■なめくじ長屋捕物さわぎ/都筑道夫 2017.9.5
『ミステリ国の人々』(有栖川有栖)紹介の古典、その6は、都筑道夫作 『なめくじ長屋捕物さわぎ』 の「ちみどろ砂絵」と「くらやみ砂絵」を選びました。
『ミステリ国の人々』の紹介文。
神田の橋本町に<なめくじ長屋>と呼ばれる裏長屋があった。大道で物貰いをしている住人たちばかりだから、雨が降ると家で<なめくじ>のようにのたくっているのが名の由来。
大道芸人のマメゾー、全身に鍋墨を塗り河童の真似をして歩くカッパ。死に装束に張りぼての墓石を抱えたユータ。猿田彦の面をかぶって牛頭天王の絵姿をばらまくテンノー。願人坊主のガンニン、黒塗りで熊と称して匍い回るアラクマ等々。
「まともな人間あつかいしてはもらえない連中」が身を寄せ合い、社会の底辺でしぶとく生きている。
犀利な推理を発揮するのは、センセーと呼ばれるクールな浪人者の砂絵師。年の頃はよく判らない。センセーは色とりどりの砂を道に撒いて、巧みに絵を描いてみせるのを芸にしている。岡っ引きや同心が主人公でないのが新機軸だ。
彼らは手分けして事件の捜査にあたり、集まったデータをもとにセンセーが絵解きをする。そして、真相が公になっては困る者から金子をせしめるか関係者から礼金をもらう。
短編が、それぞれ七編ずつ、さまざまな事件を解決して、礼金をせしめます。
鍋をかきまわしながら、センセーが聞いた。長い箸にからんだ群青いろが、ともしい行燈のあかりにも、目がさめるようだ。神田橋本町のなめくじ長屋----願人坊主や乞食神官、野天芝居の役者や人道曲芸師、がしら車善七の支配下にあって、まともなあつかいはしてもらえない連中が、巣をくっている裏長屋だから、夜の灯しも明るくはない。けれど、通路がわりの壁のやぶれ穴の右がわのが、まっくらいのは、そこがユータの住居で、住人がこつちに来ているからだ。左がわの穴のむこうには、こじき芝居の女形で、オヤマと呼ばれる若いのが住んでいるが、目下は灯火のいらないことをしている。お札まきのわいわい天王に、わずかな銭で、菊座をせせくらせているのだ。テンノーの意味不明の太い声にまじって、
「あれさ、そんなにされては、どうもどうも……」
なぞと、芝居がかったオヤマの嬌声がもれてくるが、こちらの四人は馴れっこだから、聞き耳ひとつ立てようともしない。
なめくじ長屋に住みついた本名不明、前身あいまいの男たちは、センセーの指揮のもとに、岡っ引がさじを投げるような事件があると、いわば押しかけ私立探偵、首をつっこんでは埓をあける。犯人をつきだすも、助けてやるも、金しだい。そうして稼いで、雨ふり風間、やみわずらいに備えているのだ。
貧乏裏長屋に暮らすおかしな仲間たちの生業、ご理解いただけましたでしょうか。
四季折々の江戸の風物詩が描かれたいて楽しめます。
きょうの空は、まばらな雲の足も早く、すつかり春を感じさせる青さで、凧をいくつも浮かべていた。江戸の人びとは、季節のけじめをだいじにする。凧屋が凧を売りはじめるのが十一月で、武家屋敷の凧あそびが二月の半ば。つまり、十一月はじめから二月すえまでが、凧あげの季節だった。あげられるのも今月いっぱい、というわけで、子どもばかりか大どもまでが、夢中になっているらしい。近くは茶の木稲荷のはずれの石垣の上あたり、遠くは牛込の高台、番町の高台あたりから、何本の凧糸がのびて、一枚張の一文凧に二枚張、いちばん多い二枚半、三枚張の鯨鬚(うなり)つき、四枚張の年かさ向き、字凧に絵凧に変わり凧、さまざまな凧が、風のなかに泳いでいる。
古典落語 初天神
江戸もはずれの土地土地には、さまざまな怪異のうわさがあって、それを七つに揃えたものが、本所のほかにも、深川、麻布、小石川などにある。江戸城のすぐそばにも、八丁堀七不思議というのがあったが、これは奥さまあって殿さまなしとか、寺があって墓がないとか、女湯にある刀掛けといった娯知譜(ごしつぷ)ふうのもので、怖くはない。
本所のはふつう、その堀で釣をすると、帰りがけに、置いてけえ、という怪しい声が聞えて、いつの問にか魚籃のえものが消えてしまう置いてけ堀。天井から泥だらけの巨人な足がおりてきて、足を洗え! という声が聞える足あらい屋敷。殺された女のうらみが残って、片がわにしか葉のつかない片葉の蘆……
落語家がよく、火事にけんかに中っ腹、伊勢屋、いなりに犬のくそが、江戸の名物だという。火事に喧嘩は、説明するまでもあるまい。ちゅうっ腹というのは、心ちゅうで腹を立てていること、と辞書にある。つまりは、気が短い、ということだ。気が短いから、喧嘩っぱやい、ということになる。伊勢屋という屋号の商店と、稲荷のおやしろは、いたるところにあった。おしまいの犬のくそは、江戸っ子にいわせると、いんのくそ、と発音するのだが、将軍さまのお膝もとで、日本一の繁昌ぶりだけに、野犬がありつく食いものもいい。だから、盛大に糞をたれるのだそうだ。伊勢屋はやたらにありすぎたので、のれんの図案や商標によって、分銅伊勢屋、ざくろ伊勢屋なぞと呼びわけていた。ちぎり伊勢屋というのが、落語にあることは、ご存じのひとが多いだろう。
ちぎり伊勢屋
三遊亭圓生(六代目) ちきり伊勢屋
女性が聞けば、「人権問題だよ!」と叫ぶだろう、でたらめな話もあります。
「若旦那、その下絵をぜんぶ妹娘に見せて、いっそ正直に、なにもかも話しちまったら、どうだろうな? あんがい、気持を動かしてくれるかも知れないぞ。それでだめなら、ここはお前さんのか、友だちのか、いつでも自由につかえる寮だろう? 昼でも、夜でも、かまうことはねえ。ここへさらって来て、どう足掻いても男の力、大川の波音まくらに、往生させてしまうのさ。お前さんをふったといっても、逢坂小町、いまのところは惚れこんだ男が、別にいるわけじゃあなさそうだ。そうまで思いこまれれば、女冥利と観念するよ。女ってのは、そんなものだろう。色のみちでは苦労人の絵師どのが、軍師にひかえているんだから、勇をふるって、やってみな。ここへつれこむ方法(てだて)がないなら、おれたちが手間賃しだいで、ひっかついできてやってもいいぜ」
俺らの暮らしは、傍で見るほど気楽な稼業でござんせん。
そう考えるのは、大きなまちげえよう。
あんたは、てめえの稼業にもどりなせい。
「山崎屋さん、あきらめて、大店の旦那で暮すんだな。おれにもあんたの気持がわからなくはないが、浮草ぐらしの気楽さと真実を味わうには、辛いことのありったけに耐えての果だってのを、知りすぎている。甘く考えて、飛びこんでいいものじゃない。この狂言の二の替りを出さないことにするなら、おれも知らん顔をしていてやるぜ」
光文社文庫の 『なめくじ長屋捕物さわぎ』 は、全六巻です。
今回、ぼくが読んだのは第一巻です。
『 なめくじ長屋捕物さわぎ
ちみどろ砂絵/くらやみ砂絵/都筑道夫/光文社文庫 』
『ミステリ国の人々』(有栖川有栖)紹介の古典、その6は、都筑道夫作 『なめくじ長屋捕物さわぎ』 の「ちみどろ砂絵」と「くらやみ砂絵」を選びました。
『ミステリ国の人々』の紹介文。
神田の橋本町に<なめくじ長屋>と呼ばれる裏長屋があった。大道で物貰いをしている住人たちばかりだから、雨が降ると家で<なめくじ>のようにのたくっているのが名の由来。
大道芸人のマメゾー、全身に鍋墨を塗り河童の真似をして歩くカッパ。死に装束に張りぼての墓石を抱えたユータ。猿田彦の面をかぶって牛頭天王の絵姿をばらまくテンノー。願人坊主のガンニン、黒塗りで熊と称して匍い回るアラクマ等々。
「まともな人間あつかいしてはもらえない連中」が身を寄せ合い、社会の底辺でしぶとく生きている。
犀利な推理を発揮するのは、センセーと呼ばれるクールな浪人者の砂絵師。年の頃はよく判らない。センセーは色とりどりの砂を道に撒いて、巧みに絵を描いてみせるのを芸にしている。岡っ引きや同心が主人公でないのが新機軸だ。
彼らは手分けして事件の捜査にあたり、集まったデータをもとにセンセーが絵解きをする。そして、真相が公になっては困る者から金子をせしめるか関係者から礼金をもらう。
短編が、それぞれ七編ずつ、さまざまな事件を解決して、礼金をせしめます。
鍋をかきまわしながら、センセーが聞いた。長い箸にからんだ群青いろが、ともしい行燈のあかりにも、目がさめるようだ。神田橋本町のなめくじ長屋----願人坊主や乞食神官、野天芝居の役者や人道曲芸師、がしら車善七の支配下にあって、まともなあつかいはしてもらえない連中が、巣をくっている裏長屋だから、夜の灯しも明るくはない。けれど、通路がわりの壁のやぶれ穴の右がわのが、まっくらいのは、そこがユータの住居で、住人がこつちに来ているからだ。左がわの穴のむこうには、こじき芝居の女形で、オヤマと呼ばれる若いのが住んでいるが、目下は灯火のいらないことをしている。お札まきのわいわい天王に、わずかな銭で、菊座をせせくらせているのだ。テンノーの意味不明の太い声にまじって、
「あれさ、そんなにされては、どうもどうも……」
なぞと、芝居がかったオヤマの嬌声がもれてくるが、こちらの四人は馴れっこだから、聞き耳ひとつ立てようともしない。
なめくじ長屋に住みついた本名不明、前身あいまいの男たちは、センセーの指揮のもとに、岡っ引がさじを投げるような事件があると、いわば押しかけ私立探偵、首をつっこんでは埓をあける。犯人をつきだすも、助けてやるも、金しだい。そうして稼いで、雨ふり風間、やみわずらいに備えているのだ。
貧乏裏長屋に暮らすおかしな仲間たちの生業、ご理解いただけましたでしょうか。
四季折々の江戸の風物詩が描かれたいて楽しめます。
きょうの空は、まばらな雲の足も早く、すつかり春を感じさせる青さで、凧をいくつも浮かべていた。江戸の人びとは、季節のけじめをだいじにする。凧屋が凧を売りはじめるのが十一月で、武家屋敷の凧あそびが二月の半ば。つまり、十一月はじめから二月すえまでが、凧あげの季節だった。あげられるのも今月いっぱい、というわけで、子どもばかりか大どもまでが、夢中になっているらしい。近くは茶の木稲荷のはずれの石垣の上あたり、遠くは牛込の高台、番町の高台あたりから、何本の凧糸がのびて、一枚張の一文凧に二枚張、いちばん多い二枚半、三枚張の鯨鬚(うなり)つき、四枚張の年かさ向き、字凧に絵凧に変わり凧、さまざまな凧が、風のなかに泳いでいる。
古典落語 初天神
江戸もはずれの土地土地には、さまざまな怪異のうわさがあって、それを七つに揃えたものが、本所のほかにも、深川、麻布、小石川などにある。江戸城のすぐそばにも、八丁堀七不思議というのがあったが、これは奥さまあって殿さまなしとか、寺があって墓がないとか、女湯にある刀掛けといった娯知譜(ごしつぷ)ふうのもので、怖くはない。
本所のはふつう、その堀で釣をすると、帰りがけに、置いてけえ、という怪しい声が聞えて、いつの問にか魚籃のえものが消えてしまう置いてけ堀。天井から泥だらけの巨人な足がおりてきて、足を洗え! という声が聞える足あらい屋敷。殺された女のうらみが残って、片がわにしか葉のつかない片葉の蘆……
落語家がよく、火事にけんかに中っ腹、伊勢屋、いなりに犬のくそが、江戸の名物だという。火事に喧嘩は、説明するまでもあるまい。ちゅうっ腹というのは、心ちゅうで腹を立てていること、と辞書にある。つまりは、気が短い、ということだ。気が短いから、喧嘩っぱやい、ということになる。伊勢屋という屋号の商店と、稲荷のおやしろは、いたるところにあった。おしまいの犬のくそは、江戸っ子にいわせると、いんのくそ、と発音するのだが、将軍さまのお膝もとで、日本一の繁昌ぶりだけに、野犬がありつく食いものもいい。だから、盛大に糞をたれるのだそうだ。伊勢屋はやたらにありすぎたので、のれんの図案や商標によって、分銅伊勢屋、ざくろ伊勢屋なぞと呼びわけていた。ちぎり伊勢屋というのが、落語にあることは、ご存じのひとが多いだろう。
ちぎり伊勢屋
三遊亭圓生(六代目) ちきり伊勢屋
女性が聞けば、「人権問題だよ!」と叫ぶだろう、でたらめな話もあります。
「若旦那、その下絵をぜんぶ妹娘に見せて、いっそ正直に、なにもかも話しちまったら、どうだろうな? あんがい、気持を動かしてくれるかも知れないぞ。それでだめなら、ここはお前さんのか、友だちのか、いつでも自由につかえる寮だろう? 昼でも、夜でも、かまうことはねえ。ここへさらって来て、どう足掻いても男の力、大川の波音まくらに、往生させてしまうのさ。お前さんをふったといっても、逢坂小町、いまのところは惚れこんだ男が、別にいるわけじゃあなさそうだ。そうまで思いこまれれば、女冥利と観念するよ。女ってのは、そんなものだろう。色のみちでは苦労人の絵師どのが、軍師にひかえているんだから、勇をふるって、やってみな。ここへつれこむ方法(てだて)がないなら、おれたちが手間賃しだいで、ひっかついできてやってもいいぜ」
俺らの暮らしは、傍で見るほど気楽な稼業でござんせん。
そう考えるのは、大きなまちげえよう。
あんたは、てめえの稼業にもどりなせい。
「山崎屋さん、あきらめて、大店の旦那で暮すんだな。おれにもあんたの気持がわからなくはないが、浮草ぐらしの気楽さと真実を味わうには、辛いことのありったけに耐えての果だってのを、知りすぎている。甘く考えて、飛びこんでいいものじゃない。この狂言の二の替りを出さないことにするなら、おれも知らん顔をしていてやるぜ」
光文社文庫の 『なめくじ長屋捕物さわぎ』 は、全六巻です。
今回、ぼくが読んだのは第一巻です。
『 なめくじ長屋捕物さわぎ
ちみどろ砂絵/くらやみ砂絵/都筑道夫/光文社文庫 』
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