「薄桜鬼」の二次創作小説です。
制作会社様とは関係ありません。
二次創作・BLが嫌いな方はご遠慮ください。
朝日が、小さな町を照らした。
「桜、何処に行くの?」
「この前読んだ本を返しに行くの。」
「そう、気を付けて行くのよ。」
「はぁい!」
薄紅色のチマを翻しながら、一人の少女が小さくても清潔な家から出て行った。
「桜ちゃん、おはよう。」
「おはようございます。」
「今日もあそこへ行くのかい?」
「えぇ。」
朝を告げる鐘の音が鳴り、町の人々がいつも通りの生活を始めた。
「ほら、見てごらん。」
「あぁ、土方さんの所の?あの子、また本ばかり読んでいるよ。」
「全く、美人だっていうのに、勿体無いねぇ。」
町の女達はそんな事を言いながら、野菜や魚を売っていた。
土方桜はそんな彼らの声など無視して、お気に入りの場所―町で唯一の図書館へと向かった。
「おやおや、また来たのかい。」
「えぇ。」
「ほら、この本、あんたが前に読みたがっていたものだよ。」
「わぁ、ありがとう!」
「気を付けて帰りな。」
桜が図書館から出て家路を急いでいると、彼女は一人の男とぶつかった。
「ごめんなさい・・」
「桜、怪我はねぇか?」
「お父様、珍しいわね、こんなに朝早くからお出かけになられるなんて。」
「あぁ。今日は都まで行かなければならなくてな。暫く留守にするから、母様の事を頼むぞ。」
桜の父・歳三は、そう言うと大きな手で一人娘の頭を撫でた。
歳三は、娘の桜から見ても美しく凛とした人だと思う。
桜の両親―土方歳三とその妻・千鶴は、小さな工房で髪飾りや韓服を作っており、彼らが作る物は、地元の両班の娘達や妻達だけではなく、妓生達からもその美しさや繊細な刺繍や細工に人気が出て、“この町に住む女人の髪と肌を飾るのは土方繡房しかいない”と言われる程である。
「お母様、ただいま帰りました。」
「お帰りなさい。」
桜が帰宅すると、最近床に臥せりがちであった母・千鶴が、珍しく針仕事をしていた。
「お母様。何を縫っていらっしゃるの?」
桜がそう言って母の手元を見ると、彼女は産着を縫っていた。
「まぁ・・」
「ふふ、父様にはまだ内緒ですよ。」
「わたし、これから母様の事をお手伝い致しますわ。」
「ありがとう。あなたもこれから針仕事を覚えなくてはね。」
「はい!」
母子がそんな事を話していると、町で食堂を営んでいる田中夫妻が何やら慌てた様子でやって来た。
「千鶴ちゃん、大変だよ!」
「何かあったのですか?」
「王様が、お倒れになられたんだって!」
「それじゃぁ、この国はどうなるのです?」
「何て事だろうねぇ、王様の快復を天に祈るしかないよ。」
「そうですね・・」
千鶴は、都がある方角に向かって、王の快復を祈った。
一方、都では歳三が注文された品物を宮中に納めに行っていた。
「大妃媽媽、土方様がお見えになられました。」
「そうか、わたしの部屋へ通すが良い。」
インス大妃がそう女官に命じた時、東宮殿から甲高い女の悲鳴が聞こえた。
「もう良い、下がれ。」
「はい。」
「大妃様、本日はわざわざお招き頂き、ありがとうございます。」
「おもてを上げよ。」
「はい。」
歳三がそう言って俯いていた顔を上げると、そこにはこの国の最高権力者の姿があった。
「そなたが作った髪飾りや韓服は、都中の女達の憧れの的だ。成程、そなたのような美しい男があのような物を針一本で縫い上げておるのか・・」
「もったいなきお言葉にございます、大妃様。」
「その謙虚な心を、半分でもあの子が持ち合わせておれば良かったものを。」
「あの子、と申しますと?」
「王様が病に倒れた事は、そなたも知っておろう。」
「はい。」
「王様がこのまま亡くなれば、次の王はあの世子(王位継承者)となる。あの者は、王の器にふさわしくない。わたしは前世で一体どのような大罪を犯したのだろうな。そなたのような聡明な男が、王室に一人でも居てくれれば良かったものを・・」
「大妃様・・」
「大妃様、王様がお亡くなりになられました!」
「何と・・」
「大妃様、お気を確かに!」
民達の祈りも虚しく、善政を敷いていた太陽のような王は、その日の夜に鬼籍に入ってしまった。
「あぁ、何て事だ・・」
「嫌な臭いを風が運んで来たねぇ。」
王が亡くなり、歳三達民は喪に服す事になった。
「ねぇ、聞いたかい?王様は、毒殺されたんだってさ。」
「王様が?」
「何でも、王妃様の兄君の親戚筋の男が・・」
都から、大妃から渡された大量の本を携えて歳三が帰宅すると、家の中から妻と娘の楽しそうな笑い声が聞こえた。
「二人共、帰ったぞ。」
「歳三様、お帰りなさいませ。」
「随分と楽しそうな笑い声が聞こえていたが、何かあったのか?」
「桜が、産着を縫うのを手伝ってくれたのです。」
「産着って・・」
「えぇ・・来年の春頃には、生まれます。」
「そうか。」
歳三は、そう言うと千鶴のまだ膨らんでいない下腹を擦った。
「元気な子を産めよ。」
「はい・・」
土方家のささやかでありながら穏やかで幸せな日々は、疫病の発生によって奪われた。
疫病に罹った者は、皆高熱を出し、最後は呼吸困難となって死んでしまう。
「あぁ、恐ろしい。」
「王様が罹られたのと同じ病だ・・」
市場で人々がそんな話をしているのを歳三は聞きながら、店番をしていた。
だが、いつもは沢山の客でひしめき合っていた店内は静まり返り、閑古鳥が鳴いていた。
(今日は早めに店じまいするか。)
歳三が店頭に並べていた髪飾りを片付けていると、そこへこの町で一番大きい妓楼「夢楼」の楼主・ユニョンがやって来た。
「あら、もう店じまいですか?」
「客が来ねぇのにこれ以上店を開けても無駄だろう。」
「開店休業状態は何処も同じですわ。うちの妓楼も、王様がお亡くなりになられただけでも売り上げが落ちてしまって、その上疫病騒ぎの所為でもう・・」
「父様、もうお仕事終わりなのですか?」
「桜、どうした?」
「塾が早く終わったので、父様と一緒に帰ろうと思って来たのです。」
「そうか。」
桜はその聡明さが認められ、男子しか通えぬ塾に特例で入学を許された。
「父様、この前は沢山の本を有り難うございました。」
「大妃様が、お前が本を好きだと知って、お前が好きそうな本を選んで下さったんだ。」
「そうなのですか。いつか大妃様にお会いして、本のお礼をしたいです。」
「桜、この前の試験、満点だったそうじゃないか、凄いな。」
歳三はそう言うと、娘の頭を優しく撫でた。
まだこの時は、疫病は自分達にとって遠い国で起きた事だとしか歳三達は捉えていなかった。
「おい、止まれ!」
桜がいつものように塾に入ろうとすると、彼女に意地悪をしている両班の子息達が門の前に立っていた。
「何か用?」
「お前、女の癖に生意気なんだ!」
「お父様が道知事だからって、偉そうにしないでよ。『論語』のひとつも覚えられない癖に。」
「何だと!?」
図星をつかれて激昂した少年は、そう言うと桜を突き飛ばしていた。
「あんた達、何をしているの!?」
桜が路上に蹲って痛みに呻いていると、彼女と親しい「夢楼」の童妓見習い・モランがそう叫んで桶の中身を彼らにぶち撒けた。
「あんたらなんか、犬の糞以下よ!」
少年達の家族が土方家に怒鳴り込んで来たのは、それからすぐの事だった。
「全く、あなた方は一体どんな躾をされているのかしら!?」
「申し訳ございません・・」
「大体、女に学問なんて必要ないのよ!」
少年達の母親は、言いたい事だけ言うと、去って行った。
「母様、ごめんなさい・・」
「あなたは何も悪くないわ。」
「桜、部屋で休め。」
「はい・・」
桜が部屋に入った後、歳三は千鶴と今後の事を話し合った。
「あいつは、学問が出来るし、こんな田舎でくすぶるような女じゃねぇ。俺はあいつに、もっと広い世界を見せてやりてぇ。」
「わたしも同じ気持ちです。でも、疫病が治まらない限り、これからどうなるのか・・」
「あぁ、そうだな・・」
歳三がそう言った時、奥の方から大きな物音が聞こえた。
「桜?」
歳三が恐る恐る桜の部屋の扉を開けると、彼女は苦しそうに喘いでいた。
「そんな、まさか・・」
彼女の額が燃えるように熱い事に気づいた彼は、ついに恐れていた事が起きたと思った。
「先生、何とかなりませんか?」
「都では薬が出ておりますが、高価なので民の間では流通していません。」
「それじゃぁ、このまま娘が苦しんで死ぬのを黙って見て居ろっていうのか!?」
「歳三さん、落ち着いて下さい!」
歳三が医師に掴みかかろうとするのを千鶴が慌てて止めていると、突然扉が何者かによって乱暴に叩かれた。
「何ですか、あなた達!?」
「王様が、朝鮮中の女は全員宮中に上がれというお触れが出た!この町の女達は辰の刻(午前六時頃)に道知事様の屋敷に集まるように、以上!」
「疫病で今国が大変だっていうのに、王様は一体何を考えていやがる!?」
「どうしましょう、この子を置いては行けません・・ですが、宮中に上がれば薬代が・・」
「俺が行く。」
「歳三さん?」
「要するに、女だと見られればいいんだろう?」
「ですが・・」
「俺ぁ身重の女房の命を危険に晒す程、落ちぶれちゃいねぇよ。大丈夫だ、必ず帰って来るから、待っていろ。」
「はい・・」
その日の夜、歳三はいつも背中で一纏めにしている髪を編み込みにし、それに紅い髪飾り(テンギ)を結んだ。
「父様?」
桜は生まれて初めて見る父の女装姿の余りの美しさに、一瞬見惚れてしまった。
「父様、どうして・・」
父が、商売道具である韓服や髪飾りを身に着ける事は今まで一度もなかった。
それなのに、今目の前に居る父は、美しく着飾り、化粧までしている。
「桜、父様はこれから、母様の代わりに王宮へ上がる事になった。」
「新しい王様はとても乱暴な人だって、ユニョンさんが言っていたわ。お酒の注ぎ方が違っていたり、悪かったりするだけで女官が殺されたって・・」
「桜、大丈夫だ。俺は死なねぇ。だから、母様と産まれてくる弟妹達、そしてお前を守る為に必ず帰って来るから、待っていろ。」
「わかったわ・・」
「俺の代わりに、持っていてくれ。」
そう言って歳三は、自分が愛用していた裁縫箱を桜に手渡した。
「行ってらっしゃい、父様。」
「あぁ、行って来る。」
夜明け前、歳三は眠っている千鶴の枕元に一通の手紙を置いた。
「必ず、俺はここに帰って来る。」
歳三は、妻の髪を優しく梳くと、涙を堪えながら家を出た。
朝日が町を照らす頃、道知事の屋敷には町中の女が集められていた。
「一体、王様は何を考えているのやら・・」
「子供達はまだ小さいのよ、あの子達を残して行けないわ!」
「まだ両親に孝行していないわ!年老いた二人を残して行けない!」
女達は口々にそう叫ぶと、涙を流した。
「皆、揃ったな?それでは、出立!」
道知事の屋敷を出た女達は、皆俯きながら船が停まっている港まで歩いた。
「母ちゃ~ん!」
「ヨンス~!」
「歳三さ~ん!」
女達が船に乗ろうとした時、彼女達の家族が港へと駆けて来た。
「あんた達、良い子にするのよ。」
「父さん、母さん、身体に気を付けてね・・」
「千鶴、無理をするなよ。腹の子と、桜の事を頼む。」
「はい・・」
こうして歳三は、家族と故郷に別れを告げた。
一方王宮では、王となった世子・チョンスが、また女官に折檻をしていた。
「殿下、おやめ下さい!」
「えぇい、離せ!」
「あと何人女官を殺せば気が済むのですか、殿下!?」
そう言って内侍・ヨンスが女官をチョンスから引き離したが、彼女はすでにこと切れていた。
「これで五人目か・・」
歳三達を乗せた船は、都に着くまで幾つもの港に停泊しては、女達を乗せた。
彼女達は港で家族と涙を流しながら別れを惜しんだ。
「坊や、坊や!」
「ユジン、心配するな!息子は俺がちゃんと育ててやるから!」
泣きじゃくる赤子を抱いた若い夫が、そう叫んで妻を見送った。
女達とその家族の涙を乗せ、船が漸く港へと着いたのは、歳三が故郷を出て三日経った頃だった。
これまで陸路で五日かけて都まで向かっていた歳三は、水路だとこんなに早く着くのかと驚いてしまった。
途中で嵐に遭い、船酔いに苦しめられ、居の腑の中の物を空にした、快適とは程遠い船旅であったが、山賊や猪、熊などに遭ってしまう陸路よりいい。
歳三が蒼褪めた顔で周囲を見渡すと、皆自分と同じような顔をしていた。
「さぁ、もうじき都だ、それまで頑張れ!」
船が港に着くと、それまで船底の隅に固まり己の不幸を嘆いていた女達は、我先にと空気を吸いに甲板へと向かった。
「ここが、都か・・」
港から一望できる都の光景は、峠を越えた先に見るそれとは全く違った。
船から降りた女達は、それぞれの故郷の役人達によって、滞在先である妓楼へと案内された。
長旅の疲れを癒す間もなく、歳三達はある両班の接待へと駆り出された。
それまで商人の妻や主婦として生きていた彼女達に、妓生の真似事など出来る筈もなく、両班は彼女達の酒の注ぎ方が悪いと始終不機嫌だった。
「もう良い、酒は飽きた!今宵の伽の女をここからわしが選んでやろう!」
彼はそう言うと、震えている女達の中から、一番若い娘の腕を掴んだ。
「どうか、ご勘弁ください!」
「えぇい、このわしに選ばれた事を光栄に思わぬか!」
「嫌ぁ、父さん、父さん!」
涙を流しながら抵抗する娘を見た歳三は堪らず二人の間に割って入った。
「旦那様、夜伽の相手ならわたくしが致しますので、どうぞこの娘をお許し下さい。」
「ほ、ほぅ・・」
両班はそう言うと、娘の腕を放した。
「ありがとうございます!」
「後は俺が何とかするから、お前ぇは向こうに行って休んでいろ。」
「は、はい・・」
娘を先に部屋へと帰らせた後歳三が両班の部屋に行くと、彼は歳三の姿を見るなり抱きついてきた。
歳三は両班の首を軽く絞めて気絶させた後、部屋から出た。
一夜明け、歳三はいつものように朝早く起きて妓楼の厨房へと向かった。
そこには、自分と同郷の者達が、忙しく働いていた。
「あら、あんたも来たのかい?」
「えぇ、じっとしていると嫌な事ばかり考えてしまいますから。」
「そうだね。」
歳三は女達と共に朝食を作り、それを皆で囲んで食べた。
「こうしていると、うちの人がちゃんとご飯食べているのか気になるわぁ。」
「わたしもよ。お務めを終えて帰ったら家がなくなっているんじゃないかって心配で・・」
そんな他愛のない話をしながら、歳三は故郷に残していった妻と娘の事を想った。
「皆、揃ったな?」
役人は歳三達を王宮へと連れて行った。
前王存命中は美しく清澄な空気に満ちていたが、今は暗く淀んだものへと変わっていた。
「王様のお成り~!」
歳三達が一斉にひれ伏すと、真紅の龍袍を纏った青年が現れた。
(あれが、世子様・・)
インス大妃が、“王の器にはふさわしくない”と称した青年の顔を、歳三はちらりと見た。
噂を聞いてどんな悪党顔をしているのかと思っていたが、精悍な顔立ちをしていた。
だが、その瞳は虚ろで、蛇を思わせるかのように冷たい。
(余り目をつけられぬようにしねぇとな。)
歳三はそう思いながら、チョンス王が去っていくのを見送った。
「そなた、名を何と申す?」
突然頭上から声を掛けられ、歳三が俯いていた顔を上げると、そこにはチョンス王の姿があった。
「蘭(ナン)と申します。」
「そなた、何か余に言いたい事があるようだな?」
「では、申し上げます。今この王宮に集まっている女達は、皆故郷に夫や子、父母を残した妻や母、娘達なのです。どうか、彼女達を一刻も早く故郷にお帰し頂きますよう・・」
「貴様、余に刃向かうのか!」
歳三の言葉に激昂したチョンス王は、そう叫ぶと彼に刃を向けた。
「この場でわたくしを斬り伏せ、わたくしの屍を越えて女達が故郷に戻れるのならば、本望でございます。」
歳三はそう言葉を切ると、目を閉じて死の瞬間を待った。
だが、チョンス王は癇癪を起こし、剣を投げ捨てて何処かへ行ってしまった。
「何、それは本当か!?」
「はい、あの方の忘れ形見である女が現れました・・」
「桜、薪割りをしていたの?」
「えぇ。」
「怪我でもしたらどうするの?」
「父様はいないし、母様はお腹が大きいから家の事はわたしがやらないと。」
「そうだけど、勉強はどうするの?」
「女は学問が出来ても、科挙は受けられない。だから・・」
「自分で自分の才能を潰しては駄目。塾に行きながらでも、家事は出来るわ。」
「わかったわ。」
歳三が宮中へ上がってから半年が過ぎようとしていた。
彼らの文は月に数通程度来ており、その内容は自分達家族を案ずる内容ばかりだった。
『桜、お前には自分の才能を諦めないでほしい。』
桜は、家事をこなしながら塾通いを続けた。
あれ程彼女を苦しめていた疫病は、都で流通していた薬が地方にも流通するようになり、その薬を飲んだので治った。
「桜、元気になったんだな。」
「まぁね。どうしたのヤンジュン、家で何かあったの?」
「うん・・父ちゃんが、母ちゃんの代わりに家の事をやっているけど、家の中は滅茶苦茶だし、もう三日も何も食べていないんだ。」
「だったらうちに来れば?」
「いいのか!?」
「困った時はお互い様、でしょ?」
「ありがとう!」
朝鮮中の女が宮中に召し上げられてからというものの、家事を全て取り仕切っていた彼女達に代わって、夫達がそれをする事になったが、上手くいかなかった。
「新しい王様がやる事は滅茶苦茶だよ。母ちゃんに早く戻って来て欲しいよ。」
ヤンジュンは三日振りの飯を掻き込むようにして食べた後、そう言って溜息を吐いた。
「わたしも、父様に早く戻って来て欲しい。」
「なぁ、もうすぐ赤ん坊が産まれるんだろう?どうするんだ?」
「産婆さんが来てくれるから大丈夫よ。」
「そうか。」
そんな事を桜とヤンジュンが話していると、勝手場の方から千鶴の呻き声が聞えて来た。
「ヤンジュン、産婆さんを呼んできて!」
「わかったよ!」
千鶴が男の子を産んだのは、その日の夜の事だった。
「これからは、わたし達が力になるからね。」
「ありがとう、ございます・・」
桜からの文で息子の誕生を知った歳三は、安堵の表情を浮かべた。
「何か、良い事でもあったのですか?」
「あぁ。娘から文が来て、息子が昨夜生まれたと・・」
「それは喜ばしい事ですね。」
「今からでも、家に帰りたい。」
「そう思っていらっしゃるのは、あなただけではありません。」
ユニョクはそう言ってニンニクの皮を剥きながら溜息を吐いた。
その隣で歳三は、包丁で魚を上手に捌いていた。
宮中で歳三達は、水刺間に配属され、皆緋色のチョゴリ(上着)に、濃紺のチマ(スカート)という揃いの韓服を着ていた。
「まさか、土方様が台所仕事も出来るとは、惚れ直しましたわ。」
「娘を身籠った時、嫁が床に臥せりましてね、その時に家事がいかに大変なのかを思い知らされましたよ。」
「それにしても、王様はいつわたし達を家へ戻して下さるのでしょう?」
「さぁ・・」
「蘭、大妃様がお呼びよ。」
「わかりました、すぐに参ります。ではユニョクさん、後で。」
「えぇ・・」
歳三がインス大妃の元へと向かうと、彼女の部屋の中から彼女が誰かと口論している声がした。
「もう一刻の猶予もありませぬ!早く兵を動かさねば・・」
「時期尚早過ぎると申しているであろう!」
「ですが・・」
「くどい!」
歳三が聞き耳を立てていると、中から青い官服を着た男が部屋の中から出て来た。
「そんな・・まさか・・」
男はそう言って歳三を見た後、慌てて去っていった。
「大妃様、蘭です。」
「入れ。」
「失礼致します。」
歳三が部屋に入ると、インス大妃は溜息を吐きながら頭を掻いていた。
「先程の方は、どなたです?」
「あれは、王妃の親戚・・義弟にあたるユン=オギョエだ。それにしても、良く化けたものだな?」
「いつから、気づいておりました?」
「お前が王様に刃を向けられた時からだ。そなたの凛とした強さは、母親譲りなのだな。」
「大妃様、わたくしの母をご存知で?」
「あぁ。そなたの母は、今の王様のご生母・ユラ氏の妹君である、モラン様だ。」
「何かの間違いではありませぬか?わたしの母は、五つの時に亡くなったと、祖母から聞きましたが・・」
「それは、育ての母であろう。そなたは産まれてすぐに刺客から命を狙われ、モラン様の乳母が、そなたを育てたのだ。」
「そのような事、母から一度も聞いておりませぬ。」
「ユラ氏とユン氏は、今の王様の地位を脅かす者には容赦せぬ。そういえば、モラン様が生前愛用されていた裁縫箱があったな。」
「どのような物でしたか?」
「美しい螺鈿細工が施された物だ。」
「それならば、娘に渡しました。」
「そうか。土方よ、決してユラ氏にはそなたがモラン様の遺児だという事は気取られてはならぬぞ。」
「はい、大妃様。」
「よい、下がれ。」
思わぬ時に己の出生の秘密を知ってしまった歳三は、インス大妃の部屋から出た瞬間、深い溜息を吐いた。
(とんでもねぇ所に来ちまったな・・)
これからは、余り目立つような事はせずに、黙々と仕事をしなければー歳三がそう思った矢先、事件が起きた。
「大変よ、繍房の女官が連れて行かれたわ!」
「何ですって!?」
「何でも、王様の夜着に毒針を仕込んだとか・・」
「そんな・・」
長年針仕事を生業にしてきた歳三にとって、それは俄かに信じ難い話だった。
己の命同然である道具を、殺人に使うなんて。
「宮中は伏魔殿です。このような事は、“良くある事”ですよ。」
「そうなのか?」
「わたし達も、気を付けなければ・・」
「そうだな・・」
捕盗庁に連行されたその女官は、その日の内に拷問で死んだと聞き、歳三は戦いた。
そんな中、前王の喪明けを祝う宴が宮中で開かれた。
「あ~、忙しい!」
歳三がそんな事をつぶやきながら包丁で野菜を刻んでいると、そこへ内侍府長官・チェ氏がやって来た。
「そなたが、蘭だな?王様がお呼びだ、来い!」
「は!?」
突然チェ氏に歳三が連れられた所は、妓生達の支度部屋だった。
「早く準備をせよ!」
(一体何だってんだ!?)
水刺間で宴の準備をしていた歳三は、突然チェ氏に妓生の支度部屋へと連れて行かれ、そのまま急いで支度を済ませた。
「こちらです、どうぞ。」
「一体何が起きていやがる!?」
「申し訳ありません、他の妓生達が・・」
「とりあえず案内しろ、王様の元へ!」
「は、はい・・」
チマの裾を軽く払いながら、歳三は女官と共に王の私室へと向かった。
「王様、蘭が参りました。」
「入れ。」
チョンス王は、傍らに数人の妓生達を侍らせ、酒を飲んでいた。
「王様、わたくしに何のご用でしょうか?」
「蘭、そなた今度の騒ぎをどう思う?」
「どう、とは?」
「あの女官・・余の服に毒針を仕込んだ女は、余を殺そうとしたのか?」
「さぁ、わたしにはわかりかねます。」
「何ぃ!?」
「人の心などわからぬもの。」
歳三がそう言ってチョンス王を見ると、彼は乾いた声で笑った。
「面白い、気に入ったぞ。」
「王様?」
「そなたの望みを言うてみよ。何でも叶えてやろうぞ。」
「では、ひとつだけ・・」
「桜、お帰りなさい。」
「母様、誠は?」
「漸く寝てくれたわ。」
そう言った千鶴の両目の下には、黒い隈が出来ていた。
弟・誠は癇が強い子で、夜は母と交代して泣き止ませようとしても、一晩中泣き叫ぶ。
その所為で、千鶴と桜は寝不足に悩まされていた。
「歳三さんが居てくれたらいいのに・・」
「父様に会いたいの、母様?」
「えぇ。」
「わたしもよ・・母様、父様に会いたい。」
桜がそう言って空に浮かぶ月を眺めていると、何処からか父の声が聞こえたような気がした。
父に会いたい余りに、父の声が聞こえてしまったのだろうか―桜がそんな事を思いながら戸口の方を見ると、そこには王宮に居る筈の父の姿があった。
「父様、本当に父様なの?」
「あぁ・・ただいま。」
「お帰りなさい、父様。」
桜はそう言うと、歳三に抱き着いた。
「歳三さん・・」
「ただいま、千鶴。長い間留守にして済まなかった。」
「お帰りなさい・・」
歳三は、妻と娘を優しく抱き締めた。
「王様、失礼致します。」
「スヒョンか。」
王の寝室に入って来たのは、彼のお気に入りの妓生・スヒョンだった。
彼女は妖艶な笑みを浮かべ、王にしなだれかかった。
「あの者を、王宮に出しても良いのですか?」
「あぁ。あやつはここで起きた事を決して口外せぬと誓ったから、大丈夫だ。」
「まぁ、そうですか。それならば、安心ですわね。それよりも王様、あの裁縫箱は見つかりましたか?」
「いいや。叔母上はあの裁縫箱を生前大事にされていた。今度人を集め、王宮中の土を掘り起こさねば・・」
「そのような手間のかかる事をなさらなくとも、王宮以外の場所を探せば良いのです。」
「王宮以外の場所、だと?」
「人は本当に大切な物ほど、特別な場所に隠しておくものですわ。」
「大切な場所、か・・」
「王様、何処にいらっしゃるのです、王様!」
バタバタと慌しい足音が聞こえたかと思うと、ユラ氏が部屋に入って来た。
「母上、どうなさったのです?」
「大変です・・あの裁縫箱が見つかりましたよ!」
「何ですって!一体何処にあるのですか!?」
「それは・・」
王妃は、息子の耳元で裁縫箱のありかを教えた。
「まぁ、誠は歳三さんに抱かれると大人しくなるのですね。」
「そうか?」
「やっぱり、父様の方がわたし達より寝かしつけが上手いわ。」
「まぁ、色々コツがあってだな・・」
「そうなのですか。」
「二人共、誠は俺が見とくから寝ていろ。」
「わかりました。」
「お休みなさい、父様。」
「あぁ、お休み。」
歳三が息子を寝かしつけ、彼と添い寝していると、何かが自分に近づいて来る気配がした。
(何者だ?)
歳三は、枕の下から護身用の簪を取り出すと、息を殺しながら扉の前に立った。
暫くすると、黒い影がまるで幽鬼のように扉の前に浮かび上がった。
歳三は、扉を開けると黒衣の男の首をへし折った。
「歳三さん、どうかなさいましたか?」
「いや、何でもねぇ。」
歳三は黒衣の男の遺体を荷車で運び、それを近くの海へと投げ捨てた。
「王様、悪いお知らせでございます。あの男の元へ放った刺客が、殺されました。」
「何!?」
(あの男、一体何者なのだ・・)
―良いですか、この裁縫箱のそこに隠してある物を、決して渡してはいけませんよ。
育ての母・エスクが歳三にそう言いながら、裁縫箱の底に隠してある、“ある物”を見せた。
それは、美しい翡翠の簪だった。
―これは、あなたのお母上の形見なのですよ。
“どうして、俺の母様はエスクではないのか?”
―いつか、わかる日が来ますよ。
そこで、歳三は夢から覚めた。
(何で、あんな不思議な夢を・・)
「父様、どうしたの?」
「嫌、何でもない。それよりも桜、随分と刺繍が上手くなったな?」
「そう?だって繍房を手伝うには、針仕事が出来ないと駄目でしょ?」
「そうだな。なぁ桜、あの裁縫箱は何処にある?」
「あぁ、あれは父様の部屋にあるわ。」
「そうか。」
「何故、そんな事を聞くの?」
「少し、確めたい事があるんだ。」
歳三は家を出て、久しぶりに店を開けた。
「あらぁ、久しぶりにお店、開いたのねぇ。」
「助かったわぁ。」
「婚礼用の簪、あるかしら?」
「この前あそこに置いてあった簪、あるかしら?」
店を開けた途端、女性達が口々にそんな事を言いながら店に入って来た。
「皆さん、都に居る筈では?」
「いいえ。わたし達はお役御免になったのよ。」
「お役御免に?」
「えぇ。何でも王様の余りの横暴ぶりに、大妃様が苦言を呈されたそうよ。」
「そうですか・・」
一体何がどうなっているのかはわからないが、何はともあれ女達が故郷に戻れてよかったと、歳三は思った。
帰宅し、彼が早速自室の机の上に置かれている裁縫箱の底から、翡翠の簪を取り出した。
翡翠の簪の先についている金剛石の飾りに、かすかに血のような汚れが残っている事に歳三は気づいた。
「ヤンジ、居るか?」
「へぇ、何のご用で?」
「これと同じものを、作ってくれねぇか?代金は幾らでも弾む。」
「わかりました。」
数日後、歳三が店番をしていると、そこへ一人の女がやって来た。
「そなたに話がある、ついて参れ。」
「わかりました。」
歳三が女に連れて行かれたのは、町外れにある民家だった。
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