啓美が勧めると、梅乃もその気になったようだ。あとは客が来ればいいが。クリスマスイブに、ひとりでスナックにやって来るような顧客を思い浮かべる。
「タコちゃんは、今年はどうなんだろう」
「またひとりで、葉っぱ丸めて神様と対話でもしてるんじゃないだろうかねえ」
「タコちゃんにも、ケーキを届けようか」
「あの子は呼びつけてやるよ。歯医者をケーキで釣るなんて、おかしな話だけど」
「そんなことが、あったなんて」
父には、内緒にしておいてもらえますか」
みどりは「もちろんです」と頷いた。
結局、母から逃げるつもりで入った教団施設だったけど、風に押し出されるみたいにして、また逃げ始めることになりました。最初から東京にでも出ていれば良かったんかなあ」
みどりの瞳が翳った。
「啓美さんにも、奥様にも、わたしたちはひどいことをしました。人を不幸にしてまで手に入れるものではなかったと思います」
梅乃ばあちゃんが、たまらなく魅力的に描写されています。
こんなお年寄りになりたいものだ。こんな最期を迎えたいものだと憧れすら感じました。
「ねえ梅乃さん、カラスウリの花って、いつごろ咲くんでしたっけ」
「夏から秋にかけてだったかねえ。九月あたりまで見かけたはずだけども。カラスウリがどうかしたかい」
「ひと晩で咲いてしぼむんでしたよね」
「ああ、そうだよ。毎年、同じ場所で咲いて同じ場所で実をつける。赤くなって、誰にとられることもなく、冬を越すんだよ。面白いことに、雄株と雌株があってさ。夜の翅虫に花粉を運んでもらわないと実が生らない。あの実には大黒様って呼ばれる種が入っていて、昔の結び文みたいなかたちをしてるんだ。おみくじを結ぷときの、あのかたちだよ。ラブレターだ。なにもかもが道理に従っているなんてね」
聞こえるか聞こえないかの声でジュリー・ロンドンの曲を口ずさみ、梅乃が黙る。
その後つぷやいたひとことが、幾度も耳の奥で繰り返された。
----カラスウリの種を麻袋に入れて誰にも知られないように床下に隠しておくと、お金持ちになれるという言い伝えがあるんだよ。真琴、これはお前にはまだ言ってなかったねえ。
昼どき、啓美は記憶を頼りに、河川敷近くに実をつけたカラスウリを探しに出かけた。真夏の暑さを手放して、鬼神町もあと半月もすれば毎日秋の風が吹く。
九月も後半、もう花を咲かせそうな株を見つけるのも難しくなった。せめて縁起がいいという種を取り出して、少しでも梅乃が喜ぶようなことをしたい。
河川敷の土手に上がって少し歩くと、半分赤くなったカラスウリを見つけた。数メートル先にある実も、まだ熟してはいなかった。
岡本啓美は、なぜ、さして意味のない、楽しみのない逃走を続けるのか。
「バレエ、好きじゃなかったの」
「嫌いじゃなかったけれど、バレエを好きでいるにはちょっとしんどいこともあって、思い切って逃げました。遅れてきた反抗期やね」
素直なまなざしの前で恥ずかしいことを口にするのは爽快だった。
[お肉やご飯をお腹いっぱい食べてみたかったし、甘いものも我慢したくなかった。食べるのを我慢していたら。気持ちがトゲトゲしてくる。誰にも優しくされない人間は、誰にも優しくできなくなるの。だから、そういう場所から逃げたんだ」
「逃げて、どこへ行ったの?」
「同じような人がいっぱいいるところ、でも、そこももうなくなっちゃった。戻るところがないんで、すみれちゃんのお家にご厄介になってるの」
「お前には隠し事が多すぎるんだよ」
男の顔には、啓美も知らない岡本啓美の物語がある。彼が持っている物語を否定するのはたやすいが、それもまた意味のないことだった。思いたいように思い、見たいように見ることしかできないからふたりは一緒にいられたのだ。
啓美は朝までのあいだに、男の胸に向かってぽつぽつと語って聞かせた。
なぜ彼女は17年も逃げたのか
たまたま誰にも見つからなかっただけだと思っている。
面倒からは、遠いところにいたかったから
『 ヒロイン/桜木紫乃/毎日新聞出版 』
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