■ザリガニの鳴くところ/ディーリア・オーエンズ 2020.8.17
湿地の住人は、彼らが造るウィスキーのように自分たちの法を密造した----石版に焼きつけられた戒律でも、文書に書き記された法典でもないが、それはもっと深く、彼らの遺伝子に刻み込まれていた。タカやハトの卵からかえったかのような、古より伝わる自然の法則とも言うべきものだ。追い詰められ、窮地に陥り、あるいは孤立無援になったとき、人はただ生き延びることを目指して本能を呼び覚ます。 ・・・・・・ 彼らが生きる世界では、ハトであってもタカと同じように戦わねばならないことが多いのだ。
「訳者あとがき」より。
この作品のジャンルを特定するのは難しい。フーダニットのミステリであると同時に、ひとりの少女の成長譚とも、差別と環境問題を扱う社会派小説とも、南部の自然や風土を描いた文学とも捉えることができる。それほどに奥行きのある作品だということなのだ。
単なる自然描写でなく、底に意思を感じさせる素適な文章だと思います。
その瞬間、一陣の風がどっと吹き、おびただしい数の黄色いプラタナスの葉が命の支えを断ち切って空に流れ出た。秋の葉は落ちるのではない。飛び立つのだ。飛翔できる一度きりのそのチャンスに、彼らは与えられた時間を精いっぱい使って空をさまよう。日の光を照り返して輝きながら、風の流れに乗ってくるくると舞い、滑り、翻る。
かたくなに心を閉ざした少女、そんな彼女にあえて接する人々は、少数とはいえ、何と心優しく素敵なんだ。読んでいて感動してしまう。
ジャンピンとメイベルの夫妻。チラッとその片鱗を見せるサラ・シングルタリとテイト。兄のジョディ。そして、トム・ミルトンとロバート・フォスター。
もっと違う状況のもとで、これらの人々とカイアが出会っていたらもっとゆたかに光溢れる素敵な世界が花開いたことでしょう。
6歳で家族に見捨てられ、ひとりで生きていくことを強いられた 「湿地の少女 カイア」
やがてカイアはポーチの階段に戻り、それから長いこと待ち続けた。小道の先を見やっても泣きはしなかった。表情を変えず、口を一文字に結んでただ目だけを動かした。けれど、その日も母さんは帰ってこなかった。
母さんが小屋に向かって歩いてきますように。ロングスカートにワニの靴を履いたあの姿が、また現れますように。
カイアは水を含んで息づく大地に手を置いた。湿地は、彼女の母親になった。
「世のなかには野生から離れて生きられる者もいれば、生きられない者もいる」
「見つかったらきっと魚みたいに捕まえられて、里親の家かどこかに放り込まれちゃうわ」
「そういうことなら、ザリガニの鳴くところにでも隠れたほうがいいな。きみを引き取ることになる里親が気の毒だ」テイトはにんまり笑った。
「どういう意味なの? “ザリガニの鳴くところ”って。母さんもよく言っていたけど」カイアは、母さんがいつもこう口にして湿地を探検するよう勧めていたことを思い出した。“できるだけ遠くまで行ってごらんなさい----ずっと向こうの、ザリガニの鳴くところまで”
「そんなに難しい意味はないよ。茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きている場所ってことさ。」
「さようなら、カイア」一瞬、彼の肩の向こうに視線を逸らしたものの、カイアもテイトの目を見つめた。彼女がよく知っている、底なしの深さをもつ隔たりがそこにあった。
「さようなら、テイト」
青空と雲がせめぎ合う上空を見つめながら、カイアははっきり声にして言った。「ひとりで人生を生きなければいけない。わかっていたはずじゃない。人は去っていくものだなんて、ずっとまえから知っていたはずよ」
羽根の少年へ
ありがとう
湿地の少女より
認めるしかないんだよ。愛なんて実らないことのほうが多いってな。だが、たとえ失敗しても、そのおかげでほかの誰かとつながることができるんだ。結局のところ、大切なのは“つながり”なんだよ。
これだけ長い年月が経っても、彼女たちはいまだに仲良しグループのままだった。それはすごいことに思えた。こう言ってはなんだが、あの子達は一見、馬鹿っぽく見える。けれどもメイベルがたびたび口にしたように、彼女たちは本物の仲間だった。「あなたにも女の友だちが必要よ。女友だちは消えたりしないから、誓いなんてなくてもね。この世には、女の握手ほど優しくて強固なものはないの」
「肝心なのは----詩は人に何かを感じさせるという点だよ」テイトは幾度となく父から聞かされていた。
カイアが生物学の本のなかに探しているのは、なぜ母親が子を置き去りにすることがあるのか、という疑問を解いてくれる言葉だった。
『 ザリガニの鳴くところ/ディーリア・オーエンズ/友廣純訳/早川書房 』
湿地の住人は、彼らが造るウィスキーのように自分たちの法を密造した----石版に焼きつけられた戒律でも、文書に書き記された法典でもないが、それはもっと深く、彼らの遺伝子に刻み込まれていた。タカやハトの卵からかえったかのような、古より伝わる自然の法則とも言うべきものだ。追い詰められ、窮地に陥り、あるいは孤立無援になったとき、人はただ生き延びることを目指して本能を呼び覚ます。 ・・・・・・ 彼らが生きる世界では、ハトであってもタカと同じように戦わねばならないことが多いのだ。
「訳者あとがき」より。
この作品のジャンルを特定するのは難しい。フーダニットのミステリであると同時に、ひとりの少女の成長譚とも、差別と環境問題を扱う社会派小説とも、南部の自然や風土を描いた文学とも捉えることができる。それほどに奥行きのある作品だということなのだ。
単なる自然描写でなく、底に意思を感じさせる素適な文章だと思います。
その瞬間、一陣の風がどっと吹き、おびただしい数の黄色いプラタナスの葉が命の支えを断ち切って空に流れ出た。秋の葉は落ちるのではない。飛び立つのだ。飛翔できる一度きりのそのチャンスに、彼らは与えられた時間を精いっぱい使って空をさまよう。日の光を照り返して輝きながら、風の流れに乗ってくるくると舞い、滑り、翻る。
かたくなに心を閉ざした少女、そんな彼女にあえて接する人々は、少数とはいえ、何と心優しく素敵なんだ。読んでいて感動してしまう。
ジャンピンとメイベルの夫妻。チラッとその片鱗を見せるサラ・シングルタリとテイト。兄のジョディ。そして、トム・ミルトンとロバート・フォスター。
もっと違う状況のもとで、これらの人々とカイアが出会っていたらもっとゆたかに光溢れる素敵な世界が花開いたことでしょう。
6歳で家族に見捨てられ、ひとりで生きていくことを強いられた 「湿地の少女 カイア」
やがてカイアはポーチの階段に戻り、それから長いこと待ち続けた。小道の先を見やっても泣きはしなかった。表情を変えず、口を一文字に結んでただ目だけを動かした。けれど、その日も母さんは帰ってこなかった。
母さんが小屋に向かって歩いてきますように。ロングスカートにワニの靴を履いたあの姿が、また現れますように。
カイアは水を含んで息づく大地に手を置いた。湿地は、彼女の母親になった。
「世のなかには野生から離れて生きられる者もいれば、生きられない者もいる」
「見つかったらきっと魚みたいに捕まえられて、里親の家かどこかに放り込まれちゃうわ」
「そういうことなら、ザリガニの鳴くところにでも隠れたほうがいいな。きみを引き取ることになる里親が気の毒だ」テイトはにんまり笑った。
「どういう意味なの? “ザリガニの鳴くところ”って。母さんもよく言っていたけど」カイアは、母さんがいつもこう口にして湿地を探検するよう勧めていたことを思い出した。“できるだけ遠くまで行ってごらんなさい----ずっと向こうの、ザリガニの鳴くところまで”
「そんなに難しい意味はないよ。茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きている場所ってことさ。」
「さようなら、カイア」一瞬、彼の肩の向こうに視線を逸らしたものの、カイアもテイトの目を見つめた。彼女がよく知っている、底なしの深さをもつ隔たりがそこにあった。
「さようなら、テイト」
青空と雲がせめぎ合う上空を見つめながら、カイアははっきり声にして言った。「ひとりで人生を生きなければいけない。わかっていたはずじゃない。人は去っていくものだなんて、ずっとまえから知っていたはずよ」
羽根の少年へ
ありがとう
湿地の少女より
認めるしかないんだよ。愛なんて実らないことのほうが多いってな。だが、たとえ失敗しても、そのおかげでほかの誰かとつながることができるんだ。結局のところ、大切なのは“つながり”なんだよ。
これだけ長い年月が経っても、彼女たちはいまだに仲良しグループのままだった。それはすごいことに思えた。こう言ってはなんだが、あの子達は一見、馬鹿っぽく見える。けれどもメイベルがたびたび口にしたように、彼女たちは本物の仲間だった。「あなたにも女の友だちが必要よ。女友だちは消えたりしないから、誓いなんてなくてもね。この世には、女の握手ほど優しくて強固なものはないの」
「肝心なのは----詩は人に何かを感じさせるという点だよ」テイトは幾度となく父から聞かされていた。
カイアが生物学の本のなかに探しているのは、なぜ母親が子を置き去りにすることがあるのか、という疑問を解いてくれる言葉だった。
『 ザリガニの鳴くところ/ディーリア・オーエンズ/友廣純訳/早川書房 』
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます