「火宵の月」の二次創作小説です。
作者様・出版社様・制作会社様とは一切関係ありません。
「そなたが、土御門有匡か。」
仕事を終わらせ、後宮にいる火月の元を訪ねようとした有匡は、雄仁の部下に呼ばれ、彼の部屋を訪れた。
「はい、雄仁様。」
「面を上げよ。」
有匡が顔を上げると、そこには凛々しくも雅な雰囲気を纏った青年の姿があった。
「女と見紛うごとき美貌じゃ。執権がお前を離さぬのは解る気がするのう。」
「戯言をおっしゃいますな。それで、ご用件は?」
「用は、東宮を失脚させてはくれぬか?」
「東宮様を・・ですか?」
「そうじゃ。生母の身分が高い故、あやつは無能な癖に東宮の地位を与えられておる。乳兄弟の光成が居らねば着替えも満足に出来ぬ奴が東宮など、笑止!」
雄仁はそう言うと、扇子を閉じた。
「恐れながら雄仁様、わたくしは東宮様たっての願いによりこの宮中に戻りました次第でございます。」
「ふん、そなたは奴の味方をするのか。まぁよいであろう。いずれは痛い目を見るであろうの。もうよい、下がれ。」
「は・・」
雄仁の元から下がった有匡は、溜息を吐いた。
どうやら自分が思っていた以上に、宮中では東宮派と雄仁派と二つの派閥に別れて、生き馬の目を抜く闘争が繰り広げられているようだ。
政の世界でも凄まじいのだから、後宮ではさぞや弘徽殿女御が幅を利かせているのだろう。
そう思うと有匡は火月の事が心配になり、後宮へと向かう足が自然と急ぎ足になった。
「火月様、東宮様から文が。」
「東宮様から?」
火月が自室で子ども達と寛いでいると、東宮付の女房がそう言って文箱を火月に差しだした。
東宮からの文は、昨夜の無礼を詫びる旨とともに、今宵の宴に来て欲しいと書かれてあった。
「東宮様からの文には、何て?」
「宴に来て欲しいって。どうお返事すればいいのかなぁ?」
「今朝あんな事があったからねぇ、遠慮しないと。」
「そうそう、弘徽殿女御様に目をつけられたら困るし。」
種香と小里はそう言ったが、東宮の事が気に掛かり、火月は彼の宴に出席する事にした。
「なに、東宮様が宴を?」
「はい。如何なさいますか、女御様?」
「決まっておる。妾も宴を開く。まぁ今はどちらの宴に出るか、宮中の者は皆決めておろうな。」
「そうでしょうとも。」
弘徽殿女御は、意地の悪い笑みを口元に浮かべた。
「ねぇ、東宮様の宴に出ちゃって大丈夫なの、火月ちゃん?これで弘徽殿女御様に目の敵にでもされたら・・」
「大丈夫だって、少し顔を出すだけだから。でも一人だと心配だから、お姉さんたちにもついて来て欲しいんだけど。」
「ま、北の方様のお願いとあっては断れないわね。」
火月は種香と小里とともに東宮殿へと向かうと、途中で雄仁に会った。
「これは、雄仁様・・」
火月はさっと扇子で顔を隠したが、雄仁はジロリと彼女を見た。
「そなたが、土御門有匡の妻か?」
「はい、火月と申します。」
「そうか。東宮の宴に出るとは、物好きな女子よの。せいぜい木偶の坊に媚でも売るがよい。」
高笑いしながら去っていく雄仁を、種香達はあきれ顔で見送った。
「態度でかいわねぇ、あのガキ。」
「どうせ親の七光りでしょ。」
「あんなの気にしなくてもいいわよ。」
「そうだね・・」
火月が東宮殿で催される宴に出席すると、そこには誰も居なかった。
「火月よ、来てくれたのか。」
「他の方々はどちらに?」
「皆義母上の宴に出ておる。木偶の坊の我よりも、義母上の宴の方が面白うて良いのだろう。」
そう言った東宮の顔は、今にも泣きだしそうだった。
「そんな事はございませんよ、東宮様。」
「火月よ、そなたも我の我が儘に振り回されてうんざりしておるのだろう?どうせ我は誰からも見捨てられた存在なのじゃ。」
東宮は盃に酒をなみなみと注ぎ、それを一気に飲み干した。
「まぁ東宮様、そんなに飲まれてはお体に障ります。」
「良いのだ、我が死んでも誰も悲しむ者など居らぬ。」
「いい加減になされませ、東宮様!」
不意に下座に控えていた光成が突然階を駆け上がると、東宮の頬を打った。
「わたしが居るではありませぬか!何故そのような悲しいことをおっしゃられるのです!」
「光成・・」
「死ぬなどと・・死ぬなどともう二度とおっしゃらないでください!」
「済まぬ、そなたの気持ちも考えずに。」
光成はそっと東宮の手を握った。
「光成、そなたは我の側に居てくれるか?」
「ええ、居りますとも。」
光成と東宮の姿を、火月は笑顔で見ていた。
「では東宮様、僭越ながらわたくしが和琴を披露致しましょう。」
火月はそう言うと、和琴を弾き始めた。
「いやいや、盛況ですなぁ。」
「まぁ、今を時めく弘徽殿女御様の御子・雄仁様が開く宴とあっては、断る者など誰も居りますまい。」
「さぁ、どうでしょう。この華やかな場に、あの陰陽師の姿がないですよ。」
公達達は、そう囁き合いながら扇子の陰で笑った。
「あの陰陽師の姿が見えぬな?」
「申し訳ございませぬ女御様、あの者は突然急用が出来たとかで・・」
「ふん、生意気な男よ。あくまで東宮側に与するか。頭の切れる男と思うておったが、妾の見当違いだったようじゃ。」
弘徽殿女御はそう言うと、篝火に誘われて自分の元へとやって来た蛾を指で潰した。
「あの者・・光成と申したか?東宮の味方はあの者だけじゃ。」
「はい女御様、光成は東宮様と乳兄弟ゆえ、東宮様に対する献身ぶりは・・」
「あの者、妾の側に引き込まねばのう。」
「女御様?」
弘徽殿女御の女房・茜が主を見ると、彼女は口端を歪めて笑った。
「東宮を・・あの忌々しい木偶の坊を宮中から追い出すには、奴を孤立無援にすることじゃ。」
(一体何をお考えなのかしら?良からぬ事が起きなければよいけれど・・)
火月が爪弾く和琴の音色に誘われ、有匡が東宮殿へと向かうと、そこには笑顔を浮かべている東宮の姿があった。
「あ、先生。」
「昔と比べて随分上手くなったものだな。」
「酷い。昔の音色の事は忘れてください!」
「済まなかった。それよりも、東宮様の笑顔は初めて見たな。」
有匡はそう言って、夫婦のように仲良く寄り添う東宮と光成の姿を見た。
「光成様がいらっしゃるから、東宮様は安心されているのでしょう。東宮様にとって、彼はなくてはならぬ方なのでしょうね。」
「そうだな。人は独りでは生きてゆけぬ。わたしはお前と出逢う前、独りで生きてゆけると思っていたが、それは間違いだったようだ。」
有匡はそっと火月を抱き締めると、彼女の唇を塞いだ。
「お前と会えて良かった。」
「僕もですよ、先生。」
月明かりの下、二組の恋人達は穏やかな時間を過ごしていた。
1334年初夏。
火月は元気な男児を無事出産した。
「良く頑張ったな、ありがとう。」
産室に入って来た有匡は、そう言うと妻の腕に抱かれている赤子を見つめた。
「無事に産まれてくれて良かったです。雛と仁も兄弟が増えて嬉しいって。」
「これで鎌倉に帰れたら、もっと良いのだが。」
有匡の言葉に、火月は顔を曇らせた。
東宮によって宮中での暮らしが始まって半年が過ぎたが、鎌倉に戻る目処はついていない。
「父上!」
仁が産室に入ってくるなり、有匡に抱きついた。
「どうした、仁。今まで何処に行ってたんだ?」
「東宮様の所へ行ってました。東宮様は歌や笛を教えてくださいました。」
「そうか。」
半年前、塞ぎこんでいた東宮は、今や仁に笛や歌を教えるようになった。
東宮は仁の事を実の弟のように可愛がり、仁もまた東宮を兄のように慕っていた。
「途中、雄仁様にお会いいたしました。お母君の威光を笠に着て、相変わらずの威張りようでした。」
「こら仁、そんな事を言うな。」
有匡はそう言うと、仁の頭を小突いた。
陰謀渦巻く宮中に於いて、軽はずみな発言は命取りだ。
「申し訳ありません。ですが父上、宮中は堅苦しくて息が詰まります。」
「もうしばらくの辛抱だ。」
有匡は仁の頭を撫でながら、弘徽殿女御がどんな手を打ってくるのかを考えていた。
「先程廊下で会うた子ども、仁といったか。聡い瞳をしておったな。」
雄仁(ひろひと)はそう言って気だるそうに脇息に凭れかかった。
「有匡の長男、仁の事でございますか。あの少年、父親に似て洞察力が鋭いところがございます。流石元陰陽頭(おんみょうのかみ)を祖父に持つと・・」
「今、何と申した?」
「いえ、ただの戯言です。どうぞ捨て置いてくださりませ。」
「申してみよ。そなたの胸に留めておくには勿体ない。」
雄仁はそう言うと、臣下の公達を見た。
突然雄仁から宴に招かれ、有匡は嫌な予感しかしなかったが、誘いを断ることもできずに宴に出ると、集まっていた公達達が一斉に彼を見た。
「有匡よ、来てくれて嬉しいぞ。」
「雄仁様、本日はお招きいただきありがとうございます。」
有匡がそう言って雄仁に頭を下げると、彼はにやりと笑った。
「此度の若君の誕生、祝いを申すぞ。そなたの息子であるから、さぞや聡い子に育つであろうな。」
「ありがたきお言葉にございます。」
「そなたの父君・有仁(ありひと)も、聡い息子を持って誇りに思うておったことだろうな。」
雄仁の口から有匡の父・有仁の名が出た途端、場の空気が瞬時に凍りついた。
「何でも陰陽頭を務めておった、大変優秀な男だとか。そなたの優秀(きれもの)ぶりはきっと父親似であるのだろうな。」
有匡は頭を下げたまま、唇をぎりりと噛み締めた。
宴に自分を呼んだのは、公然の場で自分を辱める為だ。
自分にとって一番突かれたくない弱点を突いてまで、雄仁は己が優位である事を示したいのだ。
そんな幼稚な嫌がらせに付き合っていられるほど、暇ではない。
「お言葉ですが雄仁様、あなた様の良く回る舌とその傲岸不遜な態度、まさに母君様譲りであらせられまするな。」
有匡の言葉を受け、雄仁の顔がみるみる怒りで赤くなった。
「腹違いといえども兄である東宮様を蔑ろにし、このような場で一介の陰陽師であるわたくしを辱めるとは、それはどなた様の入れ知恵でございますか?あぁ、そのような所は母親似なのでしょうな。」
有匡がそう言葉を切ると、膳が派手にひっくり返る音がした。
「そなた、黙って聞いておればぬけぬけと!」
漸く有匡が顔を上げると、雄仁(ひろひと)は怒りで身体を震わせ、拳を握りしめていた。
「何をおっしゃいますか、わたくしはあなた様におっしゃられた事を言い返したまでのこと。ではこれで失礼を。」
有匡はそう言って雄仁に背を向けて歩き出すと、背後から彼の怒鳴り声と皿が割れる派手な音が聞こえた。
「雄仁様、気をお鎮めくださいませ!」
「あの陰陽師の戯言など、聞き流せばよいのです!」
重臣たちが宥めても、雄仁の怒りはなかなか収まらなかった。
「おのれ有匡、許さぬ!」
雄仁は怒りで顔を歪ませ、有匡への憎しみを募らせた。
雄仁が開く宴の席で有匡が暴言を吐いたことは、瞬く間に宮中に広がった。
「これからどうなることやら、あの雄仁様を怒らせるとは。」
「全く・・」
「家族ともども追放されかねませんわね。」
女達はひそひそと囁きを交わしながら、ちらちらと火月を見た。
「気にすることないわよ、火月ちゃん。あのクソガキが殿を挑発したんだから、やり返されて当然よ。」
「そうそう。弘徽殿女御様譲りだものねぇ、あの性格は。」
種香と小里がそう言いながら針仕事をしていると、仁が部屋に入って来た。
「母上~!」
「どうしたの、仁?」
仁の目の上には、引っ掻き傷があった。
「雄仁様が、僕のことを櫛で引っ掻いた!」
「まぁ、何ですって?」
「あのガキ、殿では飽き足らず、仁ちゃんまで!ちょっとあたし抗議に行ってくるわ!」
小里がそう言って鼻息を荒くしながら部屋を出ようとしたが、火月が彼女を止めた。
「僕が雄仁様にお会いするよ。仁も連れてね。」
「大丈夫なの、火月ちゃん?殿は今播磨へ出張中なのに、もし何かあったら・・」
「大丈夫。」
火月はそう言って仁の手をひき、雄仁の元へと向かった。
「雄仁様は体調がすぐれず、誰にもお会いしとうないと申しておる。」
火月が息子を連れて雄仁の寝所へと向かうと、雄仁付の女房がそう居丈高な口調で彼女達を追い払おうとした。
「息子の顔を櫛で引っ掻いておいて、体調が優れぬとは・・雄仁様はひきょう者でございますね。」
「何だと?そなた今何と申した!」
「自分よりも弱い者を虐げる癖に、自分が何か言われると逃げるのですか、雄仁様は?そのような臆病者に、帝など務まりますものか。」
火月がそう言葉を切ると、女房は憤怒の表情を浮かべて腕を振り上げた。
「やめよ。」
御簾が乱暴に上げられ、雄仁が彼女の手を掴んだ。
「ですが雄仁様・・」
「俺は臆病者ではない。そなたも有匡と同じように母の威光を笠に着ていると思っているようだが、俺はそんなことは微塵も思うてはおらぬ。」
「そうですか?では何故息子に手を上げたのです?」
火月の真紅の双眸が、怒りで滾った。
たとえどんな理由が彼にあるとしても、息子に手を上げたことは許されないし、一生許さない。
「それは、そやつが俺を馬鹿にしたからだ。」
「馬鹿にしてはおりませぬ。ただ真実を申し上げたまでです。」
雄仁の言葉を聞いた仁はそう反論し、彼を睨んだ。
「真実?俺の悪口を言った癖に、それが真実だと申すのか?」
雄仁の眦が上がり、美しい彼の顔が怒りで険しくなった。
「一体何を言ったの、仁?わたしにも話してごらん。」
火月はそう言って腰を屈めて息子を見ると、彼は次の言葉を継ぐために口を開いた。
「雄仁様が、東宮様を馬鹿にしたのです。」
仁の話によると、彼がいつものように東宮から和歌を習っていると、偶然そこへ雄仁が通りかかったという。
「木偶の坊でも歌を詠めるとは、意外だな。」
腹違いの兄に対して雄仁(ひろひと)はそう言って鼻で笑うと、数人の取り巻き達は東宮をせせら笑った。
実の兄同様に慕っている東宮を馬鹿にされ、仁は思わず今まで溜まっていた鬱憤を雄仁に対して爆発させてしまった。
「あなたのような方が、品性下劣で強欲な卑しい生まれの母君様に似ておいでだとは、良く解りました。あなたが帝になられたら、この国は崩壊いたしますな!」
母親と自分を愚弄され、雄仁は怒りの余りそばにあった柘植の櫛を掴み、それで仁の顔を引っ掻いた。
「確かに、息子はあなた様に礼を欠いてしまわれたことは謝りましょう。ですが、無抵抗の息子の顔を傷つけるなど、許されぬ事はありません!」
火月がそう叫んで雄仁を睨み付けると、一歩彼の前に進み出て彼の頬を平手で打った。
「何をする、貴様!」
「これで済んで良かったとお思いになされませ!夫にはこの事をご報告いたしますゆえ!」
そこから火月はどうやって自分の部屋に戻ったのか、覚えていない。
それほどまでに、怒りで全身の血液が沸騰しそうだったのだ。
「母上、僕は大丈夫ですから。」
柘植の櫛を握り締めている母が今何を思っているのかを察した仁がそう声を掛けると、彼女は仁を抱き締めた。
「仁、痛かったでしょう?良く我慢したね。」
「嫌な相手には涙は見せませぬ。怒りも致しませぬ。そうすると相手の思う壺ですから。」
恐らく有匡から言い聞かせられたのだろうか、仁はそう言った後涙で瞳を潤ませた。
「父上には仁がとてもいい事をしたと伝えておくから、もう休みなさい。」
「はい、おやすみなさいませ、母上。」
仁が寝所へと下がった後、火月は種香達に昼間の事を報告した。
「んまぁ、そんな事で仁ちゃんを殴ったの?ったく、精神年齢が低いわね!」
「火月ちゃんは悪くないわよ。全くあのクソガキ、一度締めてやろうかしら!」
二人が怒り心頭でそう話していると、有匡が帰ってくる気配がした。
「殿、お帰りなさいませ。」
「どうした、何かあったのか?」
播磨からの出張から有匡が帰ると、種香達が火月と雄仁との事を報告してきた。
「火月は今どうしている?」
「火月ちゃんなら部屋で休んでますわ。あのクソガキ、一体誰に似たのやら!」
「仁様、クソガキに暴力を振るわれても泣かなかったそうですわ。殿に似て強い子ですわね。」
「そうか・・」
式神からの報告を受けた後、有匡は仁の部屋へと向かった。
御帳台の中で眠る彼の目には、涙が滲んでいた。
そしてその目の近くには、櫛で引っ掻かれた赤い痕がまだ残っていた。
痛くて堪らなかっただろうに、泣くのを我慢した息子が有匡は愛おしかった。
彼がそっと仁の髪を梳くと、彼は低い声で唸って目を開けた。
「起こしたな。」
「父上、お帰りなさいませ。父上にご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。」
「謝るな。わたしはお前を誇りに思うぞ、仁。」
「ありがとうございます。」
「このままだと痕が残るから、わたしが治してやる。」
有匡はそう言うと、呪を唱えて仁の傷口に手を翳した。
「これで良くなった。さぁ、お休み。」
「お休みなさい、父上。」
仁が隣ですやすやと寝息を立て始めているのを眺めながら、弘徽殿女御と雄仁親子との全面対決は避けられないと思った。
翌朝、東宮の乳兄弟・光成は突然弘徽殿女御に呼ばれて後宮へと向かうと、そこには雄仁が居た。
「お話とは何でござりましょうか、女御様?」
「そなた、妾の側につかぬか?」
女御の言葉を受け、光成は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「女御様、今なんと仰せに・・」
「東宮を切り、妾と手を組めと申しておる。光成よ、やがてはこの雄仁(ひろひと)が日の本を統べる帝となろう。その日まで、そなたの力を貸して欲しいということじゃ。」
「ですが、女御様、わたくしは・・」
「何故お前はそうも東宮様に義理だてする?」
弘徽殿女御はそう言うと、御簾を上げて光成の前に腰を下ろした。
「乳兄弟として、わたくしは東宮様をお守りするお役目がございます。東宮様の味方は、わたくししかおりませぬ。」
「素晴らしい兄弟愛じゃ。だがこの世で情だけでは渡ってはいけぬ。確かそなたには、姉が藤壺女御に仕えておろう?」
「左様でございますが・・何故そのような事を?」
光成の姉・雪子が仕える藤壺女御は、弘徽殿女御と後宮内の権力を二分していた。
藤壺女御には現在息子が二人おり、二人とも雄仁に負けず劣らず優秀な皇子達である。
「妾を邪魔立てする者は生かしてはおけぬ。光成よ、これを姉の元へ届けて参れ。」
弘徽殿女御がそう言ってすっと光成の手に握らせたのは、薬だった。
「これは?」
「毎日、これを皇子達に飲ませるようそなたの姉に伝えよ。」
「では、わたくしはこれで失礼致しまする。」
「必ず伝えるのじゃぞ。」
弘徽殿女御は去って行く光成に対して念を押すと、雄仁の方へと向き直った。
「あ、光成様!」
廊下の向こうから溌剌とした声が聞こえたかと思うと、有匡の長男・仁が光成に駆け寄ってきた。
「おはようございます。何か弘徽殿女御様から東宮様の悪口を言われましたか?」
「そなたは弘徽殿女御様の事がお嫌いか?」
「嫌いでございます。父上や母上も、今回の事でお二人を嫌うております。」
そう言った仁は、まっすぐな瞳で光成を見た。
「光成様、もしや弘徽殿女御様に東宮様を切れと仰せになられたのでございますか?」
いくら平然を装っていても、仁には光成の変化が判ったらしい。
「ああ。だがわたしがお仕えするは東宮様のみ。」
「それを聞いて安心いたしました。光成様、それは?」
光成が弘徽殿女御から渡された薬を見た仁は、何か嫌な予感がした。
「東宮様のお身体が優れぬゆえ、特別に薬師に作らせた薬だそうだ。」
「光成様、その薬、僕に渡してくださいませぬか?何だか嫌な予感がするのです。」
「仁、それをどうするつもりだ?」
「父上にお見せいたします。まだ子どもです故、薬の事は判りませぬので。」
「そうか。有匡殿に宜しく伝えよ。」
光成はそう言うと、仁に薬を渡した。
「ではこれにて失礼致します。」
仁は光成に頭を下げると、父の職場である陰陽寮へと向かった。
陰陽寮では、有匡がいつものように仕事をしていると、梨壷女御付の童がやって来て、彼に文を渡した。
「これは?」
「女御様に頼まれましてございます。すぐに梨壷へおいでなされませ。」
「解った。」
梨壷女御は後宮の権力争いとは無縁の筈だ。
その彼女が何故、陰陽師である自分を呼んだのかー有匡はそう思いながら、梨壷へと向かった。
「お呼びでございますか、女御様?」
「そなたが土御門有匡か。」
御簾越しに見える梨壷女御の顔は、少し強張っていた。
「最近、弘徽殿女御が良からぬ事を企んでおるらしい。」
「良からぬこと、でございますか?」
有匡がそう言って梨壷女御を見ると、彼女は静かに頷いた。
「父上、ここに居られましたか。」
梨壷女御と有匡が同時に振り向くと、そこには仁が立っていた。
「仁、どうした?」
「先程光成様にお会いして、この薬を弘徽殿女御様から渡されたと。」
仁はそう言うと、有匡に薬を渡した。
「それは、唐渡りの毒薬じゃ。」
梨壷女御が薬を見て声を上げた。
「左様でございますか、女御様?だとすれば、何故このような物騒なものを弘徽殿女御様がお持ちに?」
「決まっておろう。自分にとって目障りな藤壺女御とその皇子達を殺す為だ。」
「何と・・」
強欲な弘徽殿女御がいかにも考えそうな事だが、何の罪もない幼子にまで手を掛けようとするとは。
我が子を帝位に就かせる為に、どこまで彼女は己の手を穢せば気が済むのだろうか。
「光成様は何と?」
「弘徽殿女御様からお誘いをお受けしたそうですが、断ったそうです。父上、何だか嫌な予感が致します。」
仁はそう言うと、有匡に抱きついた。
「もし弘徽殿女御様のつまらぬ野望に僕達が巻き込まれでもしたら・・」
「心配するな、そんな事はさせない。」
彼女が何を企んでいるのかは知らないが、妻と子ども達を守らねばー有匡は我が子を抱き締めながら、新たに決意を固めた。
一方、火月は三人目の子・匡仁(まさひと)に乳をやっていると、そこへ藤壺女御の一の皇子・昌成(まさなり)がやって来た。
「これは一の宮様、何かご用でございますか?」
火月がそう言うと、昌成は彼女の乳を吸っている匡仁をじっと見つめていた。
「赤子は女の乳を飲んで大きくなるのか?」
「左様でございます。昌成様も、お母君の乳をお飲みになられて成長なさったのですよ。」
「わたしは乳母(めのと)の乳を飲んで育った。母上はわたしや惟人(これひと)に余り関心がないのだ。」
昌成の言葉に、火月は藤壺女御が二人の息子達に関心を寄せていないことを知り、胸が痛んだ。
「そんな事はございませんよ。母親なら我が子が可愛くて仕方がないものでございます。女御様は色々とお忙しいのですよ。」
「そうか・・」
長男・仁と数歳しか違わず、次期帝と名高い昌成であったが、9歳の少年は母親の愛情に飢えていた。
「お母様!」
「まぁ、雛(すう)、それはなぁに?」
娘の手に握られている牡丹を見て、火月は彼女に声を掛けた。
「匡仁とお母様に持って来たの。」
「まぁ綺麗だこと。ありがとう。」
楽しく語らう火月と雛を、昌成は羨ましそうに見ていた。
「昌成様、こちらは娘の雛と申します。雛、こちらは昌成様ですよ、ご挨拶なさい。」
「初めまして、雛と申します。」
そう言って自分に挨拶した金髪紅眼の美しい少女に、一目で昌成は心を奪われた。
「昌成、何処におる?」
「母上が呼んでおるから、もう行かねば。またな、火月。」
昌成が火月の部屋から出て母の元へと向かうと、そこには仏頂面の彼女が御簾の向こうに座っていた。
「弘徽殿女御め、ふざけた事を。我が子を差し出せとは・・」
「落ち着かれませ、女御様。あの女の戯言など真に受けてはなりませぬ。」
そう言って母を宥める女御の言葉に、自分がいつの間にか権力闘争に巻き込まれていることに昌成は漸く気づいた。
その夜、梨壷女御が突如目の痛みを訴え、そのまま病に倒れた。
陰陽師や高僧達の加持祈祷のかいなく、病に倒れた梨壷女御は数日後に没した。
宮中が梨壷女御の喪に服している頃、陰陽寮にひとつの知らせが届いた。
それは、京にある廃屋で梨壷女御の名が刻まれた人形が発見されたとのものであった。
「これには呪詛の痕跡がある。梨壷女御様は、何者に呪い殺されたのだ!」
「何と・・」
ざわめく同僚達を尻目に、有匡は淡々と仕事をしていた。
この事件に弘徽殿女御が一枚かんでいると、彼は睨んでいた。
「そうか、あの女が死んだか。」
「はい、女御様。あとは藤壺女御様方を始末するだけでございます。」
「そうじゃな・・慎重に動けよ。」
「はい。」
女房からの報告を受け、弘徽殿女御は檜扇の陰で笑みを浮かべていた。
「これからどうなるのやら。今回の件はきっとあの女の仕業に違いないわ。」
「もしかすると、今度は女御様の身が危ないかも・・」
藤壺女御達に仕える女房達は、梨壷女御の一件で戦々恐々としていた。
そんな緊迫した空気を感じ取ったのか、仁や雛は火月の傍から離れようとはしなかった。
「母上、これからどうなるのでしょうか?」
「さぁ、解らない。二人とも、余り遠くに行ってはいけませんよ。」
「わかりました。」
火月達は弘徽殿女御が梨壷女御呪殺に絡んでいると思いながらも日々をすごていると、季節は初夏から梅雨へと移り変わろうとしていた。
湿度が高い中、連日雨が降り続け、宮中では体調不良を訴える者が相次いだ。
「全く、暑いったらありゃしない。夏物の衣をはやめに用意しといて良かったわね。」
「ええ。」
種香達が衣替えに忙しく動いていると、外から衣擦れの音が聞こえた。
「誰かしらねぇ、こんなクソ忙しい時に。」
「帝のお越しです。」
「えっ!」
突然帝が後宮を訪れたので、女達はあたふたしながら彼を迎えた。
「まぁこれは主上、お忙しいと聞きましたがどのようなご用で・・」
「この局に火月という女房はおるか?」
藤壺女御が帝を出迎えると、彼はそう言って藤壺女御を見た。
「火月でございますか?暫くお待ちくださいませ、呼んで参ります。」
藤壺女御は帝に背を向け、火月の部屋へと入って来た。
「火月、帝がお呼びじゃ。」
「え?」
有無を言わさず藤壺女御に手を掴まれ、火月は帝の元に連れて行かれた。
「お初にお目にかかれます。火月と申します。」
「そなたが火月か。まこと、美しき金の髪をしておる。」
帝はそう言うと、火月の金髪を一房掴んだ。
「あの・・わたくしに何の用でございますか?」
「梨壷女御が呪殺され、呪詛の人形が発見されたことは知っておろう?」
「はい・・」
「実はな、そなたが人形を埋めたところを見たと申す者がおってな。」
「僕が、ですか?」
火月の真紅の双眸が、驚きで大きく見開かれた。
「まぁ主上、この者がそのような事をするなど思いませぬ。何かのお間違いではありませぬか!」
藤壺女御はそう言うと、火月を庇った。
「主上、その証人とやらは何処のどなたなのですか?即刻この場にお連れ下さいませ。」
「いや・・それはその・・」
彼女から詰問された途端、帝は奥歯に物が挟まったような言い方をした。
「一体どなたなのです?さぁ、教えて下さりませ。」
藤壺女御が問い詰めると、帝の目が泳ぎ始めた。
「確たる証拠もなしにわたくしの女房をお疑いにならないでくださいませ。」
「す、済まぬ・・」
これ以上藤壺女御に責められたくなかったのか、帝は早々に藤壺から辞していった。
「気をしっかり持て、火月。そなたが呪詛などする筈がない。」
「はい、女御様。」
頼もしい主を持って幸せだと、火月はこの時思った。
梅雨が終わろうとしている頃、火月は体調を崩した。
「大丈夫か、火月?」
「大丈夫です。季節の変わり目だから風邪でもひいたんでしょう。」
火月はそう言って夫を安心させようとした。
「もしかしてお前、妊娠したか?」
「そんな・・まだ匡仁が産まれて三ヶ月しか経っていないのに。」
火月が気だるそうに御帳台から起き上がると、有匡は下腹に手をやった。
そこには、生命の胎動は感じられなかった。
「どうやら違ったようだ。」
「何だ。早とちりし過ぎですよ、先生。」
「そうだったな。火月、後で薬湯を種香に届けさせるからちゃんと飲むんだぞ?」
「え~、あんな不味いの要りません!」
火月が嫌そうに言うと、有匡は少しムッとした。
「お前の為を思って言ってるんだ。」
「解りました。飲めばいいんでしょ!」
「お前なぁ~、何だその言い方は!」
有匡と火月が夫婦喧嘩をしていると、几帳の陰からその様子を仁と雛が見ていた。
「また始まったわね、父上と母上。」
「そうですね。では姉上、僕は東宮様のところへ行って参ります。」
仁はそう言うと、東宮殿へと向かった。
同じ頃東宮殿では、東宮が光成が自分の下に来るのを待っていた。
だが彼はいつまで経っても来る気配がなかった。
(どうしたのだろう、光成は?)
彼の事が心配になった光成は、彼が行きそうな所を探して回った。
しかし、何処にも彼の姿はなかった。
一体彼は何処に消えたのかー不安に駆られながら東宮が部屋へと戻ろうとした時、向こうの渡殿から数人の話し声が聞こえた。
「今こそ、東宮様を廃嫡されるべき・・」
「梨壷女御様の件も、東宮様が企んだことに違いない・・」
「そうじゃ。」
また誰かが自分の悪口を言っていると知り、東宮は早くその場から離れたかった。
だが、公達の中に光成の姿がある事に気づいた彼は、驚きで目を見張った。
「光成殿、そなたは如何致す?」
「何をおっしゃっておられる。東宮様は呪詛などなさらぬ。」
「そなた、弘徽殿女御に飼われておる犬の癖に、東宮様を庇うのか?」
「それは誤解だ、わたしはあの女とは何も・・」
光成がそう言った時、視線の端に驚愕の表情を浮かべた東宮の姿が映った。
「東宮様・・」
「寄るでない、裏切り者!」
光成は東宮に近寄ると、彼は邪険に光成の手を払った。
「そなただけは味方だと思うておったのに・・」
「東宮様・・」
「許さぬ、決して許さぬぞ、光成!」
涙を瞳で滲ませながら、東宮は光成の頬を張った。
「仁、東宮様の所へ行ったのではなかったのか?」
「はい父上、ですが東宮様はお身体が優れぬと申されて・・光成様のお姿も見えませんでした。」
「光成様が?」
いつも陰に日向に東宮を支え、彼の傍に居る光成の姿が見えない事を知り、有匡は何かが起こると思った。
彼の予感は的中し、光成の姿が宮中から消えた。
「光成様が急に消えるなど・・一体何が?」
「恐らく彼も弘徽殿女御様に取りいれられたのだろうよ。強欲な女ほど、恐ろしいものはない。」
「全くだ。」
やがて光成が消えたのは弘徽殿女御の指示であるという噂がまことしやかに流れ、自分の思惑通りに事が動いていることを知った弘徽殿女御は口元に悠然とした笑みを浮かべながら、雄仁と碁を打っていた。
「次の手はどう打たれるのですか、母上?」
「馬鹿もの、妾がそなたに教えるものか。」
「そうおっしゃると思いましたよ。これで光成が宮中から追放されれば、我らの思う壷です。」
「そうじゃな。」
静かな部屋に、碁の打つ音が響いた。
光成が消えてからというもの、体調を崩した東宮は食事も喉を通らず、ひたすら彼の無事を祈っていた。
「東宮様、お気を確かに。必ず光成様は戻って参ります。」
「そうだな・・」
火月の励ましも、東宮は上の空で聞いていた。
「何か一曲弾きましょう。」
火月がそう言って和琴を部屋に取りに行こうと戻ったところ、そこには有匡が居た。
「先生、どうされたんですか?」
「その様子だと、すっかり良くなったようだな。」
「ええ。でも東宮様は相変わらずで・・光成様もどちらにいらしているのか解らないし。あ、東宮様をお待たせしてあるので、僕は戻らないと。」
「わたしも行こう。」
有匡と火月が東宮殿へと向かうと、そこから数人の女房達の悲鳴が聞こえた。
「雄仁様、どうか気をお鎮めに・・」
「黙れ、この場で木偶の坊を叩き斬ってくれる!」
太刀を東宮に向かって振り下ろそうとした雄仁の前に、火月が立ち塞がった。
「おやめ下さいませ、雄仁様!」
「黙れ!」
雄仁が太刀を振り下ろし、辺りに血しぶきが飛び散った。
「火月、無事か!」
有匡は血相を変えて火月の元へと駆け寄ると、彼女は無事だった。
雄仁の方を見ると、彼は自分の刃を受けた光成を前に呆然としていた。
「光成、光成!」
御簾が乱暴に捲られ、東宮が背に刃を受けたままの光成の元へと駆け寄った。
「東宮様・・お許しを・・わたしは・・」
「光成、しっかりしろ!」
「光成、死ぬでないぞ!」
東宮は光成の身体を揺さ振りながら、必死に彼に呼びかけていた。
「誰か、薬師を之へ!」
「はい、東宮様!」
雄仁が刃傷沙汰を起こしたと知り、宮中は俄かに蜂の巣をつついたかのような騒ぎとなった。
「お前は一体何てことをしてくれたのじゃ!」
「申し訳ありませぬ、母上。」
弘徽殿女御から叱責を受け、雄仁は項垂れた。
「これで光成が死んでみよ、今まで築き上げてきた妾の地位が、そなたの所為で水泡に帰すのじゃぞ!」
「母上、わたしは・・」
「もうよい、下がれ!」
弘徽殿女御はそう言って雄仁を自分の部屋から追い払った。
「あら、あれは・・」
「雄仁様ではないの。」
「何でも東宮様の従者を手にかけようとなさったとか。」
「恐ろしいこと。」
廊下を歩いていると、御簾の向こうから女達が囁き合う声が聞こえた。
かつて「光る君」と呼ばれ、讃えられていた雄仁は、「異母兄を手に掛けた恐ろしい方」と呼ばれる事に成り、彼の周りからは徐々に人が離れていった。
一方、雄仁の刃に倒れた光成の容態は、余り芳しくなかった。
「光成、しっかりせい!まだ我を残して死ぬでない!」
東宮は寝る間も惜しまず光成の看病をしていたが、やがて無理が祟り彼も倒れてしまった。
「東宮様、後はわたくしどもにお任せを。」
「頼むぞ、有匡。」
有匡が光成の部屋に入ると、そこは血の臭いで満ちていた。
彼が受けた傷は肺まで届いており、もしかしたらこのまま助からないかもしれない。
「う・・」
「光成殿、気がつかれたか?」
「有匡・・殿?」
光成は低く呻くと、そう言って有匡を見た。
「わたしは、一体・・」
「あなたは雄仁様の刃を受けたのですよ、憶えておられないのですか?」
「そうでしたか・・」
光成は苦しそうに息を吐くと、目を閉じた。
「有匡殿、どうか東宮様をお守りください。」
わたしの代わりに、と光成がそう言葉を継ごうとすると、有匡は光成の手を握った。
「東宮様にはあなたしか居られません。」
「そうですか・・では、まだ東宮様をお一人にはできませんね。」
「この部屋には少し陰の気が満ちております故、浄化いたしましょう。」
有匡は光成の部屋を浄化すると、少し彼の顔色が良くなったように見えた。
「先生、光成様のご容態は・・」
「余り良くない。雄仁様はどうしている?」
「それが、何処に行ったのか解らないようで・・また子ども達に危害を加えられたらと思うと、心配で・・」
「大丈夫だ、わたしがお前達を守ってやる。」
有匡がそう言って火月を抱き締める姿を、雄仁は少し離れた場所から見ていた。
「それにしても、雄仁様が宮中にて刃傷沙汰を起こすとは。聡いお方であったのに、残念ですな。」
「左様、東宮様よりも帝の座に近い者だと思っておりましたのに・・」
「いかがなさいますか、右大臣様?このままだと我らも無傷では済みませんよ。」
とある貴族の邸で、三人の男達が口々にそう言いながら上座に座る男を見た。
彼の名は上原金人、宮中で権勢を誇っている右大臣である。
「暫く様子を見るのがよかろう。早まったことをすると災いとなる。」
「そうでしょうなぁ。」
「右大臣様がそうおっしゃられるのなら、我らも従いましょうぞ。」
「堅いことはもう終いじゃ、宴を楽しめばよい。」
金人がそう言って手拍子を打つと、数人の白拍子が部屋に入ってきた。
(これから気を引き締めねばな・・雄仁様を何としても次の帝にする為ならば、手段は厭わぬ!)
雄仁を時期帝にする為の策を練りながら、金人の脳裏にはあの憎たらしい陰陽師―土御門有匡の顔が浮かんだ。
雄仁を帝にするためには、あの男を宮中から追い出さねばならない。
宮中で刃傷沙汰を起こし、忽然と姿を消した雄仁(ひろひと)の行方を公達達はそれぞれ噂をしていたが、次期帝に近い彼が消えた今、誰が次期帝になるかということが、彼らは一番に関心を寄せていた。
「雄仁様より次に優秀な者は、藤壺女御様の一の宮様であろう。」
「それもそうじゃな。あの方な次の帝になっても申し分ない。」
「いやいや、弟君も優秀と聞く。」
有匡が陰陽寮へと向かっている時、数人の公達がひそひそと次期帝となる者について話し合っていた。
主に彼らが取り上げるのは、藤壺女御の二人の皇子達で、東宮には最初から期待していないようだった。
順に言えば東宮が次期帝になるのだが、帝も公達達も、彼の事を諦めている。
(東宮様が何故幼子のように駄々を捏ねられたのか、解るような気がするな。)
幼き頃から周囲から蔑ろにされ、愛情に飢えているからこそ、わざと駄々を捏ねて他人に関心を寄せて貰おうと思っていたのだろう。
だがそれは逆効果で、周囲はますます東宮を蔑ろにするようになった。
心を唯一通わせられるのは、乳兄弟である光成だけだったが、その彼も今は瀕死の重傷を負ってしまっている。
(どうすればいいか・・)
長年複雑に絡まり合った人間関係の糸を解すには、一日で出来ない事くらい有匡は解っているが、このままにしておくとますます悪化しそうである。
彼がますます激化するであろう宮廷での権力闘争に頭を悩ませている時、右大臣から宴に招かれた。
「そなたが、土御門有匡か。」
今を時めく権力者とあってか、右大臣邸は陰陽道の大家である土御門邸よりも広く、宴の膳も華やかなものであった。
「はい、土御門有匡でございます、右大臣様。」
「そなた、あの東宮様のお側に仕えておるときく。そなたから見て、東宮様はどのようなお人じゃ?」
「そうですね、東宮様は思慮深く、余り己の才能を人前でひけらかしてしたり顔をならさぬ方と存じます。」
「ほう、そなたの見解では、東宮様はそのようなお方か。やれ無能だ、木偶の坊だと周囲は東宮様を蔑ろにされておられるが、違うやもしれぬな。」
「は・・」
一体彼は自分に何を聞き出したいのだろうかと、有匡は緊張した面持ちで右大臣を見た。
「そなた、腕が良いと聞く。今後の事を占って貰えぬか?」
「今ここで、でございますか?」
「そうじゃ。出来ぬのか?」
そう言って自分を見つめる右大臣と、周囲の視線は険しいものだった。
「いいえ。右大臣様のお頼みとあらばいたしましょう。」
有匡は呪を唱えると、精神を集中させた。
目を閉じると、ある光景が浮かんだ。
それは、東宮が帝として善政を敷く姿だった。
「どうであった?帝には誰がなった?」
「東宮様でございます。」
有匡の言葉に、周りに居た者達がざわめき始めた。
「そうか。もう下がってよいぞ。」
「では失礼致します。」
有匡が右大臣邸を辞すと、当の本人は数日前に邸に呼び寄せた男達の元へと向かった。
「あの土御門有匡とやら、一筋縄ではいかぬ男のようじゃ。」
「そうですね、余りボロを出さぬようにしなければ。」
「雄仁様が見つかり次第、密かに計画を進めなければなりません。」
四人は顔を見合わせると、それぞれ扇の陰で笑みを浮かべていた。
雨の中宮中へと参内した有匡が東宮殿へと向かうと、そこには東宮が泣き腫らした目で彼を見た。
「有匡、来てくれたか。」
「東宮様、光成様は・・」
「先程突然血を吐いて苦しみ出して・・薬師はあてにならぬからそなたを呼んだのだ。」
東宮はそう言うと、有匡の手を握った。
「有匡、我は不安で堪らぬ・・光成が、光成が!」
「落ち着かれませ、東宮様。」
有匡が光成の部屋に入ると、彼は蒼褪めた顔を有匡に向けた。
「有匡殿、申し訳ない・・」
「謝らないでください。東宮様が心配されておいでです。」
「そうですか・・東宮様はいつもわたくしの傍におりましたから。東宮様のお母君が亡くなられてから、ずっと・・」
光成はそう言うと、目を閉じた。
脳裏に突然、東宮と出逢った日の事が浮かんだ。
3歳の時に実母を亡くし、継母である弘徽殿女御に虐げられながら育った東宮は、深い孤独を抱えていた。
そんな中、東宮の乳母である光成の母が、我が子同然に東宮を育てた。
光成と東宮が出逢ったのは、母に連れられ初めて宮中へ上がった時だった。
「光成、こちらの方が東宮様であらせられますよ。」
母から紹介されたのは、艶やかな黒髪を下げ美豆良(みずら)に結った、何処か寂しそうな顔をした少年だった。
「初めまして、東宮様。光成と申します。」
「みつなり・・我と友達になってくれるか?」
「はい、喜んで!」
それから色々と悲しい事や辛い事、嬉しい事などがあったが、それを東宮と二人で乗り越えてきた。
だがもうそれも、終わりなのかもしれない。
「嫌じゃ、光成、我を置いて逝くな!」
部屋に入って来た東宮は、涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。
「申し訳ありません・・東宮様。もう、わたしは駄目です・・」
「嫌じゃ!そんなの・・」
「もしも生まれ変わったら・・今度はずっと、東宮様のお傍に・・」
光成はそう言って東宮の頬へと手を伸ばすと、彼に微笑んだ。
「やめろ、まるで別れの言葉のようではないか!」
「東宮様、今までありがとうございました・・あなた様と会えて嬉しかった・・」
徐々に視界が暗くなり、目の焦点が合わなくなってゆく。
(駄目だ・・まだ・・)
「光成、どうした、光成!?」
「東宮様・・あなた様のことを・・愛して・・」
やっとの思いで東宮に愛の言葉を紡ごうとした時、光成の意識はゆっくりと闇へと堕ちていった。
自分の頬を擦っていた光成の手が急に動かなくなってしまったのを感じた東宮は、必死で彼の手を握った。
「光成、何をしておる。起きよ。」
東宮はそう言って笑うと、光成の身体を揺さ振った。
だが、光成の目は二度と開く事はなかった。
「嫌じゃ、光成!我を置いて逝くな!」
「東宮様、落ち着かれませ!」
光成の死に受け止められず、暴れ出す東宮を有匡は宥めた。
「光成、光成ぃ・・」
激しい雨の中、最愛の人に看取られて光成は静かに息を引き取った。
「そうですか、光成様が・・」
「あぁ、残念でならない。暫く東宮様をそっとしておいた方がよいだろう。」
帰宅した有匡はそう妻に言うと、東宮の不安定な精神状態を心配していた。
その頃現代では、高原家の者が“火月”を拉致してある場所へと集まっていた。
そこは、高原家の祭壇が祀ってあるところであった。
台の上には、火月が全身を荒縄で縛られていた。
(一体どうなってんのよ!?)
突然薬品を嗅がされて気絶し、目が覚めたら白装束の集団に囲まれ、自由を奪われていた。
「これで、高原家は安泰です。」
すっと祭壇の前にあの女性がやって来た。
「あんた達、一体何を企んでいるの?」
「企むなど、人聞きが悪い。わたくし達はあなた様の為を思って今こうして集まっているのです。」
「何ですって?そんなの信じられる筈がないでしょう!」
そう火月が喚くと、自分を拉致した男が火月の前に現れた。
「お前は高原家の血を継ぐ唯一の娘。多喜子亡き今、お前が家の務めを果たしてもらわねば困るのだ。」
「だからそれを教えろって言ってんでしょ!耳聞こえないのオッサン!」
「黙れ!」
苛立った男―高親は、そう叫ぶと火月の頬を打った。
「これから儀式を始めるぞ。皆、持ち場につけ。」
「はい、旦那様。」
白装束の集団が一斉に移動し、呪を唱え始めた。
火月はここから何とか逃げ出そうとしたが、荒縄が身体に食い込んで逃げられない。
(ここから逃げないと・・)
気持ちが焦るばかりで、動けば動くほど体力を消耗してしまう。
今ここで暴れるよりも、大人しくしている振りをすれば、逃げる時の体力を保てる。
そう思った火月は目を閉じた。
「漸く大人しくなったか。」
「ええ、旦那様。多喜子様とは大違いです。」
高親の隣で、あの女性がそう言って笑った。
集団が唱える呪が天井にまで響き、何かが祭壇の中から出て来るような気配を感じた。
「後少しで、多喜子は甦る。」
高親はそう言うと、一層声を張り上げて呪を唱えた。
(多喜子って、あの船の中で殺された子?このおっさん、本気で彼女を甦らせようとしてる訳?)
一体多喜子の魂を甦らせてどうするつもりなのか、火月は寝ている振りをして高親と女性の会話に耳を澄ませた。
「この者は、いかがいたします?多喜子様の魂を移す器はありますが、この者の魂は・・」
「捨てておけ、この娘は生まれてはならない子だったのだ。」
平然とした口調で、殺人すら厭わない事を言う高親に、火月はゾッとした。
「多喜子、出ておいで、またお父様と一緒に暮らそう。」
祭壇の中に潜む何かに向かって、高親は先程とは打って変わって優しい声で呼びかけた。
“お父・・様”
祭壇の中から、少女のか細い声が聞こえた。
その声の主が多喜子なのか確かめたくて、火月はそっと目を開けた。
そこに立っていたのは、人間の形をしていない肉塊が立っていた。
“お父様・・”
自分の近くで女性が悲鳴を上げるのが判った。
「来るな、化け物めぇ!」
“お父様、お会いしたかった・・”
生前多喜子のものであった肉塊は、ゆらりと高親に近づいたかと思うと、彼の頸動脈を噛み切った。
血しぶきを上げて倒れる彼の姿を見て、集団はたちまちパニックに陥った。
やがて誰かが篝火を倒し、部屋中に炎が瞬く間に広がった。
炎が舐めるように床全体に広がり、パニックに陥った集団は出口へと殺到し、押し合いへしあいながら部屋から出て行った。
火月は荒縄で身動きが取れず、死を覚悟した。
(お母さん、お祖母ちゃん、ごめんなさい・・)
彼女が涙を流した時、誰かが自分の身体を戒めている荒縄を切り裂いた。
「大丈夫か?」
「シキ、あんた何でここに?」
「お前が突然居なくなったからここまで尾けてきた。さぁ、逃げるぞ!」
彼とともに火月が出口へと向かおうとすると、あの女性が彼女の腕を掴んだ。
「逃がしません!あなたはここでわたくし達と死ぬのです!」
「離して!」
火月は女性の手を振りほどこうとしたが、ビクともしない。
シキが女性の顔面に蹴りを入れると、彼女は悲鳴を上げ火月の手を離した。
「助かったわ、ありがとう。」
「礼はいい。神を助けてくれた借りを返しただけだ。」
「そう・・あの島の神様はどうなったの?」
「俺達が神に対する感謝を忘れていることを恥じ、それを神に詫びて許しを乞うた。もうあの島は観光業から手を引くそうだ。」
そう言ったシキの顔は、晴れやかなものだった。
「それにしてもあの肉塊・・死んだ娘の魂だな?」
「うん。船で殺されたあの女の子を生き返らせようとしたんだよ、あのおっさん。そんな事したって無駄なのに。」
「そうだな。自然の摂理に反することは、やがて己の身に返ってくる。」
火月とシキが長い廊下を暫く歩いていると、急に広い庭が二人の前に広がった。
「どうやら、ここを抜けて外に出られるらしいな。」
「そうだね。」
二人が庭に足を踏み入れると、何処に隠れていたのか、黒服を着た男達が彼らに突進してきた。
「その娘を渡せ!」
「カゲツ、ここは俺に任せて逃げろ!」
シキは背中に背負っていた槍で男達と交戦している姿を尻目に、火月は庭を抜け高原邸から脱出した。
「くそ、何してる!相手は一人だぞ!」
黒服の男がそう言って舌打ちすると、彼の顔面に槍の柄が食い込んだ。
相手は五人だが、シキはそのうち三人を倒していた。
残るはあと二人―汗で滑る手を槍の柄を握り締めたシキであったが、一瞬の油断で彼は右肩に被弾した。
「くそっ・・」
「今だ、殺れ!」
二人の男達が一斉にシキへと襲い掛かった時、彼らの間に人影が割り込んできた。
「何だ、貴様は?」
「こいつも仲間だろう、殺せ!」
男達が人影に向かって動こうとした時、人影が何かを彼らに向けた。
「ぎゃぁぁ!」
断末魔の叫び声が聞こえ、男達は血しぶきを上げて倒れた。
「お前は誰だ?」
「俺か?俺は雄仁(ひろひと)、帝の御子だ。」
おどろに乱れた黒髪をなびかせながら、雄仁はそう言って血に濡れた太刀をシキの前に翳した。
(こいつ、魔物の気配がする!)
シキは痛む右肩を庇いながら、キッと雄仁を睨みつけた。
一方、高原邸から逃げ出した火月は、長い坂道を下っていた。
「火月ちゃん!」
「叔母さん!」
坂を下ると、叔母たちが火月の方へと駆け寄ってきた。
「良かった、無事だったのね!」
「心配掛けてごめんね、叔母さん。」
「さぁ、帰りましょう。今日の夕飯はハンバーグよ。」
そう言って聡子は、姪の肩に手を回し、彼女と共に車に乗り込んだ。
高原邸の庭では、シキと雄仁(ひろひと)が睨み合って互いの間合いを取っていた。
(こいつの全身から発せられる“気”・・魔物のものだ!)
神が発していた魔物の瘴気と、雄仁が発しているものが同じだとシキは気づいた。
「貴様は一体何者だ?」
「煩い!」
雄仁はそう叫ぶなり、シキに向かって太刀を振るった。
彼の血しぶきが芝生を濡らした。
「くそっ・・」
右肩を負傷した今、全力を出せない。
「もう終わりか?」
雄仁は口端を歪めて笑うと、そう言ってシキとの間合いを詰めた。
彼は雄仁の攻撃をかわしながら彼に向かっていったが、力の差は歴然としていた。
シキは油断し、雄仁はそれを逃がさず、彼の手から槍を弾き飛ばした。
「ここで死ね。」
(くそっ、どうすれば・・)
右肩の激痛に顔を顰めながら、シキは雄仁が自分に向かって剣を振りかざすのを見ていた。
その時、風が唸る音が聞こえたかと思うと、雄仁の身体が大きく仰け反って芝生の上に倒れた。
「一体何が・・」
訳も解らず雄仁の遺体へとシキが近づくと、彼の胸には一本の矢が貫いていた。
彼は誰が射ったのかと周囲を見渡したが、そこには誰も居なかった。
「シキ、無事か!?」
邸の中から声がしてシキが振り向くと、そこには祖父が自分の方へと駆けてくるところだった。
「右肩を少しやられた。」
「そうか。こいつはもう死んでいるな。わしと一緒に来い、シキ。」
「あぁ、解った。」
シキは雄仁の遺体をちらりと見ると、祖父と共に高原邸から去っていった。
結局、雄仁は行方知れずのまま、遺体も発見されなかった。
有匡は藤壺女御から鎌倉帰郷を許され、彼は妻子とともに京を後にした。
「これからどうなるんでしょうか、先生?」
「さぁな。雄仁様の失脚により、弘徽殿女御とその後ろ盾であった右大臣も大宰府に流罪となった。権力闘争が一段落した今、わたし達が出る幕ではなかろう。」
「そうですね・・」
「久しぶりに家族だんらんの休日を過ごせると思ったが、まさかこんな波乱尽くしのイベント満載とはな。おちおち休んでいられないな。」
有匡はそう呟くと、溜息を吐いた。
「まぁ、これから家でゆっくりできますからいいじゃないですか?」
「それもそうだな。」
有匡と火月は京を後にし、我が家のある鎌倉へと帰っていった。
「あ~、疲れた。」
「やっぱり我が家がいちばんよねぇ。」
今日から戻った有匡一家は、鎌倉の自宅で旅の疲れを取っていた。
「先生、ひとつお聞きしたいことがあるんですが・・」
「何だ?」
「僕と同じ顔をした女の子に会ったって言ってましたよね?どんな子だったんですか?」
「同じ名なのは顔と名前だけだ。性格は全く違ったな。まぁ、もう二度と会うことはないだろうが。」
有匡がそう言って妻に微笑むと、彼女は笑顔を彼に見せた。
「もしかして、違う世界に先生と同じ顔した人が居たりして。」
「まぁ、そうなったらおもしろいな。」
有匡の脳裡に、もう一人の“火月”の顔が浮かんだ。
彼女は無事に家族の元へと戻っただろうか。
2012年夏、鎌倉。
火月は再び、鶴ヶ岡八幡宮へと来ていた。
3年前、ここで憧れの陰陽師・土御門有匡と出会い、色々な冒険をした。
だがそんなのはもう昔の事だ。
(まさかまた、茂みの近くかどっかで倒れてたりして・・)
火月はそう思いながら、きょろきょろとあたりを見渡すが、そこには誰も居なかった。
あの後、彼女は叔母夫婦と正式に養子縁組をし、彼らの養女となった。
今はあの家を出て東京のアパートで一人暮らしをしているが、月に数回は実家に帰っている。
(明日から仕事かぁ~、嫌だなぁ・・)
そう思いながら火月が溜息を吐き、石段を降りていると、途中で少年二人組とすれ違った。
一人は精悍な顔つきをしたスポーツマンタイプで、もう一人は華奢な身体をした少年だった。
初めて会ったというのに、火月は彼らを何処かで見たような気がした。
(気の所為だな、きっと。)
電車に揺られ、文庫本を火月が読んでいると、バッグの中にしまっていた携帯が鳴った。
「もしもし?」
『あ、火月?あのさぁ、今日は何か予定ある?』
「ないけど、どうしたの?」
『実はねぇ、合コンがあるんだけど、メンバーが足りないのよぉ、だから来てぇ~!』
「え~、あたし今鎌倉から帰るとこ・・」
『7時に赤坂のアッピアって所で待ってるから!』
友人は一方的にそうしゃべると、火月の返事を待たずに通話を切り上げた。
(ったくもう、勝手なんだから・・)
火月は溜息を吐き、仕方なく合コンに参加する事にした。
「火月、ここよ~!」
友人に指定されたイタリアンレストランに着くと、彼女はそう言って火月に向かって手を振って来た。
「皆さん、紹介します。あたしの友達の西田火月さんです。」
「どうも宜しく・・」
合コンのメンバーは、一流企業に勤めるエリート達だった。
火月の他に自分を誘った友人達はそれぞれの相手と盛りあがっているが、彼女は少し居心地の悪さを感じていた。
はっきり断るんだった―そう思いながら火月が適当な言い訳を考えている時、自分の前に座っている男と目が合った。
「つまらないですよね?」
「まぁ・・そうですけど・・」
「メンバー合わせってだけで興味ないのに連れて来られるって、何だか嫌ですね。」
「確かに。もうあの人達自分達の事に必死なんで、さっさと帰っちゃいます?」
「そうですね。駅まで色々と話しましょうか?」
火月はそう言うと、男性と共にレストランから出て行った。
「自己紹介が遅れましたね。わたしは土御門義人(よしひと)と申します。」
「変わった名前ですね。土御門っていうと、あの土御門有匡の・・」
「ええ、直系の子孫です。残念ながら、力はありませんが。」
そう言って土御門義人はクスリと笑った。
その横顔が有匡に少し似ていると火月は思いながらも、彼と楽しく話しながら帰路に着いた。
「ではまた。」
「さようなら。」
まさか有匡の子孫に会うだなんて思いもしなかったが、彼となら上手くやっていけそうだ―火月はそう思いながらホーム滑り込んだ電車に乗り込んだ。
暫く電車に揺られていると、義人からメールが来た。
『明日、会えますか?』
彼女はそのメールに“イエス”とすぐに返事を打った。
―完―
作者様・出版社様・制作会社様とは一切関係ありません。
「そなたが、土御門有匡か。」
仕事を終わらせ、後宮にいる火月の元を訪ねようとした有匡は、雄仁の部下に呼ばれ、彼の部屋を訪れた。
「はい、雄仁様。」
「面を上げよ。」
有匡が顔を上げると、そこには凛々しくも雅な雰囲気を纏った青年の姿があった。
「女と見紛うごとき美貌じゃ。執権がお前を離さぬのは解る気がするのう。」
「戯言をおっしゃいますな。それで、ご用件は?」
「用は、東宮を失脚させてはくれぬか?」
「東宮様を・・ですか?」
「そうじゃ。生母の身分が高い故、あやつは無能な癖に東宮の地位を与えられておる。乳兄弟の光成が居らねば着替えも満足に出来ぬ奴が東宮など、笑止!」
雄仁はそう言うと、扇子を閉じた。
「恐れながら雄仁様、わたくしは東宮様たっての願いによりこの宮中に戻りました次第でございます。」
「ふん、そなたは奴の味方をするのか。まぁよいであろう。いずれは痛い目を見るであろうの。もうよい、下がれ。」
「は・・」
雄仁の元から下がった有匡は、溜息を吐いた。
どうやら自分が思っていた以上に、宮中では東宮派と雄仁派と二つの派閥に別れて、生き馬の目を抜く闘争が繰り広げられているようだ。
政の世界でも凄まじいのだから、後宮ではさぞや弘徽殿女御が幅を利かせているのだろう。
そう思うと有匡は火月の事が心配になり、後宮へと向かう足が自然と急ぎ足になった。
「火月様、東宮様から文が。」
「東宮様から?」
火月が自室で子ども達と寛いでいると、東宮付の女房がそう言って文箱を火月に差しだした。
東宮からの文は、昨夜の無礼を詫びる旨とともに、今宵の宴に来て欲しいと書かれてあった。
「東宮様からの文には、何て?」
「宴に来て欲しいって。どうお返事すればいいのかなぁ?」
「今朝あんな事があったからねぇ、遠慮しないと。」
「そうそう、弘徽殿女御様に目をつけられたら困るし。」
種香と小里はそう言ったが、東宮の事が気に掛かり、火月は彼の宴に出席する事にした。
「なに、東宮様が宴を?」
「はい。如何なさいますか、女御様?」
「決まっておる。妾も宴を開く。まぁ今はどちらの宴に出るか、宮中の者は皆決めておろうな。」
「そうでしょうとも。」
弘徽殿女御は、意地の悪い笑みを口元に浮かべた。
「ねぇ、東宮様の宴に出ちゃって大丈夫なの、火月ちゃん?これで弘徽殿女御様に目の敵にでもされたら・・」
「大丈夫だって、少し顔を出すだけだから。でも一人だと心配だから、お姉さんたちにもついて来て欲しいんだけど。」
「ま、北の方様のお願いとあっては断れないわね。」
火月は種香と小里とともに東宮殿へと向かうと、途中で雄仁に会った。
「これは、雄仁様・・」
火月はさっと扇子で顔を隠したが、雄仁はジロリと彼女を見た。
「そなたが、土御門有匡の妻か?」
「はい、火月と申します。」
「そうか。東宮の宴に出るとは、物好きな女子よの。せいぜい木偶の坊に媚でも売るがよい。」
高笑いしながら去っていく雄仁を、種香達はあきれ顔で見送った。
「態度でかいわねぇ、あのガキ。」
「どうせ親の七光りでしょ。」
「あんなの気にしなくてもいいわよ。」
「そうだね・・」
火月が東宮殿で催される宴に出席すると、そこには誰も居なかった。
「火月よ、来てくれたのか。」
「他の方々はどちらに?」
「皆義母上の宴に出ておる。木偶の坊の我よりも、義母上の宴の方が面白うて良いのだろう。」
そう言った東宮の顔は、今にも泣きだしそうだった。
「そんな事はございませんよ、東宮様。」
「火月よ、そなたも我の我が儘に振り回されてうんざりしておるのだろう?どうせ我は誰からも見捨てられた存在なのじゃ。」
東宮は盃に酒をなみなみと注ぎ、それを一気に飲み干した。
「まぁ東宮様、そんなに飲まれてはお体に障ります。」
「良いのだ、我が死んでも誰も悲しむ者など居らぬ。」
「いい加減になされませ、東宮様!」
不意に下座に控えていた光成が突然階を駆け上がると、東宮の頬を打った。
「わたしが居るではありませぬか!何故そのような悲しいことをおっしゃられるのです!」
「光成・・」
「死ぬなどと・・死ぬなどともう二度とおっしゃらないでください!」
「済まぬ、そなたの気持ちも考えずに。」
光成はそっと東宮の手を握った。
「光成、そなたは我の側に居てくれるか?」
「ええ、居りますとも。」
光成と東宮の姿を、火月は笑顔で見ていた。
「では東宮様、僭越ながらわたくしが和琴を披露致しましょう。」
火月はそう言うと、和琴を弾き始めた。
「いやいや、盛況ですなぁ。」
「まぁ、今を時めく弘徽殿女御様の御子・雄仁様が開く宴とあっては、断る者など誰も居りますまい。」
「さぁ、どうでしょう。この華やかな場に、あの陰陽師の姿がないですよ。」
公達達は、そう囁き合いながら扇子の陰で笑った。
「あの陰陽師の姿が見えぬな?」
「申し訳ございませぬ女御様、あの者は突然急用が出来たとかで・・」
「ふん、生意気な男よ。あくまで東宮側に与するか。頭の切れる男と思うておったが、妾の見当違いだったようじゃ。」
弘徽殿女御はそう言うと、篝火に誘われて自分の元へとやって来た蛾を指で潰した。
「あの者・・光成と申したか?東宮の味方はあの者だけじゃ。」
「はい女御様、光成は東宮様と乳兄弟ゆえ、東宮様に対する献身ぶりは・・」
「あの者、妾の側に引き込まねばのう。」
「女御様?」
弘徽殿女御の女房・茜が主を見ると、彼女は口端を歪めて笑った。
「東宮を・・あの忌々しい木偶の坊を宮中から追い出すには、奴を孤立無援にすることじゃ。」
(一体何をお考えなのかしら?良からぬ事が起きなければよいけれど・・)
火月が爪弾く和琴の音色に誘われ、有匡が東宮殿へと向かうと、そこには笑顔を浮かべている東宮の姿があった。
「あ、先生。」
「昔と比べて随分上手くなったものだな。」
「酷い。昔の音色の事は忘れてください!」
「済まなかった。それよりも、東宮様の笑顔は初めて見たな。」
有匡はそう言って、夫婦のように仲良く寄り添う東宮と光成の姿を見た。
「光成様がいらっしゃるから、東宮様は安心されているのでしょう。東宮様にとって、彼はなくてはならぬ方なのでしょうね。」
「そうだな。人は独りでは生きてゆけぬ。わたしはお前と出逢う前、独りで生きてゆけると思っていたが、それは間違いだったようだ。」
有匡はそっと火月を抱き締めると、彼女の唇を塞いだ。
「お前と会えて良かった。」
「僕もですよ、先生。」
月明かりの下、二組の恋人達は穏やかな時間を過ごしていた。
1334年初夏。
火月は元気な男児を無事出産した。
「良く頑張ったな、ありがとう。」
産室に入って来た有匡は、そう言うと妻の腕に抱かれている赤子を見つめた。
「無事に産まれてくれて良かったです。雛と仁も兄弟が増えて嬉しいって。」
「これで鎌倉に帰れたら、もっと良いのだが。」
有匡の言葉に、火月は顔を曇らせた。
東宮によって宮中での暮らしが始まって半年が過ぎたが、鎌倉に戻る目処はついていない。
「父上!」
仁が産室に入ってくるなり、有匡に抱きついた。
「どうした、仁。今まで何処に行ってたんだ?」
「東宮様の所へ行ってました。東宮様は歌や笛を教えてくださいました。」
「そうか。」
半年前、塞ぎこんでいた東宮は、今や仁に笛や歌を教えるようになった。
東宮は仁の事を実の弟のように可愛がり、仁もまた東宮を兄のように慕っていた。
「途中、雄仁様にお会いいたしました。お母君の威光を笠に着て、相変わらずの威張りようでした。」
「こら仁、そんな事を言うな。」
有匡はそう言うと、仁の頭を小突いた。
陰謀渦巻く宮中に於いて、軽はずみな発言は命取りだ。
「申し訳ありません。ですが父上、宮中は堅苦しくて息が詰まります。」
「もうしばらくの辛抱だ。」
有匡は仁の頭を撫でながら、弘徽殿女御がどんな手を打ってくるのかを考えていた。
「先程廊下で会うた子ども、仁といったか。聡い瞳をしておったな。」
雄仁(ひろひと)はそう言って気だるそうに脇息に凭れかかった。
「有匡の長男、仁の事でございますか。あの少年、父親に似て洞察力が鋭いところがございます。流石元陰陽頭(おんみょうのかみ)を祖父に持つと・・」
「今、何と申した?」
「いえ、ただの戯言です。どうぞ捨て置いてくださりませ。」
「申してみよ。そなたの胸に留めておくには勿体ない。」
雄仁はそう言うと、臣下の公達を見た。
突然雄仁から宴に招かれ、有匡は嫌な予感しかしなかったが、誘いを断ることもできずに宴に出ると、集まっていた公達達が一斉に彼を見た。
「有匡よ、来てくれて嬉しいぞ。」
「雄仁様、本日はお招きいただきありがとうございます。」
有匡がそう言って雄仁に頭を下げると、彼はにやりと笑った。
「此度の若君の誕生、祝いを申すぞ。そなたの息子であるから、さぞや聡い子に育つであろうな。」
「ありがたきお言葉にございます。」
「そなたの父君・有仁(ありひと)も、聡い息子を持って誇りに思うておったことだろうな。」
雄仁の口から有匡の父・有仁の名が出た途端、場の空気が瞬時に凍りついた。
「何でも陰陽頭を務めておった、大変優秀な男だとか。そなたの優秀(きれもの)ぶりはきっと父親似であるのだろうな。」
有匡は頭を下げたまま、唇をぎりりと噛み締めた。
宴に自分を呼んだのは、公然の場で自分を辱める為だ。
自分にとって一番突かれたくない弱点を突いてまで、雄仁は己が優位である事を示したいのだ。
そんな幼稚な嫌がらせに付き合っていられるほど、暇ではない。
「お言葉ですが雄仁様、あなた様の良く回る舌とその傲岸不遜な態度、まさに母君様譲りであらせられまするな。」
有匡の言葉を受け、雄仁の顔がみるみる怒りで赤くなった。
「腹違いといえども兄である東宮様を蔑ろにし、このような場で一介の陰陽師であるわたくしを辱めるとは、それはどなた様の入れ知恵でございますか?あぁ、そのような所は母親似なのでしょうな。」
有匡がそう言葉を切ると、膳が派手にひっくり返る音がした。
「そなた、黙って聞いておればぬけぬけと!」
漸く有匡が顔を上げると、雄仁(ひろひと)は怒りで身体を震わせ、拳を握りしめていた。
「何をおっしゃいますか、わたくしはあなた様におっしゃられた事を言い返したまでのこと。ではこれで失礼を。」
有匡はそう言って雄仁に背を向けて歩き出すと、背後から彼の怒鳴り声と皿が割れる派手な音が聞こえた。
「雄仁様、気をお鎮めくださいませ!」
「あの陰陽師の戯言など、聞き流せばよいのです!」
重臣たちが宥めても、雄仁の怒りはなかなか収まらなかった。
「おのれ有匡、許さぬ!」
雄仁は怒りで顔を歪ませ、有匡への憎しみを募らせた。
雄仁が開く宴の席で有匡が暴言を吐いたことは、瞬く間に宮中に広がった。
「これからどうなることやら、あの雄仁様を怒らせるとは。」
「全く・・」
「家族ともども追放されかねませんわね。」
女達はひそひそと囁きを交わしながら、ちらちらと火月を見た。
「気にすることないわよ、火月ちゃん。あのクソガキが殿を挑発したんだから、やり返されて当然よ。」
「そうそう。弘徽殿女御様譲りだものねぇ、あの性格は。」
種香と小里がそう言いながら針仕事をしていると、仁が部屋に入って来た。
「母上~!」
「どうしたの、仁?」
仁の目の上には、引っ掻き傷があった。
「雄仁様が、僕のことを櫛で引っ掻いた!」
「まぁ、何ですって?」
「あのガキ、殿では飽き足らず、仁ちゃんまで!ちょっとあたし抗議に行ってくるわ!」
小里がそう言って鼻息を荒くしながら部屋を出ようとしたが、火月が彼女を止めた。
「僕が雄仁様にお会いするよ。仁も連れてね。」
「大丈夫なの、火月ちゃん?殿は今播磨へ出張中なのに、もし何かあったら・・」
「大丈夫。」
火月はそう言って仁の手をひき、雄仁の元へと向かった。
「雄仁様は体調がすぐれず、誰にもお会いしとうないと申しておる。」
火月が息子を連れて雄仁の寝所へと向かうと、雄仁付の女房がそう居丈高な口調で彼女達を追い払おうとした。
「息子の顔を櫛で引っ掻いておいて、体調が優れぬとは・・雄仁様はひきょう者でございますね。」
「何だと?そなた今何と申した!」
「自分よりも弱い者を虐げる癖に、自分が何か言われると逃げるのですか、雄仁様は?そのような臆病者に、帝など務まりますものか。」
火月がそう言葉を切ると、女房は憤怒の表情を浮かべて腕を振り上げた。
「やめよ。」
御簾が乱暴に上げられ、雄仁が彼女の手を掴んだ。
「ですが雄仁様・・」
「俺は臆病者ではない。そなたも有匡と同じように母の威光を笠に着ていると思っているようだが、俺はそんなことは微塵も思うてはおらぬ。」
「そうですか?では何故息子に手を上げたのです?」
火月の真紅の双眸が、怒りで滾った。
たとえどんな理由が彼にあるとしても、息子に手を上げたことは許されないし、一生許さない。
「それは、そやつが俺を馬鹿にしたからだ。」
「馬鹿にしてはおりませぬ。ただ真実を申し上げたまでです。」
雄仁の言葉を聞いた仁はそう反論し、彼を睨んだ。
「真実?俺の悪口を言った癖に、それが真実だと申すのか?」
雄仁の眦が上がり、美しい彼の顔が怒りで険しくなった。
「一体何を言ったの、仁?わたしにも話してごらん。」
火月はそう言って腰を屈めて息子を見ると、彼は次の言葉を継ぐために口を開いた。
「雄仁様が、東宮様を馬鹿にしたのです。」
仁の話によると、彼がいつものように東宮から和歌を習っていると、偶然そこへ雄仁が通りかかったという。
「木偶の坊でも歌を詠めるとは、意外だな。」
腹違いの兄に対して雄仁(ひろひと)はそう言って鼻で笑うと、数人の取り巻き達は東宮をせせら笑った。
実の兄同様に慕っている東宮を馬鹿にされ、仁は思わず今まで溜まっていた鬱憤を雄仁に対して爆発させてしまった。
「あなたのような方が、品性下劣で強欲な卑しい生まれの母君様に似ておいでだとは、良く解りました。あなたが帝になられたら、この国は崩壊いたしますな!」
母親と自分を愚弄され、雄仁は怒りの余りそばにあった柘植の櫛を掴み、それで仁の顔を引っ掻いた。
「確かに、息子はあなた様に礼を欠いてしまわれたことは謝りましょう。ですが、無抵抗の息子の顔を傷つけるなど、許されぬ事はありません!」
火月がそう叫んで雄仁を睨み付けると、一歩彼の前に進み出て彼の頬を平手で打った。
「何をする、貴様!」
「これで済んで良かったとお思いになされませ!夫にはこの事をご報告いたしますゆえ!」
そこから火月はどうやって自分の部屋に戻ったのか、覚えていない。
それほどまでに、怒りで全身の血液が沸騰しそうだったのだ。
「母上、僕は大丈夫ですから。」
柘植の櫛を握り締めている母が今何を思っているのかを察した仁がそう声を掛けると、彼女は仁を抱き締めた。
「仁、痛かったでしょう?良く我慢したね。」
「嫌な相手には涙は見せませぬ。怒りも致しませぬ。そうすると相手の思う壺ですから。」
恐らく有匡から言い聞かせられたのだろうか、仁はそう言った後涙で瞳を潤ませた。
「父上には仁がとてもいい事をしたと伝えておくから、もう休みなさい。」
「はい、おやすみなさいませ、母上。」
仁が寝所へと下がった後、火月は種香達に昼間の事を報告した。
「んまぁ、そんな事で仁ちゃんを殴ったの?ったく、精神年齢が低いわね!」
「火月ちゃんは悪くないわよ。全くあのクソガキ、一度締めてやろうかしら!」
二人が怒り心頭でそう話していると、有匡が帰ってくる気配がした。
「殿、お帰りなさいませ。」
「どうした、何かあったのか?」
播磨からの出張から有匡が帰ると、種香達が火月と雄仁との事を報告してきた。
「火月は今どうしている?」
「火月ちゃんなら部屋で休んでますわ。あのクソガキ、一体誰に似たのやら!」
「仁様、クソガキに暴力を振るわれても泣かなかったそうですわ。殿に似て強い子ですわね。」
「そうか・・」
式神からの報告を受けた後、有匡は仁の部屋へと向かった。
御帳台の中で眠る彼の目には、涙が滲んでいた。
そしてその目の近くには、櫛で引っ掻かれた赤い痕がまだ残っていた。
痛くて堪らなかっただろうに、泣くのを我慢した息子が有匡は愛おしかった。
彼がそっと仁の髪を梳くと、彼は低い声で唸って目を開けた。
「起こしたな。」
「父上、お帰りなさいませ。父上にご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。」
「謝るな。わたしはお前を誇りに思うぞ、仁。」
「ありがとうございます。」
「このままだと痕が残るから、わたしが治してやる。」
有匡はそう言うと、呪を唱えて仁の傷口に手を翳した。
「これで良くなった。さぁ、お休み。」
「お休みなさい、父上。」
仁が隣ですやすやと寝息を立て始めているのを眺めながら、弘徽殿女御と雄仁親子との全面対決は避けられないと思った。
翌朝、東宮の乳兄弟・光成は突然弘徽殿女御に呼ばれて後宮へと向かうと、そこには雄仁が居た。
「お話とは何でござりましょうか、女御様?」
「そなた、妾の側につかぬか?」
女御の言葉を受け、光成は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「女御様、今なんと仰せに・・」
「東宮を切り、妾と手を組めと申しておる。光成よ、やがてはこの雄仁(ひろひと)が日の本を統べる帝となろう。その日まで、そなたの力を貸して欲しいということじゃ。」
「ですが、女御様、わたくしは・・」
「何故お前はそうも東宮様に義理だてする?」
弘徽殿女御はそう言うと、御簾を上げて光成の前に腰を下ろした。
「乳兄弟として、わたくしは東宮様をお守りするお役目がございます。東宮様の味方は、わたくししかおりませぬ。」
「素晴らしい兄弟愛じゃ。だがこの世で情だけでは渡ってはいけぬ。確かそなたには、姉が藤壺女御に仕えておろう?」
「左様でございますが・・何故そのような事を?」
光成の姉・雪子が仕える藤壺女御は、弘徽殿女御と後宮内の権力を二分していた。
藤壺女御には現在息子が二人おり、二人とも雄仁に負けず劣らず優秀な皇子達である。
「妾を邪魔立てする者は生かしてはおけぬ。光成よ、これを姉の元へ届けて参れ。」
弘徽殿女御がそう言ってすっと光成の手に握らせたのは、薬だった。
「これは?」
「毎日、これを皇子達に飲ませるようそなたの姉に伝えよ。」
「では、わたくしはこれで失礼致しまする。」
「必ず伝えるのじゃぞ。」
弘徽殿女御は去って行く光成に対して念を押すと、雄仁の方へと向き直った。
「あ、光成様!」
廊下の向こうから溌剌とした声が聞こえたかと思うと、有匡の長男・仁が光成に駆け寄ってきた。
「おはようございます。何か弘徽殿女御様から東宮様の悪口を言われましたか?」
「そなたは弘徽殿女御様の事がお嫌いか?」
「嫌いでございます。父上や母上も、今回の事でお二人を嫌うております。」
そう言った仁は、まっすぐな瞳で光成を見た。
「光成様、もしや弘徽殿女御様に東宮様を切れと仰せになられたのでございますか?」
いくら平然を装っていても、仁には光成の変化が判ったらしい。
「ああ。だがわたしがお仕えするは東宮様のみ。」
「それを聞いて安心いたしました。光成様、それは?」
光成が弘徽殿女御から渡された薬を見た仁は、何か嫌な予感がした。
「東宮様のお身体が優れぬゆえ、特別に薬師に作らせた薬だそうだ。」
「光成様、その薬、僕に渡してくださいませぬか?何だか嫌な予感がするのです。」
「仁、それをどうするつもりだ?」
「父上にお見せいたします。まだ子どもです故、薬の事は判りませぬので。」
「そうか。有匡殿に宜しく伝えよ。」
光成はそう言うと、仁に薬を渡した。
「ではこれにて失礼致します。」
仁は光成に頭を下げると、父の職場である陰陽寮へと向かった。
陰陽寮では、有匡がいつものように仕事をしていると、梨壷女御付の童がやって来て、彼に文を渡した。
「これは?」
「女御様に頼まれましてございます。すぐに梨壷へおいでなされませ。」
「解った。」
梨壷女御は後宮の権力争いとは無縁の筈だ。
その彼女が何故、陰陽師である自分を呼んだのかー有匡はそう思いながら、梨壷へと向かった。
「お呼びでございますか、女御様?」
「そなたが土御門有匡か。」
御簾越しに見える梨壷女御の顔は、少し強張っていた。
「最近、弘徽殿女御が良からぬ事を企んでおるらしい。」
「良からぬこと、でございますか?」
有匡がそう言って梨壷女御を見ると、彼女は静かに頷いた。
「父上、ここに居られましたか。」
梨壷女御と有匡が同時に振り向くと、そこには仁が立っていた。
「仁、どうした?」
「先程光成様にお会いして、この薬を弘徽殿女御様から渡されたと。」
仁はそう言うと、有匡に薬を渡した。
「それは、唐渡りの毒薬じゃ。」
梨壷女御が薬を見て声を上げた。
「左様でございますか、女御様?だとすれば、何故このような物騒なものを弘徽殿女御様がお持ちに?」
「決まっておろう。自分にとって目障りな藤壺女御とその皇子達を殺す為だ。」
「何と・・」
強欲な弘徽殿女御がいかにも考えそうな事だが、何の罪もない幼子にまで手を掛けようとするとは。
我が子を帝位に就かせる為に、どこまで彼女は己の手を穢せば気が済むのだろうか。
「光成様は何と?」
「弘徽殿女御様からお誘いをお受けしたそうですが、断ったそうです。父上、何だか嫌な予感が致します。」
仁はそう言うと、有匡に抱きついた。
「もし弘徽殿女御様のつまらぬ野望に僕達が巻き込まれでもしたら・・」
「心配するな、そんな事はさせない。」
彼女が何を企んでいるのかは知らないが、妻と子ども達を守らねばー有匡は我が子を抱き締めながら、新たに決意を固めた。
一方、火月は三人目の子・匡仁(まさひと)に乳をやっていると、そこへ藤壺女御の一の皇子・昌成(まさなり)がやって来た。
「これは一の宮様、何かご用でございますか?」
火月がそう言うと、昌成は彼女の乳を吸っている匡仁をじっと見つめていた。
「赤子は女の乳を飲んで大きくなるのか?」
「左様でございます。昌成様も、お母君の乳をお飲みになられて成長なさったのですよ。」
「わたしは乳母(めのと)の乳を飲んで育った。母上はわたしや惟人(これひと)に余り関心がないのだ。」
昌成の言葉に、火月は藤壺女御が二人の息子達に関心を寄せていないことを知り、胸が痛んだ。
「そんな事はございませんよ。母親なら我が子が可愛くて仕方がないものでございます。女御様は色々とお忙しいのですよ。」
「そうか・・」
長男・仁と数歳しか違わず、次期帝と名高い昌成であったが、9歳の少年は母親の愛情に飢えていた。
「お母様!」
「まぁ、雛(すう)、それはなぁに?」
娘の手に握られている牡丹を見て、火月は彼女に声を掛けた。
「匡仁とお母様に持って来たの。」
「まぁ綺麗だこと。ありがとう。」
楽しく語らう火月と雛を、昌成は羨ましそうに見ていた。
「昌成様、こちらは娘の雛と申します。雛、こちらは昌成様ですよ、ご挨拶なさい。」
「初めまして、雛と申します。」
そう言って自分に挨拶した金髪紅眼の美しい少女に、一目で昌成は心を奪われた。
「昌成、何処におる?」
「母上が呼んでおるから、もう行かねば。またな、火月。」
昌成が火月の部屋から出て母の元へと向かうと、そこには仏頂面の彼女が御簾の向こうに座っていた。
「弘徽殿女御め、ふざけた事を。我が子を差し出せとは・・」
「落ち着かれませ、女御様。あの女の戯言など真に受けてはなりませぬ。」
そう言って母を宥める女御の言葉に、自分がいつの間にか権力闘争に巻き込まれていることに昌成は漸く気づいた。
その夜、梨壷女御が突如目の痛みを訴え、そのまま病に倒れた。
陰陽師や高僧達の加持祈祷のかいなく、病に倒れた梨壷女御は数日後に没した。
宮中が梨壷女御の喪に服している頃、陰陽寮にひとつの知らせが届いた。
それは、京にある廃屋で梨壷女御の名が刻まれた人形が発見されたとのものであった。
「これには呪詛の痕跡がある。梨壷女御様は、何者に呪い殺されたのだ!」
「何と・・」
ざわめく同僚達を尻目に、有匡は淡々と仕事をしていた。
この事件に弘徽殿女御が一枚かんでいると、彼は睨んでいた。
「そうか、あの女が死んだか。」
「はい、女御様。あとは藤壺女御様方を始末するだけでございます。」
「そうじゃな・・慎重に動けよ。」
「はい。」
女房からの報告を受け、弘徽殿女御は檜扇の陰で笑みを浮かべていた。
「これからどうなるのやら。今回の件はきっとあの女の仕業に違いないわ。」
「もしかすると、今度は女御様の身が危ないかも・・」
藤壺女御達に仕える女房達は、梨壷女御の一件で戦々恐々としていた。
そんな緊迫した空気を感じ取ったのか、仁や雛は火月の傍から離れようとはしなかった。
「母上、これからどうなるのでしょうか?」
「さぁ、解らない。二人とも、余り遠くに行ってはいけませんよ。」
「わかりました。」
火月達は弘徽殿女御が梨壷女御呪殺に絡んでいると思いながらも日々をすごていると、季節は初夏から梅雨へと移り変わろうとしていた。
湿度が高い中、連日雨が降り続け、宮中では体調不良を訴える者が相次いだ。
「全く、暑いったらありゃしない。夏物の衣をはやめに用意しといて良かったわね。」
「ええ。」
種香達が衣替えに忙しく動いていると、外から衣擦れの音が聞こえた。
「誰かしらねぇ、こんなクソ忙しい時に。」
「帝のお越しです。」
「えっ!」
突然帝が後宮を訪れたので、女達はあたふたしながら彼を迎えた。
「まぁこれは主上、お忙しいと聞きましたがどのようなご用で・・」
「この局に火月という女房はおるか?」
藤壺女御が帝を出迎えると、彼はそう言って藤壺女御を見た。
「火月でございますか?暫くお待ちくださいませ、呼んで参ります。」
藤壺女御は帝に背を向け、火月の部屋へと入って来た。
「火月、帝がお呼びじゃ。」
「え?」
有無を言わさず藤壺女御に手を掴まれ、火月は帝の元に連れて行かれた。
「お初にお目にかかれます。火月と申します。」
「そなたが火月か。まこと、美しき金の髪をしておる。」
帝はそう言うと、火月の金髪を一房掴んだ。
「あの・・わたくしに何の用でございますか?」
「梨壷女御が呪殺され、呪詛の人形が発見されたことは知っておろう?」
「はい・・」
「実はな、そなたが人形を埋めたところを見たと申す者がおってな。」
「僕が、ですか?」
火月の真紅の双眸が、驚きで大きく見開かれた。
「まぁ主上、この者がそのような事をするなど思いませぬ。何かのお間違いではありませぬか!」
藤壺女御はそう言うと、火月を庇った。
「主上、その証人とやらは何処のどなたなのですか?即刻この場にお連れ下さいませ。」
「いや・・それはその・・」
彼女から詰問された途端、帝は奥歯に物が挟まったような言い方をした。
「一体どなたなのです?さぁ、教えて下さりませ。」
藤壺女御が問い詰めると、帝の目が泳ぎ始めた。
「確たる証拠もなしにわたくしの女房をお疑いにならないでくださいませ。」
「す、済まぬ・・」
これ以上藤壺女御に責められたくなかったのか、帝は早々に藤壺から辞していった。
「気をしっかり持て、火月。そなたが呪詛などする筈がない。」
「はい、女御様。」
頼もしい主を持って幸せだと、火月はこの時思った。
梅雨が終わろうとしている頃、火月は体調を崩した。
「大丈夫か、火月?」
「大丈夫です。季節の変わり目だから風邪でもひいたんでしょう。」
火月はそう言って夫を安心させようとした。
「もしかしてお前、妊娠したか?」
「そんな・・まだ匡仁が産まれて三ヶ月しか経っていないのに。」
火月が気だるそうに御帳台から起き上がると、有匡は下腹に手をやった。
そこには、生命の胎動は感じられなかった。
「どうやら違ったようだ。」
「何だ。早とちりし過ぎですよ、先生。」
「そうだったな。火月、後で薬湯を種香に届けさせるからちゃんと飲むんだぞ?」
「え~、あんな不味いの要りません!」
火月が嫌そうに言うと、有匡は少しムッとした。
「お前の為を思って言ってるんだ。」
「解りました。飲めばいいんでしょ!」
「お前なぁ~、何だその言い方は!」
有匡と火月が夫婦喧嘩をしていると、几帳の陰からその様子を仁と雛が見ていた。
「また始まったわね、父上と母上。」
「そうですね。では姉上、僕は東宮様のところへ行って参ります。」
仁はそう言うと、東宮殿へと向かった。
同じ頃東宮殿では、東宮が光成が自分の下に来るのを待っていた。
だが彼はいつまで経っても来る気配がなかった。
(どうしたのだろう、光成は?)
彼の事が心配になった光成は、彼が行きそうな所を探して回った。
しかし、何処にも彼の姿はなかった。
一体彼は何処に消えたのかー不安に駆られながら東宮が部屋へと戻ろうとした時、向こうの渡殿から数人の話し声が聞こえた。
「今こそ、東宮様を廃嫡されるべき・・」
「梨壷女御様の件も、東宮様が企んだことに違いない・・」
「そうじゃ。」
また誰かが自分の悪口を言っていると知り、東宮は早くその場から離れたかった。
だが、公達の中に光成の姿がある事に気づいた彼は、驚きで目を見張った。
「光成殿、そなたは如何致す?」
「何をおっしゃっておられる。東宮様は呪詛などなさらぬ。」
「そなた、弘徽殿女御に飼われておる犬の癖に、東宮様を庇うのか?」
「それは誤解だ、わたしはあの女とは何も・・」
光成がそう言った時、視線の端に驚愕の表情を浮かべた東宮の姿が映った。
「東宮様・・」
「寄るでない、裏切り者!」
光成は東宮に近寄ると、彼は邪険に光成の手を払った。
「そなただけは味方だと思うておったのに・・」
「東宮様・・」
「許さぬ、決して許さぬぞ、光成!」
涙を瞳で滲ませながら、東宮は光成の頬を張った。
「仁、東宮様の所へ行ったのではなかったのか?」
「はい父上、ですが東宮様はお身体が優れぬと申されて・・光成様のお姿も見えませんでした。」
「光成様が?」
いつも陰に日向に東宮を支え、彼の傍に居る光成の姿が見えない事を知り、有匡は何かが起こると思った。
彼の予感は的中し、光成の姿が宮中から消えた。
「光成様が急に消えるなど・・一体何が?」
「恐らく彼も弘徽殿女御様に取りいれられたのだろうよ。強欲な女ほど、恐ろしいものはない。」
「全くだ。」
やがて光成が消えたのは弘徽殿女御の指示であるという噂がまことしやかに流れ、自分の思惑通りに事が動いていることを知った弘徽殿女御は口元に悠然とした笑みを浮かべながら、雄仁と碁を打っていた。
「次の手はどう打たれるのですか、母上?」
「馬鹿もの、妾がそなたに教えるものか。」
「そうおっしゃると思いましたよ。これで光成が宮中から追放されれば、我らの思う壷です。」
「そうじゃな。」
静かな部屋に、碁の打つ音が響いた。
光成が消えてからというもの、体調を崩した東宮は食事も喉を通らず、ひたすら彼の無事を祈っていた。
「東宮様、お気を確かに。必ず光成様は戻って参ります。」
「そうだな・・」
火月の励ましも、東宮は上の空で聞いていた。
「何か一曲弾きましょう。」
火月がそう言って和琴を部屋に取りに行こうと戻ったところ、そこには有匡が居た。
「先生、どうされたんですか?」
「その様子だと、すっかり良くなったようだな。」
「ええ。でも東宮様は相変わらずで・・光成様もどちらにいらしているのか解らないし。あ、東宮様をお待たせしてあるので、僕は戻らないと。」
「わたしも行こう。」
有匡と火月が東宮殿へと向かうと、そこから数人の女房達の悲鳴が聞こえた。
「雄仁様、どうか気をお鎮めに・・」
「黙れ、この場で木偶の坊を叩き斬ってくれる!」
太刀を東宮に向かって振り下ろそうとした雄仁の前に、火月が立ち塞がった。
「おやめ下さいませ、雄仁様!」
「黙れ!」
雄仁が太刀を振り下ろし、辺りに血しぶきが飛び散った。
「火月、無事か!」
有匡は血相を変えて火月の元へと駆け寄ると、彼女は無事だった。
雄仁の方を見ると、彼は自分の刃を受けた光成を前に呆然としていた。
「光成、光成!」
御簾が乱暴に捲られ、東宮が背に刃を受けたままの光成の元へと駆け寄った。
「東宮様・・お許しを・・わたしは・・」
「光成、しっかりしろ!」
「光成、死ぬでないぞ!」
東宮は光成の身体を揺さ振りながら、必死に彼に呼びかけていた。
「誰か、薬師を之へ!」
「はい、東宮様!」
雄仁が刃傷沙汰を起こしたと知り、宮中は俄かに蜂の巣をつついたかのような騒ぎとなった。
「お前は一体何てことをしてくれたのじゃ!」
「申し訳ありませぬ、母上。」
弘徽殿女御から叱責を受け、雄仁は項垂れた。
「これで光成が死んでみよ、今まで築き上げてきた妾の地位が、そなたの所為で水泡に帰すのじゃぞ!」
「母上、わたしは・・」
「もうよい、下がれ!」
弘徽殿女御はそう言って雄仁を自分の部屋から追い払った。
「あら、あれは・・」
「雄仁様ではないの。」
「何でも東宮様の従者を手にかけようとなさったとか。」
「恐ろしいこと。」
廊下を歩いていると、御簾の向こうから女達が囁き合う声が聞こえた。
かつて「光る君」と呼ばれ、讃えられていた雄仁は、「異母兄を手に掛けた恐ろしい方」と呼ばれる事に成り、彼の周りからは徐々に人が離れていった。
一方、雄仁の刃に倒れた光成の容態は、余り芳しくなかった。
「光成、しっかりせい!まだ我を残して死ぬでない!」
東宮は寝る間も惜しまず光成の看病をしていたが、やがて無理が祟り彼も倒れてしまった。
「東宮様、後はわたくしどもにお任せを。」
「頼むぞ、有匡。」
有匡が光成の部屋に入ると、そこは血の臭いで満ちていた。
彼が受けた傷は肺まで届いており、もしかしたらこのまま助からないかもしれない。
「う・・」
「光成殿、気がつかれたか?」
「有匡・・殿?」
光成は低く呻くと、そう言って有匡を見た。
「わたしは、一体・・」
「あなたは雄仁様の刃を受けたのですよ、憶えておられないのですか?」
「そうでしたか・・」
光成は苦しそうに息を吐くと、目を閉じた。
「有匡殿、どうか東宮様をお守りください。」
わたしの代わりに、と光成がそう言葉を継ごうとすると、有匡は光成の手を握った。
「東宮様にはあなたしか居られません。」
「そうですか・・では、まだ東宮様をお一人にはできませんね。」
「この部屋には少し陰の気が満ちております故、浄化いたしましょう。」
有匡は光成の部屋を浄化すると、少し彼の顔色が良くなったように見えた。
「先生、光成様のご容態は・・」
「余り良くない。雄仁様はどうしている?」
「それが、何処に行ったのか解らないようで・・また子ども達に危害を加えられたらと思うと、心配で・・」
「大丈夫だ、わたしがお前達を守ってやる。」
有匡がそう言って火月を抱き締める姿を、雄仁は少し離れた場所から見ていた。
「それにしても、雄仁様が宮中にて刃傷沙汰を起こすとは。聡いお方であったのに、残念ですな。」
「左様、東宮様よりも帝の座に近い者だと思っておりましたのに・・」
「いかがなさいますか、右大臣様?このままだと我らも無傷では済みませんよ。」
とある貴族の邸で、三人の男達が口々にそう言いながら上座に座る男を見た。
彼の名は上原金人、宮中で権勢を誇っている右大臣である。
「暫く様子を見るのがよかろう。早まったことをすると災いとなる。」
「そうでしょうなぁ。」
「右大臣様がそうおっしゃられるのなら、我らも従いましょうぞ。」
「堅いことはもう終いじゃ、宴を楽しめばよい。」
金人がそう言って手拍子を打つと、数人の白拍子が部屋に入ってきた。
(これから気を引き締めねばな・・雄仁様を何としても次の帝にする為ならば、手段は厭わぬ!)
雄仁を時期帝にする為の策を練りながら、金人の脳裏にはあの憎たらしい陰陽師―土御門有匡の顔が浮かんだ。
雄仁を帝にするためには、あの男を宮中から追い出さねばならない。
宮中で刃傷沙汰を起こし、忽然と姿を消した雄仁(ひろひと)の行方を公達達はそれぞれ噂をしていたが、次期帝に近い彼が消えた今、誰が次期帝になるかということが、彼らは一番に関心を寄せていた。
「雄仁様より次に優秀な者は、藤壺女御様の一の宮様であろう。」
「それもそうじゃな。あの方な次の帝になっても申し分ない。」
「いやいや、弟君も優秀と聞く。」
有匡が陰陽寮へと向かっている時、数人の公達がひそひそと次期帝となる者について話し合っていた。
主に彼らが取り上げるのは、藤壺女御の二人の皇子達で、東宮には最初から期待していないようだった。
順に言えば東宮が次期帝になるのだが、帝も公達達も、彼の事を諦めている。
(東宮様が何故幼子のように駄々を捏ねられたのか、解るような気がするな。)
幼き頃から周囲から蔑ろにされ、愛情に飢えているからこそ、わざと駄々を捏ねて他人に関心を寄せて貰おうと思っていたのだろう。
だがそれは逆効果で、周囲はますます東宮を蔑ろにするようになった。
心を唯一通わせられるのは、乳兄弟である光成だけだったが、その彼も今は瀕死の重傷を負ってしまっている。
(どうすればいいか・・)
長年複雑に絡まり合った人間関係の糸を解すには、一日で出来ない事くらい有匡は解っているが、このままにしておくとますます悪化しそうである。
彼がますます激化するであろう宮廷での権力闘争に頭を悩ませている時、右大臣から宴に招かれた。
「そなたが、土御門有匡か。」
今を時めく権力者とあってか、右大臣邸は陰陽道の大家である土御門邸よりも広く、宴の膳も華やかなものであった。
「はい、土御門有匡でございます、右大臣様。」
「そなた、あの東宮様のお側に仕えておるときく。そなたから見て、東宮様はどのようなお人じゃ?」
「そうですね、東宮様は思慮深く、余り己の才能を人前でひけらかしてしたり顔をならさぬ方と存じます。」
「ほう、そなたの見解では、東宮様はそのようなお方か。やれ無能だ、木偶の坊だと周囲は東宮様を蔑ろにされておられるが、違うやもしれぬな。」
「は・・」
一体彼は自分に何を聞き出したいのだろうかと、有匡は緊張した面持ちで右大臣を見た。
「そなた、腕が良いと聞く。今後の事を占って貰えぬか?」
「今ここで、でございますか?」
「そうじゃ。出来ぬのか?」
そう言って自分を見つめる右大臣と、周囲の視線は険しいものだった。
「いいえ。右大臣様のお頼みとあらばいたしましょう。」
有匡は呪を唱えると、精神を集中させた。
目を閉じると、ある光景が浮かんだ。
それは、東宮が帝として善政を敷く姿だった。
「どうであった?帝には誰がなった?」
「東宮様でございます。」
有匡の言葉に、周りに居た者達がざわめき始めた。
「そうか。もう下がってよいぞ。」
「では失礼致します。」
有匡が右大臣邸を辞すと、当の本人は数日前に邸に呼び寄せた男達の元へと向かった。
「あの土御門有匡とやら、一筋縄ではいかぬ男のようじゃ。」
「そうですね、余りボロを出さぬようにしなければ。」
「雄仁様が見つかり次第、密かに計画を進めなければなりません。」
四人は顔を見合わせると、それぞれ扇の陰で笑みを浮かべていた。
雨の中宮中へと参内した有匡が東宮殿へと向かうと、そこには東宮が泣き腫らした目で彼を見た。
「有匡、来てくれたか。」
「東宮様、光成様は・・」
「先程突然血を吐いて苦しみ出して・・薬師はあてにならぬからそなたを呼んだのだ。」
東宮はそう言うと、有匡の手を握った。
「有匡、我は不安で堪らぬ・・光成が、光成が!」
「落ち着かれませ、東宮様。」
有匡が光成の部屋に入ると、彼は蒼褪めた顔を有匡に向けた。
「有匡殿、申し訳ない・・」
「謝らないでください。東宮様が心配されておいでです。」
「そうですか・・東宮様はいつもわたくしの傍におりましたから。東宮様のお母君が亡くなられてから、ずっと・・」
光成はそう言うと、目を閉じた。
脳裏に突然、東宮と出逢った日の事が浮かんだ。
3歳の時に実母を亡くし、継母である弘徽殿女御に虐げられながら育った東宮は、深い孤独を抱えていた。
そんな中、東宮の乳母である光成の母が、我が子同然に東宮を育てた。
光成と東宮が出逢ったのは、母に連れられ初めて宮中へ上がった時だった。
「光成、こちらの方が東宮様であらせられますよ。」
母から紹介されたのは、艶やかな黒髪を下げ美豆良(みずら)に結った、何処か寂しそうな顔をした少年だった。
「初めまして、東宮様。光成と申します。」
「みつなり・・我と友達になってくれるか?」
「はい、喜んで!」
それから色々と悲しい事や辛い事、嬉しい事などがあったが、それを東宮と二人で乗り越えてきた。
だがもうそれも、終わりなのかもしれない。
「嫌じゃ、光成、我を置いて逝くな!」
部屋に入って来た東宮は、涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。
「申し訳ありません・・東宮様。もう、わたしは駄目です・・」
「嫌じゃ!そんなの・・」
「もしも生まれ変わったら・・今度はずっと、東宮様のお傍に・・」
光成はそう言って東宮の頬へと手を伸ばすと、彼に微笑んだ。
「やめろ、まるで別れの言葉のようではないか!」
「東宮様、今までありがとうございました・・あなた様と会えて嬉しかった・・」
徐々に視界が暗くなり、目の焦点が合わなくなってゆく。
(駄目だ・・まだ・・)
「光成、どうした、光成!?」
「東宮様・・あなた様のことを・・愛して・・」
やっとの思いで東宮に愛の言葉を紡ごうとした時、光成の意識はゆっくりと闇へと堕ちていった。
自分の頬を擦っていた光成の手が急に動かなくなってしまったのを感じた東宮は、必死で彼の手を握った。
「光成、何をしておる。起きよ。」
東宮はそう言って笑うと、光成の身体を揺さ振った。
だが、光成の目は二度と開く事はなかった。
「嫌じゃ、光成!我を置いて逝くな!」
「東宮様、落ち着かれませ!」
光成の死に受け止められず、暴れ出す東宮を有匡は宥めた。
「光成、光成ぃ・・」
激しい雨の中、最愛の人に看取られて光成は静かに息を引き取った。
「そうですか、光成様が・・」
「あぁ、残念でならない。暫く東宮様をそっとしておいた方がよいだろう。」
帰宅した有匡はそう妻に言うと、東宮の不安定な精神状態を心配していた。
その頃現代では、高原家の者が“火月”を拉致してある場所へと集まっていた。
そこは、高原家の祭壇が祀ってあるところであった。
台の上には、火月が全身を荒縄で縛られていた。
(一体どうなってんのよ!?)
突然薬品を嗅がされて気絶し、目が覚めたら白装束の集団に囲まれ、自由を奪われていた。
「これで、高原家は安泰です。」
すっと祭壇の前にあの女性がやって来た。
「あんた達、一体何を企んでいるの?」
「企むなど、人聞きが悪い。わたくし達はあなた様の為を思って今こうして集まっているのです。」
「何ですって?そんなの信じられる筈がないでしょう!」
そう火月が喚くと、自分を拉致した男が火月の前に現れた。
「お前は高原家の血を継ぐ唯一の娘。多喜子亡き今、お前が家の務めを果たしてもらわねば困るのだ。」
「だからそれを教えろって言ってんでしょ!耳聞こえないのオッサン!」
「黙れ!」
苛立った男―高親は、そう叫ぶと火月の頬を打った。
「これから儀式を始めるぞ。皆、持ち場につけ。」
「はい、旦那様。」
白装束の集団が一斉に移動し、呪を唱え始めた。
火月はここから何とか逃げ出そうとしたが、荒縄が身体に食い込んで逃げられない。
(ここから逃げないと・・)
気持ちが焦るばかりで、動けば動くほど体力を消耗してしまう。
今ここで暴れるよりも、大人しくしている振りをすれば、逃げる時の体力を保てる。
そう思った火月は目を閉じた。
「漸く大人しくなったか。」
「ええ、旦那様。多喜子様とは大違いです。」
高親の隣で、あの女性がそう言って笑った。
集団が唱える呪が天井にまで響き、何かが祭壇の中から出て来るような気配を感じた。
「後少しで、多喜子は甦る。」
高親はそう言うと、一層声を張り上げて呪を唱えた。
(多喜子って、あの船の中で殺された子?このおっさん、本気で彼女を甦らせようとしてる訳?)
一体多喜子の魂を甦らせてどうするつもりなのか、火月は寝ている振りをして高親と女性の会話に耳を澄ませた。
「この者は、いかがいたします?多喜子様の魂を移す器はありますが、この者の魂は・・」
「捨てておけ、この娘は生まれてはならない子だったのだ。」
平然とした口調で、殺人すら厭わない事を言う高親に、火月はゾッとした。
「多喜子、出ておいで、またお父様と一緒に暮らそう。」
祭壇の中に潜む何かに向かって、高親は先程とは打って変わって優しい声で呼びかけた。
“お父・・様”
祭壇の中から、少女のか細い声が聞こえた。
その声の主が多喜子なのか確かめたくて、火月はそっと目を開けた。
そこに立っていたのは、人間の形をしていない肉塊が立っていた。
“お父様・・”
自分の近くで女性が悲鳴を上げるのが判った。
「来るな、化け物めぇ!」
“お父様、お会いしたかった・・”
生前多喜子のものであった肉塊は、ゆらりと高親に近づいたかと思うと、彼の頸動脈を噛み切った。
血しぶきを上げて倒れる彼の姿を見て、集団はたちまちパニックに陥った。
やがて誰かが篝火を倒し、部屋中に炎が瞬く間に広がった。
炎が舐めるように床全体に広がり、パニックに陥った集団は出口へと殺到し、押し合いへしあいながら部屋から出て行った。
火月は荒縄で身動きが取れず、死を覚悟した。
(お母さん、お祖母ちゃん、ごめんなさい・・)
彼女が涙を流した時、誰かが自分の身体を戒めている荒縄を切り裂いた。
「大丈夫か?」
「シキ、あんた何でここに?」
「お前が突然居なくなったからここまで尾けてきた。さぁ、逃げるぞ!」
彼とともに火月が出口へと向かおうとすると、あの女性が彼女の腕を掴んだ。
「逃がしません!あなたはここでわたくし達と死ぬのです!」
「離して!」
火月は女性の手を振りほどこうとしたが、ビクともしない。
シキが女性の顔面に蹴りを入れると、彼女は悲鳴を上げ火月の手を離した。
「助かったわ、ありがとう。」
「礼はいい。神を助けてくれた借りを返しただけだ。」
「そう・・あの島の神様はどうなったの?」
「俺達が神に対する感謝を忘れていることを恥じ、それを神に詫びて許しを乞うた。もうあの島は観光業から手を引くそうだ。」
そう言ったシキの顔は、晴れやかなものだった。
「それにしてもあの肉塊・・死んだ娘の魂だな?」
「うん。船で殺されたあの女の子を生き返らせようとしたんだよ、あのおっさん。そんな事したって無駄なのに。」
「そうだな。自然の摂理に反することは、やがて己の身に返ってくる。」
火月とシキが長い廊下を暫く歩いていると、急に広い庭が二人の前に広がった。
「どうやら、ここを抜けて外に出られるらしいな。」
「そうだね。」
二人が庭に足を踏み入れると、何処に隠れていたのか、黒服を着た男達が彼らに突進してきた。
「その娘を渡せ!」
「カゲツ、ここは俺に任せて逃げろ!」
シキは背中に背負っていた槍で男達と交戦している姿を尻目に、火月は庭を抜け高原邸から脱出した。
「くそ、何してる!相手は一人だぞ!」
黒服の男がそう言って舌打ちすると、彼の顔面に槍の柄が食い込んだ。
相手は五人だが、シキはそのうち三人を倒していた。
残るはあと二人―汗で滑る手を槍の柄を握り締めたシキであったが、一瞬の油断で彼は右肩に被弾した。
「くそっ・・」
「今だ、殺れ!」
二人の男達が一斉にシキへと襲い掛かった時、彼らの間に人影が割り込んできた。
「何だ、貴様は?」
「こいつも仲間だろう、殺せ!」
男達が人影に向かって動こうとした時、人影が何かを彼らに向けた。
「ぎゃぁぁ!」
断末魔の叫び声が聞こえ、男達は血しぶきを上げて倒れた。
「お前は誰だ?」
「俺か?俺は雄仁(ひろひと)、帝の御子だ。」
おどろに乱れた黒髪をなびかせながら、雄仁はそう言って血に濡れた太刀をシキの前に翳した。
(こいつ、魔物の気配がする!)
シキは痛む右肩を庇いながら、キッと雄仁を睨みつけた。
一方、高原邸から逃げ出した火月は、長い坂道を下っていた。
「火月ちゃん!」
「叔母さん!」
坂を下ると、叔母たちが火月の方へと駆け寄ってきた。
「良かった、無事だったのね!」
「心配掛けてごめんね、叔母さん。」
「さぁ、帰りましょう。今日の夕飯はハンバーグよ。」
そう言って聡子は、姪の肩に手を回し、彼女と共に車に乗り込んだ。
高原邸の庭では、シキと雄仁(ひろひと)が睨み合って互いの間合いを取っていた。
(こいつの全身から発せられる“気”・・魔物のものだ!)
神が発していた魔物の瘴気と、雄仁が発しているものが同じだとシキは気づいた。
「貴様は一体何者だ?」
「煩い!」
雄仁はそう叫ぶなり、シキに向かって太刀を振るった。
彼の血しぶきが芝生を濡らした。
「くそっ・・」
右肩を負傷した今、全力を出せない。
「もう終わりか?」
雄仁は口端を歪めて笑うと、そう言ってシキとの間合いを詰めた。
彼は雄仁の攻撃をかわしながら彼に向かっていったが、力の差は歴然としていた。
シキは油断し、雄仁はそれを逃がさず、彼の手から槍を弾き飛ばした。
「ここで死ね。」
(くそっ、どうすれば・・)
右肩の激痛に顔を顰めながら、シキは雄仁が自分に向かって剣を振りかざすのを見ていた。
その時、風が唸る音が聞こえたかと思うと、雄仁の身体が大きく仰け反って芝生の上に倒れた。
「一体何が・・」
訳も解らず雄仁の遺体へとシキが近づくと、彼の胸には一本の矢が貫いていた。
彼は誰が射ったのかと周囲を見渡したが、そこには誰も居なかった。
「シキ、無事か!?」
邸の中から声がしてシキが振り向くと、そこには祖父が自分の方へと駆けてくるところだった。
「右肩を少しやられた。」
「そうか。こいつはもう死んでいるな。わしと一緒に来い、シキ。」
「あぁ、解った。」
シキは雄仁の遺体をちらりと見ると、祖父と共に高原邸から去っていった。
結局、雄仁は行方知れずのまま、遺体も発見されなかった。
有匡は藤壺女御から鎌倉帰郷を許され、彼は妻子とともに京を後にした。
「これからどうなるんでしょうか、先生?」
「さぁな。雄仁様の失脚により、弘徽殿女御とその後ろ盾であった右大臣も大宰府に流罪となった。権力闘争が一段落した今、わたし達が出る幕ではなかろう。」
「そうですね・・」
「久しぶりに家族だんらんの休日を過ごせると思ったが、まさかこんな波乱尽くしのイベント満載とはな。おちおち休んでいられないな。」
有匡はそう呟くと、溜息を吐いた。
「まぁ、これから家でゆっくりできますからいいじゃないですか?」
「それもそうだな。」
有匡と火月は京を後にし、我が家のある鎌倉へと帰っていった。
「あ~、疲れた。」
「やっぱり我が家がいちばんよねぇ。」
今日から戻った有匡一家は、鎌倉の自宅で旅の疲れを取っていた。
「先生、ひとつお聞きしたいことがあるんですが・・」
「何だ?」
「僕と同じ顔をした女の子に会ったって言ってましたよね?どんな子だったんですか?」
「同じ名なのは顔と名前だけだ。性格は全く違ったな。まぁ、もう二度と会うことはないだろうが。」
有匡がそう言って妻に微笑むと、彼女は笑顔を彼に見せた。
「もしかして、違う世界に先生と同じ顔した人が居たりして。」
「まぁ、そうなったらおもしろいな。」
有匡の脳裡に、もう一人の“火月”の顔が浮かんだ。
彼女は無事に家族の元へと戻っただろうか。
2012年夏、鎌倉。
火月は再び、鶴ヶ岡八幡宮へと来ていた。
3年前、ここで憧れの陰陽師・土御門有匡と出会い、色々な冒険をした。
だがそんなのはもう昔の事だ。
(まさかまた、茂みの近くかどっかで倒れてたりして・・)
火月はそう思いながら、きょろきょろとあたりを見渡すが、そこには誰も居なかった。
あの後、彼女は叔母夫婦と正式に養子縁組をし、彼らの養女となった。
今はあの家を出て東京のアパートで一人暮らしをしているが、月に数回は実家に帰っている。
(明日から仕事かぁ~、嫌だなぁ・・)
そう思いながら火月が溜息を吐き、石段を降りていると、途中で少年二人組とすれ違った。
一人は精悍な顔つきをしたスポーツマンタイプで、もう一人は華奢な身体をした少年だった。
初めて会ったというのに、火月は彼らを何処かで見たような気がした。
(気の所為だな、きっと。)
電車に揺られ、文庫本を火月が読んでいると、バッグの中にしまっていた携帯が鳴った。
「もしもし?」
『あ、火月?あのさぁ、今日は何か予定ある?』
「ないけど、どうしたの?」
『実はねぇ、合コンがあるんだけど、メンバーが足りないのよぉ、だから来てぇ~!』
「え~、あたし今鎌倉から帰るとこ・・」
『7時に赤坂のアッピアって所で待ってるから!』
友人は一方的にそうしゃべると、火月の返事を待たずに通話を切り上げた。
(ったくもう、勝手なんだから・・)
火月は溜息を吐き、仕方なく合コンに参加する事にした。
「火月、ここよ~!」
友人に指定されたイタリアンレストランに着くと、彼女はそう言って火月に向かって手を振って来た。
「皆さん、紹介します。あたしの友達の西田火月さんです。」
「どうも宜しく・・」
合コンのメンバーは、一流企業に勤めるエリート達だった。
火月の他に自分を誘った友人達はそれぞれの相手と盛りあがっているが、彼女は少し居心地の悪さを感じていた。
はっきり断るんだった―そう思いながら火月が適当な言い訳を考えている時、自分の前に座っている男と目が合った。
「つまらないですよね?」
「まぁ・・そうですけど・・」
「メンバー合わせってだけで興味ないのに連れて来られるって、何だか嫌ですね。」
「確かに。もうあの人達自分達の事に必死なんで、さっさと帰っちゃいます?」
「そうですね。駅まで色々と話しましょうか?」
火月はそう言うと、男性と共にレストランから出て行った。
「自己紹介が遅れましたね。わたしは土御門義人(よしひと)と申します。」
「変わった名前ですね。土御門っていうと、あの土御門有匡の・・」
「ええ、直系の子孫です。残念ながら、力はありませんが。」
そう言って土御門義人はクスリと笑った。
その横顔が有匡に少し似ていると火月は思いながらも、彼と楽しく話しながら帰路に着いた。
「ではまた。」
「さようなら。」
まさか有匡の子孫に会うだなんて思いもしなかったが、彼となら上手くやっていけそうだ―火月はそう思いながらホーム滑り込んだ電車に乗り込んだ。
暫く電車に揺られていると、義人からメールが来た。
『明日、会えますか?』
彼女はそのメールに“イエス”とすぐに返事を打った。
―完―