「黒執事」の二次小説です。
作者・出版社様とは一切関係ありません。
シエルが両性具有です、苦手な方はご注意ください。
「坊ちゃん、準備は出来ていますか?」
「あぁ。」
「眼帯はつけたままにしておくのですか?」
「外してくれ。」
「わかりました。」
そう言ってシエル=ファントムハイヴの前に跪くのは、彼のコーチ兼振付師の、セバスチャン=ミカエリスだった。
「さぁ、参りましょう。」
「あぁ。」
選手控室を出たシエルとセバスチャンが会場へと向かうと、そこは熱気と歓声に包まれていた。
「坊ちゃん、今までやって来た事を思い出して。」
「わかっている、そんな事・・」
シエルはそう言って強がったものの、緊張して身体の震えが止まらなかった。
「坊ちゃん、こちらを向いて。」
「え・・」
シエルがセバスチャンの方を振り向くと、セバスチャンはシエルの唇を塞いだ。
二人のキスがモニターの画面に映し出され、会場に居た観客達は歓声を上げた。
「なっ、なっ・・」
「わたしを全力で誘惑なさい。」
シエルはセバスチャンを睨むと、彼のネクタイを掴んで彼の唇を塞いだ。
「言われなくても、やってやる!」
やがて、シエルはスケートリンクの中央へと滑っていった。
『さぁ始まりました、世界選手権ジュニア大会。最後に登場したのは、イングランド、シエル=ファントムハイヴ選手。兄のジェイド=ファントムハイヴ選手とはメダル争奪戦を繰り広げていますが、今回の大会はどうなるのでしょうか?』
『そうですね。シエル選手の今季のテーマは、“家族を殺され、復讐の為に悪魔と契約した少年”だそうです。』
シエルは深呼吸した後、静かに舞い始めた。
『最初のコンビネーションジャンプは、トリプルアクセルとダブルアクセル、どうか・・成功しました!』
『ステップが美しいですね。フラメンコの激しいリズムに乗っていますね。』
『この一年、シエル選手はスランプに陥っていましたが、セバスチャン=ミカエリスコーチの指導の下、成長しましたね。』
『さて、後半のシークエンスステップに入りましたが、美しく完成度が高いですね。』
演技を終え、リンクサイドへと戻ったシエルは、笑顔のセバスチャンに出迎えられた。
「完璧でしたよ、坊ちゃん。」
キス&クライへとシエルをエスコートするセバスチャンの姿をモニターの画面越しに見たシエルの双子の兄・ジェイドは、思わず持っていたスチール缶を握り潰してしまった。
(渡さない・・僕はお前を諦めないし、離さない。)
表彰式を終え、ジェイドはシエルを抱き締めた。
「おめでとうシエル、お前ならやれると思っていたよ!」
「兄さん・・」
ジェイドは、シエルの肩越しにセバスチャンを睨んだ後、シエルに微笑んだ。
(おやおや、独占欲丸出しだな・・)
同じ顔をしていても、その性格は違う。
セバスチャンはそう思いながら、シエルと出会った頃の事を思い出していた。
一年前、カリスマコーチ兼振付師として多忙な日々を送っていたセバスチャンの元に、一組の親子が訪ねて来た。
彼はヴィンセント=ファントムハイヴと名乗り、双子の息子達のコーチになって欲しいという。
「二人共、ご挨拶なさい。」
「初めまして、ジェイド=ファントムファイヴです。」
そう言ってセバスチャンに先に挨拶したのは、蒼い瞳で彼を値踏みするかのように見つめて来た兄のジェイドだった。
「シエル、お前も挨拶なさい。」
「はい・・」
父親の背中に隠れていた弟のシエルは、恐る恐る紫と蒼の瞳でセバスチャンを見つめた。
その双つの瞳に見つめられ、セバスチャンは雷に全身を撃たれたかのような衝撃を受けた。
「初めまして、シエル=ファントムハイヴと申します。」
「初めまして、今日からあなた達のコーチをさせて頂く事になりました、セバスチャン=ミカエリスと申します。」
こうして、セバスチャンはジェイドとシエルのコーチとなった。
同じ顔をしていても、兄の方は頑健で陽気な性格であるのに対し、弟の方は病弱で内気な性格だった。
しかしその事で二人の両親は彼らに優劣をつけたりしなかったし、兄弟仲も良かった。
スランプに陥ったシエルは、セバスチャンがコーチになった事で眠っていた才能が目覚め始め、ジェイドと共に注目されるようになった。
「君のお陰で、シエルは随分変わったよ。何かあの子に魔法でも掛けたのかい?」
「魔法?いいえ、とんでもない。坊ちゃんの負けず嫌いの性格を、わたしが引き出しただけです。」
「そうか。これからも、二人の事を宜しく頼むよ。」
「はい。」
シエルの身体に異変が起きたのは、世界選手権ジュニア大会で優勝した日の夜の事だった。
急に下腹の鈍痛に襲われたシエルがトイレに行こうとするとした時、何かがドロリと落ちて来る感覚に襲われた。
ふと足元へ目をやると、白い足が血で濡れていた。
「坊ちゃん?」
突然の出来事にシエルがパニックに陥っていると、そこへセバスチャンがやって来た。
彼はチラリとシエルのズボンに赤黒い染みが広がっている事に気づくと、シエルの下半身を自分のジャケットで覆い隠した後、シエルを横抱きにしてパーティー会場から出て行った。
「何をする、離せ!」
「暴れないで下さい、坊ちゃん。それとも、“お嬢様”とお呼びした方がよろしいのでしょうか?」
「お前、いつから僕の身体の事を・・」
「旦那様から、あなた様の“複雑な”身体の事を聞きました。さぁ、お部屋に着きましたよ。」
セバスチャンはそう言いながら、シエルを抱いたままカードキーを解除し、ホテルのスイートルームの中に入った。
「さぁ、服を脱いで下さい。」
「なっ・・」
「汚れた服のままで一晩過ごすのは嫌でしょう?ご自分でお脱ぎにならないのなら、わたしが脱がしましょうか?」
「いい、自分でやる!」
シエルは汚れた服を脱ぐと、温かい湯が入った猫足のバスタブの中に入った。
「失礼致します、着替えを持って参りました。」
「そこへ置いておいてくれ。それと、僕がいいと言うまで浴室に入って来るな!」
「はいはい、わかりましたよ。」
セバスチャンは苦笑しながら浴室のドアを閉めると、汚れたシエルの服を洗い始めた。
シエルがベッドの上で目を覚ますと、隣で自分の手を握っていた筈のセバスチャンの姿がなかった。
「・・いい加減にしてください!」
スイートルームの扉の向こうで、セバスチャンの苛立ったような声が聞こえて来た。
彼は、いつも冷静に声を荒げたり、怒鳴ったりした事は無かった。
シエルが扉の前で耳をそば立てていると、セバスチャンが部屋の中に入って来た。
「もう、大丈夫なのですか?」
「あぁ。風呂に入ったら少しは良くなった。それよりもセバスチャン、さっきは誰と話していた?」
「妻ですよ。いつ帰って来るのかとしつこく催促されて・・」
「お前、結婚していたのか?」
「えぇ。政略結婚ですけどね。」
「そうか。」
セバスチャンの妻は、ミカエリス家と彼女の実家の利害関係が一致した為セバスチャンと結婚したのだった。
貴族階級に属する者同士の結婚は、親族同士の繋がりがあったり、互いの家の利害関係が一致したりするという理由で成立する事が少なくはない。
現に、シエルの兄・ジェイドと、彼の婚約者であるエリザベス・ミッドフォード侯爵令嬢も、シエルとジェイドの父・ヴィンセントと、エリザベスの母・フランシスとは実の兄妹同士という繋がりがある。
「お前のような男と結婚した女の顔を一度見てみたいものだ。」
「まぁ、それは嬉しいお言葉ですね。坊ちゃんの体調が回復したあかつきには、改めてファントムハイヴ伯爵邸で祝賀パーティーでも開きましょう。その時に、妻を連れて行きますよ。」
「好きにしろ。」
シエルはそう言ってセバスチャンを睨んだ後、シーツを頭から被って眠った。
―坊ちゃん、起きて下さい。
シエルが目を覚ますと、そこには黒い燕尾服姿のセバスチャンが立っていた。
(これは、夢だ。)
前世でセバスチャンと過ごした頃の夢を見たシエルは、枕元に置いていたスマートフォンのアラームで目を覚ました。
「おはようございます、坊ちゃん。今朝は随分と早起きでいらっしゃいますね。」
「あぁ。誰かが設定したスマホのアラームの所為で、夢から覚めた。」
「そうでしたか。」
翌朝、ホテル内のレストランで朝食を取りながら、シエルとセバスチャンがそんな事を話していると、そこへジェイドとエリザベスがやって来た。
「シエル、もう体調は大丈夫なの?」
「うん、痛み止めの薬を飲んだから。」
「そう。それにしても、昨夜ホテルの前で女の人がウロウロしていたわ。誰かを捜していたみたい。」
「エリザベス様、その女性はどんな容姿なのですか?」
「金髪碧眼で、怖い顔をしてずっとフロントの方を睨んでいたわ。」
「そうですか。」
「セバスチャン、どうした?」
「いえ、何でもありません。」
まさか、妻・アメリアがわざわざ自分の顔を見に来る為に、英国から遠く離れたブルガリアまで来るとは思えない。
ホテルを出て、空港へと向かったセバスチャン達は、空港の入口付近で待ち伏せしていたマスコミに取り囲まれた。
「ミカエリスコーチ、アメリアさんとは離婚秒読みというのは事実なのでしょうか!?」
「アメリアさんに暴力を振るったというのは、事実ですか!?」
「行きますよ、坊ちゃん。」
そう言ってシエルをエスコートするセバスチャンの表情は硬かった。
帰りの飛行機の中で、シエルは一言もセバスチャンと話さなかった。
一体、どうなっているのだろう。
エリザベスが言っていた“金髪碧眼の女の人”と、セバスチャンとはどんな関係にあるのだろうか。
「シエル、何を考えているの?」
「兄さま・・」
「あいつの事は、放っておけばいい。それよりもシエル、昨夜あいつと何があった?」
「何もなかったよ。」
「そう・・」
シエルはジェイドの執拗な視線から逃れようと、俯いた。
だがジェイドは、そんなシエルの心情を見透かしているのか、下からシエルを覗き込んだ。
「シエル、お前には僕しか居ない。だって僕達は、生まれてからずっと一緒だったんだもの。これからも、僕達はずっと一緒だよ。」
(ねぇシエル、お前をあの“悪魔”に渡したくない。“あの時”、僕はお前の手を離してしまったけれど、今度はお前の手を決して離さない。)
シエル達が乗った飛行機は、無事ロンドン・ヒースロー空港に到着した。
「ジェイド、シエル、またね!」
「リジー、また会おう!」
空港でエリザベス達と別れたシエル達は、ロンドン市内にあるファントムハイヴ伯爵家のタウンハウスへと向かった。
「お帰りなさいませ、ジェイド坊ちゃま、シエル坊ちゃま。長旅、お疲れ様でございました。」
「タナカ、お迎えご苦労。」
ジェイドとシエルは両親と食事をした後、ジェイドは図書室へと向かった。
一方シエルは、母・レイチェルに初潮を迎えた事を告げた。
「そう。もう体調は大丈夫なの?」
「はい。セバスチャン・・コーチが、色々と気遣ってくれたので・・」
「ヴィンセントとも話したけれど、セバスチャンをあなた達のコーチにして良かったわ。ジェイドは、セバスチャンを警戒しているけれど、あなたとは相性が良いわね。」
「そうですか?」
「まぁ、セバスチャンはあなたの事を一目見て気に入っていたわ。」
確かに、セバスチャンは三年前に初めて会った時から、シエルを気に入っていた。
セバスチャンのスパルタ指導は賛否両論あるものの、その実力で有名となっていった。
そのスパルタ教育に鍛えられたシエルの成績が上がったのは、紛れもない事実だった。
それよりも、シエルは何故かセバスチャンの事が気になっていた。
何故か、セバスチャンとは初めてあった気がしないのだ。
時折、セバスチャンが、“昔から、変わっていませんね。”と言った時の表情が、他の“誰か”と重ねてしまうのだ。
「シエル?」
「何でもありません、お母様。」
「ねぇ、もしかしてあなた、セバスチャンの事が好きなの?」
「えっ!」
「嫌だ、そんなに驚かなくていいじゃない。だってあなた、セバスチャンと一緒に居る時、楽しそうな顔をしているじゃない。」
「そ、そうかなぁ・・」
「話は変わるけれど。今日はニナのお店に行って、あなたの新しい服や下着を選ばないとね。」
「そんな事をしなくても・・」
「何を言うの、スポーツブラだけなんて駄目よ!そうだわ、リジーも呼びましょう!」
「お母様・・」
レイチェルにシエルは半ば強引にロンドン市内にあるファントム家配属の仕立て屋、ニナ・ホプキンズが経営する“ホプキンズ・テーラー”へと連れて行かれた。
そこには、エリザベスと彼女の侍女であるポーラ、そしてシエル達の伯母であるアンジェリーナ・ダレス、“マダム・レッド”の姿があった。
「シエル、可愛い~!今度はこのワンピースを試着してみて!」
「やっぱりシエルにはピンクが似合うわねぇ。ブルネットの髪に映えるわ。」
店に入った時シエルは嫌な予感がしたが、案の定それは的中し、エリザベス達の着せ替え人形となってしまった。
「はぁ、疲れた。」
「そんなに不貞腐れた顔をしないで。それにしても、久し振りの女子会、楽しかったわねぇ。」
両手に沢山の紙袋を抱えたシエルが疲労困憊しているのに対して、レイチェルは満面の笑みを浮かべていた。
「お帰りなさいませ、シエル坊ちゃま、奥様。」
「ただいま、タナカ。ジェイドは?」
「ジェイド坊ちゃまなら、図書室で何やら調べ物をなさっておいでのようです。」
「そう。」
「お帰りなさい、お母様、シエル。」
そう言って図書室から出て来て二人の元へとやって来たジェイドは、何処か浮かない顔をしていた。
「ジェイド、どうしたの?何かあったの?」
「さっき、SNSでこんなタグを見つけたんだ。」
ジェイドは持っていたスマートフォンの画面を二人に見せると、そこに表示されていたのは、“#シエル、真実を話して”というSNSのタグだった。
「何で、僕の名前が・・」
「恐らく、この動画の所為だと思うよ。」
ジェイドがスマートフォンの画面をタップすると、一本の動画が再生された。
そこに映っているのは、エリザベスが見た金髪碧眼の女性―セバスチャンの妻・アメリアだった。
彼女は泣きながら、セバスチャンからDVを受けていた事を話した後、シエルがセバスチャンから体罰を受けていると話、動画の最後にこんな言葉を視聴者達に語りかけた。
『お願い皆さん、どうかこのタグを拡散して下さい。#シエル、真実を話して。』
その動画は、シエルにとってまさしく青天の霹靂そのものだった。
(これで、何もかも上手くいくわ・・)
例の動画と共に、“#シエル、真実を話して”というタグは瞬く間に世界中に拡散され、ロンドンのファントムハイヴ伯爵家のタウンハウスの前には連日マスコミが詰めかけ、シエル達は息を潜めて暮らしていた。
「シエル、あの動画で彼女が言っている事は本当なのか?」
「あの動画は事実無根で、僕は一度もセバスチャンから体罰を受けた事はありません。」
「そうか。ならば逃げも隠れもせず、堂々としていなさい。」
ヴィンセントに背中を押され、シエルは自身のSNSのアカウントで今回の騒動について説明した。
“例の動画ですが、僕はコーチから今まで一度も体罰を受けた事がありません。”
シエルはSNSアカウントの「投稿」ページをクリックした後、溜息を吐いた。
「シエル、入るよ?」
「どうぞ。」
シエルがスマートフォンを机の上に放り投げると、ジェイドが執務室に入って来た。
「ねぇシエル、僕だけに真実を話して。」
「兄さま、僕は本当に・・」
「シエル、お前はあいつの事をどう思っているの?」
「それは・・」
シエルが言葉に詰まった時、彼の部屋のドアを何者かがノックした。
「シエル坊ちゃま、お客様がいらっしゃっています。」
「どんな方だ?」
「アメリア様とおっしゃられる方です。どうしても、シエル坊ちゃまとお会いしたいと・・」
「わかった。」
シエルが客間に入ると、アメリアはスマートフォンで客間に飾ってある絵を撮影していた。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません。」
「あら、あなたが・・」
ピンヒールを履いている所為なのか、アメリアはシエルと並んで立つと高身長に見えた。
「今日こちらに伺ったのは、あなたに正式な謝罪をしようと思って・・」
「僕とセバスチャンの名誉を傷つけておいて、今更謝罪とはお話になりませんね。お帰り下さい。」
「お願い、わたしの話を聞いて・・」
「タナカ、お客様がお帰りだ。」
「お見送りは結構よ!」
アメリアはシエルに背を向けると、客間のドアを乱暴に閉めて出て行った。
「ミス・アメリア、今度こちらにいらっしゃる時は事前にご連絡下さい、それがマナーというものですよ。」
ジェイドがそう言ってアメリアを睨むと、彼女は無言でファントムハイヴ邸から去っていった。
「シエル、大丈夫?あの女から何か言われた?」
「ううん。」
「ねぇシエル、あいつとは暫く会わない方がいい。」
「どうして?」
「あいつと居ると、お前が不幸になるだけだ。」
「ごめんなさい、兄さまの頼みでも、それは聞けない。」
シエルはそう言うと、自室に戻り、溜息を吐いた。
「シエル坊ちゃま、お気をつけていってらっしゃいませ。」
「タナカ、帰りは地下鉄かバスで帰るから、迎えに来なくていい。」
「かしこまりました。」
タナカにスケートリンクまで送って貰い、シエルがスケートリンク内にある更衣室に入ると、そこには上半身裸のセバスチャンが居た。
「おや、ノックせずに部屋に入るとは、マナー違反ですよ。」
「うるさい、早く着替えろ!」
シエルはそう叫んだ後、セバスチャンに背を向けた。
「もう、着替えは終わりましたよ。」
「そうか。」
シエルがそう言って私服から練習着へと着替えようとした時、セバスチャンはじっとシエルの下着を見ていた。
「何だ?」
「いえ・・随分、可愛らしい下着を身に着けていらっしゃるのですね。」
「見るな!」
「それでは、わたしはこれで失礼致します。その下着、とてもお似合いですよ。」
「早く出て行け!」
シエルは素早く練習着に着替えると、スケートリンクへと向かった。
「ジャンプの精度が上がりましたね。トリプルアクセルは完璧です。今日から、トリプルトゥーループの練習を致しましょう。」
「トリプルトゥーループはもう出来ている・・」
「いいえ、出来ていませんよ。4回転サルコウを跳ぶのは、トリプルトゥーループを完璧に出来てからです。」
「わかった。」
シエルはその日、夕方までセバスチャンにみっちり扱かれた。
「坊ちゃん、今日はわたしが送りましょう。」
「いや、いい。今お前と一緒に居たら色々変な噂が立つからな。」
「そうですか。ではお気をつけてお帰り下さいませ。」
「ふん!」
スケートリンクから出たシエルが地下鉄に乗ると、何処からか強い視線を感じて振り向いたが、そこには誰も居なかった。
(気の所為か・・)
シエルがそう思いながら地下鉄に揺られていると、何処からか話し声が聞こえて来た。
「あの子、確か・・」
「でも、あのブルネットの髪・・」
シエルが、話し声が聞こえている方を見ると、友人と思しき女性二人組がスマートフォンを片手に自分の方をチラチラと見ながら話をしていた。
シエルは地下鉄が目的地の駅に着くと、そのまま地下鉄から降りてタウンハウスへと向かっていったが、何者かが自分の後を尾行している事に気づいた。
(一体、誰が・・)
シエルは後少しでファントムハイヴ伯爵家のタウンハウスへと着こうとした時、突然何者かに突き飛ばされ、車道へと飛び出してしまった。
「危ないだろう、馬鹿野郎!」
トラックに轢かれそうになったシエルだったが、寸での所で歩道に戻って無事だった。
「シエル、大丈夫!?」
「うん・・」
シエルは背後を振り返ったが、そこには誰も居なかった。
その日から、シエルは何者かに尾行されている気配を感じた。
「誰かに尾行されている?」
「気の所為だと思うんですけれど・・」
「スケートリンクへの送迎は、暫くタナカに任せよう。タナカ、済まないが頼めるか?」
「かしこまりました。」
「タナカ、今日から宜しく頼む。」
スケートリンクの送迎をタナカにして貰うようになってから、シエルはあの殺気に満ちた気配を全く感じなくなった。
「どうしたのですか?今日は、ずっと上の空ですね。」
「実は・・」
シエルはセバスチャンに、何者かに帰宅途中、背中を押され、トラックに轢かれそうになった事を話した。
「そうですか。」
「ここへの送迎はタナカに頼んである。」
「最近、物騒な事件が頻発していますからね。用心に越した事はないでしょう。」
セバスチャンはそう言いながらも、タブレットの画面をスクロールしていた。
「何を見ている?」
「トリプルトゥーループの精度が上がっていますが、後少しですね。それよりも、坊っちゃん・・」
「何だ?」
「ブラジャー、少し見えていますよ。」
「お前、そう言う事は早く言え!」
「申し訳ありません。あの坊ちゃまが、スポーツブラ以外のものをつけるなんて、驚いてしまって・・」
そんな話をしている二人の姿を、リンクサイドからアメリアが恨めしそうな顔で見ていた。
「パーティー?」
「はい。如何なさいますか、坊っちゃん?」
「是非、出席させて頂くと、先方に返事を。」
「かしこまりました。」
その日の夜、シエルは両親とジェイドと共にピカデリーサーカスにある芸術ホールで開かれている慈善パーティーに出席した。
そこでシエルは、仲睦まじい様子のセバスチャンとアメリアを見てしまった。
(どうして・・)
「シエル、どうしたの?」
「何でもないよ、兄さま。」
「そう。」
シエルはモヤモヤした思いを抱えたまま、パーティーを楽しんだ。
「そろそろ帰りましょう。」
「はい、お母様。」
ジェイドとシエルがホールから外へと出ようとした時、外は土砂降りの雨が降っていた。
「さぁ、ジェイド坊ちゃん、シエル坊っちゃん、どうぞ。」
タナカが傘をさしてリムジンから降りて来た時、シエルはセバスチャンと目が合った。
何か言おうとシエルが口を開いた時、ジェイドにシエルは車の中へと引き摺り込まれた。
「残念だったわね、あの子と話せなくて。」
「アメリア、あなたは一体何をしたいのですか?」
「離婚はしないわよ。あの子とあなたを、幸せになんかさせないわ。」
そう言ったアメリアの目は、狂気で血走っていた。
「アメリア、わたしは・・」
「わたし、知っているのよ、あの子の秘密を。それを世間にバラされたくなかったら、わたしに従いなさい。」
ずっと、人気者になりたかった。
良い意味でも、悪い意味でも。
アメリアは、成績優秀な姉と、スポーツ万能な兄の“おまけ”として生きて来た。
両親は二人だけを可愛がり、アメリアはいつも愛に飢えていた。
だから、セバスチャンと結婚した時、今まで憧れていた人気者になった時は嬉しかった。
今まで自分に見向きもしなかった人達が、有名人の“妻”というだけでもてはやしてくれる。
人間は欲深い。
ひとつの望みを叶えても、もっと有名になりたいと願う。
セバスチャンと結婚したが、彼は偶に家に帰って来る回数は月一回が良い位で、“愛のある結婚生活”とは程遠かった。
だがそれでも、セバスチャンと別れたくなかったのは、彼を愛しているからではなく、“有名人の妻”という地位を捨てたくなかったからだった。
しかし、アメリアの人気に陰りが出て来た。
その原因は一年前、セバスチャンが名門伯爵家の双子達のコーチ兼振付師となったからだった。
美貌、知性、家柄―それらを生まれながらにして手にしているブルネットの髪をした双子達に、アメリアは嫉妬した。
あの子達には負けたくない―そんな思いで彼女は、あの動画をSNSに上げたのだ。
これでみんな、わたしを見てくれる―アメリアの貧しい承認欲求は、シエルと会って、シエルに対する怒りへと変わった。
そして気づいてしまった、セバスチャンとシエルが、只のコーチと教え子ではないという事に。
そして、その関係を探るのは、シエルの身体の秘密が鍵となる。
アメリアは私立探偵を雇い、シエルの秘密を探った。
シエルの身体の秘密を握ったアメリアは、それを盾にセバスチャンを脅した。
セバスチャンは、シエルを守る為離婚したくないというアメリアの要求を呑んだ。
その所為なのか、セバスチャンが最近やつれているようにシエルには見えた。
「セバスチャン・・」
「すいません、考え事をしていました。」
「そうか。」
練習を終えたシエルが更衣室で着替えていると、ロッカーの中に置いてあったスマートフォンが鳴った。
「どうしたの、兄さん?」
『シエル、タナカさんが入院する事になったよ。』
「え?」
ジェイドによれば、タナカは持病の腰痛が悪化し、暫く入院する事になったという。
「わかった。」
シエルがスマートフォンをリュックのサイドポケットにしまっていると、更衣室にセバスチャンが入って来た。
「シエル・・」
「セバスチャン、どうした?」
セバスチャンはシエルを抱き締め、その唇を奪った。
「ん・・」
「シエル、愛しています。」
セバスチャンはそう言ってシエルの服を脱がそうとしたが、その前にシエルがセバスチャンの向う脛を蹴った。
「目を覚ませ!」
「申し訳ございません。」
「一体どういう事なんだ?」
「一時の気の迷いでした。」
シエルをファントムハイヴ家へと送り届ける車の中で、セバスチャンはそう言ってシエルに謝った。
「数日前、お前の妻が我が家に来た。あの動画について謝罪したいとの事だったが、あれは嘘だな。」
「彼女は、坊っちゃんの身体の秘密を知っています。もし離婚するつもりなら、坊っちゃんの身体の秘密を世間にバラすと・・」
「一体何故、彼女はお前と別れようとしないんだ?」
「彼女にとって、わたしは、“トロフィー・ハズバンド”―即ち、彼女が有名人であり続ける為のアイコン的存在なのですよ。」
「馬鹿らしい、お前は誰かの所有物ではない。僕はあんな女には屈しない。」
「・・それでこそ、わたしの坊っちゃんです。」
車を人気のない所に停めたセバスチャンは、そう言うとシエルの唇を塞いだ。
「おい、何をする?」
「更衣室での続きをするつもりです。嫌ですか?」
「嫌じゃ・・ない。」
シエルは、そう言った後頬を染めて俯いた。
「辛くないですか?」
「あぁ・・」
その日、シエルは初めてセバスチャンに抱かれた。
初めての時は痛いと噂には聞いていたが、そんなに痛くはなかった。
「さてと、今度こそ家まで送りますよ。それまで寝ていてください。」
「あぁ、わかった。」
セバスチャンに抱かれたが、彼との関係は終わらなかった。
むしろ、セバスチャンはシエルに対して厳しく接した。
「4回転サルコウ、完璧に跳ぶのはまだまだですね。」
「そうか?」
「それにしても坊っちゃん、昨夜はよく眠れましたか?目の下の隈が酷いですよ。」
「昨夜、ちょっと考え事があって一睡も出来なかったんだ。」
「そうですか。では少し、休憩しましょう。」
「わかった・・」
シエルはセバスチャンの膝の上に頭を預けると、そのまま眠った。
「お前、何をしているの?今すぐ僕のシエルから離れて。」
「そんなに大きな声を出さないで下さい、坊っちゃんが起きてしまいます。」
セバスチャンはそう言うと、自分を睨みつけているジェイドを見た。
「お前にシエルは渡さない。お前の所為で、シエルがあんな“最期”を迎えたのを、忘れたのか?」
「あぁ、そうでしたね・・」
セバスチャンはそう言うと、シエルの髪を梳いた。
「お前は、弟の魂を喰ったんだろう?それなのに何故、生まれ変わっても弟に執着する?」
「愛しているから、ですよ。」
「そう・・」
セバスチャンとジェイドとの間に、険悪な空気が流れたが、ジェイドは何も言わずにスケートリンクから出て行った。
「セバスチャン・・」
「お目覚めですか、坊っちゃん?」
帰りましょうか、とセバスチャンがシエルに尋ねると、シエルは静かに頷いた。
「では坊っちゃん、また明日。」
「あぁ。」
タウンハウスの前で軽くハグする二人の姿を、ジェイドは自室の窓から恨めしそうに見ていた。
「ただいま。」
「お帰り、シエル。」
シエルがタウンハウスの玄関ホールに入ると、ジェイドが仁王立ちしてシエルの帰りを待っていた。
「最近、あいつと仲が良いんだね?」
「うん、まぁ・・」
「ねぇシエル、あいつの事が好きなの?」
「兄さん?」
「僕よりもあいつの事が好きなの?」
「どうして、そんな事を聞くの?」
「お前を、誰にも渡したくないからだよ。」
ジェイドは、シエルを自室へと連れて行くと、シエルをベッドの上に押し倒した。
「嫌だっ、やめて!」
ジェイドは無理矢理シエルを抱いた。
「これで、お前は僕のものだ。」
セバスチャンに抱かれてから三ヶ月が経ち、シエルは謎の眠気と倦怠感に悩まされていた。
そして、臭いに敏感になり、今まで平気だった薔薇の匂いやガトーショコラなどのスイーツの匂いが苦手になり、その匂いを嗅いだ途端、激しい吐き気に襲われ、酷い時には立っていられない程の酷い眩暈に襲われてしまう事があった。
大会が近いから、ストレスの所為で自律神経が乱れているのだろうと思ったシエルは大学病院を受診したのだが、何故か消化器内科ではなく産婦人科を受診するように受付の事務員から言われ、シエルが産婦人科に向かうと、そこはピンクの花柄の壁紙に囲まれた、ファンシーな雰囲気が漂う空間だった。
「ヒッ、ヒッ、ヒッ、漸く会えたねぇ、伯爵。」
「お前は、アンダーテイカー!」
「さてと、診察するからそこの診察台に乗ってくれるかなぁ?」
「わ、わかった・・」
シエルが恐る恐る内診台に乗ると、アンダーテイカーはシエルの問診票を見ながら器用にシエルを診察した。
「伯爵、妊娠しているね。酷い眠気と倦怠感、吐き気や眩暈、貧血・・どれも妊娠初期の症状だね。悪阻が酷くなるようなら、入院して貰うよ。あと、スケートは当分禁止ね。あぁそうだ、君の執事君にここに来て貰っているからね。」
「そんな・・」
「隠せる事じゃないし、今後の事は良く話した方がいい。」
シエルが診察室から出ると、待合室には不安そうにこちらを見つめるセバスチャンの姿があった。
「坊ちゃん・・」
「今は、何も言うな。」
セバスチャンとシエルがファントムハイヴ伯爵家のタウンハウスへと向かうと、そこには怒り狂ったジェイドと、驚愕と怒りを綯い交ぜになった表情を浮かべるヴィンセントとレイチェルの姿があった。
「シエル、セバスチャン、わたしの部屋に来なさい。」
「はい・・」
ジェイドの殺意に満ちた視線を感じながら、セバスチャンはシエルと共にヴィンセントの書斎に入った。
「お父様・・」
「シエル、お前はどうしたい?」
「僕は、産みたいです。」
「そうか。ならアンジェリーナと、“彼”に頼りなさい。」
「あの、怒らないのですか?」
「怒るも何も、命を授かった事はめでたい事じゃないか。ただ、問題なのは、“あの”奥さんが君との離婚に応じてくれるのかどうかだね。」
ヴィンセントはそう言うと、シエルにハーブティーを勧めた。
紅茶の茶葉の匂いも苦手となったシエルだが、何故かそのハーブティーだけは飲めた。
「レイチェルがお前達を妊娠中に、良く飲んでいたんだ。ハーブティー専門店でわざわざ取り寄せただけあるな、ペパーミントの良い匂いがするなぁ。」
「あの、ヴィンセント様・・」
「そんなに堅苦しい呼び方は止めてくれないか?“お義父さん”と呼んでくれ。」
「は、はぁ・・」
「それにしても、若気の至りって凄いね。まさか、こんなに早く孫の顔が見られるなんて、思いもしなかったよ。」
ヴィンセントは笑いながらも、遠回しにセバスチャンに嫌味を言っていた。
「坊ちゃん、わたしはどうやら、お義父様に嫌われてしまったかもしれません。」
「お父様は、僕の事が大好きだから・・でも、問題はお父様よりもお兄様の方だ。」
シエルがそう言った時、ジェイドが自室から出て来た。
「シエル、驚いたよ。まさか僕が伯父さんになるなんて。」
「兄さん、怒っていないの?」
「怒っていないよ。でも、お前の事を認めた訳じゃないからね、セバスチャン。」
「末永く宜しくお願い致しますね、“お兄様”。」
「僕の弟はシエルだけだ。」
ジェイドとセバスチャンとの間に、静かな火花が散った。
「坊ちゃん、アフタヌーンティーの時間ですよ。」
「要らない。」
シエルは妊娠してから、一日中トイレに籠って吐いてばかりいた。
「少しはお食べになりませんと、お身体が・・」
「うるさい、僕に構うな!」
シエルは苛立ちの余り、セバスチャンに向かって枕を投げつけた。
「ではわたしは、これで失礼致します。」
「早く出て行け!」
セバスチャンがファントムハイヴ邸を出て自宅に戻ると、アメリアが自室から出て来た。
「あなた、お帰りなさい。」
彼女が珍しく上機嫌な様子なので、セバスチャンは嫌な予感がした。
それは、的中した。
「久し振りね、セバスチャン。」
「母上、お久し振りです。」
「今日は大事な話があって来たのよ。」
「大事な話?」
「えぇ。」
セバスチャンの母・エリーは、一枚の書類をセバスチャンに見せた。
「あなた、アメリアと離婚するそうね?その理由は、ファントムハイヴ家の子と関係があるの?」
「母上、わたしはアメリアと離婚します。」
「どうして?わたしはあなたを・・」
「愛している、とでも言いたいのですか?」
セバスチャンが冷やかな瞳でアメリアを睨むと、アメリアは俯いた。
「母上、わたしとシエルは・・」
「あなたがそう言うのなら、仕方無いわね。」
「お義母様!?」
「ありがとうございます。」
「わたしは認めないわ!」
アメリアはそう叫ぶと、セバスチャンを睨みつけた。
「あの子がどうなってもいいの!?」
「坊ちゃんから、あなたへの伝言です。“身の程を弁えろ”とね。」
アメリアは無言で自室に入って荷物を纏めると、ミカエリス邸から出て行った。
数日後、セバスチャンとアメリアの離婚が成立した。
「伯爵、かなり痩せたね。酷い顔をしているよ。」
「うるさい、黙れ。」
アンダーテイカーはシエルを診察した後、お腹の赤ん坊が双子である事をシエルに告げた。
「暫く入院して貰うよ。」
「わかった。」
「産むのも育てるのも、大変だからね。」
「スケートは、出来るのか?」
「周りの協力が不可欠だね。まぁ、今度は赤ちゃん達の事だけを考えて。」
「わかった・・」
半年後、シエルは帝王切開で双子を出産した。
「可愛い~!」
「寝ている時だけは可愛いぞ。」
見舞いに来たエリザベスにそう言いながら、シエルはベビーベッドの中で眠っている双子を見た。
男女の双子―セバスチャンに似た女児と、自分に似た男児は、産声を上げた瞬間から、良く泣いた。
手術後の痛みに耐えながら、シエルは双子に授乳したり、おむつ替えをしていたりしたが、一日が終わる頃にはクタクタになっていた。
こんな調子でスケートに復帰出来るのだろうか―そんな事を思いながら、シエルは双子の育児に奮闘していた。
そんな中、シエルはある悩みを抱えていた。
それは、ブラジャーがすぐにきつくなってしまう事だった。
初潮を迎えた頃は平らだった胸が、出産後急に大きくなった。
(どうしようか・・)
「坊ちゃん、入りますよ?」
「入れ。」
「失礼致します。」
セバスチャンがシエルの病室に入ると、シエルは何やらスケッチブックの上にデザイン画らしきものを描いていた。
「それは、何ですか?見たところ、下着のようですが・・」
「これは、授乳ブラだ。胸が急に大きくなって、今までつけていた物が合わなくなった。ニナに頼んで作って貰うのもいいが・・」
「やはり、そういった物は自分で拘って作りたいと・・」
セバスチャンがそんな事を言いながらシエルに微笑んでいると、双子が急に泣き出した。
「育児にスケートに仕事・・色々やる事が沢山あるな。」
「ええ。」
セバスチャンはそう言ってシエルに男児―アトラスをあやしながら、妻と子供達は自分の命を代えても守ろうと思った。
「ノエル、アトラス、三歳の誕生日おめでとう!」
「おめでとう!」
シエルとセバスチャンの間に生まれた双子、ノエルとアトラスの誕生パーティーはファントムハイヴ家で盛大に行われた。
「ヒッ、ヒッ、可愛い子ちゃん達、小生にとびっきりのハグをおくれよ~」
アンダーテイカーがそう言って両手を広げると、ノエルとアトラスは躊躇いなく彼の胸の中に飛び込んだ。
「今日は来てくれてありがとう、アンダーテイカー。」
「元気そうで良かったよ、伯爵。」
アンダーテイカーは、ミッドナイトブルーのドレスを着たシエルを見てそう言うと笑った。
「それにしても凄いねぇ。この三年の間にファントムハイヴ社の新事業を立ち上げて大きく展開させるだけではなく、スケートに復帰するなんてさぁ。やっぱり、執事君のお陰かなぁ。」
アンダーテイカーはそう言うと、客達と談笑しているセバスチャンを見た。
「今も昔も、彼の君への献身ぶりは変わらないねぇ。そういや、双子の片割れはどうしたんだい?」
「兄さんなら、リジーと・・」
「テイカー、久し振りだな。」
「そんな怖い顔をしないでおくれよ。」
「少しお前と話したい事がある、いいか?」
「小生は構わないさ。」
「兄さ・・」
「シエル、そのドレス良く似合っているわ。」
「そうか?」
「昔のシエルも可愛かったけれど、今のシエルの方がもっと可愛い~!」
エリザベスはそう叫ぶと、シエルに抱き着いた。
「おやおや、相変わらず仲のいい事で。」
二人の元に、いつの間にかセバスチャンが来ていた。
「セバスチャン、シエルのドレスはあなたが選んだの?」
「えぇ。」
「双子ちゃん達の服も?」
「あの子達の服は、シエルが選んでいるんですよ。」
「二人共幸せそうで良かったわ。」
三人で談笑している姿を、遠くからある男が見ていた。
「ケルヴィン男爵、こちらにいらしていたのですか?」
「ファントムハイヴ伯爵、本日はお招き頂きありがとうございます。」
(あぁ、何て美しい人達なんだ。)
ヴィンセント達が纏う、“美”に、いつしかケルヴィン男爵は魅せられてしまった。
(決して掴む事が出来ない美しい蒼い月・・お願いだよ、僕もその仲間に入れておくれ。)
双子達を乳母に預け、スケートリンクへと向かったシエルは、背後に強烈な視線を感じて振り向いたが、そこには誰も居なかった。
(気の所為か・・)
シエルが再び歩き出すのを、茂みの中からケルヴィン男爵が見ていた。
「何を見ていらっしゃるのですか?」
「ひぃっ!」
作者・出版社様とは一切関係ありません。
シエルが両性具有です、苦手な方はご注意ください。
「坊ちゃん、準備は出来ていますか?」
「あぁ。」
「眼帯はつけたままにしておくのですか?」
「外してくれ。」
「わかりました。」
そう言ってシエル=ファントムハイヴの前に跪くのは、彼のコーチ兼振付師の、セバスチャン=ミカエリスだった。
「さぁ、参りましょう。」
「あぁ。」
選手控室を出たシエルとセバスチャンが会場へと向かうと、そこは熱気と歓声に包まれていた。
「坊ちゃん、今までやって来た事を思い出して。」
「わかっている、そんな事・・」
シエルはそう言って強がったものの、緊張して身体の震えが止まらなかった。
「坊ちゃん、こちらを向いて。」
「え・・」
シエルがセバスチャンの方を振り向くと、セバスチャンはシエルの唇を塞いだ。
二人のキスがモニターの画面に映し出され、会場に居た観客達は歓声を上げた。
「なっ、なっ・・」
「わたしを全力で誘惑なさい。」
シエルはセバスチャンを睨むと、彼のネクタイを掴んで彼の唇を塞いだ。
「言われなくても、やってやる!」
やがて、シエルはスケートリンクの中央へと滑っていった。
『さぁ始まりました、世界選手権ジュニア大会。最後に登場したのは、イングランド、シエル=ファントムハイヴ選手。兄のジェイド=ファントムハイヴ選手とはメダル争奪戦を繰り広げていますが、今回の大会はどうなるのでしょうか?』
『そうですね。シエル選手の今季のテーマは、“家族を殺され、復讐の為に悪魔と契約した少年”だそうです。』
シエルは深呼吸した後、静かに舞い始めた。
『最初のコンビネーションジャンプは、トリプルアクセルとダブルアクセル、どうか・・成功しました!』
『ステップが美しいですね。フラメンコの激しいリズムに乗っていますね。』
『この一年、シエル選手はスランプに陥っていましたが、セバスチャン=ミカエリスコーチの指導の下、成長しましたね。』
『さて、後半のシークエンスステップに入りましたが、美しく完成度が高いですね。』
演技を終え、リンクサイドへと戻ったシエルは、笑顔のセバスチャンに出迎えられた。
「完璧でしたよ、坊ちゃん。」
キス&クライへとシエルをエスコートするセバスチャンの姿をモニターの画面越しに見たシエルの双子の兄・ジェイドは、思わず持っていたスチール缶を握り潰してしまった。
(渡さない・・僕はお前を諦めないし、離さない。)
表彰式を終え、ジェイドはシエルを抱き締めた。
「おめでとうシエル、お前ならやれると思っていたよ!」
「兄さん・・」
ジェイドは、シエルの肩越しにセバスチャンを睨んだ後、シエルに微笑んだ。
(おやおや、独占欲丸出しだな・・)
同じ顔をしていても、その性格は違う。
セバスチャンはそう思いながら、シエルと出会った頃の事を思い出していた。
一年前、カリスマコーチ兼振付師として多忙な日々を送っていたセバスチャンの元に、一組の親子が訪ねて来た。
彼はヴィンセント=ファントムハイヴと名乗り、双子の息子達のコーチになって欲しいという。
「二人共、ご挨拶なさい。」
「初めまして、ジェイド=ファントムファイヴです。」
そう言ってセバスチャンに先に挨拶したのは、蒼い瞳で彼を値踏みするかのように見つめて来た兄のジェイドだった。
「シエル、お前も挨拶なさい。」
「はい・・」
父親の背中に隠れていた弟のシエルは、恐る恐る紫と蒼の瞳でセバスチャンを見つめた。
その双つの瞳に見つめられ、セバスチャンは雷に全身を撃たれたかのような衝撃を受けた。
「初めまして、シエル=ファントムハイヴと申します。」
「初めまして、今日からあなた達のコーチをさせて頂く事になりました、セバスチャン=ミカエリスと申します。」
こうして、セバスチャンはジェイドとシエルのコーチとなった。
同じ顔をしていても、兄の方は頑健で陽気な性格であるのに対し、弟の方は病弱で内気な性格だった。
しかしその事で二人の両親は彼らに優劣をつけたりしなかったし、兄弟仲も良かった。
スランプに陥ったシエルは、セバスチャンがコーチになった事で眠っていた才能が目覚め始め、ジェイドと共に注目されるようになった。
「君のお陰で、シエルは随分変わったよ。何かあの子に魔法でも掛けたのかい?」
「魔法?いいえ、とんでもない。坊ちゃんの負けず嫌いの性格を、わたしが引き出しただけです。」
「そうか。これからも、二人の事を宜しく頼むよ。」
「はい。」
シエルの身体に異変が起きたのは、世界選手権ジュニア大会で優勝した日の夜の事だった。
急に下腹の鈍痛に襲われたシエルがトイレに行こうとするとした時、何かがドロリと落ちて来る感覚に襲われた。
ふと足元へ目をやると、白い足が血で濡れていた。
「坊ちゃん?」
突然の出来事にシエルがパニックに陥っていると、そこへセバスチャンがやって来た。
彼はチラリとシエルのズボンに赤黒い染みが広がっている事に気づくと、シエルの下半身を自分のジャケットで覆い隠した後、シエルを横抱きにしてパーティー会場から出て行った。
「何をする、離せ!」
「暴れないで下さい、坊ちゃん。それとも、“お嬢様”とお呼びした方がよろしいのでしょうか?」
「お前、いつから僕の身体の事を・・」
「旦那様から、あなた様の“複雑な”身体の事を聞きました。さぁ、お部屋に着きましたよ。」
セバスチャンはそう言いながら、シエルを抱いたままカードキーを解除し、ホテルのスイートルームの中に入った。
「さぁ、服を脱いで下さい。」
「なっ・・」
「汚れた服のままで一晩過ごすのは嫌でしょう?ご自分でお脱ぎにならないのなら、わたしが脱がしましょうか?」
「いい、自分でやる!」
シエルは汚れた服を脱ぐと、温かい湯が入った猫足のバスタブの中に入った。
「失礼致します、着替えを持って参りました。」
「そこへ置いておいてくれ。それと、僕がいいと言うまで浴室に入って来るな!」
「はいはい、わかりましたよ。」
セバスチャンは苦笑しながら浴室のドアを閉めると、汚れたシエルの服を洗い始めた。
シエルがベッドの上で目を覚ますと、隣で自分の手を握っていた筈のセバスチャンの姿がなかった。
「・・いい加減にしてください!」
スイートルームの扉の向こうで、セバスチャンの苛立ったような声が聞こえて来た。
彼は、いつも冷静に声を荒げたり、怒鳴ったりした事は無かった。
シエルが扉の前で耳をそば立てていると、セバスチャンが部屋の中に入って来た。
「もう、大丈夫なのですか?」
「あぁ。風呂に入ったら少しは良くなった。それよりもセバスチャン、さっきは誰と話していた?」
「妻ですよ。いつ帰って来るのかとしつこく催促されて・・」
「お前、結婚していたのか?」
「えぇ。政略結婚ですけどね。」
「そうか。」
セバスチャンの妻は、ミカエリス家と彼女の実家の利害関係が一致した為セバスチャンと結婚したのだった。
貴族階級に属する者同士の結婚は、親族同士の繋がりがあったり、互いの家の利害関係が一致したりするという理由で成立する事が少なくはない。
現に、シエルの兄・ジェイドと、彼の婚約者であるエリザベス・ミッドフォード侯爵令嬢も、シエルとジェイドの父・ヴィンセントと、エリザベスの母・フランシスとは実の兄妹同士という繋がりがある。
「お前のような男と結婚した女の顔を一度見てみたいものだ。」
「まぁ、それは嬉しいお言葉ですね。坊ちゃんの体調が回復したあかつきには、改めてファントムハイヴ伯爵邸で祝賀パーティーでも開きましょう。その時に、妻を連れて行きますよ。」
「好きにしろ。」
シエルはそう言ってセバスチャンを睨んだ後、シーツを頭から被って眠った。
―坊ちゃん、起きて下さい。
シエルが目を覚ますと、そこには黒い燕尾服姿のセバスチャンが立っていた。
(これは、夢だ。)
前世でセバスチャンと過ごした頃の夢を見たシエルは、枕元に置いていたスマートフォンのアラームで目を覚ました。
「おはようございます、坊ちゃん。今朝は随分と早起きでいらっしゃいますね。」
「あぁ。誰かが設定したスマホのアラームの所為で、夢から覚めた。」
「そうでしたか。」
翌朝、ホテル内のレストランで朝食を取りながら、シエルとセバスチャンがそんな事を話していると、そこへジェイドとエリザベスがやって来た。
「シエル、もう体調は大丈夫なの?」
「うん、痛み止めの薬を飲んだから。」
「そう。それにしても、昨夜ホテルの前で女の人がウロウロしていたわ。誰かを捜していたみたい。」
「エリザベス様、その女性はどんな容姿なのですか?」
「金髪碧眼で、怖い顔をしてずっとフロントの方を睨んでいたわ。」
「そうですか。」
「セバスチャン、どうした?」
「いえ、何でもありません。」
まさか、妻・アメリアがわざわざ自分の顔を見に来る為に、英国から遠く離れたブルガリアまで来るとは思えない。
ホテルを出て、空港へと向かったセバスチャン達は、空港の入口付近で待ち伏せしていたマスコミに取り囲まれた。
「ミカエリスコーチ、アメリアさんとは離婚秒読みというのは事実なのでしょうか!?」
「アメリアさんに暴力を振るったというのは、事実ですか!?」
「行きますよ、坊ちゃん。」
そう言ってシエルをエスコートするセバスチャンの表情は硬かった。
帰りの飛行機の中で、シエルは一言もセバスチャンと話さなかった。
一体、どうなっているのだろう。
エリザベスが言っていた“金髪碧眼の女の人”と、セバスチャンとはどんな関係にあるのだろうか。
「シエル、何を考えているの?」
「兄さま・・」
「あいつの事は、放っておけばいい。それよりもシエル、昨夜あいつと何があった?」
「何もなかったよ。」
「そう・・」
シエルはジェイドの執拗な視線から逃れようと、俯いた。
だがジェイドは、そんなシエルの心情を見透かしているのか、下からシエルを覗き込んだ。
「シエル、お前には僕しか居ない。だって僕達は、生まれてからずっと一緒だったんだもの。これからも、僕達はずっと一緒だよ。」
(ねぇシエル、お前をあの“悪魔”に渡したくない。“あの時”、僕はお前の手を離してしまったけれど、今度はお前の手を決して離さない。)
シエル達が乗った飛行機は、無事ロンドン・ヒースロー空港に到着した。
「ジェイド、シエル、またね!」
「リジー、また会おう!」
空港でエリザベス達と別れたシエル達は、ロンドン市内にあるファントムハイヴ伯爵家のタウンハウスへと向かった。
「お帰りなさいませ、ジェイド坊ちゃま、シエル坊ちゃま。長旅、お疲れ様でございました。」
「タナカ、お迎えご苦労。」
ジェイドとシエルは両親と食事をした後、ジェイドは図書室へと向かった。
一方シエルは、母・レイチェルに初潮を迎えた事を告げた。
「そう。もう体調は大丈夫なの?」
「はい。セバスチャン・・コーチが、色々と気遣ってくれたので・・」
「ヴィンセントとも話したけれど、セバスチャンをあなた達のコーチにして良かったわ。ジェイドは、セバスチャンを警戒しているけれど、あなたとは相性が良いわね。」
「そうですか?」
「まぁ、セバスチャンはあなたの事を一目見て気に入っていたわ。」
確かに、セバスチャンは三年前に初めて会った時から、シエルを気に入っていた。
セバスチャンのスパルタ指導は賛否両論あるものの、その実力で有名となっていった。
そのスパルタ教育に鍛えられたシエルの成績が上がったのは、紛れもない事実だった。
それよりも、シエルは何故かセバスチャンの事が気になっていた。
何故か、セバスチャンとは初めてあった気がしないのだ。
時折、セバスチャンが、“昔から、変わっていませんね。”と言った時の表情が、他の“誰か”と重ねてしまうのだ。
「シエル?」
「何でもありません、お母様。」
「ねぇ、もしかしてあなた、セバスチャンの事が好きなの?」
「えっ!」
「嫌だ、そんなに驚かなくていいじゃない。だってあなた、セバスチャンと一緒に居る時、楽しそうな顔をしているじゃない。」
「そ、そうかなぁ・・」
「話は変わるけれど。今日はニナのお店に行って、あなたの新しい服や下着を選ばないとね。」
「そんな事をしなくても・・」
「何を言うの、スポーツブラだけなんて駄目よ!そうだわ、リジーも呼びましょう!」
「お母様・・」
レイチェルにシエルは半ば強引にロンドン市内にあるファントム家配属の仕立て屋、ニナ・ホプキンズが経営する“ホプキンズ・テーラー”へと連れて行かれた。
そこには、エリザベスと彼女の侍女であるポーラ、そしてシエル達の伯母であるアンジェリーナ・ダレス、“マダム・レッド”の姿があった。
「シエル、可愛い~!今度はこのワンピースを試着してみて!」
「やっぱりシエルにはピンクが似合うわねぇ。ブルネットの髪に映えるわ。」
店に入った時シエルは嫌な予感がしたが、案の定それは的中し、エリザベス達の着せ替え人形となってしまった。
「はぁ、疲れた。」
「そんなに不貞腐れた顔をしないで。それにしても、久し振りの女子会、楽しかったわねぇ。」
両手に沢山の紙袋を抱えたシエルが疲労困憊しているのに対して、レイチェルは満面の笑みを浮かべていた。
「お帰りなさいませ、シエル坊ちゃま、奥様。」
「ただいま、タナカ。ジェイドは?」
「ジェイド坊ちゃまなら、図書室で何やら調べ物をなさっておいでのようです。」
「そう。」
「お帰りなさい、お母様、シエル。」
そう言って図書室から出て来て二人の元へとやって来たジェイドは、何処か浮かない顔をしていた。
「ジェイド、どうしたの?何かあったの?」
「さっき、SNSでこんなタグを見つけたんだ。」
ジェイドは持っていたスマートフォンの画面を二人に見せると、そこに表示されていたのは、“#シエル、真実を話して”というSNSのタグだった。
「何で、僕の名前が・・」
「恐らく、この動画の所為だと思うよ。」
ジェイドがスマートフォンの画面をタップすると、一本の動画が再生された。
そこに映っているのは、エリザベスが見た金髪碧眼の女性―セバスチャンの妻・アメリアだった。
彼女は泣きながら、セバスチャンからDVを受けていた事を話した後、シエルがセバスチャンから体罰を受けていると話、動画の最後にこんな言葉を視聴者達に語りかけた。
『お願い皆さん、どうかこのタグを拡散して下さい。#シエル、真実を話して。』
その動画は、シエルにとってまさしく青天の霹靂そのものだった。
(これで、何もかも上手くいくわ・・)
例の動画と共に、“#シエル、真実を話して”というタグは瞬く間に世界中に拡散され、ロンドンのファントムハイヴ伯爵家のタウンハウスの前には連日マスコミが詰めかけ、シエル達は息を潜めて暮らしていた。
「シエル、あの動画で彼女が言っている事は本当なのか?」
「あの動画は事実無根で、僕は一度もセバスチャンから体罰を受けた事はありません。」
「そうか。ならば逃げも隠れもせず、堂々としていなさい。」
ヴィンセントに背中を押され、シエルは自身のSNSのアカウントで今回の騒動について説明した。
“例の動画ですが、僕はコーチから今まで一度も体罰を受けた事がありません。”
シエルはSNSアカウントの「投稿」ページをクリックした後、溜息を吐いた。
「シエル、入るよ?」
「どうぞ。」
シエルがスマートフォンを机の上に放り投げると、ジェイドが執務室に入って来た。
「ねぇシエル、僕だけに真実を話して。」
「兄さま、僕は本当に・・」
「シエル、お前はあいつの事をどう思っているの?」
「それは・・」
シエルが言葉に詰まった時、彼の部屋のドアを何者かがノックした。
「シエル坊ちゃま、お客様がいらっしゃっています。」
「どんな方だ?」
「アメリア様とおっしゃられる方です。どうしても、シエル坊ちゃまとお会いしたいと・・」
「わかった。」
シエルが客間に入ると、アメリアはスマートフォンで客間に飾ってある絵を撮影していた。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません。」
「あら、あなたが・・」
ピンヒールを履いている所為なのか、アメリアはシエルと並んで立つと高身長に見えた。
「今日こちらに伺ったのは、あなたに正式な謝罪をしようと思って・・」
「僕とセバスチャンの名誉を傷つけておいて、今更謝罪とはお話になりませんね。お帰り下さい。」
「お願い、わたしの話を聞いて・・」
「タナカ、お客様がお帰りだ。」
「お見送りは結構よ!」
アメリアはシエルに背を向けると、客間のドアを乱暴に閉めて出て行った。
「ミス・アメリア、今度こちらにいらっしゃる時は事前にご連絡下さい、それがマナーというものですよ。」
ジェイドがそう言ってアメリアを睨むと、彼女は無言でファントムハイヴ邸から去っていった。
「シエル、大丈夫?あの女から何か言われた?」
「ううん。」
「ねぇシエル、あいつとは暫く会わない方がいい。」
「どうして?」
「あいつと居ると、お前が不幸になるだけだ。」
「ごめんなさい、兄さまの頼みでも、それは聞けない。」
シエルはそう言うと、自室に戻り、溜息を吐いた。
「シエル坊ちゃま、お気をつけていってらっしゃいませ。」
「タナカ、帰りは地下鉄かバスで帰るから、迎えに来なくていい。」
「かしこまりました。」
タナカにスケートリンクまで送って貰い、シエルがスケートリンク内にある更衣室に入ると、そこには上半身裸のセバスチャンが居た。
「おや、ノックせずに部屋に入るとは、マナー違反ですよ。」
「うるさい、早く着替えろ!」
シエルはそう叫んだ後、セバスチャンに背を向けた。
「もう、着替えは終わりましたよ。」
「そうか。」
シエルがそう言って私服から練習着へと着替えようとした時、セバスチャンはじっとシエルの下着を見ていた。
「何だ?」
「いえ・・随分、可愛らしい下着を身に着けていらっしゃるのですね。」
「見るな!」
「それでは、わたしはこれで失礼致します。その下着、とてもお似合いですよ。」
「早く出て行け!」
シエルは素早く練習着に着替えると、スケートリンクへと向かった。
「ジャンプの精度が上がりましたね。トリプルアクセルは完璧です。今日から、トリプルトゥーループの練習を致しましょう。」
「トリプルトゥーループはもう出来ている・・」
「いいえ、出来ていませんよ。4回転サルコウを跳ぶのは、トリプルトゥーループを完璧に出来てからです。」
「わかった。」
シエルはその日、夕方までセバスチャンにみっちり扱かれた。
「坊ちゃん、今日はわたしが送りましょう。」
「いや、いい。今お前と一緒に居たら色々変な噂が立つからな。」
「そうですか。ではお気をつけてお帰り下さいませ。」
「ふん!」
スケートリンクから出たシエルが地下鉄に乗ると、何処からか強い視線を感じて振り向いたが、そこには誰も居なかった。
(気の所為か・・)
シエルがそう思いながら地下鉄に揺られていると、何処からか話し声が聞こえて来た。
「あの子、確か・・」
「でも、あのブルネットの髪・・」
シエルが、話し声が聞こえている方を見ると、友人と思しき女性二人組がスマートフォンを片手に自分の方をチラチラと見ながら話をしていた。
シエルは地下鉄が目的地の駅に着くと、そのまま地下鉄から降りてタウンハウスへと向かっていったが、何者かが自分の後を尾行している事に気づいた。
(一体、誰が・・)
シエルは後少しでファントムハイヴ伯爵家のタウンハウスへと着こうとした時、突然何者かに突き飛ばされ、車道へと飛び出してしまった。
「危ないだろう、馬鹿野郎!」
トラックに轢かれそうになったシエルだったが、寸での所で歩道に戻って無事だった。
「シエル、大丈夫!?」
「うん・・」
シエルは背後を振り返ったが、そこには誰も居なかった。
その日から、シエルは何者かに尾行されている気配を感じた。
「誰かに尾行されている?」
「気の所為だと思うんですけれど・・」
「スケートリンクへの送迎は、暫くタナカに任せよう。タナカ、済まないが頼めるか?」
「かしこまりました。」
「タナカ、今日から宜しく頼む。」
スケートリンクの送迎をタナカにして貰うようになってから、シエルはあの殺気に満ちた気配を全く感じなくなった。
「どうしたのですか?今日は、ずっと上の空ですね。」
「実は・・」
シエルはセバスチャンに、何者かに帰宅途中、背中を押され、トラックに轢かれそうになった事を話した。
「そうですか。」
「ここへの送迎はタナカに頼んである。」
「最近、物騒な事件が頻発していますからね。用心に越した事はないでしょう。」
セバスチャンはそう言いながらも、タブレットの画面をスクロールしていた。
「何を見ている?」
「トリプルトゥーループの精度が上がっていますが、後少しですね。それよりも、坊っちゃん・・」
「何だ?」
「ブラジャー、少し見えていますよ。」
「お前、そう言う事は早く言え!」
「申し訳ありません。あの坊ちゃまが、スポーツブラ以外のものをつけるなんて、驚いてしまって・・」
そんな話をしている二人の姿を、リンクサイドからアメリアが恨めしそうな顔で見ていた。
「パーティー?」
「はい。如何なさいますか、坊っちゃん?」
「是非、出席させて頂くと、先方に返事を。」
「かしこまりました。」
その日の夜、シエルは両親とジェイドと共にピカデリーサーカスにある芸術ホールで開かれている慈善パーティーに出席した。
そこでシエルは、仲睦まじい様子のセバスチャンとアメリアを見てしまった。
(どうして・・)
「シエル、どうしたの?」
「何でもないよ、兄さま。」
「そう。」
シエルはモヤモヤした思いを抱えたまま、パーティーを楽しんだ。
「そろそろ帰りましょう。」
「はい、お母様。」
ジェイドとシエルがホールから外へと出ようとした時、外は土砂降りの雨が降っていた。
「さぁ、ジェイド坊ちゃん、シエル坊っちゃん、どうぞ。」
タナカが傘をさしてリムジンから降りて来た時、シエルはセバスチャンと目が合った。
何か言おうとシエルが口を開いた時、ジェイドにシエルは車の中へと引き摺り込まれた。
「残念だったわね、あの子と話せなくて。」
「アメリア、あなたは一体何をしたいのですか?」
「離婚はしないわよ。あの子とあなたを、幸せになんかさせないわ。」
そう言ったアメリアの目は、狂気で血走っていた。
「アメリア、わたしは・・」
「わたし、知っているのよ、あの子の秘密を。それを世間にバラされたくなかったら、わたしに従いなさい。」
ずっと、人気者になりたかった。
良い意味でも、悪い意味でも。
アメリアは、成績優秀な姉と、スポーツ万能な兄の“おまけ”として生きて来た。
両親は二人だけを可愛がり、アメリアはいつも愛に飢えていた。
だから、セバスチャンと結婚した時、今まで憧れていた人気者になった時は嬉しかった。
今まで自分に見向きもしなかった人達が、有名人の“妻”というだけでもてはやしてくれる。
人間は欲深い。
ひとつの望みを叶えても、もっと有名になりたいと願う。
セバスチャンと結婚したが、彼は偶に家に帰って来る回数は月一回が良い位で、“愛のある結婚生活”とは程遠かった。
だがそれでも、セバスチャンと別れたくなかったのは、彼を愛しているからではなく、“有名人の妻”という地位を捨てたくなかったからだった。
しかし、アメリアの人気に陰りが出て来た。
その原因は一年前、セバスチャンが名門伯爵家の双子達のコーチ兼振付師となったからだった。
美貌、知性、家柄―それらを生まれながらにして手にしているブルネットの髪をした双子達に、アメリアは嫉妬した。
あの子達には負けたくない―そんな思いで彼女は、あの動画をSNSに上げたのだ。
これでみんな、わたしを見てくれる―アメリアの貧しい承認欲求は、シエルと会って、シエルに対する怒りへと変わった。
そして気づいてしまった、セバスチャンとシエルが、只のコーチと教え子ではないという事に。
そして、その関係を探るのは、シエルの身体の秘密が鍵となる。
アメリアは私立探偵を雇い、シエルの秘密を探った。
シエルの身体の秘密を握ったアメリアは、それを盾にセバスチャンを脅した。
セバスチャンは、シエルを守る為離婚したくないというアメリアの要求を呑んだ。
その所為なのか、セバスチャンが最近やつれているようにシエルには見えた。
「セバスチャン・・」
「すいません、考え事をしていました。」
「そうか。」
練習を終えたシエルが更衣室で着替えていると、ロッカーの中に置いてあったスマートフォンが鳴った。
「どうしたの、兄さん?」
『シエル、タナカさんが入院する事になったよ。』
「え?」
ジェイドによれば、タナカは持病の腰痛が悪化し、暫く入院する事になったという。
「わかった。」
シエルがスマートフォンをリュックのサイドポケットにしまっていると、更衣室にセバスチャンが入って来た。
「シエル・・」
「セバスチャン、どうした?」
セバスチャンはシエルを抱き締め、その唇を奪った。
「ん・・」
「シエル、愛しています。」
セバスチャンはそう言ってシエルの服を脱がそうとしたが、その前にシエルがセバスチャンの向う脛を蹴った。
「目を覚ませ!」
「申し訳ございません。」
「一体どういう事なんだ?」
「一時の気の迷いでした。」
シエルをファントムハイヴ家へと送り届ける車の中で、セバスチャンはそう言ってシエルに謝った。
「数日前、お前の妻が我が家に来た。あの動画について謝罪したいとの事だったが、あれは嘘だな。」
「彼女は、坊っちゃんの身体の秘密を知っています。もし離婚するつもりなら、坊っちゃんの身体の秘密を世間にバラすと・・」
「一体何故、彼女はお前と別れようとしないんだ?」
「彼女にとって、わたしは、“トロフィー・ハズバンド”―即ち、彼女が有名人であり続ける為のアイコン的存在なのですよ。」
「馬鹿らしい、お前は誰かの所有物ではない。僕はあんな女には屈しない。」
「・・それでこそ、わたしの坊っちゃんです。」
車を人気のない所に停めたセバスチャンは、そう言うとシエルの唇を塞いだ。
「おい、何をする?」
「更衣室での続きをするつもりです。嫌ですか?」
「嫌じゃ・・ない。」
シエルは、そう言った後頬を染めて俯いた。
「辛くないですか?」
「あぁ・・」
その日、シエルは初めてセバスチャンに抱かれた。
初めての時は痛いと噂には聞いていたが、そんなに痛くはなかった。
「さてと、今度こそ家まで送りますよ。それまで寝ていてください。」
「あぁ、わかった。」
セバスチャンに抱かれたが、彼との関係は終わらなかった。
むしろ、セバスチャンはシエルに対して厳しく接した。
「4回転サルコウ、完璧に跳ぶのはまだまだですね。」
「そうか?」
「それにしても坊っちゃん、昨夜はよく眠れましたか?目の下の隈が酷いですよ。」
「昨夜、ちょっと考え事があって一睡も出来なかったんだ。」
「そうですか。では少し、休憩しましょう。」
「わかった・・」
シエルはセバスチャンの膝の上に頭を預けると、そのまま眠った。
「お前、何をしているの?今すぐ僕のシエルから離れて。」
「そんなに大きな声を出さないで下さい、坊っちゃんが起きてしまいます。」
セバスチャンはそう言うと、自分を睨みつけているジェイドを見た。
「お前にシエルは渡さない。お前の所為で、シエルがあんな“最期”を迎えたのを、忘れたのか?」
「あぁ、そうでしたね・・」
セバスチャンはそう言うと、シエルの髪を梳いた。
「お前は、弟の魂を喰ったんだろう?それなのに何故、生まれ変わっても弟に執着する?」
「愛しているから、ですよ。」
「そう・・」
セバスチャンとジェイドとの間に、険悪な空気が流れたが、ジェイドは何も言わずにスケートリンクから出て行った。
「セバスチャン・・」
「お目覚めですか、坊っちゃん?」
帰りましょうか、とセバスチャンがシエルに尋ねると、シエルは静かに頷いた。
「では坊っちゃん、また明日。」
「あぁ。」
タウンハウスの前で軽くハグする二人の姿を、ジェイドは自室の窓から恨めしそうに見ていた。
「ただいま。」
「お帰り、シエル。」
シエルがタウンハウスの玄関ホールに入ると、ジェイドが仁王立ちしてシエルの帰りを待っていた。
「最近、あいつと仲が良いんだね?」
「うん、まぁ・・」
「ねぇシエル、あいつの事が好きなの?」
「兄さん?」
「僕よりもあいつの事が好きなの?」
「どうして、そんな事を聞くの?」
「お前を、誰にも渡したくないからだよ。」
ジェイドは、シエルを自室へと連れて行くと、シエルをベッドの上に押し倒した。
「嫌だっ、やめて!」
ジェイドは無理矢理シエルを抱いた。
「これで、お前は僕のものだ。」
セバスチャンに抱かれてから三ヶ月が経ち、シエルは謎の眠気と倦怠感に悩まされていた。
そして、臭いに敏感になり、今まで平気だった薔薇の匂いやガトーショコラなどのスイーツの匂いが苦手になり、その匂いを嗅いだ途端、激しい吐き気に襲われ、酷い時には立っていられない程の酷い眩暈に襲われてしまう事があった。
大会が近いから、ストレスの所為で自律神経が乱れているのだろうと思ったシエルは大学病院を受診したのだが、何故か消化器内科ではなく産婦人科を受診するように受付の事務員から言われ、シエルが産婦人科に向かうと、そこはピンクの花柄の壁紙に囲まれた、ファンシーな雰囲気が漂う空間だった。
「ヒッ、ヒッ、ヒッ、漸く会えたねぇ、伯爵。」
「お前は、アンダーテイカー!」
「さてと、診察するからそこの診察台に乗ってくれるかなぁ?」
「わ、わかった・・」
シエルが恐る恐る内診台に乗ると、アンダーテイカーはシエルの問診票を見ながら器用にシエルを診察した。
「伯爵、妊娠しているね。酷い眠気と倦怠感、吐き気や眩暈、貧血・・どれも妊娠初期の症状だね。悪阻が酷くなるようなら、入院して貰うよ。あと、スケートは当分禁止ね。あぁそうだ、君の執事君にここに来て貰っているからね。」
「そんな・・」
「隠せる事じゃないし、今後の事は良く話した方がいい。」
シエルが診察室から出ると、待合室には不安そうにこちらを見つめるセバスチャンの姿があった。
「坊ちゃん・・」
「今は、何も言うな。」
セバスチャンとシエルがファントムハイヴ伯爵家のタウンハウスへと向かうと、そこには怒り狂ったジェイドと、驚愕と怒りを綯い交ぜになった表情を浮かべるヴィンセントとレイチェルの姿があった。
「シエル、セバスチャン、わたしの部屋に来なさい。」
「はい・・」
ジェイドの殺意に満ちた視線を感じながら、セバスチャンはシエルと共にヴィンセントの書斎に入った。
「お父様・・」
「シエル、お前はどうしたい?」
「僕は、産みたいです。」
「そうか。ならアンジェリーナと、“彼”に頼りなさい。」
「あの、怒らないのですか?」
「怒るも何も、命を授かった事はめでたい事じゃないか。ただ、問題なのは、“あの”奥さんが君との離婚に応じてくれるのかどうかだね。」
ヴィンセントはそう言うと、シエルにハーブティーを勧めた。
紅茶の茶葉の匂いも苦手となったシエルだが、何故かそのハーブティーだけは飲めた。
「レイチェルがお前達を妊娠中に、良く飲んでいたんだ。ハーブティー専門店でわざわざ取り寄せただけあるな、ペパーミントの良い匂いがするなぁ。」
「あの、ヴィンセント様・・」
「そんなに堅苦しい呼び方は止めてくれないか?“お義父さん”と呼んでくれ。」
「は、はぁ・・」
「それにしても、若気の至りって凄いね。まさか、こんなに早く孫の顔が見られるなんて、思いもしなかったよ。」
ヴィンセントは笑いながらも、遠回しにセバスチャンに嫌味を言っていた。
「坊ちゃん、わたしはどうやら、お義父様に嫌われてしまったかもしれません。」
「お父様は、僕の事が大好きだから・・でも、問題はお父様よりもお兄様の方だ。」
シエルがそう言った時、ジェイドが自室から出て来た。
「シエル、驚いたよ。まさか僕が伯父さんになるなんて。」
「兄さん、怒っていないの?」
「怒っていないよ。でも、お前の事を認めた訳じゃないからね、セバスチャン。」
「末永く宜しくお願い致しますね、“お兄様”。」
「僕の弟はシエルだけだ。」
ジェイドとセバスチャンとの間に、静かな火花が散った。
「坊ちゃん、アフタヌーンティーの時間ですよ。」
「要らない。」
シエルは妊娠してから、一日中トイレに籠って吐いてばかりいた。
「少しはお食べになりませんと、お身体が・・」
「うるさい、僕に構うな!」
シエルは苛立ちの余り、セバスチャンに向かって枕を投げつけた。
「ではわたしは、これで失礼致します。」
「早く出て行け!」
セバスチャンがファントムハイヴ邸を出て自宅に戻ると、アメリアが自室から出て来た。
「あなた、お帰りなさい。」
彼女が珍しく上機嫌な様子なので、セバスチャンは嫌な予感がした。
それは、的中した。
「久し振りね、セバスチャン。」
「母上、お久し振りです。」
「今日は大事な話があって来たのよ。」
「大事な話?」
「えぇ。」
セバスチャンの母・エリーは、一枚の書類をセバスチャンに見せた。
「あなた、アメリアと離婚するそうね?その理由は、ファントムハイヴ家の子と関係があるの?」
「母上、わたしはアメリアと離婚します。」
「どうして?わたしはあなたを・・」
「愛している、とでも言いたいのですか?」
セバスチャンが冷やかな瞳でアメリアを睨むと、アメリアは俯いた。
「母上、わたしとシエルは・・」
「あなたがそう言うのなら、仕方無いわね。」
「お義母様!?」
「ありがとうございます。」
「わたしは認めないわ!」
アメリアはそう叫ぶと、セバスチャンを睨みつけた。
「あの子がどうなってもいいの!?」
「坊ちゃんから、あなたへの伝言です。“身の程を弁えろ”とね。」
アメリアは無言で自室に入って荷物を纏めると、ミカエリス邸から出て行った。
数日後、セバスチャンとアメリアの離婚が成立した。
「伯爵、かなり痩せたね。酷い顔をしているよ。」
「うるさい、黙れ。」
アンダーテイカーはシエルを診察した後、お腹の赤ん坊が双子である事をシエルに告げた。
「暫く入院して貰うよ。」
「わかった。」
「産むのも育てるのも、大変だからね。」
「スケートは、出来るのか?」
「周りの協力が不可欠だね。まぁ、今度は赤ちゃん達の事だけを考えて。」
「わかった・・」
半年後、シエルは帝王切開で双子を出産した。
「可愛い~!」
「寝ている時だけは可愛いぞ。」
見舞いに来たエリザベスにそう言いながら、シエルはベビーベッドの中で眠っている双子を見た。
男女の双子―セバスチャンに似た女児と、自分に似た男児は、産声を上げた瞬間から、良く泣いた。
手術後の痛みに耐えながら、シエルは双子に授乳したり、おむつ替えをしていたりしたが、一日が終わる頃にはクタクタになっていた。
こんな調子でスケートに復帰出来るのだろうか―そんな事を思いながら、シエルは双子の育児に奮闘していた。
そんな中、シエルはある悩みを抱えていた。
それは、ブラジャーがすぐにきつくなってしまう事だった。
初潮を迎えた頃は平らだった胸が、出産後急に大きくなった。
(どうしようか・・)
「坊ちゃん、入りますよ?」
「入れ。」
「失礼致します。」
セバスチャンがシエルの病室に入ると、シエルは何やらスケッチブックの上にデザイン画らしきものを描いていた。
「それは、何ですか?見たところ、下着のようですが・・」
「これは、授乳ブラだ。胸が急に大きくなって、今までつけていた物が合わなくなった。ニナに頼んで作って貰うのもいいが・・」
「やはり、そういった物は自分で拘って作りたいと・・」
セバスチャンがそんな事を言いながらシエルに微笑んでいると、双子が急に泣き出した。
「育児にスケートに仕事・・色々やる事が沢山あるな。」
「ええ。」
セバスチャンはそう言ってシエルに男児―アトラスをあやしながら、妻と子供達は自分の命を代えても守ろうと思った。
「ノエル、アトラス、三歳の誕生日おめでとう!」
「おめでとう!」
シエルとセバスチャンの間に生まれた双子、ノエルとアトラスの誕生パーティーはファントムハイヴ家で盛大に行われた。
「ヒッ、ヒッ、可愛い子ちゃん達、小生にとびっきりのハグをおくれよ~」
アンダーテイカーがそう言って両手を広げると、ノエルとアトラスは躊躇いなく彼の胸の中に飛び込んだ。
「今日は来てくれてありがとう、アンダーテイカー。」
「元気そうで良かったよ、伯爵。」
アンダーテイカーは、ミッドナイトブルーのドレスを着たシエルを見てそう言うと笑った。
「それにしても凄いねぇ。この三年の間にファントムハイヴ社の新事業を立ち上げて大きく展開させるだけではなく、スケートに復帰するなんてさぁ。やっぱり、執事君のお陰かなぁ。」
アンダーテイカーはそう言うと、客達と談笑しているセバスチャンを見た。
「今も昔も、彼の君への献身ぶりは変わらないねぇ。そういや、双子の片割れはどうしたんだい?」
「兄さんなら、リジーと・・」
「テイカー、久し振りだな。」
「そんな怖い顔をしないでおくれよ。」
「少しお前と話したい事がある、いいか?」
「小生は構わないさ。」
「兄さ・・」
「シエル、そのドレス良く似合っているわ。」
「そうか?」
「昔のシエルも可愛かったけれど、今のシエルの方がもっと可愛い~!」
エリザベスはそう叫ぶと、シエルに抱き着いた。
「おやおや、相変わらず仲のいい事で。」
二人の元に、いつの間にかセバスチャンが来ていた。
「セバスチャン、シエルのドレスはあなたが選んだの?」
「えぇ。」
「双子ちゃん達の服も?」
「あの子達の服は、シエルが選んでいるんですよ。」
「二人共幸せそうで良かったわ。」
三人で談笑している姿を、遠くからある男が見ていた。
「ケルヴィン男爵、こちらにいらしていたのですか?」
「ファントムハイヴ伯爵、本日はお招き頂きありがとうございます。」
(あぁ、何て美しい人達なんだ。)
ヴィンセント達が纏う、“美”に、いつしかケルヴィン男爵は魅せられてしまった。
(決して掴む事が出来ない美しい蒼い月・・お願いだよ、僕もその仲間に入れておくれ。)
双子達を乳母に預け、スケートリンクへと向かったシエルは、背後に強烈な視線を感じて振り向いたが、そこには誰も居なかった。
(気の所為か・・)
シエルが再び歩き出すのを、茂みの中からケルヴィン男爵が見ていた。
「何を見ていらっしゃるのですか?」
「ひぃっ!」