井頭山人のgooブログ

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ことばの階層について

2018年04月19日 08時30分27秒 | 日記
ことばの特質上の階層を考えると、ひとに取ってのコトバの特質が分り易く把握される。

一つは一次元の内的言語、二つは二次元の音声に依る口語、三つは視覚の象徴性の書き言語、四つ目は更に抽象化された数式などの象徴言語、そして、未だ定義できない0次元のコトバと5次元のコトバである。この0と5次元の言語は、もっとも深い部分の特質を現して居るのだが、詳術する事は中々難しい。

№0ー0次元の言語、これを言語と呼ぶべきか迷う。それは存在と時間の意味、宇宙の始原と関係する基本の基本である。これに付いては具体的な考察は、今のところ不可能だ。これと5次元の言語については後で考察する。


№1ー1次元の言語、意識の内的な操作循環によるコトバである。


№2-2次元の言語、生物の声帯を震わしての、音を使った構造的な関係を持つコトバである。


№3-3次元の言語、これは生物の視覚の機能を多用した、視覚言語であり、当然のことながら2次元の言語
と対応している。その対応の仕方は様々な活用文法(時制や品詞活用、)と関係している。ここには現代言語学の様々な論が散りばめられている。一つの例を挙げれば意味論や生成文法などが挙げられる。


№4-4次元の言語、これは3次元の言語をさらに抽象化した言語であり、かくかくの人間の様々なローカルな言語の特徴を持ちながらも、基本的な通信の言語となる性質を持つ。いわばこの4次元の言語は様々な地球の地方に発生したどの言語とも違う物である。

№5-5次元の言語、これは最早、地球上での経験に根差した言語では無く、心という特質を直接的に介した謂わば感応通信とも呼べるものである。この5次元の言語は0次元の言語と同様に、生命体の発生始原と究極をつなぐループとして見る事が出来る。


では、1次元のコトバから考察を進めてみよう。

この1次元の言語は、普段ほとんど意識されな過程で、この、内的な意識の自律的なサイクルは、あらゆる原語の事実上の操作を成して、その使用基準に成っている。どんな言語も、このサイクルを介して創られたもので、世界中には数百の言語が有るが、その根本にはこのサイクルが在る。これを無くして言語は存在しない。ここ200年、或いは300年の言語探究の歴史を紐も解くと、言語起源の探究と系統の探究が流れとして在った。大体、古代以来、人間はコトバの探究に際しては、今自分たちが使っている言語が、どの様にして、如何に形成された物か?という事柄を議論している。記録に残る起源は古くてもプラトン辺りであるが、本当は、それはもっと古く数万年の歴史が有るのではなかろうか??


ヒトの言葉が意識の反映だとするならば、それは意識と同じように一つの物では無く、統合された現像である。意識も人の五感のあるいは五官の感覚が統合された物であるように、言葉も意識と同様な成り立ちをもっている。本来は、この統合の機能の起源は、0次元に属するのであろうが、それは未知の次元に成るので難しく、取り敢えず、我われが、意識で追える1次元の現象で考察してみよう。

突然に在ることが分る事が有る。考えても考えてもその原因や因果性がふと新たな概念が創出して、その問題が進む場合である。この様な現象をいったいどの様に理解すべきか?もちろん下準備的な努力は続けているにしてもである。これは自我意識とは別の所で、何かの自律的な運動が起きていると解釈した方が適切だ。明らかに自我としての自己認識していると幻想的に考えて居る自己という物は、本来はもっと幾つもの感覚的情報が組み合わされて出来た絵なのである。

*言語は人が成長に合わせて表現の方法を、親や身近な人から吸収するサイクルに依るものだ。
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佐藤春夫ー「西班牙犬の家」に付いて

2018年03月15日 15時13分00秒 | 日記

 多分、皆さんは佐藤春夫氏の「西班牙犬の家」という不思議譚の作品を読んだ事が有ると思います。佐藤春夫は、若い頃は絢爛たる詩人の質を持つ人でした。私は詩人佐藤春夫の詩を好みます。彼の感受性がわたしの心に響くのです。詩人は持って生まれた感受性と美しいことばが全てなのです。多少の知識は要るでしょうが、それは詩を創る際の本質的な物では有りません。他には何も要りません。むしろ博識は詩作の邪魔をするかもしれません。彼は後年は名高い小説家に成って居ます。タイトルに挙げた「西班牙犬の家」は、おそらく少年少女の読む雑誌に掲載された作品なのでしょう。この異境の物語を読んで見ると、実に夢想的と言うかとても面白いのです。

詩人を始めとした孤独な夢想家や、憂鬱な日々を過ごしている人は、遠い子供の頃に見たことや、今は亡き父や母に会って見たいと望む事もあるでしょう。もしかするとこの異境譚はそんな望みを叶えて呉れそうな話です。

愛犬は何よりも忠実で主人思いですから、いつ如何なる時も頼りになるものです。いつもの散歩や狩猟の際に通る道の脇に、ふと気が付くと今まで気付かなかった細い道が口を開けていて、それが奥へ細々と奥につながって居たりすると、それが異界への道であるかも知れません。詩人と言う人種や白昼夢を見る夢想家は、時々その様な道を見つける事が多いようです。

この話の主人公は、彼の愛犬のフラテと共に、いつもの散歩の途中に常には入らない道を愛犬に導かれて選ぶ事に成ります。はて?、いつも通る道なのに、こんな脇道があったかな? そしてフラテに連れられて主人公はドンドン異界へと導かれ、小高い丘や灌木の密生する曲がりくねった道を小一時間も辿り、やがて深い森の中の開けた広場に建つ、瀟洒な煉瓦造りの西洋風の家を発見します。しかも森のどこからかサラサラと水の流れる音までが聞こえてきます。変だな?、こんな所に、こんなにも洒落た家が在ったかな?と、不思議に思い、興味を抱いて彼はその家に近づき、そっと格子窓からつま先立ちして家の中を覗きます。誰も居ないようだが、樫の木で出来たたたみ一畳もある大きなテーブルには、湯気が立てたコーヒーカップが載っています。更に煙草盆には、足ったいま火を点けたばかりの高級そうな葉巻が、青い煙を細く部屋の上に立ち上げているではありませんか。

主人公は、そっと格子窓の端からつま先立ちして家の中を垣間見て居ましたが、募る興味に絆されて、大胆にも重い木のドアを引き部屋に入る事を決心する。木の陰などの近所に、人が居て主人公をコッソリ見ていて、警察に連絡するかもしれません。然し、泥棒でないことは、いま主人公が背負っているキャンバスと三脚や絵具のパレットが証明して呉れるだろうという安易な気持ちになり、誰か居ませんか?と、声をかけ乍らドアを引くと、鍵の掛かって居ない重い木のドアは、ギッ、ギッ、ギーと音を立てて開きました。部屋の片面には、格子ガラスで出来た出窓が在り、20畳ほどの部屋の中には、中央に水盤が置かれて居て、その中心部からは綺麗な水が滾滾と流れ出して居る。部屋の外ではイヌのフラテが、家の周りの森の中を、何かを探るようにガサガサと嗅ぎまわって居ます。主人公は部屋を見まわした後で、突然に大机の下に大きな黒い西班牙犬が居る事に気が付き驚きます。オッ!と、驚いてのけ反り乍ら後ろに下がりますが、西班牙犬は微睡んでいるように動きません。この犬を置いて、ここの主人はどこに出かけたのだろう?と、主人公は考えます。


 ここは第一に、この部屋は誰かの書斎の様な風体です。部屋の壁側には大きな本棚が設えてあり、そこには古びた羊皮紙で装丁された、分厚い大きなBritannica百科事典が五十冊もゾロリと並んでいて、皮特有の独特な匂いが部屋に厳粛な雰囲気を醸し出して居ます。何か17世紀の西洋の修道院か、城館の様な趣なのです。再び、誰かいませんか!と、声を出したが、部屋の中は水盤から落ちる水の音がするばかりで、何の気配もありません。主人公は仕方なく、部屋を見まわして、ここで一服して立ち去ろうとしますが、机の下の黒い大きな西班牙犬は、相変わらずおとなしく絨毯の上に寝そべっている。だが然し、もしも自分がこのまま部屋を立ち去ろうとした瞬間に、ウヮーンと吠え、犬は突然自分に襲い掛るのではないか?と、主人公は少し不安を抱くが、用心しながら手持ちの葉巻に火をつけて、ああ!自分にも、こんな立派な書斎が有ったらな~、と夢見心地に成りながら、葉巻をくゆらせたあと、四方を見渡し静かな一時を過ごした。そして満足して部屋を出ました。ああ!ここの主人には、また会いに来ようと決心して部屋を出た。外にはフラテが待っていて、盛んにしっぽ振って居る。さあ、もう帰りましょう。云っているかの様だ。

ああ!本当に、今日はなんて変な所に来てしまったのだ。家の周りを一回りして、さて帰るとするかと決心し、また林の中に入って行ったフラテを呼んだ。主人公は、もう一度来る時の為に、この洒落た家の中を見ようと、再び背伸びをして窓から中を覗き込むと、例の真っ黒な西班牙犬はのっそりと起き上がり、机の方に向かいながら、自分が見られているのに気が付かないのか、(ああ…今日は、妙な奴に愕かされた)、と、犬は人間の声で謂ったような気がした。


 果てな…?と、思って居ると、よく犬がするように、あの、おお欠伸をしたかと思うと、私の瞬きした間に、奴は、「五十がらみの、縁無しの眼鏡を掛けた黒服の中老人になり」、大机の前の椅子に寄り掛り、悠然と、まだ火を付けぬ葉巻を咥えたまま、あの大型の百科事典の一冊を開いて、頁を繰って居るのだった…。


「お日様がポカポカと、暖かい春の日の午後である。ヒッソリとした、、信州の山のなかの雑木林の中である…」。


*-夢見がちな読者へ!、という副題のついた、不思議なお話です。
誰しもこんな体験をして見たいでしょう。子供だけではなく大人も案外に多いかも知れませんね。少し注意して見てください。若しかすると、あなたが普段に通り慣れた道のすぐ脇に、突然こんな道が通じているかも知れませんよ…。あの黒い大きな西班牙犬や、そこを訪れた主人公は、果たして「佐藤春夫自身」なのでしょうか?。そうです、今の都会の喧騒の中では決して得られない、こんな静かな異境に出会いたいと私も秘かに願っています。何と素晴らしい世界でしょうか?、果たして皆さんは如何でしょうか?

この作品は、大正五年(1916年)十二月に書かれ、翌年の大正六年(1917年)一月、春夫たちが創刊した文学雑誌「星座」一月号に発表されました。彼が二十五歳の時の作品です。実を言えば主人公が見た様な書斎を、自分も持ちたいと思う方は案外多いのではないでしょうか。

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自然定数についての妄想

2018年02月14日 08時32分08秒 | 日記

 自然定数という物は理科や数学の本を開くと必ず出て来る種類の数である。ここには量子論の微細定数「h」とか、光の速度の「C」とか、重力定数「G」とか、アボガドロ定数、等々、枚挙に暇がない。然し乍ら、定数と言われて居ても本当の定数では無いものも多かろう。重力定数などは、宇宙が老いて行くに従って、だんだんに少ない方に変化していくだろう。では光速度はどうだろうか。これは電磁波の進行速度であり、磁界と電界が交互に変化しあいながら、進んでゆく進行速度である。それは3次元空間の球座標では全方位に発散的に進行してゆく。電磁波の拠点が運動物体だとすれば、光はその進行方向への円錐体として拡がってゆく。この光の速度も宇宙の最後には衰えるだろう。つまり光は速度が0となった場合は質量を獲得することに成り、それは光では無くなる。あらゆる定数は、この宇宙の在り様に関係しているのだろう。

宇宙はいつ始まり?、いつ終わるのか?、ある無に近い一点から始まり、拡大を続けてその速度が止まると、今度は収縮が始まるのか?。 始まりが有るのならば、当然の事乍ら終りも有ると思うのが、時間の中に生きて居る我々の道理である。その際に時間はどう流れるのか?時間こそが未知の最たる対象なのではないか?と、誰もが思う、事柄である。我々が自然を観察する際に、ここで定数という物が出て来るのだが、この定数こそ、その前提には宇宙という物の基礎があり、すべての定数を規定しているのが宇宙という物の在り様ではないかと思う。この定数同士のつながりはどうなのだろう。恐らくは、ひとつの定数は或る実態の一つの側面に過ぎず、かく定数はその実体のいくつもの顔を写し出した物なのだろう。おおくの基本的定数と言うもののつながりを把握できれば、自然理解のひとつのヒントと成るだろう。

さて、上に挙げた物はだいたい物質界の定数である。最も基本的な定数であると思われる、微細構造定数ー「h」はプランク定数と呼ばれるが、幾つもの自然定数の中で、是がこそ、宇宙の始まりと密接な関係を持っているのではないかと考える。この定数は、陽子などの核子や素粒子の質量の起源とも深く関係しているはずで、未知の宇宙の仕組みを、焙り出すための手掛かりとなる筈だ。基本的な定数とはいえ、当然の事ながら宇宙の中の現象からでてきた定数であるから、必然的に互いの関連はあるだろう。ところで自然定数という様な性質の物では無い、謂わば概念上の定数について考えて見たい。数学では定数と言うような言い方をして居ないが、数の関係の中から抽出された一つの数が存在する。

例えば、それは「π」とか「℮」とかいう定数である。この定数は幾何や数式の演算の中から出て来た物であり、それは外的物質世界とは直接の関係はない純然たる概念の指標と言える。特にπは、普段円周とその直径の比であるが、このπは無限級数などの他に、至る所に出現する不思議な性質がある。それは、なぜか分らない?、私達は、ごく当たり前で完全に理解していると考えて居る定数が、実の所はそうでは無く、何もわかってはいなかった。と言う感じがするのである。「π」こんな単純と思える物が、案外見えないだけで、世界の在り様を示す深い関係を写し出す鏡に成るかの知れない。確かに「π」、これは円周と直径の比と言う以上に、何らかの普遍性を表している性質の定数であろう。これは無限級数と常に関係して居るもので、無限が何らかの形で出て来ると、このπは静かに姿を現す。この定数は一体何なのだろう。また直径を象徴する分母の1とは何か?、最も単純で最も不可思議な数、その数の背後には何か得体の知れない構造関係が敷き詰められているが、普段、我々は気が付く事がない。物との対応の概念として数は紡ぎ出された歴史がある。だが、こんな単純と今も思われて居る自然数が、分らないとは!むしろ驚きではないだろうか。自然現象でも、数でも、理解が進むに従って分らない事が多くなる。物事は理解が進めば分らない事は少なくなると予想するが、実は逆なのである。

こう云った定数は何を意味しているのだろう?。これは我々を取り巻く世界の基本的な相互関係と深く結び付いている。

そもそも、定数が出て来た経緯はなんなのだろう?

世の中には「数秘学」という分野が有るらしいが、どうも胡散臭い占星術的な匂いがする。まじめな数学者は相手にしないだろう。ここで直ぐに思い浮かぶ人物は、ヨハネスケプラーである、彼は宿屋を経営していた人物の長男として育ち、ヴルリュツブルグ大学で自然哲学を学んだ。神聖ローマ帝国皇帝の宮廷附き数学官であったが、公式には何をして居たか?と言えば、戦争の勝機に付いて、皇帝の諮問を受け、占星術的な答えを出して居た。つまり勝つ為には、敵を攻めるにはいつ頃の時期が好いとか、今月出た彗星は何の象徴なのか?とかの質問に答えるための計算をして居た。笑ってはいけない、大真面目なのである。それが、西欧の16世紀・17世紀の世界観なのだ。ケプラーは宇宙の神秘や月旅行に関するファンタジーを書いて居る。彼の自然観の根底には宇宙には調和が存在し、それは数学の定理を基にして出来上がって居ると云う確信である。この様な確信は、現代の物理学や数学を専攻して居る人物の中にも時折見いだせる。それも最先端の分野においてである。例えば「超弦理論」や生物の分子進化に関する遺伝子浮動や生体の形態形成に関する、統計力学、カオス、多体問題、などの分野である。また神経系と心の問題もある。生態を支配して居るのが神経系である。生体自体は変化進化退化など様々な環境条件により変転して居るが、こころと言う問題はどうだろうか?我らの意識と言うか、もっと古風に、たましいと云えば好いのか?、その全貌は今の段階ではハッキリと規定できない。我々の認識段階が、まだそれを十分に掌握出来る段階にないと言うことだ。

定数とは、基本的な性質関係の中から出て来る概念で、何事につけて認識の基本線となる物である。例えばここで光速度を取り上げてみよう。ガリレイの時代から、音の伝わる速度には限界がある事が分って居た。当然の事乍ら、光速にも、ある限界速度が有るだろうと云うのが、一般的な考えであった。それで音の速度と同じように、光速を測ってみる事を試みた。ガリレイは弟子に命じて何十キロも隔たった山の上に登らせて、同じ制度の時計を弟子とガリレイが持ち、ある取り決めた時刻にランプに火をいれる様に取り決めた。そしてある条件が好都合の夜、その実験を行ったが、なんど遣っても、ガリレイの取り決めた時間と火の入る時間は同時だった。つまり光の速度は無限に見えたのである。この地上では光速度の正確な把握は失敗をしたわけだ。

後年、この光速度の把握に成功したのは、デンマークの天文学者レ―マーである。驚くべき事に、彼は木星の衛星の食から、光の速度を知ったのである。このレ―マーの業績は現在の光の速度の数パーセントで突き止めている。当時の人々には光速度は信じられぬ速度で有った。然も、この速度は一定であり、条件に依って変化する事は無かった。この速度の意味は何だろうと当時の人々は思っただろう。何か根本的な基本線に由来している。そう確信したに違いない。これは透磁率、誘電率に深く関係している。波の速度や音の速度と同じ様に、何らかの媒体の振動で、それが伝わると20世紀の初めまで誰もが信じて居たし、光も何らかの媒体の中を運動しているに違いない。そう誰もが思っていた。それでエーテルと言う様な矛盾に満ちた媒体を想像することに成った。幾多の試みの後に出て来たのは、例の特殊相対論である。

一度、特殊相対論が出てみると話はスッキリとして、今まで何で奇妙な媒体を考案して居たのかが返って不思議に思われた。時代の標準の考え方、その枠組みは、どうしても人の想像力を規定するらしい。認識の歴史は、その様な経過をたどり進んできた。ただケプラーの世界観は、キリスト教と言うよりもギリシア的なピタゴラス的な性質を持っていたと思う。彼は「宇宙の調和」を頌っている。たぶん数学的な整合性の事だろう。或いは調和の美というべきか?自然定数には、そんな側面も無いわけではない。実験と理論、この螺旋階段を歩いて世界認識は進んできたのであるから、当然の事だが、両方が大事だ。後年、英国の理論家P・ディラックは、重力定数は真の定数では無い、それは、宇宙の拡大の経過と共に変化すると云っているが、それだけでは無く、特に理論はイメージと不可分に結びついているので、理論家の個性が、または情緒が大きな影響をもっている。

*-ここで、自然定数とはなにか?の前に、数とは何か?に付いて考えて見たい。

人間以外の動物は数を認識するだろうか。サルは明らかに何らかの数的な認識はある筈だが、朝三暮四でハッキリとした厳密な意味での数は認識して居まい。カラスは如何だろう。多いか少ないか、は、認識できるとしても足し算も引き算も、掛け算も割算も少し無理だろう。基本的な四則は、人以外は操作できない。人の中でも、それが理解しない者もいる。是ばかりはそれなりの努力が必要不可欠だ。数とはなにか??それは「存在性」に密着した、意外に抽象的な概念だ。こんなに単純な自然数が、なぜ抽象的なのかと云われる方も居られるだろう。それで、ひとつ馬鹿げた事を云おう。我々は「1」と言う自然数を完全には理解して居ない。と言うのは「1」という数の背後に隠れた、其れこそ頭の痛く成るほど複雑な構造を理解して居ない。

また「1」という概念には不思議と無限の概念が付随している。1とか2とかいうが、これは皆な飛び飛びの数なのだ。連続性と言う意味では1は2につながらない。数はみな飛び飛びの値なのだ。それを結びつけるのは四則で、とくに加法と乗法のアルゴリズムで減法と除法も組んでいる。小学校では完璧に理解していたと思しきことが、進むに従い解からなくなって来るのが数と言う世界だ。小中高の塾の先生はどうやって数を教えているのだろうか??、塾の先生は生徒が混乱するようなことは教えない、解って居ることだけを教える。塾の目的が受験やテスト対策なのに、解らない事を教えて何に成る??ということなのですね。技法だけを教える。こんな事は、数とは何か?に直接の関係は無いからどうでも好い事ではある。

数の概念を、ごく最初に教わるのは、物に対応した数の存在である。リンゴが有る、リンゴが1つ、一つに対応する1。リンゴが2つ、に対応する2、…3つ、となる。その様にして数の個数の概念を習う。その様な過程を経て、我々は数に対する一応の概念を形成すると同時に、その演算を習うのだが、ごく自然な過程だ。その様にして自然数の列を認識する。だが江戸時代以来、「読み書き算盤」と言う様に、社会に出て困る事のないようにコトバと文字を書くこと、そして演算を習う。それで普通には困る事は無い。だが、こと算学に付いていは、それで済むはずはない。

言語の謎も深いが、数学の謎はモット深い。大体こういう事は決して浮世の話題にはならない、だがこれは人間の知的文明の最も基本的な核心部なのだ。人類の文化的な文明的な背景には、こう云う事を考えて居る人が不可欠なのだ。最も目立たない部分で、人類の知的価値が形成され、最も深い事が考えられている。是は人間の文明の核である。フレーゲの概念文字も、ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考も、ゲーデルの数理論理数学の二つの不完全性に関する定理も、連続体の仮説も、五次方程式の一般解の公式の不可能性も、また、レオンハルト・オイラーが、その生涯に残した600編近い論文も、39歳で死んだベルンハルト・リーマンの極めて質の高い30篇の論文も、そして最も理解しがたいのは、シュリニバーサラ・マヌジャンの数百の数式である。どんな問題であれ、その構想やアイデア、閃き、洞察は、当人が詳述してくれれば必ず努力の末には理解出来ると思われるのだが、事、ラマヌジャンに関しては、その明察の糸は常人には理解しがたい物だ。その数式の導入を聞かれた彼が、「その式は、私が深く熟睡している間に、ナマーギリの女神が、私の舌に書いてゆくのだ」、と云われて仕舞ったら、返す次の言葉が出て来るだろうか??

もちろん、ラマヌジャンと言えども、式に間違いが有るのだが、普通の数学者では間違いは話題に成らない、たぶん間違いが多いからだが、ラマヌジャンの場合は一大ニュースになる。それは彼の数式が、ほとんどの場合正しいからである。だが証明がつけ加えていないのが、ラマヌジャンの真骨頂で、後で他の数学者が、其れに証明を付け加えねばならなかった。その様な証明が、それで立派な論文として認められる。ラマヌジャンの場合は普通の数学探究者と言うより、謂わば巫座に近い存在なのだろう。我々は運が好ければ、この様な人物に出会う事がある。でもそれは一億円の宝くじに当るよりも難しいだろう。何せ宝くじならば、買った全員の中には、その数が百万人であっても必ず当選者が居るからだが、このラマヌジャンの様な人物は百年、或いは数百年に一人出るか、出ないかであろうから。むしろ学校教育が行き届いた世界では、恐らく出ない。知識や思考力が、すべてが平準化されるからだ。数に意味があるか??
或いは、その数や公式は、何を云おうとしているのか??。恐らく数自体は公式自体は語らないから、其れに言葉を与えるのは人間の役割だ。

いったいこう言う人物を、どう評価したら好いのだろうか??凡そ立っている地盤が異なっているような気がする。ラマヌジャンを考えるとき、人間は素晴らしい!と思わずには居られない。人間はこういう能力も発揮できるのだ!と。私は人間の文明と言うか?文化と言うか?人間の学校教育は未知の能力を矯めて来たのだと思っている。何かを助長する事で、未知の何かを省いて来た。それは確かに文化なのだが、では如何すれば好いか分らないが、物事の本質を洞察するのに、物事の神秘を知るのに競争は馴染まない。それから、ある一つの方法だけに、(例えば受験の技術のみを最上の価値とする事など)、そう云った一つのパターン認識の技術的価値のみに拘泥する事は、人間の知的文化にも馴染まないと思っている。


大分回り道をしてしまった。脱線はわたしの特技だから仕方がない。数とは何か?、自然定数とは何か?だった。結局のところ自然定数とは、人間が物事のあるいは自然の現象を捉える仕組みなのだ。自然現象の中に、本来は定数という物が有る筈はない。定数は人間の知的因果関係から、その本質を把握する為に創った関係である。人間はこういう風な捉え方をすることに因って、自然の関係、現象を理解しょうとする。そうすると見通しが良くなる、上手い一種の抽象化だ。定数と定数を比較する事もできる。そうすると認識が一層深まるということになる。然も出てきた定数にかんして、他の定数との比較分析もできるから理解はますます深まる。人間の自然把握はこのようにして進んできた。定数は天から与えられたものだと云う認識で、長い間を疑問にも思わないできたが、人間がどの様に物事を知るか?その方法論を振り返った見るのもおもしろいものだ。

妄想のついでに更に妄想を進めてみたい。
数の「1」という概念は、究極的には無限に結びついている。確率も「1」がパーフェクトだし、単位円1のモジュラー座標は、無限の概念を想起させる。仮にあの単位円の断面が、弦理論のヒモの断面だとしたら面白いと思う。素粒子の定数は陽子の質量に代表されるが、陽子が宇宙の何処ででも同じ質量だとするなら(多分同じだと確信しているが…)、それはこのヒモの性質の必然性を表して居る。陽子に質量があり、その定数は何らかの相互作用の帰結であることに違いは無い。私達の体も心も、この陽子と中性子の核できているし、その周り覆う電子で構成されて居る。これが物質としての生命と精神の実体だ。精神という物の究極は何なのだろう。我々には物事を知る形式には限界があるか??。思惟のチューリング性というものである。

言葉は単なる音ではない、音以前の何かである。また運動の相対性と光速度不変の原理から、C2乗の形で物質の持つエナルギー量を導き出した特殊相対論の帰結は、地球の自然と言う領域を超えて、大宇宙の存在基盤を明らかにした。これは本当に驚く事だ、高校レベルの数学で宇宙の実相を突き止めた。その特殊相対論の意味は、今の所それを応用して宇宙の根源に付いての洞察はない。宇宙の初期の頃、光はもっと遅かったとすると、物質のエナルギーレベルは今より低かった。宇宙は変化している以上、光速度は普遍ではないだろう。ただそれを確かめる人の命は、殆んど一瞬であるので、この人の文化が存続している内に確かめる事は出来ないだろう。我々の命は、宇宙に比べれは、刹那であるから。


宇宙の初期、今の光はもっと遅かった。とすると光の速度は宇宙時間の時計として使えることに成る。宇宙の始まりの時点では、光速度は極めて遅く、事によったら光はまだ存在して居なかった可能性が有る。力の分化は膨張の変化に依って生まれた現象である。初期に重力が次に核子を結びつける強い力、電子が核子に捕えられ弱い力が生まれた。この分化の理由は定かでない。宇宙の始まりの頃、物質は未だ存在していなかった。核子が電子を捕えて元素が出来た。元素が出来るまでには電磁気力の力が不可欠だ。一連の過程で空間と物質に関する相対論的世界がが形成された。たった光の速度を知ろうとするだけで、宇宙の過去の多くの姿と可能性が議論できる。この事は何と凄いことなのだろうか。


特殊相対論の結論が指示して居る事は、この元素の中にいかに膨大なエネルギーが封じ込まられて居るかを明かした事だ。初期宇宙は、如何に高温度のエネルギーに満ち溢れて居たかを語って居る。物質をどこまでも分解すると云う事は、宇宙の過去を見る事である。それは過去の元素の起源と、原子構造を再現する事でもある。今後の物理学の本質的なテーマは、時空のうち「時間」を探究する事、それら大きなテーマとなる事でしょう。21世紀の物理学は、「時間」と言う謎の解明が目標です。物質を細かく分けると云う事は、とおい過去を見ると言う事に他ならない。それは天文学で宇宙の遠方が過去であるという事と似て居る。私の直観的なイメージと異なって居たのは、標準理論が意外に複雑な粒子と力で満たされて居るという事だ。私は物質の究極は、もっと単純な構造であると信じて居たが、この複雑さは時間の関数であるのだろうか?元素物質と数の対応はどうなのだろう。数と言う抽象的な概念は、物質の生成を考察する際に何らかの存在の規則性に投影をする物なのだろうか?。

自然定数という物は確かに存在する、思い出してみると、光速度C、Planck定数h、重力定数G、これらが物理では代表的な定数だ。物理ではないが数学的にはπやeなどの超越数がある。物理の定数と数学的な物は質的に異なるはずだが、不思議と関連性が在る場合が見られる。それは宇宙が数学的に創られていることと関連している様に思える。物理定数は常に時間変化して行く宇宙の、瞬間の状態を現わしている物であろうという気がする。つまり、普遍ではないのだ。見えない相互関係が全体性の背後にあると想うのは私だけであろうか?。なにか我々がまだ知らない普遍性がそこにある。

 

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「哲学」とは、何をすることなのか?

2017年11月25日 08時55分49秒 | 日記
 哲学とは何か?、或いは、その価値に付いてである。哲学と言うテーマだが、今もって哲学という物は、どこまでもカビ臭く頑な物だと思われてきた。だが哲学は、人間にとって最も古く、そして、最も新しいものだ。それは寧ろ「好奇学」と呼んでも好い。その方が哲学の本質に近く、あらゆる思惟の可能性の初歩です。ひとり、何かの疑問や好奇心、懐疑が湧き、その原因を考える風になると、それが哲学に成る。哲学は、石造りの堅牢な尖塔に閉じこもり、訳の分らぬ自己撞着で、自分が迷妄に陥ることではない。不思議な対象を、明晰的な理知でもって明らかにすること、その事実を知る為に、答を示す磁石として、論理や合理性が求められた。しかし、飽くまでも哲学の価値は、「問うこと」にある。例えば、様々の錯綜した情報の背後に在る真の事実とは何か?とか また、見えている現象の根底に在る原理・法則は何か? などの それらをまったくの、白紙の状態から問う事にある。もしも哲学に価値が有るとしたら、その純粋に白紙の状態から出発して、物事の本質を問う、と言う態度以外には無いと知るべきだ。

「問う」事は、さほどに根源的で重要なのだ。さて「哲学」と題名のついた本は、或いは「哲学」と名が付く著作がどの位いあるかな? と、大きな本屋でザット調べてみると、25~6冊くらいは直ぐに見つかった。小学校3年の子供の頃に、家に古い哲学事典という分厚い本が有り、親父にどう読むの?と聴くと、テツガクだと言う。わたしは、テツガクと言うコトバを聞いて、鉄を思い浮かべ、事典に出て来る人物写真が、うつむいて居たり、何かを考えて居るらしく、不愛想な怖い顔をした人が多かったので、これは頭に鉄が入って居て、重いので苦しんでいるのか? テツガク、これは硬いぞ、頭をぶつけたら怪我をするかも?と思ったものだ(笑)。コトバの発音からは、鉄のような硬いイメージが付いて回ります。後年、調べてみると、それは、「悟る」「知る」「理解する」「洞察する」「予想する」「納得する」、謂わば理解の法則的な関係を求め、問いを重ねることで、思考や思惟の構造(勿論そういう物が有ればの話だが…)を把握する、と云う様な思惟体系の本質的な一つの方法論である事が分かった。

或る意味で、「哲学」とは、物事や、外的・内的、知覚に関するインスピレーションを追及する事で、個別的な学問に発展する以前の、アイデアの萌芽を育てる事に他ならない。であるから、その手法は芸術に似ているし、空想の翼を与えるものである。ゆえに全ての学問は哲学を、その泉としている。哲学は誰にでも出来るものであり、特別の才能は要求しない、ただ好奇心を探究心を、どんな学問よりも必要とするものだ。

つまり、理解・認識の構造・動作・などの理解の流れを調べ、その諸現象の「根本の力動と原因」を理解する思念活動のことなのだ。哲学とは、そういう事を繰り広げながら、目と耳の限界を超えて対象を探究してきた歴史でもある。そうすると、哲学は人間の思考活動の条件やその土台を知ることであり、思念活動の、最も基本的条件の探究である事が分る。哲学は「言葉を使い」、言葉を通じた理解の構造、それを対象とする方法論の一つのことだ。そういう意味では現代数学も同様だ、様々の抽象概念の背後に在ると思われる、統一的共通構造を模索しているからだ、全数学を幾何学の下に統一するビジョンを探して居る。多くの可能性が有ると思う。まだ未知の分野がそこには広がっている。

哲学は、ごく素朴に言えば、まだ厳密な方法論が形成されて居ない、いわば曖昧な対象を理解しょうとする為の把握の試みであり、それらの対象の空想段階の方法論の試みである。であるからして、合理性と数理性を基にした厳密な方法論である科学よりも、もっと曖昧で自由な発想の分野と言えるのではなかろうか。
 
例えば、「必然性」という概念は?、どう認識し表現するか。
表現は認識の質(クオリティ)と段階(レベル)に因る。


「我々の具体的な操作や、認識主体を離れて、すでに、何らかの先験的、他律的に、定められたものとしてある性質」。

では、「偶然性」とは?、「我々が、その対象に無知なために、一見、無分別な事象として現れて来る現象、乃至、性質のこと」。


あらゆる事象は概知の物としては決まってはいない。自然の現象は数限りない係数の総合として在る。そして「必然性」にも「偶然性」にも、概念の背後には「時間」の概念が有る。

人間に取って「時間とは何か」?、確かに流れでもある、だが、大森荘蔵氏のように、時は流れないという人もいる。反応の経過時間?。時間が有ると云うよりも、本当は運動が在るだけなのだ。時間は運動の結果として跡づけられるものだ。いったい運動とは何だろう?。運動とは物体が必要か?。空間が動いても運動とは言い難いのか?。質点が運動するのか?、質点とは何か?。人間の意識も運動の効果である。電子であろうが、陽子であろうが、それはどうでも好い。

人の懐く問に、自ら答えようとする営為が哲学の本領だ、また問い自体が答えでもある。哲学は好奇心の為すがままに、自らの立ち位置と存在を確かめる事である。とすると、人の突き詰めた考えは、みな哲学に似ている。好奇心には、答えの到達点はあっても想像思惟の到達点はない。であれば、これまで如何に多くの人が哲学を実行してきた事か。特に江戸時代は、時間を持て余した面白い思索者が多数いるのは面白い。




*- 将来の数学についての空想

殆んどの存在は時間で括れる、時間こそがαでありΩなのだ。時間と云うと、なにかぬ明確なフワフワとした概念の如きを思い浮かべる人も多いのだが、確率過程も実のところ、時間の別な表示に他ならない。時間は存在の自由度なので、存在も現象過程も時間で括れる。この時間のイメージを、もっと厳密に膨らますことが最も必要な分野を作る事につながるだろう。最小作用やentropyも時間の函数ないし係数に他ならない。
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漂泊ー明治人野口英世の軌跡

2017年11月11日 21時15分13秒 | 日記

 私は現在の小学校図書室の蔵書の収蔵内容はまるで知らない。だが、昔の小学校の図書室には、数々の偉人伝シリーズが必ず有った。西郷隆盛、伊藤博文、福沢諭吉、とあるが、寧ろ医科学関係の方が多い。北里柴三郎、志賀潔、鈴木梅太郎、の中に野口英世もあった。他にも牧野富太郎、とか、江戸時代では伊能忠敬、二宮尊徳があった。私は、その中の一冊野口英世を借りた。野口は、日本国と日本人が西洋に強い劣等感を持っていた時代(今でもそれを持っている人も多く居る様だが…)、一農民の出身から精励刻苦により、世界的業績を成し遂げた立志伝中の人物として易しく説かれていた。この写真と挿画が印象的な楽しい本は、「あなたたちもこの夢に挑戦しなさい」と諭しているようでも有った。この本の図書カードには、借りた人の年月日と何人かの名前が載っている。これを読んだ先輩や友人達は、果たしてどんな感想を持ったのかしら?と、本を読み終えて思ったものであった。

江戸時代二百五十年の後に開国して幾ばくも無い時代に、日本は驚く様な、多くの個性ある人物を輩出した。現在(2017年)の時点で歴史を振り返れば、西洋列強の圧倒的な軍事力と科学技術力による暴力的な武力的植民地獲得競争の前に、白人世界に独り対抗し得た国は、世界中に多々ある国の中で、日本国以外に探しても一つとして見つからない。東洋の植民地を解放した大東亜戦争以前、白人世界の暴力と人種差別は殊の外大きかった。現在の日本人に、その認識が無いとすれば、以前の確固たる歴史的事実を、日本人自身が忘れたか或いは知らない、または、知らされて居ないだけなのだろう。人が何かを知るには、それと比較する別な物が必要だ。それが無ければ、正統な評価する事が出来ないからだ。開国当時の日本人は、敗戦後の日本人に比べれば明らかに、性根から異なっていた様だ。日本人自身が自らの存在の系譜を知る為には、恐らく本当の江戸時代を知ることが必要だろう。明治人、詰まり江戸時代に生まれた彼らは、一旗揚げる気概にも溢れている。その努力も中途半端な物では無かった。今よりもモット気概に満ち、気性も激しかったのではなかろうか? 別な表現を借りれば戦国武士の魂が僅かばかり残されて居たとでも言えよう。

私は、永く野口英世博士に付いて、図書室で読んだ頃の認識以上の域を出なかった。然し是だけではあるまいと想像して居たので、戦前に出された古い野口の伝記を読んだ。この伝記は、小学校の伝記シリーズに比較して、野口清作の実像を正確に伝えている。暫し読み進めると人間野口の実像が、おぼろげ乍ら分ってくる。逆境に対して心から努力し、相当苦労もしたな、と思った。彼が幼児の時に、偶々起きた火傷による手の癒着という事故で、本人も嘲りを受け悔しかったろうとおもう。当時は不自由な手に同情する人も少しは居ただろうが、大方は冷やかな者も大勢あったろう。敗戦後の日本人は、なべてアメリカ化の為に、個人の権利ばかりを謂い、自己犠牲を嫌い、本来の日本人の思い遣る協調性と不屈の団結力を破壊され失っている。

後年の事、そう、私がまだ20代の頃か?渡辺淳一氏の、有名な野口の評伝「遠き落日」が雑誌「野生時代」に掲載された。それは直ぐに単行本として出版されて、それは古い伝記と重複する所があった。だが、遠き落日の野口はもっと闊達で生き生きとして居て、これは非常に優れた評伝であった。無理やり渡米の為に用立てた渡航費を、送別会だと云って吉原で芸者を揚げてドンチャン騒ぎの挙句、渡航費用の大方を使ってしまう事などは、破天荒の最たるものだ。然しそれはフィラデルフィアのロックフェラー研究所を目指し、フレックスナー博士の所に片道切符で出かけ、夜も眠らぬ男と言われるほど狂気じみた努力を続けた野口の破天荒な性格の一端と何処かで繋がっているものだろう。やがてその努力は報われることになる。伝記シリーズの野口英世は、芸者を揚げての散財など、この辺の事情は小学生に読ませるには都合が悪いので省かれたのだろう。だが、野口の凄さは、本当はこの破天荒な性格と表裏一体なのだと思う。アメリカに渡った人で、日本で発刊された野口英世の伝記を、本人に渡して読ませた所、野口は、「これは人間ではない、この様な人間は居るはずがない」、と怒ったという。

野口は、師匠・友人たちの援助と、本人の努力の末に済生学舎で医師免許に合格したが、彼の手の火傷に依る癒着の為に手先を使う外科の様な分野には進む事が出来なかった。19世紀から20世紀に掛けては、人類の業病も呼ぶべき、風土病、伝染病、の研究が進んだ時代であった。彼は、その病気の原因を突き止め、治療の方法を探る基礎医学に進むことを決めた。後年、北里細菌研究所に、助手として入所した野口は、その所長であった北里柴三郎が、明治の初年に、医学の先進国であったドイツに留学しコッホたちと共に、破傷風菌の単離、血清療法など感染症の治療手法にも大きな業績を上げた為に基礎医学に魅惑されたのだろう。それで野口は、北里の進んだ基礎医学の方面に進もうと決心したのだと思う。細菌に因る感染症は、細菌を純粋培養する事で、その細菌に効果のある治療法を開発する事が出来る。北里も野口も志賀も、顕微鏡下での病原菌を発見する事に精力を費やした。

 野口の生家は、今も猪苗代湖畔に「野口記念館」となって建っています。明治21年7月15日(1888年)会津の象徴の山である「磐梯山」は、水蒸気爆発と言う種類の噴火によって、北側の半分は吹き飛んで仕舞い、その土砂で川がせき止められ、現在の檜原湖が生まれた。五色の色を斯く斯くに持つ美しい沼もうまれた。災害は多くの人の生活を破壊し、また死者も多く出たが、現在は火山のもたらした変化が観光資源となって地元民の生活を潤している。「磐梯国立公園」は実に美しい所である。私は、もう遠いむかしの事だが、「裏磐梯高原ホテル」に泊まりました。それは広々とした池の向こうには、半分が吹き飛んだ荒々しい磐梯山の北面が絶景をつくって居ました。

彼は子供の頃に、この噴火を体験しているという。弟をつれて川に魚を捕りに行ったそこで、恐るべき轟音と共に、この世の終わりかと思う程の足元を揺るがす振動を感じた。あとで考えれば、予兆は有ったらしいが、当時の地元の人々は、それが大爆発につながる物とは、露にも思わなかった。水蒸気爆発は、地下水が上昇してきた灼熱のマグマに触れて、一気に気化膨張することで猛烈な爆発力を発揮する。この膨張する力はものすごく、元々は秀麗な山容であった磐梯山の北側半分は吹き飛んで仕舞った。幸い水蒸気爆発は、大量の溶岩を噴出しない為に一瞬で終わったが、だが大量の土砂が人々を襲い多くの死者を出し、吹き上げられた土砂は村は埋没して、山間部の川を堰き止め檜原湖を出現させた事は上に書いた。

 野口英世は、立志伝中の最も有名な一人であるが、また、彼の個性的な人柄ゆえに、多くの毀誉褒貶に溢れて居る。世の中には偉人が、つまり「謹厳実直」でないと気に食わない人間も多数いるのだろう。私は、自分が好い加減な性分の性格なので、野口の羽目を外した行動をある程度理解できる方である。だが世の中には、自分が決して出来ない事を、他人には欣然と要求して恥じない人間もいる物で有る。単なるお馬鹿さんなのか?幼稚なのか?は知らない。いつまでも成長せず幼稚なままでいる人が多くなったのが現代である。つまり現代は、その様な人達を許容できるほど豊かな社会なのだ。だが野口の時代は決してそうでは無かった。時代はもっと厳しいものがあった。

アメリカに渡った野口は、最初蛇毒の研究から始まり世界的に猛威を振るった性病の原因であるスピロヘーターパリーダの研究を志し純粋培養に成功した。それはあとで不確かな面も指摘されたが、純粋培養は、現在誰も成功して居ない。その後に野口を死に至らしめる黄熱病の研究に邁進するが、アフリカのアクラで、研究対象の黄熱に感染して51歳の人生を閉じることになる。現在の認識では黄熱はウイルスであり、光学顕微鏡が対象とした細菌とは異なる、もっと小さな生物と無生物の中間に位置する物である。まさに物質の一面を有している、それはDNAが無くRNAだけで構成された濾紙を透過する小ささの生物である。物質と生物の中間に位置する最小の物質である。野口はそれを知らずに挑戦したのだった。

細菌学は、19世紀前半から~20世紀の半ばまで、基礎医学の花形の一つであった。我々は、この分野の研究の成果に依って命を長らえて居ると云えよう。ペニシリンは、普通であれば死に至る症状を快癒させたし、多くの若者のいのちをうばった結核は、ストレプトマイシンなどに依り治る病となった。この成果はいくら強調しても足りないくらいだ。思いもかけない場所でカビ等を主体にした中から、新型の特効薬が発見されたのだ。20世紀のやり残した仮題にガン治療がある。この治療は難しく、これは細菌と言うよりもウイルスが原因で起こると同時に、我々を作る普通の細胞自体が自己増殖機能としての、ガンの前駆的機能を持っている。自分の細胞がある日突然ガン化して暴走的増殖を始め、それが転移し各所で生体の機能の全体を破壊する。人はその寿命が永くなるに従いガンは恒常的に生体を襲う事に成る。ガンの治療の難しさは、これまで感染症とは全く異なる世界でもある。

 彼は51歳で、アフリカのアクラで黄熱に感染して死ぬ訳だが、野口英世が生まれ育った会津猪苗代、その猪苗代の夕陽と、遠く離れたアクラの夕陽の距離は、彼がたゆまず、夢中で歩いて来た、人生の距離を物語っては居ないだろうか?。 野口は、渡米してから足った一度だけ帰国した事がある、帝国学士院賞、受賞の為に戻ったのだ。それで故郷の父母にも会えた。その帰国の歓迎会で、過っての上司であり、野口を送り出した北里柴三郎は、「研究所では、毎日実験動物の世話ばかりさせられていた、下働きの所員の為に北里は静かに歓迎の言葉をのべた」と、野口英世の評伝、遠き落日に渡辺淳一は書いている。このあたりが野口の故郷に錦を飾ったピークであったろう。また、白人に拠る白人以外の人種への偏見と差別が無ければ、北里はその医学的な業績から云って第一回のNobel医学生理学賞を受賞していた事だろう。人種的偏見と差別は今とは比較にならない時代であったのだ。

日本史上に於いて、明治という時代はどんな時代であったのだろうか?。漱石が云うには日本の伝統文化を否定し、遮二無二西洋文化を礼賛し、それに向かって直走りに走りに走った時代だという。押しなべて、自分の文化を顧みずの西洋化に、違和感を感じた文人たちも多い。特に明治期の西欧化は、明らかに日本の技術的現状と比べて西洋の技術は進んでいた。 西洋化は日本社会に其れなりの影響を与えた。然し現在は、昭和二十年八月十五日以降の日本は自国の文化的国体を忘れつつある。過去の遠い歴史の中で、日本人は海外文化を上手に取り入れて来た。それには大事な条件が有る、それは日本語と日本の伝統的価値観を維持した上での海外文化の移入であろう。それが無ければ、恐らく日本文明は掻き回されて、独自性と活力を失う事に成るだろう。特に今は、移民を入れろ・移民を入れろと、馬鹿騒ぎをマスコミが煽って騒いでいる。それは永い未来・将来への分水嶺の時代だと考える。それが吉と出るか凶と出るかは、あと100年経たないと分らない。それは今の時点で生まれた日本人でさえ生きて居ない未来である。現在では、とうに海外に雄飛した明治人の大きな夢はすべて過ぎ去ってしまった。しかし故郷の猪苗代の大きな自然と夕陽は、変る事無く今日も清作の子供時代と同じ様に湖畔を赤々と照らし出しているに違いない。

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日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)ー私度僧「景戒」の生涯

2017年11月08日 09時23分56秒 | 日記

 日本霊異記は奈良薬師寺の僧、景戒によって著された勧善懲悪と因果応報を説いた仏教説話集である。日本の数多い説話集の中でも「日本国現報善悪霊異記」ーここでは簡単に霊異記と呼ぶ事にする。これは最も古い説話に属するものだ。仏教説話としての「霊異記」(日本古典文学大系ー岩波版を参照している)が成立したのが、解説者氏の話では弘仁13年(822年)と言うから、ザット数えて1195年も前の事である。景戒のこの著作が3~4年で書き終わる訳がないから、それに編集と筆記を換算すれば、凡そ1200年以上前に書き出された物であろう。上・中・下と3巻に分かれていて、上巻35話、中巻42話、下巻39話、合計116話で構成されている。おもに仏教的な因果応報を基にした、勧善懲悪の話が説かれているのだが、中には、それとは直接関係のない庶民の挿話もある。私がこの霊異記に親しみを感じるのは、当時の人々の素朴な生活実感も描かれており、平安時代初期の自然観、生命観、価値観が、自ずと滲み出ていて、誠に胸を打つものがあるからだ。景戒の自己紹介とも云える短い自叙伝が、下巻の終り近い38話に収録されて居るので、それは著者がこの説話を読むであろう不特定多数の読者に向かい、己の人生を語ったものだろう。

日本国に仏教が入って約300年、当時の仏教は「奈良仏教」と云って、インド由来の仏教を鳩摩羅什や玄奘らがダイレクトに漢訳した物であり、それは日本人の国民性に合う様な、十分に消化された仏教では無かった。一般庶民にはアビダルマ(存在の分析)とか言われても、何の事だかサッパリ分らないはずであり、その意味では仏教哲学としても、心の救済の宗教としても、一般民衆の心の血肉としては受容されていない未消化な外来思想であったと私は想う。どんな偉大な思想であれ、その民族の根底に在る生活感情と結びつかなければ、決して血肉と成る事は無いと言ってよい。南都八宗は学問としては、誠に立派なものであり、存在論や、認識論、宇宙論、生命論、呪術論など、大変に哲学的であり分析に優れて居り、果敢に人の心の深淵に探求の道を探し深層心理学的であるが、どこか一般民衆の生活感情と合致しない物があったのだろう。倫理哲学としては余りに高尚であり、庶民の生活感情とは直接的には薄いと感じられる。仏教が渡来する以前に日本国の民衆の中に在った信仰がある。それは遠く何万年もの過去にまで遡る事が出来る自然信仰でも有った。後年(江戸時代)に神道は整備され宗教の形態を感じさせる物に近付いたが、本来は自然に対する恐れ、或いは畏れの感情と感謝の感情の入り混じったものであろう事は、いまも日本の祭りが引き継いでいる潜在意識である。日本文化の根源を知るには、この原始神道の姿を明らかにする事が必要だ。自然を崇拝する古神道は、現代の一神教よりも何層倍か優れていると私は想う。人類を救うのはこの神道であろう。それは我々が常には忘れている魂の故郷へ誘う物であるから。

景戒は、この霊異記を書く以前は、和歌山と奈良の境辺りに生まれた人で、生家は何をして居たのか?兄弟は何人居たのか?よく分かっていない。想像だが、おそらく一集落の長、辺りの家にうまれ、二十歳くらいで結婚し、何かの商いの様な事をしていたのだろう。文字が書けて計算が出来るのには、職業としては商人辺りが想像できる。どんな事情が有ったのか分らないが、然し後年に薬師寺の寺僧に成って居るからには、景戒には僧に成りたい、或いは成らねばならぬ強い意志が有ったのかも知れない。僧は、当時は謂わば高級な職業であり身分でもあったのだろう。当時の僧は自分で勝手に成れるものでは無く。正式に僧になるには日本にある三戒壇(当時、日本には三か所に戒壇(当時の総合大学)が在った。それは北から、下野薬師寺、奈良の東大寺、九州の大宰府である。)で学び、官許を得る必要が有った。それが無い自称の僧は私度僧と言った。

原始仏教、草創の地であるインドの仏教は「日本霊異記」が書かれた9世紀半ばには、なぜか、当のインドでは衰退し、およそ10世紀には消滅している。砂漠の中から生まれた一神教が、強烈な布教を展開し、従わない民族を暴力で破滅に追い遣ったような事は仏教では見られない。元々、仏教は一神教のような神を前提として居ないのだ。その本体は心理学と思弁哲学に近いものであり、一説では、仏陀はモンゴロイドであった可能性もあるという。一神教の特徴である神という支配者は仏教では存在しない。それは神道でも同様だ。草創に地で消滅した仏教は、それでも「北伝仏教」として、チベットに波及し、当地の伝統信仰であるボン教と融合して「チベット仏教」として法灯を守った。チベット仏教には「西蔵大蔵経」の膨大な経典群が残されて居り、インドではすでに失われた経典類が残されて居る。これは貴重な物で、9世紀末には衰退し10世紀にはインドで消滅した小乗仏教、大乗仏教の、その経典がチベットに伝えられた事の意味は大きい。

また、北伝とは別なコースで、小乗仏教である「南伝仏教」が有る。これはスリランカからビルマ、タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、に伝わった。北伝は主に大乗仏教の系統だが、南伝は小乗仏教の傾向が続いている。私は行った事は無いのだが、生きている内に一度で好いから出掛けて見たい。ジャワ島にはボロブドールの遺跡が有る、カンボジアにはアンコールワットの遺跡が有り、当地では大いに栄えた事を物語っているらしい。仏教が発生の地でなぜ滅びたのか?には多くの原因があるだろう。仏教はヒンズー教に吸収される形で現在もインドの中に痕跡として残っている。

百十六話という、多くの話は日本各地の怪異・奇譚として話題に載せられたものである。一つ一つ読んで見るのも宜しかろう。面白いもの、考えさせられるもの、好色で滑稽なもの、機知に富んだもの、恐ろしいもの、悲しいもの、奇跡的なものが根幹と成っている。景戒は、この説話集を書くにあたって、何を資料として参照したのだろう。彼がこの仏教説話集を書く以前に、この様な伝承逸話は他にも存在したのだろうか?、多分、有ったと私は想像している。人間の生活、その社会性、男女の営みは縄文時代を遥か超えて、人間に成ったときから生活感情は存在していたのだから。恐らくは、薬師寺が寺のネットワークを通じて集めた、各地の数々の逸話、伝承、奇縁、奇跡、色欲、吉兆、悪事、善行、狂気、慈悲、徳、化け物、幽霊、怪異、などの話が、すでに有ったのだと思われる。先ず彼がひとりで、これだけの話を集める事は現実には不可能だ。然し乍ら景戒は行基菩薩の弟子だったとも聞く。行基上人に従い、各地を放浪し逸話を集めないとも限らない。ただ常識的な考えでは、薬師寺の指導者が景戒に寺が集めた所の逸話伝承の編集を命じたのだろうと思う。

むかし親父の本棚で、子供の頃、たぶん小5だろう。この本を見たことがある。おそらく岩波文庫だろう。題名を見ると何とも恐ろしげな題名である。「日本霊異記」、「霊異」とは、お化け幽霊のことか!と思っていたのだ。臆病な子供であった私は、その題名から容易にこの本を開く事はなかった。なぜか知らぬが子供はお化けや幽霊を怖がる。生まれて来る前の深い記憶が、そうさせるのか??景戒、個人に付いて、その下巻38話の話以外に、確実な人物像、性格、描像、などは伝わってはいない。彼がどうして私度僧に成ったのか?僧になると云うのは、当時はどういう志向性が働いたのだろうか?是だけの話をまとめるには、切磋琢磨の相当の努力が要求される。逸話伝承は、生のかたちでしか伝わって居ないだろうから、それを勧善懲悪を背景とした説話として編集するには、確かな知性と文才が必要だろう。


 私は思うのだが、「霊異記」の中に、ある貧しい夫婦の下に起こった事件がある。私には不思議と、その話は景戒自身の身の上に起きた怪異と二重に見えまた思えて仕方がない。それはこういう話である。

 ある年のこと、夏が涼しくお天道様の光が見られぬほど悪天の日が長く続いた。その年の秋は、五穀がことごとく実らなかった。夫婦はやまの毛物をとって暮らしを立てていたが、その年は毛物さえ死に絶えたかと思われるほどに、山には毛物が見つからなかった。穀物と毛物を交換して暮らしを立てていた男は、食べる物にも事欠いた。妻はやせ衰えてお乳さえ出なくなり、腹を空かせた子供は、泣く力さえ失っている。男にはもう一刻の猶予も無かった。やまの中の大池に行けば、沢山の渡り鳥が来ているだろうと思い、朝早く気力を振り絞って、妻子の為に家から五里ほど離れた山の池に弓と矢をもって出かけた。

男は、道も不確かな山道を息をせいて急いだ。家に待つ、歳の行かない子供と妻の為に必ず獲物を得ようと決心して居た。森の中の大池に着き、静かに木の陰から覗いてみると、毎年、数多くの渡り鳥が羽根を休めている筈の池には、池之端に足った二羽の鴨の夫婦が泳いでいるだけである。男は、鴨でさえも飢えているのか?と思い、木陰から大きな方のオス鴨を狙って矢をつがえて放った。矢は運よくオス鴨を射て男は鴨を手に入れた。鴨を手に来た道を帰る途中には、山のキノコが沢山生えていて、汁の中に入れて食べれば、これほど美味い物はない。腰籠に一杯のキノコで、今夜は腹を満たす事が出来る。秋の日は暮れるのが早い、キノコや木の実を拾いながら家に付くと、その夜はキノコを料理して、妻も子も腹いっぱい食べて、久し振りにヒモジイ思いをせずに寝た。

 だが夜半に成って不思議な物音が、台所の方から聞こえてくる。ガサガサという音に目が覚めた男は、さてはキツネが狙っているのか?と、そっと台所の方を覗いた。そこには取って来たオス鴨を梁に掛けて置いたはずだ、弓と矢を持ちだしてつがえた。だが、何とそこには、池で一緒に泳いでいたメスの鴨が、冷たくなったオスの鴨を、一生懸命に温めて、しきりに一緒に飛んで行こうと、揺り起こしている場景だった。男は一瞬にしてすべてを悟った。男の手は震えて、目には涙がドット溢れ出た。男は鴨を殺した事を深く悔いた。生活のためとは云え、メスの鴨に取っては掛替えのない夫の鴨を射てしまった。これまでも、生活の為に毛物を取って暮らし、数々の生き物の命をうばう殺生をしてきた。男は深く悔い、妻子をあずけて僧になった。

 日本霊異記に書かれた、この話の男が景戒であるとは言わない。然し、私は、この話を読んだとき妙に景戒のことが思い出された。若しかして私度僧になった理由の一端には、これにも似た事が有ったのだろうか?と。

元々日本人は、大自然の摂理を自らの倫理として生活を立てて来た。ゆえに、山を神として命を取って生きる宿命、その為に夥しい神社を奉り、生きモノに感謝をして生きてきた。それは、縄文以来変わる事はなかった感情だ。大自然と言うものへの心の持ち方で有り、なを且つ、自分自身が大自然に属する物としての生活の規範であった。自然の恵みに感謝し、その畏れを知る生活感覚があった。それが、日本の根幹であり日本人の生き方であった。仏教は、そこにひとつの哲学を持ち込んだ。だがその哲学が日本人の生活感情に溶け込むまで、仏教は本当の意味では日本的文明には受容されなかった。仏教が日本に受容された後の伝統は、神道と仏教の融合であり、それはいま今日も連綿と続いている。

宗教という方便を離れて、世界は死にゆくものと生まれくるものとの出会いの場である。出来れば、此処では、世界と言う硬い言葉を使いたくはない。「この世」というコトバが一番似つかわしい。「この世」と云う言い方は、すでに「あの世」を前提としている。

世界と言う場があるのでは無く、生まれくるものが、それ自身で時間を背負っているのだから、その時間を背負ったいのち自体が、出あう場がこの世だ。あの世はこの世に現れる以前の、混沌としたものと言う以外の想像が湧かない。現在の全ての宗教は、それを解く力など元より無いと知るべきだ。幕末に日本を訪れた多くの外国人が、日本と言う国の特殊性について言及して居る。彼らの疑問は、日本人が貧しい身なりをして居るにも拘らず、「みな一様に幸せそうな顔をして日常を生きている事」であったという。ペリー艦隊が来航して幕府の官僚と会い、帰国するときのペリーの書簡は、日本と云う国がやがて世界の最先端に変貌するだろうと書いて居る。彼の航海記を読むとペリーの眼は節穴では無かったらしい。

古典としての「日本霊異記」が、私達に新たな感動をもたらすのは、生活感覚に溢れたた多くの話が、自然に我々を、日本と言う国の、本来の国体という文化的伝統に連れ戻すからなのだろう。絢爛たる日本古典文学群の森は、今まで余りにも蔑ろにされて来たのが現状だ。古代から紡ぎ残された、我々の祖先の培った膨大な量の古典文学の原生林、幾多の哲学思想の深い森を、自ら探検する若者は居ないのだろうか? 

先日、親父の蔵書をひっくり返して居たら奥の方から、ボズウェルの「サミュエル・ジョンソン伝」が出て来た、30年以上も前の、中野好之(「すっぱい葡萄」の中野好夫の長男)翻訳の三巻本である。暫し、この本を読むうち、あの有名な英語辞典の編纂者サムエル・ジョンソンの語る強烈な機知と皮肉、(腐敗した国家には、多くの法律がある)とか、(地獄への道には、善意と云うタイルが引き詰められている)…に驚嘆していると、ふとジョンソンよりも1000年以上も前の説話集の景戒も、こんな人物の一面も有ったのかもと思われた。そして同じく、明治の画期的な日本初の国語辞典「言海」の製作者大槻文彦を思い出した。著名な医家でもある大槻玄沢の孫として国語の統一に尽くした人物である。

江戸から明治にかけて、日本語を現在ある口語体に創り上げて行ったのは、漢学を基礎土台として持ち、更にその上に蘭学を乗せた人々であった。過去の膨大な古典群と共に、今の日本語が有るのは、この様な遠い昔から言葉を磨いてきた人々の弛まぬ努力と熱意に因る物である事を改めて肝に銘じた次第である。これ等の人々は日本人の誉れであります。 井頭山人(魯鈍斎)

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芥川龍之介の「河童」について

2017年10月30日 19時48分35秒 | 日記
 短編「河童」は、雑誌改造の1935年の3月号に発表された。それは、芥川が同じ年の7月24日に田畑の自宅で、睡眠薬をあおり自殺する約4か月前のことである。恐らくこの短編に一か月も要しないだろうから、彼の死の半年前くらいには書かれていた作品であろう。「鼻」や「芋粥」の系統に属するものだと云う認識があるが、しかし、果たしてこの河童が、小生には「鼻」や「芋粥」の様な無邪気で余裕のある、秀逸な作品に属するものであろうか?と感じてしまう、と云うのは、この作品には、声にならない芥川の叫びの様な不安が文章に隠れて見える。芥川の母親は、彼が生まれた後に幾らもせずに身心耗弱の状態となり病院に収監された。秀才の名を欲しいままにした芥川も、30歳を過ぎた頃から身心耗弱に落ちいる事が多くなる。芥川の不安、恐怖は母親の様になることであった。彼の自覚症状の中にも、そんな節があったのだろう。河童はある精神病院の訪問者が、訪ねて行った先の、病棟23号の患者の語る話を記述したものである。書かれている内容は、いかにも芥川らしい筆の運びで、小説と言うよりは演劇の台本と言う趣を備えている。恐らく気の利いた演出家ならば、この作品「河童」は演劇の台本にもなるものだろう。サミュエルベケットの「ゴドーを待ちながら」のような不条理系の作品にも成るだろう。

高1の15歳の時に文庫で芥川の短編を読み耽った。夏休中、風の通る縁側の付いた8畳間の畳の上で、芥川の文庫本5~6冊を積み上げては畳に寝転んで読んだものだ。文章は意外に明晰で読みやすく、ウィットの効いた印象的な文章で有り、これを読んだ子供は文章を真似る上で大きく影響されるだろうと感じた。謂わば文章指南である。表現は簡潔であり芥川独特の言い回しがそこにあった。また幾分説教じみた芥川の文体は、多くの箴言で出来上がって居るのだなと思った。妙に自意識的で、断定的な文体は、ある意味では魅力が有った。知的文体とは何なのだろう?、これが人々を魅了した独特の文章だと思った。彼の文章文体は途中を取り出して提示しても、誰の文体だかが分る特徴を備えている。夏の盛り、森の中からセミの声が頻りに聞こえて来る中で、私の幸せな好い時代であった。当時、出来れば街に遊びに出掛けたかったが、遠く離れた田舎では、それはこの夏休みの間に一度か二度くらいであろう。私は河童の舞台であり、患者23号が河童に出会った北アルプスを望む、梓川の熊笹の道を涸沢まで歩きたかったが、高1ではそういう機会も余り無かった。つくづくその時、私は高校の山岳部に入部すればよかったと後悔した。夏休みに北アルプスへの山行計画が有ったからだ。

精神病院の患者23号の話は、河童の国の社会や制度に言及し、彼我の差を暗黙の裡に語るものだ。なんと河童の国にも、哲学者や法律家、漁師や詩人が居る様で、その河童たちの言動は、如何にもストリンドベリ―やスェーデンボルクを始め、芥川の理解を基にして河童に語らせている。もちろんの事「侏儒の言葉」は「阿保の言葉」となって軽妙に修飾された。うる覚えであるが、大正四年(1915年)に、帝国文学に「羅生門」が発表された。当時、芥川は24歳くらいだろう。昭和二年(1935年)に自死しているから、彼の創作期間はわずか10年に他ならない。この短い10年の創作期間に於いても、彼の作品の傾向は、確かに変化してきている。彼の初期の作品の創作背景となる物は、日本の古典である、「宇治拾遺」や「今昔物語」と言った説話集である。

仏教的な背景を持つ「往生要集」や、私が最も優れた仏教説話集と考えて居る「日本霊異記」も入る。この薬師寺の私度僧である景戒と言う人物には極めて興味がある。景戒は、奈良盆地の鄙びた村に生まれたと云う。この男は色々な職業を経験したのち、薬師寺の下僚として何か正僧の手伝いの様な事をして居たのだろう。私度僧で妻も子供もあるという特異な存在だ。彼に文学的な才があるのを、薬師寺の管主がそれを認めて、色々な伝承を脚色して仏法的な勧善懲悪の物語を作らせた。そう考えるのが普通だ。明らかに日本霊異記は寺側が集めた勧善懲悪の伝説や記録を景戒が、新たに書き改め編集し伝奇集として編纂したものだ。

初期の芥川は、この説話集に作品の原型を求めている。もちろんその説話は大正期の世相に馴染むように組み直され、ドラマチックに脚色される。藪の中などは将に演劇的だ。芥川は長編に挑んで見たが、余り捗々しい物が書けなかった。元々、彼は短編の方が力を発揮できた人だ。もっと長生きしていたら、芥川龍之介は劇作家として多くの作品を書いて居たであろうと思う。道を変更することなく芥川は燃え尽きてしまった。さて「河童」は寓話なのか、切羽詰まった自己告白なのか?は、当人以外にわからない。しかし、自分自身の、一種の病状である自覚症状は有ったのだろう。幻覚を見るとか、幻聴を聴くとか、そこまで追い詰めた物は何なのだろう。創作的な枯渇を意識して居たのか?売文では、食えなく成ることへの責任と恐怖か?、今まで創作で成功してきた名誉が、狂気に陥り毀損される事への恐怖か?。敢えて言うならば、その全てだろう。友人の宇野浩二の病気の場合をみて、己の上にも襲い来る力に深く恐怖したことは間違いない。

河童は北アルプスに登ろうとした患者23号の奇譚であるが、彼はひとり梓川を遡り深い山道を掻き分けする内に、出会った河童を追いかけ深い穴に転落して異界に至った話である。そこには戯画化された人間社会が展開されている。狂う事でしか見えない事も確かにある。言いたかった事は、世相への批判とまた理想とする社会への観望だろう。しかし、この短編が昭和二年と言う時代性は大きく影響して居るに違いない。Sー精神病院のSは斎藤茂吉のSだろう。茂吉の日記は、芥川の自死に驚愕した事を記している。

芥川自身の認識では、この先、謂わば行き先が通行止めであった。行き場を失ったのだ。このような状況に多くの人が陥っている。日本の文明史から云えば、明治・大正・昭和と言う時代は日本人にとって如何なる時代であったのだろうか。250年の江戸時代を生きて来た日本人の生活感覚、それが内戦を経て、明治の代に成り、一歩先を進んでいた西欧の文物を取り入れる。その過程で江戸以来の多くの好い面を捨てた。権利と義務、平等と競争、富裕と貧困、権門と学歴、官僚制度、家制度と家族、医療と年金制度、それらすべてが、現在とは異なるレベルに在る。現在の日本国は、国内消費が十分にあり、輸出に頼る割合は少ない。日本の社会制度は、完成の域に近づいて居る。芥川の生きた大正と昭和の初期は、困難な時代状況であった。

河童は短編であるから、中学校の国語の教材にも成って居るかも知れないので、誰もが読んだ事が有るだろう。世界には、ある架空の動物に託した文明論は「河童」に留まらない。ガリバー旅行記も浦島太郎も異界への憧憬と、現実の批判であろう。生涯の最後に「侏儒の言葉」や「西方の人」、就中、河童を書かざる得なかった人の、心をもう一度振り返りながら、35歳で死んだ青年作家の可能性をかみしめてみたいものだ。

時代の経済的な背景から、芥川の生きた時代を振り返ってみると、彼は1927年に35歳で亡くなって居るから彼のうまれは1992年であった。明治は35年、大正は15年、昭和は64年であった。芥川は明治をあと十年残す時代にうまれ、昭和の初期に死んだ。その間にはヨーロッパの内乱である第一次大戦があった。それは1914年に始まり1918年に終わったから、その間日本は戦争景気に浮かれた。一次大戦が終わると世界史的な多くの事柄が起きた。ドイツの皇帝制の廃止、ロシアでは急激な変化が起きた、民主制な根付かず対極的な意味での暴力集団の独裁制が起きた。その為、この20世紀は多くの無辜の民衆が殺された。これはある意味での宗教的な独裁制であった。その影響は現在にも残っている。1927年と言うと世界大恐慌の直前であり、再びキナ臭い匂いが漂い始めた時期である。この12年後に再びヨーロッパの内戦がおこり、その内戦に連動させられる形で日本は戦争に参加せざる得ない状況になった。

日本の状況は一次大戦の戦争景気も終わり、大戦の反省から軍縮が行われたが、それはまたある意味では次の戦争の謀略の様なものであった。ヨーロッパの内紛である、一次大戦の勃発がなぜ起きたかは、今でも謎である。何者かが戦争の引き金を引いたのだが、それはいま公言する事が憚られるのである。大体は分って居るらしいが、公言は出来ないらしい。戦争バブルの崩壊と1929年の株式暴落による世界大恐慌が起きた。この恐慌は、次の戦争への要因であり、準備でもあった。当時の日本は、この様な世界不況をまともに被った為、国内の産業設備は廃棄乃至、縮小の機運が起こり、東北を始めとした農村部の疲弊をもたらした。

芥川の云う、社会的不安と言うのは、この様な経済的背景を持つものだ。と同時に芥川自身の健康の問題も有ったのだろう。遺伝的な精神疾患の不安におびえた。35歳で死んで、最後に「河童」を残した。「或る阿保の一生」とは、自分の状況を模した物か。解説の本を読んで見ると「主知主義的」なのだそうだ?、いったい何が主知なのだ?芥川は説話物古典に借りて、自分の感情を表現した物なのだろうか?。
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運動物体の電気力学ーA・Einsteinの挑戦

2017年10月24日 21時09分38秒 | 日記
 G・ガリレイの世界認識では「運動の理論」は、時間・空間・物質はそれぞれ独立な概念であった。これは、謂わば経験が教えるところである。何ゆえそれに疑問を持つのだろう。物と時空は独立であって不都合な事はない。それが20世紀が、始まるまでの状況であり、それが、余りにも当たり前の事実であり、自然な事であった。然し既に、マックスウェルの時代になると電磁波の問題が出て来るのだ。ある意味ではJ・C・マックスウエルは、その仕事から、見えない形で問題を提示していたのである。つまりマックスウエルの電磁方程式は、それを素直に解釈すれば、相対論は行き着く結論なのである。光速度の問題だし、光が何に依って伝わるかと言うことです。多くの人達は、光が伝わる為の媒質を考えようとした。その提案はエーテルの様な奇妙な物が多かった。マイケルソン・モリーの実験は、光の不思議な性質を焙り出したが、その奇妙さを合理的に説明する事が出来なかった。観測者がどの様な速度で動いていても、光の速さは常に一定である。という実験結果は、我々の常識からは、そう簡単に受け入れられるものではない。これは、我々の常識であったガリレイの運動の法則を逸脱する性質のものであった。この実験結果は、ローレンツ、ポアンカレなど、皆は色々悩んだが、上手い媒体が思い浮かばなかった。彼らは光が何かの媒体の中を進む波動に一種だと過去の経験に照らして判断していたのである。

そこに現れたのが、思いもしないEinsteinの特殊相対論である。Einsteinは、エーテルの様な光が伝わる為の媒体を仮定しなかった。相対論は、最早、光の媒質は考慮されてい居ない。そして光は速度の限界として導入され、時間・空間は独立の存在では無く、互いに関係しあう繫がりを持つものとして解釈された。高速度に成るに従い空間は収縮し時間は延ばされる。見方を換えれば、ごく自然に簡単な前提より、E=mC^2が出て来る。余りにも簡単な前提から、この重大な結果が導かれるのには驚いて仕舞う。ある意味では恐るべき本質である。で、この特殊相対論はすべての理論の土台となった。これが破れれこの上に立っている理論的建築はすべて崩壊する。20世紀の初期に現れたこの理論は、現在、我われが到達した最も基本的で重要な自然認識の前提になっている。しかも相対論は古典物理の中に分類でるもので、そのもう一つの現代物理の土台である量子理論とは異なり古い量子論以前の物理の範疇に属するものだ。

この相対論はその意義を順当検討するならば、天動説から地動説への変換を図るものだ。コペルニクスから1900年も前、サモスのアリスタルコスやエラトステネスの古代の地動説が、プトレマイオスやアリストテレスの天動説に駆逐された如く、古代の地動説は消えて仕舞った。此処に何があったのか、私は不思議でならない。宗教の妄想がそうさせたのか?、それとも別な理由があったのか?、瑣事に成るがコペルニクスは、アリスタルコスの地動説を知っていた。ゆえにコペルニクスの最初の原稿ではエラトステネスやアリスタルコスの地動説に言及している。しかし、地動説は自分が発見したのだと云う事を協調するために、彼らへの言及を削除したことがわかっている。さもしい事だが、事実にはこの様な側面があったということだ。では、コペルニクスは2,000年ちかく前の古代の地動説をなぜ登場させたのか?、ということだ。

コペルニクスは古代の地動説を読んでいたことは間違いない。彼の当時でも世界中に天文家は沢山いた。最も初期では、ブルーノや宇宙は無限であると云ったクサのニコライ達がいる。ブルーノはカトリック教会の教義に反した̚廉で火刑となり丸焼きに成った。些細な事で燃やされてしまった人が多くいる。コペルニクスはその危険性を知っていたので、生前の出版は取りやめた。己の死後に出版してくれるように依頼している。現代とは異なり、教会の専制はあらゆる分野に及んでいた。誠に窮屈なイデオロギーの世界である。自然認識がい如何に事実に即した物であろうと、強制的なイデオロギーが存在すると真理は反故にされるのが、今までの歴史的教訓である。一神教というものが人々の精神の自由を阻害して考え方や価値観を歪にした。今更、カトリックの価値観を押し付けようとしても通じまい。

相対論がもたらした世界観の変更は重大なものであったが、我々一般人の生活が変わるか?というと、何も変わらない。相対論の効果が現れてくるのは、物体の速度が光速度に近く成ってからの話であるし、我々の生活上の環境では何らの変化も変質もない。ただ、相対論以前には時間と空間は別ものだと、多くの人は考えて居たが、これは変化がもたらされた。時間と空間と物質は、つながった物だと云う事が確認された。空間が無ければ時間はない、そして物質もない。どれか一つが独立に存在する物では無い。つまり時空と物質は、何か同じ物の、異なった側面だと云う事である。

そうすると面白い事にカトリックの教義の一端が対象となる。つまり霊という彼らの妄想のことだ。生と死を分ける世界観のことである。そして、これらの問題は、現代でも関心を持つ人たちが、相対論への関心以上に多くいる。ここで、その本質を考えてみょう。それは我々の自己意識と深く関係している。自己とは、過去の多くの独裁者の欲望とは異なるもので、自己を深く突き止めようとすると、自己という物は本当は存在しない事に気が付く。自己とは衝動に突き動かされた本能の欲望を言っている場合が多いのは、それは誤謬に過ぎない。事故が生まれて来るのは経験や認識の反複から起きる。我々の衝動は、自己保存と自己増殖という基本的な目的から成って居る。この地上の生物は植物を除いて、他の動物を食う事でエナルギーを確保している。尤も植物でさえ、太陽光を求めて争いが在る。動物に関しては他の動物を食う事が宿命だ、それ以外に自己保存のエネルギーを確保する手段はない。

動物の場合は、基本的に他の生きている動物を食う事から始まるのだ。それが自己保存の宿命となる。我々は他の生きている動物を食うのは、道徳的に好しとはしないが、それでも食わねば自己保存が出来なくなる。次に自己増殖の本能である。生物はオスとメスを作った。これがどうして出来たのかに付いては未だに決定的な理由が見つからない。しかし、これにはそれなりの合理的理由があるはずです。自己保存の為に自己意識が生まれたと考えるべきであろう。オスとメスは生殖の形式が異なるだけで、本来は二つで一つの物である。オスとメスは二つで生殖的には完全な形となる。この辺はプラトンが云う通りだ。

故に、二つの生物的側面であるオスとメスは、体の構造も異なるし、厳密には心の構造も異なって居る。もちろん心臓の機能や肝臓腎臓などの機能は同じである。ただ生殖器の構造と機能が異なる。そしてそれは脳の気質にも表れて居て、こころを司る脳の性質の、感じ方、働き方、発動性、が異なって居る。もちろん働きの機能も異なる。霊的な性質と云う事で云えば、女の方がどういう訳かより本能の力を受け易いし、じじつ本能の力を感じ易いのである。男はその点は鈍感な場合が多い。自然は実に不思議なものだ、生命の継承にオスとメスを作った。人間に関していえば、遺伝的な基本形はメスである。メスからオスが生まれたと言えそうだ。メスが色々なオスを選ぶ。オスもメスを選ぶ。だが基本的には生物的には、オスはメスを選んではいけない。メスはオスを選べるが、オスは選んではいけない。それが自然の形態だ。優生学はマーラーの様な遺伝学者から始まったが、品種改良は人間には向かない。

相対論とだいぶ離れてしまったが、自然認識の拡張が相対論を主軸に為された。それは我々を取り巻く世界の認識的な拡張であった。誰しも相対論以前には、空間と時間の関係や物質とエネルギーの関係について具体的な認識をした事はない。ただ漠然と日常の常識的関係がどこまでも通用すると信じていたし、例え、それが破綻するにしても、どんな形で破綻するか?想像も出来なかった。相対論は、その破綻を具体的に数式で表して見せた。その数式の意味するものは実に驚くべき結論を用意して居たので有った。それが現代物理の方法論的支柱になった。この発見の意味は大きい。そして20世紀はまた、別な原子論的な世界観を具体的に発見したのである。プランクに始まる量子的世界像の発見である。この分野は相対論以上に常識の範疇を逸脱するものであった。これこそが、現在の今につながる最先端の源泉である。

特殊相対論は光速度の普遍性を軸に、我々の時間と空間の概念を、更に物質とエネルギーの関係を大きく変えた。その影響は物理学史上最大の業績のひとつだ。この影響は私たちの世界観、価値観をも変えずには置かなかった。古代以来、永い時間を宗教と言う架空の人間関係を模した世界観で封印されて居た世界が、大きく揺らいだ。ガリレイの時代であれば、アインシュタインはキリスト教を冒涜したとの罪で火炙りに成ったであろう。人間が自意識と心を持つ限り、自己を律する尊敬や愛、仁や考、礼や智、と云った心を律し自意識を抑える倫理項目が必要なのは言うまでもない。こういう人間社会の倫理項目とは相対論は対立しない。科学的な進歩が人間性や社会構造の進歩につながる事はない。人間の認識的な蓄積は世界認識の深化になるとしても。直接人間の変化にはつながらない。

「運動物体の電気力学」という論文で始まった相対論は、光速度の普遍性により、光に近い速度での運動物体の縮小、時間の遅れ、物質とエナルギーの等価性など、この世界の本質を考える上で、最も基礎的な考え方の枠となった。未来にもつながる運動学の基礎が確立されたのだ。 それは空間の性質をも規定するし、時間という対象の本質を明らかにした。こうしてEinsteinは、20世紀という物理学の世紀に絶大なる影響力を与えた。彼の業績は、古典物理の範疇と、現代物理の(確率的と言う意味だが)範疇とを跨いだ形になっている。しかし、特殊相対論はポアンカレやローレンツ、フィッツジェラルド、などが何れは完成させたかも知れないと言う事を主張する人が居る、然し、私はそれを疑う。数式的にはEinsteinの論文と同じ物が出て来たが、その解釈はポアンカレでは無理だったろう。ポアンカレは将に偉大な数学者であり位相幾何学や三体問題のカオスの既にある意味では予感していた程の凄い人だ、且つ物理学の大家でもあったが、老人のポアンカレの柔軟さは失われて居たと思う。ブラウン運や一般相対論はEinsteinでなくては、恐らく完成させることは出来なかったであろう。やはり20世紀の最大の物理学者であり、史上最高の世界観の革命家でもあった。思うのだが、特殊相対論のあんな簡単な数式を捜査して、その光速度一定の原理と相対原理から、なぜ等価原理の様な、トンデモナイ物が出て来るのか?

そんなEinsteinが、教師に見放された劣等生であった事は、誰しもいぶかるに違いない。言葉を話し出すのが遅く、5歳になってもろくに話が出来なかったとの両親の話がある。どうしてもギムナジュームに馴染めず、父の電気化学事業が失敗して、アルバートは17歳でスイスに移住して、そこのギムナジュームの4年生に編入学させてもらった。一年間の高等中学生(現代の高校)の後で、スイス連邦の実科学校であったスイス連邦工業大学(ETH)に入学願書を出して入学試験に挑んだが、数学を除いた学科の成績が悪くて不合格になり受からなかった。学長は、Einsteinにもう一年間、高等中学で歴史とラテン語を学び直して来れば入学させようと言った。そうして、彼はスイス連邦工業大学に入学している。

入学してからも、好きな講義には積極的だが、余り関心の無い学科には出なかった。家でバイオリンを弾いたり、友人たちと飲んだり、スイス国内の観光地を歩いたりして、ろくに授業に出なかった為に、ETHの学年主任の評判は好くなかった。実際、彼は教授たちから怠け者と思われて居たのだ。それで、卒業の後に出来ればETHに、助手兼研究生として残りたかったらしいのだが、それも叶わず就職先が無かった。これは困った事に成ってしまい、父は心底心配して、物理化学者として有名なオストワルドに、救済を依頼する私信を書いて居る。2年くらいの無職の浪人の後に、何とか友人の伝手でスイスのベルン特許局に職を斡旋してもらった。やがて目立たなかったスイス連邦工科大学は、Albert・Einsteinの出身校として、後に世界的に有名な大學と成り、今では世界中から理系の留学生が集まる有名大学となったのは皮肉なことである(笑)。

大學の友人の父の紹介で入った特許局の仕事は、それで何とか、自分で食う事が出来る職業を貰ったアインシュタインは、安心して物理学の基礎に付いて考える余裕をもつことができた。彼が1905年に書いた革命的論文5編のすべては、ここの特許局の仕事の合間に書かれたのだ。むしろ、物理学的研究の合間に、特許局の仕事をして居たと云うべきだろうか(笑)?。余業に理解のある上司が居たのだろう。これは、S・ラマヌジャンの場合と同じだ!。ラマヌジャンの場合も、数学の研究に理解の有る港湾経理事務所の所長、イーヤーという上司が居なかったら、あの神にも近い能力を発揮した数学者は埋もれて仕舞い、決して世の中に出る事は無かったであろう。それを思うと人類の歴史の中で、どれだけ埋もれて仕舞った天才が居た事だろうか?、と私は考えてしまう。

特殊相対論を作り上げたとき、その空間の性質を理解する為の幾何学として、「リーマン幾何学」を提案したヘルマン・ミンコフスキーは、アインシュタインのETHでの指導教官であった。この有名な数学者は、特殊相対論という革命的な論文を書いたEinsteinが、過って自分の生徒であったアインシュタイン本人である事を知った時、「あの怠け者のEinstein、が…??」、と驚いたという。それも全く皮肉な逸話であろう。ミンコフスキーはEinsteinを見誤ったのである。彼は、今で言うと「アスペルガー症候群」という概念に似た症状であったのだろう。「神は老獪にして」また、「アインシュタイン語録」には、深い豊かな言葉に溢れている。たぶん学校秀才には、おそらく書けない言葉だ。矢張り真の天才を生むのは、教育では無く大自然であると云う事なのだろう。

特殊相対論の帰結で、同時性が成り立たなくなる場合のこと。等速直線運動を続ける慣性系内での思考状態と、それを観測している人物の思考状態は、内容には本質的変化は無いが、思考の速度、或いは思考の時間には変化があると思うべきだ。それは未だ議論されて居ない不思議なテーマだ。明らかにここには人間の一生を通じて経験のもたらした結論にまで至る時間の長短にある。どの慣性系に乗って生きた方が深い時間的な猶予が与えられるか??。

だが、物理学の革命は、Einsteinで終わった訳ではない。未知の問題は山ほどある。物質から生命体の発生もまた、物理学的な謎の一つである。物理と化学と生物学と現代ではその守備範囲を分けているが、これも誤りだ。一つの原子から遺伝子まで、それは繋がっている物であり、いわば一つの実体なのだ。現代では、それが異なる分野として思われている。しかし、それは間違いなのだ。宇宙の創生と生命は、元々つながっている一つの実体なのだ。だから是は一つの存在の異なる実体として考え、研究すべきものなのだ。人の心が宇宙の深淵を理解出来ると云う事は、それは元々一つの物であるからに他ならない。そこには、当然の事ですが、新しい学問のスタイルが現れるはずです。それを探究しなければならない。原子から分子を経て遺伝子まで、ひとつのメソッドで表現し本質を把握する方法論だ。その統一的方法論こそが21世紀の真の学問となるだろうと思っています。
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寡黙なる巨人ー免疫学者多田富雄氏の場合

2017年10月20日 23時06分44秒 | 日記

 20年以上も前のことになろうか、「免疫の意味論」という著作を読んだ。免疫学者多田富雄氏のEssay論集である。これは確か青土社の雑誌「現代思想」に連載された著作を元にして、それに加筆した本では無かったか?。生物の免疫が如何にして形成されたか、その免疫機構の意味と動作メカニズムを知るに従い、生命の持つ「自己」とはいったい何であろうか?、という謎に出会い、その不思議な思いを懐き続けた記憶がある。その意味で、「免疫の意味論」は自己と他者、その境界の本質を解説した名著であると思う。免疫機構は実に複雑怪奇で、明確な認識の下に理解を進める事は実に難しいとそのときに思った。生命の本質は地球環境下で発生した原生生物の複雑化(進化)により、より高次な生命体への変化であり、それは、自己と他者の差異、謂わば、つまり「自己概念の確立」にあった。免疫学は、殆んど無限と思われる種間の差異と、その他種との共生の由来を解く歴史なのだ。

だが然し、上に挙げた本「免疫の意味論」は、多田富雄氏の学問上の業績を詳細に語る物では無い。遠い昔に「免疫の意味論」を読んだ時から、むしろ、私は多田富雄氏の世界認識に魅了された。多田氏は医学的免疫学に留まらず多様な趣味をお持ちである。いや趣味と言うコトバのレベルを超えたそれは深い高度なものであり、その方面でも日本文化の神髄に迫る人にも思われた。その多田先生が免疫学の分野でも実に多くの活躍をされて居た、その時に病魔に因る悲劇に襲われたのであった。

所謂、「脳梗塞」である。私の同僚にも、友人にもその病魔に襲われた人が居る。この疾患は、血管を持つ生物ならばどんな生き物にも起こる可能性が在るものだ。私自身にも、脳に限らず様々な血管の梗塞が加齢と共に起きるかも知れない。「脳神経」は実に微細な機関であり特に酸素を必要としていて酸素欠乏に弱い。脳血管に血流の閉塞が起こると、その血管から酸素と養分を期待して居た脳細胞の梗塞部分は本来の機能を失ってしまう。血管の梗塞は脳でも心臓でも、細胞死という致命的な物に成る場合が多い。この本は、その病魔に出くわし、それに正面から耐えた記録である。そして、この本は「免疫の意味論」とは異なる次元での深い生命洞察の書でもある。

また謂わば「脳梗塞」は、ごくあり触れた疾患でもある。加齢と共にその頻度は増大し、「長い精神集中や、睡眠不足・ストレスなどで」、脳の負荷が溜まった際にも発症し易い。勿論水分の不足も同様だが、我々の現代の生活は、江戸時代の様に、「朝日と共に起きて夕日と共に寝る」という、自然のサイクルに即した生活ではなく、夜半まで起きて活動している時代である。様々のストレスに晒される日常は、当然の如く、この様な脳血管の疾患を生みやすい。おそらくは私自身も微小な脳梗塞を起こしているに違いない。これが大きく来た場合には直ちに重篤な事になるだろう。脳の梗塞が部分的にでも機能を奪えば、当然の事だが体の随意運動を不能にする。そして、梗塞が言語野を襲えば、ことばを失い、音声の発声を制御できない。また高次の抽象的な思惟力、推理力、想像力を不可能にするだろう。恐るべき事態に遭遇することに成る。

さて、「寡黙なる巨人」であるが、この本をお書きに成られたのは、「脳梗塞と言う」病魔に侵され本来ならば免疫の世界的権威として、縦横無尽にご活躍されて居たであろう日常が、突然に奈落の底に落とされた状況に立ち至った。おそらく知らず知らずの内に、多忙さゆえの疲労が蓄積して居たのであろう。ところが、多田先生は、病から回復された後、その前駆症状を書き綴っておられる。その一つ一つは、今まで患者と言う立場にはなかった活動的で健康な日々を送って来た有能な研究者の立場であった。多田先生は、ご自分でもお書きに成られているが、「常に日の当たる道を歩いてきた」と仰られる。「そういう人間は逆境」に弱いとまで、自分の立場を鋭く認識されて居る。この様な客観的認識が、知性の現れでなくして何であろう。

その前駆症状は想わぬ感覚から始まったと云う。海外出張や講演など、多忙な日々を過ごし、僅かに空いた時間を作り、友人と一緒に久し振りの食事をしようとして、注文したワインの入ったグラスを持ち上げようとした時、ワイングラスは、テーブルに張り付いたように重かったという。既に意識はされて居ないが梗塞の症状は明らかなのだが、本人は意外と気付かない事が多い。従来から多田先生は健康そのもので、殆んど重い病には掛った事が無いと云う、幸せな歳月を過ごして来られひとである。中々、自己の病変の把握は難しいものだ。氏はそのディナーの席で急に倒れ、本人はおろか、友人もさぞや驚いた事であろう。その時は明確な意識があり一過性のものの様に思われたが、救急車で運ばれてから、再び梗塞が起きた。右半身が麻痺したと云うのであるから、左脳のどこかに梗塞が起きた。その範囲次第では、重篤な物に替わるだろう。下手をすると死ぬ可能性もある。

この様な疾患が、一応進行を停止し病状が落ち着くと、今度は様々な機能回復訓練が始まる。その中で多くの事柄に出会い考える事も多くなる。多田氏の脳裏には、健康な時に立てた計画が目白押しで有ったが、それもすべてご破算となった。ある意味では無念であった事であろう。海外講演旅行、表彰の栄誉、外国の友人との交歓など、健康な時の計画は無となった。まだまだやれると感じていた研究者としての活動も御破算となった。氏の絶望感は痛いほどよくわかる。しかし多田さんの人間としての存在は、外面だけではなく内面も含めたものである。多田先生は、その人間的な内面も優れた人であった。これが氏を、ある意味で救う事に成る。物を考える優れた知性と、日本文化の神髄を探究する哲学者の側面も持っている方である。特に能楽に関しては玄人の域に達して居る人である。私も能楽には興味があり、能楽堂での本物の実演は見た事は無いが謡曲の本を読む事は多かった。

この様に、多田富雄先生は、不慮の病魔に侵されて、日常の計画がすべて無に帰したのだが、しかしその分健康であったら触れる事にできない人間のもう一つの部分に触れる事が出来た。勿論だが、梗塞は経験しない方が好い決まっているが、病魔に侵されても人間としての内面は失われる事はないと信じたい。

さて多田富雄氏の場合は、御自分の趣味が現存在を救ったのだと思います。能楽ですね、先生は能楽がご趣味で有ったという。それも本格的で玄人の域にある。能という演劇が、この世の愛憎の話から派生するにしても、舞われる時空はこの世とあの世のあいだの境であり、謂わば中陰の次元である。何かが気にかかり成仏できぬ魂の、この世への吐露である。ひとは、いろいろな思いを抱いてこの世界に生きている。生まれながらに人はみな異なって居て、能力も容姿も、貧富も運命も、みな違いがある。中には親の因果が子に報いと言う様な、古風な因果応報を口にする人も居るが、でも、そこまでは無いだろう。ただし、親から受け継いだ遺伝情報は変え様の無い物だ。むかしの人はそれに因果応報を見たのかも知れません。能の話は此処でするつもりは有りませんが、ひとつだけ多田先生が、ご自分の境遇を能の演目の中の一つに見立てて、その苦しさを語っているのが残りました。

果たして自分と言う存在とは何なのだろうか?もしかしたら自己という物は、何かの錯覚であるかも知れない。自己という物は実際には存在しなくて、記憶の再生や、快不快の反応の中に、記憶の影のように見えるものの中に自分が在るものなのであろうや?、多田氏はここで小林秀雄について言及されて居る。それは世間一般の小林に対する難解との感想が、実はそうでは無く小林秀雄ほど物事を明快に語り、且つ表現して居る人は居ないと云う感想である。私もそう思う小林秀雄は、実に謂いたいことを直截に云っているのであって、彼ほど明快に語り書いて居る者は広く見渡しても多くは居ない。

この「寡黙なる巨人」の著作の帯に小林秀雄賞受賞とあるが小林秀雄への言及が賞の対象になったとは思わないが「考えるヒント」のEssayを思い出させることは確かだ。小林の「本居宣長」も好いけれども、彼の真骨頂は、考えるヒントの様な短文の評論にある。その、一巻、二巻、の中に傑作がある。ここには小林秀雄の真骨頂があるのだ。それから有名な数学者である岡潔先生とも対談が有る。対談は面白く、小林秀雄よりも岡潔の方が一枚上手であるが、小林秀雄は岡潔に振り回されている印象が深い(笑)。

最後に、多田富雄先生のご著書の中で特に記憶に残る部分は「愛国心」と「日本人の宗教観・自然観」に付いて述べた個所である。愛国心は、戦後の世論や教育で無視され、「流行らなく」指導されてきた物の代表である。私もその語られない愛国心の事で、暗黙の指導を受けて来た一人なのであろう。だが、私は凡そ、その学校教育の中では、指導された事を何でも、その通りに飲み込む性癖は無かったので、暗黙の反日的指導には、明確には気が付かなかった生徒なのだが…。だが人間としての存在基盤と言う物は、その人の生まれた国の、歴史的伝統の中にしか見出す事は出来ない物なのだから、生まれ育った国の、文化の素養基盤の無い人間ほど不幸なる者はない。本来の愛国心とは伝統への帰属意識であり、伝統が築き上げた個人の心と言う物であろう。 永い歳月を経て形成された文化的伝統は当然の事だが、個人の存在理由と切り離す事ができないものだ。それは遠く縄文以来からの伝統でありそれが日本の素顔である。誰が何と謂おうと、私はこの国の伝統文化を心から崇敬し、日本人として生まれた事に大きな誇りをもっている。

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サイバネティクスから分子情報論へ

2017年10月09日 07時51分44秒 | 日記
 サイバネティクスは1940年代の終わりころ、USAの数学者N・ウィーナーが、通信と制御という概念を中心にして、その本質である生物体の細胞レベルに於ける通信と制御を、機械的に模倣する技術的な側面を探究した分野である。この通信と制御と云うカテゴリー自体は、工学の基礎中の基礎であり、特別に目立って新しい概念では無い。しかしウィーナーの着目点は、生命体の構成とその原理を探究し、それを当時の最新の分野で有った電子計算機と結合する事で、製造設備やフィードバックするオートメーションなどの社会的に大きな影響力を持つ分野を考究したことである。彼がこの分野の科学の想像図を描いて居た頃より、現在(2017年)のサイバネティクスの科学は、遥かに強力な電子計算機が出現しており、将来は量子計算機が制作されて、更に高度なセンサーを具えたロボットが共に出現するだろう。量子コンピュターは、まだ完全ではないが製作されており、すでにこのシステムに関するアルゴリズムが創造されている。とすると、これは現在の人間の労働環境を一新する可能性に溢れて居る。これに学習する機能を付け加えた、更にAI人工知能が進展しつつ在る中、現在ウィーナーのサイバネティクスは、その当初の枠組みを遥かに超えて、新たな次元に入ったと見る事が出来るのではなかろうか。


依ってこれ等を前提に、分子遺伝学や生物進化論の適応を、フィードバック機構と読み替えれば、分子進化論、分子遺伝学、言語学、を生命体のネオサイバネティクスと読み替える事も可能である。数学で云う幾何学と代数の統一も、この分野とは直接の関係は、今のところ見出せないが、まったくの無関係とも言い切れない。


人造人間(ロボット)の系譜は神話や旧約全書の中にも散見されるが、近代にいたってはゴーレムの神話やシェリー夫人のフランケンシュタインの怪物、チャペックのロッボット、お伽噺の魔法使いの弟子、果ては漫画の鉄腕アトム、サイボーグ009、など、枚挙にいとまがない。これ等は明らかに人造人間の広い意味での範疇に入れても良い。 然し、伝説や空想では無く、真の意味での人造人間を、真面目にと云うか、数学を基にした工学への応用として構想した物は、ウィーナーのサイバネティクスが最初ではないかと思う。人間の持つ機能を強化しょうとして、人体に工学的は補助機能を持たせること、そして、やがては思考その物をも代用可能な物として進展させる事。これがノーバート・ウィーナーのサイバネティクスの未来への長期的な展望と構想であっただろうと思う。しかも、この構想は電子計算機の驚異的な発展と共に、現実化が段々に進みつつある。

最初、ウィーナーは、人間と機械の相互機能の拡大、進化を目指して、サイバネティクスの命名で、通信論と制御論の統合された分野を形作った。これは1950年代という、原子力と全く初歩的なコンピューターが出現した時代の或る意味での必然の表現でもあった。しかし、ウィーナーの構想の真の実現は到底成し得る物では無かった。通信と制御を通じて人間と機械の共生を模索したのだが、それは実現には遠い夢物語に過ぎなかったと思う。だが漸くその構想が実現の域に達しつつある。それはマイクロ・コンピューターの驚異的な発達である。初期の電子計算機が出現した当時に比べて、現代のマイコンは当時のメインフレームの一万倍の能力を持つコンピューターが安価に手に入る時代である。この電子計算機をフルに活用して、人工知能の進展が著しい。ウィーナーの夢は、漸くにして実現の為の出発点に立ったと言える。


そこで現代の時代的状況から、分子情報学を構想してみたい。比喩的に原子を音節と見れば分子は単語である。その単語はやがて膨大な時間的な経過の中から、一つの偉大な文章を構成する。そのプロセス現象の変動と創成の過程を考えて見たいと云うのが分子情報論の試論である。分子情報論とは、生物の大方の機能のプログラムが記載されている遺伝情報の形成と、そのデータの発現のプロセス解析と、また機能の意味を解くことを目的としている。思うに、生物のDNA遺伝情報は、生物が環境への適応力を示した適応と、ある意味での偶然に支配された歴史である訳だし、それは生命の起源からより複雑化する進化の過程で、幾多の適応の記憶がDNA上には刻印されている。その経験の総体を分子構造が織りなす多様性記録として分子情報論を展望してみたい。

DNAには、過去の様態が記録されている。今から10年ほど前に、ある個体のDNA分子情報のすべてを読み取ったと云う記事が出た。ある個体のDNA情報のすべてを読み取ったが、それは、読み取っただけで解読した訳ではなかった。いや、殆んど情報の意味を解読出来てはいない。一口に言えばDNA(デオキシリボ核酸)の文法が僅かしか分らないのだ。なぜ、その様に構文が創られるのかも分らない。基本的には4つの塩基を使ってDNAは組まれているが、命令は3つの塩基が対応するという。

問題の本質は、構成の原理である。


NO1-「原子から分子構造へ」

生命の起源と進化
「種はなぜできるか?」

自然のもたらす環境条件への適応?

ごく自然に?ー 自然と言うのは、謂わば分枝拡散構造と云うべきなのか?

何故、自然環境の条件の変化が分る?

わかるのはどの部分?ー 生命に部分という物は無い。

そうでは無くて、生命は自らの進化に、その感受性で環境を体得しているのか?ということです。

DNAは、考えるのか?ー 問題は最先端部分の提案であろう。いまの所、考えている様に見えるという解釈も

確かにある。然しながら、考えると言う様な曖昧なものでは無い。もっと必然のものだ。

方法論としての科学は、対象間の関連性の糸の追求です?

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移ろいゆく季節

2017年10月08日 22時04分31秒 | 日記

人生の悲哀を知ることなく、
淡々と歩いて居た、少年の時代がある。
観照とは、若い時代には知る事のない物だ。

未来が既に残り少なくなり、過去を振り返る時間が
多くなって分かることだ。

秋の空を赤トンボが飛翔している、
それは、最早空気よりも軽く、
夕焼けの空に浮かんでいた。

雨風に揉まれて、傷ついた翅は皺が寄って、
しかも所々が破れているのだ。

トンボは、中空を羽ばたき静止したまま
私を見つめるようにして動かない。
それでも不思議と空に浮いているのだ。
既に疲れ果てた、仕草の中にも
ジーッ、と私を注視しているのだ。

それからトンボは、南天の葉に向かい、
赤い実によじ登り、軽い体を再び飛翔させた。

過って、母トンボの尾より産み落とされ、
田川を流れる水中に、幾歳月を過したのだろうか。
トンボはヤゴとして過ごした水中の日々を
静かに思い出しているのだろうか?


今にも、南天の実より零れ落んとしている赤いトンボよ
お前は、この大空で幾日を遊び、過ごしたのか?

大いなる空の、湧き立つ入道雲の輝きを見て雨を翅に受け
更に空高く澄んだ巻雲の秋を泳いだのか
永い歳月を、空への憧れを夢見て生きた、水中の日々を。

そして青い空に出て六週間、
地球の歴史と共に、生きた全ての記憶を反芻する赤トンボよ、
確かに、お前は回転する歳月の時間軸の中心に居るのだ、
わたしと一緒に。

もうすぐ、この鼓動は止まるのだが、
然し、いのちの全てはこの静止した時の中心から始まったのだ。

トンボは、私の眼の底を覗き込み、
不思議そうに小首を傾げて、中空を動かない。

しばらく静止した後に、今度は南天の葉に掴まった。
然し、次第に夜露が降りて翅は重くなり、やがて
滴るようにトンボは大地に落ちるだろう。

この回転する地球の生んだ命は、互いに
支え合って、調和したある瞬間だけを生きている。

いのちは、自ずと大いなる自然の創り出した現れで
生物の存在は、掛け替えのない最小作用とエントロピーの奇跡なのだ。

ある時間の後に、命の時を刻むセコンドの振り子は停止する。
いのちの尊さは、みな同じだ、赤とんぼも、
私もそして貴方も変わりはない。

懐かしい人々よ、私はやっと知ったのだ、
世界に生まれ出で、そして、死にゆく者の
出会いの荘厳なる舞台である事を。
小さな虫たちの死を通じて命の儚さと類ない尊さを。

この存在意識的な世の中と宇宙は不思議な糸で結ばれている、
あなたの胸の鼓動に触れてみなさい、それは地球の鼓動その物だ。
全ての命の中に在る、この鼓動は星雲の鼓動に繋がる物だ。

遠い記憶を甦らせて、今在るこの時間の意味を辿ろう。
人の認識できる果てまで。生まれる前に有った世界を
再び歩くまで。

如来はこの世界に満ち満ちている、私たちはその事をただ単に知らないだけだ。
それを知ること無くして、

生命の存在の意味という謎は解けることが無い。
凡そ、この世界という物は、また生命という物は、
ある段階を踏んで魂を高みに導き育てる為の修業の場なのだろう。

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ある秋の日の対話

2017年07月06日 22時22分04秒 | 日記

「ある秋の日の対話」ー 2017年7月6日

 秋の長雨も過ぎた、ある日のこと、男は南早稲田の駅を降りると、まだ幾らかの、木々の緑が残る辻通りを歩いて、木立の中の家の前に立ち、格子ガラスの玄関を叩いた。
奥からハイと女の声がして家の玄関を開けた。

「マアお久しぶりです」と女が挨拶すると、男はぶっきら棒に、「先生居ますか?」とだけ声を出した。

「どうぞ上がって下さい」と、女は言うと、靴を脱いでいる男を置いて、自分が先に進み、南に面した八畳二間程ある主人の書斎戸を開けて、「あなた寺田さんが見えましたよ」と云い置いて、自分は台所の方に下がった。

男は玄関の靴脱ぎで靴を揃えると、長い廊下を歩き、主人の部屋の洒落たガラス戸を開けた。ガラス戸には赤や緑の色ガラスを使った風景画や、花が描かれて美しい色合いを醸し出している。「お邪魔します」、男は皮鞄と手にした帽子を絨毯の置いて、おもむろに背広の上着を脱いで座った。

主人ー「やあ、どうしてる?元気でやってますか?」と、主人は男の顔を見ながら声をかけた。
 「何かあったのだな?」と思いながらも、この男がこの間だ、俳句雑誌「ホトトギス」に書いた随筆を話題にした。「随筆を読んだよ、気持ち心に沁みたよ」と話しの水を向けた。

男ー いや、先生の初小説は人気が有って結構です。友人達の有様を猫が見た風景ですかね。先生らしいや。俳句雑誌に書いた僕の「団栗」は、高浜さんに謂われて、家内の追善の意味でも、いまの気持ちを書いて置こうと思いましてね。「ホトトギス」は、俳句の雑誌だと聞きましたが、小説や随筆まで載せるとはね。実際、私的な同人誌の雑誌だから、むしろ題材は自由に載せられるのは好いです。

主人ー 高浜さんの俳句雑誌は気軽に書けるから好い、子規は自然描写をより新しい形で進めたが、高浜さんは、それを忠実の継承してきたからね。それはそうと、自分は、いずれ大学は辞めて小説一本で行こうと思う。将来の自信は無いが、嫌々ながら大学で講義をするよりは気持ちに合う。多難な事かも知れない。まあ先は分らないが、これも自分の天命かも知れぬと覚悟はしているよ。

男ー ぼくの方はですね、諸事雑多と色々ですが、いまの職場の何人かの同僚が表面はお上手を言い、陰に回っては論文の内容のケチをつける、それで居て ぼくと面と向かうと涼しい顔をしている。結局そういう中傷の話は、他のルートを回ってぼくの所にまで達するのだが、もう何度もこんな事が有ったことか、先生には今まで言わなかったけれど、意図的に足を引っ張るのは、ぼくだって人の子だから、度々のそんな陰湿な中傷には心中激昂もする事がある。まったく心の狭い輩は度し難い。もっと前を向いて仕事をすれば好いのにと思うのですが。

主人ー 職場の具体的な内容は知らぬが、それでも僕も構図は分るぞ。寺田君、世の中のヒョウロク玉を相手にして居ても、埒は明かんぞ!。世の中には、丸っきり本質が分からない、馬鹿野郎が雲蚊の如くいる物なんだ、特に大學では、こんな奴を沢山飼っているのだからあきれる。こいつ等を相手にしていたら、中身のある仕事など出来やしないのだ!。 自分にも、嫌な事は多々あるが、最近は勉強をしないので叱った生徒が、その一週間後に滝壷に投身したのでは、僕もまったく寝覚めが悪いじゃないか。これは何も架空の事はないぞ、実際の話なんだ。僕より、小泉さんの講義の方がずーっと好いと、学生どもに言われたよ。それに五高の先輩でもある小泉さんを、如何にも自分が追い出した様に言われてしんどかった。それに、まだ20代なら未だしも、34歳にもなって英国に留学を命じられた。俺はまだ本当は漢学の方が好きだったのに、時代が英語を要求した為に、横文字を立文字に直す仕事をする事に成ったんだ。

男ー ハハハ‥今日は先生に愚痴を言いに来たわけではないので…

主人ー いや構わんよ、ドンドン言いなさい、僕くも言うから。怒りを腹や頭に溜めて置いても、碌な事は無いぞ!。血圧が上がり胃が悪くなるばかりだぞ。時には思いっきり寅彦の愚痴も聴いてみたい。

ところでだ、この前に話しを聞いた、あの研究はその後どうなった。その物質の結晶の構造を明らかにするとか云うやつだ。

男ー X線の応用ですね。やってますよ。電圧をかけた電子を銅の標的にぶち当てると、そのとき急に停止した電子のエネルギーが波長の短い電磁波として発生する、それは相当短い波長で、大抵のものは透過してしまう。密度の高いものでようやく停止できる、例えば鉛のような比重の重いものです。その透過性を使って我々の周りの物質に当てて、その構造がどうなっているのか知ろうというものです。

主人ー 面白そうだ。それで、そのX線を物に当てると、物が原子で組んであるのや、原子で出来ている形が分るのかい?その線には害はないのか?

男ー 今迄は単に想像で、仮想的な原子の構造や組み方などが考えられていましたが、それが現実に分かる可能性が有ります。身近にある、例えば食塩の構造はどうなっているか?とか、砂糖の構造はとか?、それは、遣る事が沢山有りますよ。X線の害は、当面重大な害があるとは思えないのですが、長期的にはどうなのか?分らないという事ですかね。この目に見えない光線は物質を透過してしまい、乾板に何かの影を残す。それを調べれば、物質の構造がどうなっているのか分る。それで原子の組み方が判断出来るのではと思い実験をやっている訳です。目に見えない世界を知るには、このX線は有効です。肉は透過し骨は密度が高いから乾板には白く出ます。将来は、このX線が人間の病変を探る医療に、応用されるだろうとフト思いますね。

主人ー 直接には目に見えない極微の世界だからな、それで構造が分れば、物がどうなのかも、元素がどう出来ているか、比較が出来ると云う事だな。君がやっている様な事をして居る人は他にもいるのかな?

男ー たぶん、そりや沢山居ますよ(笑)、X線はドイツで発見されました。発見者はW・レントゲンという人です。この透過性を使って、物の構造を知ろうとする者は他にも多々いると思います。これも競争ですから。

主人ー 科学は、そういう面白い世界が沢山あるから好い、世の中はまるで謎の塊だ。未知のものだらけだからな。然し競争となると、面白いだけでは済まないようだな。やはり優先権と云うものがあるのかね?

男ー 科学では、どんな発見もアイデアでも、先に論文発表した方がプライオリティを、詰まり「優先権」を持つ。それが科学界の不文律です。それは一日でも早い方が優先権を持つのです。外国には大きな研究所が有ります、例えば、英国にはケンブリッジにキャベンディシュ研究所という組織があり、研究員がそこで資金を貰い、好きな研究をしているし、独国にはカイザーウイルヘルム協会というのが有って同じような事をしています。仏国にも同様なものがある。今の日本には、彼等の組織に相当するものがない。大河内正敏さんなどが、日本にも研究組織が必要だと言っているので、いつかは出来るでしょう。然し資金はどうするのか?それが問題だ。

主人ー 組織を据えるとなれば大きな資金が必要だろう、しかし日本としても、科学的に独立し国力の隆盛を図るには、そんな組織が是非とも要るな。発明や発見で資金を宛がうことが出来れば好いがね。しかし西洋科学の方法は導入しても、文明開化と称して、日本文化を否定して済し崩しの西洋化は変だと思うが、西洋の武力的優勢はここ三百年の事に過ぎない。日本は神武以来二千五百年だ、これが連綿として続いて居る。それをすべて投げ出してしまい、新しい物に飛び付くという事を政府は奨励しているのだが、場当たり的で本当の智慧が無いと、短絡的な愚策は将来に禍根を残すだろう。

男ー 先生のお気持ちはよくわかります。森羅万象の自然に対する感情は、そう簡単に変わるモノでは有りませんからね。徳川の世に成って二百五十年、締め付けは在っても大きな戦争は無かった。外敵に襲われる事無く安寧に暮らし、問題は飢饉という国内問題だけだった。



*-ここに主人の奥方が、部屋にお菓子とコーヒーを持って入って来る。


奥方ー マア、マア、寺田さん、ここの所、お見えに成らないので、また海外にでも行かれたのかと思いましたわ。ホントに、ご立派に成られて…、寺田さんというと、あたしは貴方がまだ五高の学生だった頃をいつも思い出しますわ、最近は俳句は作っていらして?

男ー もちろん作っていますよ、俳句は先生に教えられた当時から興味が湧きましたから、なかなか深いものです。これは極めるのは容易な事ではありませんね。

奥方ー あなたがが来て下さると、主人は、その後々まで機嫌が好いのですよ。度々来てくださると助かりますわ(笑)。それから「ホトトギス」の随筆読みましたわ、本当に残念でしたね。あたし胸が締め付けられる思いがしました。寺田さん今日はどうぞゆっくりなさっていってください。

*少し話して奥方は戸を開けて台所に下がった。

主人― (熱いコーヒーを飲みながら)、折角来たんだ、どうだ、今日はゆっくりと話しながら夕めしでも食って行かんか?

男ー (同じくコーヒーをすすりながら)先生の創作の邪魔になるのではないですか?

主人ー 書くことも大切だが、取材も同じく重要なのだ。

男ー 取材って、ぼくのことですか?(笑)

主人ー 君のような話題を持って来る人は、他に居ないんだよ(笑)、話は面白いし、今までの、君の一生も面白い、いずれ、この事をモチーフにして書いてみたいが、好いだろう?

男ー どうぞ何なりと書いてください(笑)、なにも面白そうなことは無いと思いますが…


主人ー 出会いも面白いものだったな。寺田が五高の二年生の時の事だったかな?、確か、試験で落第点を取った生徒の加点を頼みに、3~4人で来た中の一人だった。僕は点をやるとも、やらないとも言わなかったが、結局は落第はさせなかったよ。勉強しない生徒は容赦しないつもりなのだがね。

男ー あれは恒例でした、あの時M君のことで、僕も頼まれて断れなかった。じっさいMは、真面目で普段なら落第点を取る様な男ではないです。あのとき母親の病気で田舎に帰り試験前のふた月近く、家の用事や看病に当たっていた。それで先生の授業には出ていないはずです。

主人ー まあ仕方がない、それで、ぼくと君は知り合いになったのだから、怪我の功名と言うべきものだ。落第も好い物なのだよ。そういう経験と言うものは、人生で思いがけない関係を創るものなんだからな。

男ー 先生も落第したのですか?(笑)

主人ー そりゃ~したんだよ!(笑)、病気で学年末の試験が受けられなかったのだ。今なら、再試験してもらえば好いじゃないか、と言う者も居るが、自分は一層のこと落第しょうと思ったんだ。落第はしない方が変じゃないか?おかしいんじゃないか?、落第しない方が損をしているぞ寅彦、(笑)。君はズーッと、秀才で通したのだから、そんな経験は無かろうが、落第は金もかかるし、世間的にも外分が悪かろう。でもな寅彦、人の出会いと別れは、落第の様な思い掛けない偶然が、大きな役割をするんだよ。実際にぼくがそうだ、落第したお蔭で米山保三郎という面白い男にも出会ったし、人生で文学を選択する切っ掛けにもなった。米山は若くして死んでしまったが、もしも生きていれば、大傑物になっただろう。文学ではまともに食えないだろうと云うのが、世間の常識だが、しかし、これは後世に大きな影響を持つんだと、米山は言ったよ。それはそうだ、どんな偉大な哲学や思想だって、一般人は一生の間に、そんな物をどれだけ読むか?疑問だ。読むのは学者や奇人だけだよ。だが文学は違う、これはどんな連中だって、少なからず面白いと評判の物は金を出してまで買って読むんだよ。


男ー およそ科学が未来を創るというのは、知的世界では常識ですが、確かに文学は、人間の日常を活写しますから、それは古代から引き継いで来た日本の古典文学と同様で、これからも残るでしょう。文学で食ってゆくのは大変だと思います。何か二股を掛けて、生活費を稼ぐには生業を持ったうえで、文学を趣味に遣るなら好いんですが、文学だけで食おうとなるとね。先生から薫陶を受けた以上、ぼくも研究の合間には、随筆を書いてゆこうと決意しています。「猫」は、実に傑作でした。飼い猫の視点は将に斬新だ、然しこれからどうします?、いつも猫の様なものを書き続けるわけにはゆきませんよ。


主人ー そうなんだ、温めている物や思い付く物は幾つかある。この世界にも同じ連中がいる、例えば露伴や鴎外だ、露伴はどうやって行くのか知らんが、鴎外は軍医と言う生業を持って居る。そりゃ生業の合間に書くのは大変だろう、だがそれでも結構何とかなる。困るのは書けなくなった時だ、その時は食うに困ることになるだろう。


男ー 種はいくらでも有るハズです。男子一生の仕事とするには、ただ食う為だけの事では、どうにもならないです。それ以外の何かが無くては、生きている意味は見えない。今は実験物理をやっていますが、自分も何を専攻するか迷っている時、一層「心理学」でもやろうかと考えた事もあるんです。


主人ー アア、そんなら自分は、最初は「建築」でもやろうかなと思ったよ、心理学も面白い、俺も理科は好きだったのだ、その方に進めば、こんな事には成らなかったかな?(笑) 心理学は、単に意識や精神と言うものの、発生と構造機能を探求するだけでなく、人間の心の病理も扱うのだろうな?そうすると日本では、「心とか悟り」とかいう場合には、仏教を抜きにしては、何も見通しが附かない。大學時代に色々と煩悶し、鎌倉の寺で参禅したんだ。だが俺の悩みの根源を、円覚寺のあの坊主は少しも理解しなかった。

男ー 本来の仏教って、元々は心理学では無いのですか? どうもそう思いますよ、唯識にしたって中観にしても、それは心理分析ではないですかね? かなり日常感覚を超えた、一種の記憶の下に降りてゆくような修行です。詰まるところ、座禅はそんな修行になる。人間の深層意識の探求は、仏教の常套手段だから、少し乱暴だけど、仏教は本来心理学の一種だとおもいます。


主人ー 仏典を、読んだ事あるのかい?


男ー いや、改まって本格的に読んだ事は有りませんが、解説を幾らか読んでみると「八識」というのがあります。眼、耳、鼻、舌、身、意識、末那識、阿頼耶識、の八つです。この様に唯識では意識の実態を分類している。最初の六つまでは、感覚神経系で、外の世界からの情報を得る為めのものです。しかし、あとの二つは意識には直接掛からない、未知のもので、我々の日常の思念の世界を成り立っているその足場にあると思われているものです。むかし、この世界を悟りではなくて、その実態を数量化、或いは現象化、できないかな?と思い、それで、心理学をやってみたいと考えた。


主人ー 成る程な、そうか面白い。もしかすると文学と言うのは、その底辺の世界と現実の娑婆をつなぐものかもしれないな。それが出来れば文学的には成功という事だろう。そうだな、そう、その己を突き動かす得体のしれないその意識と末那識を繋ぐものを明らかにできれば好しとすべきだ。


男ー 仏教は、勿論それだけではないですが、たぶん初期は心理学に近い立場だったのでしょう。仏教の始祖である仏陀ですか?釈尊というのか?パーリ語ではゴータマですね。彼が始めた当時は、彼以前にも心理学探求の先人が居た。六師外道と言う名称で謂われている人達です。彼らはどんな人たちであったのか?面白いです。ギリシャ文明で云う所のソクラテス以前の哲学者という分類が六師外道と酷似していると思います。彼らは瞑想の実践から深層の真実を把握した。これは現在の心理学の探求レベルを超えている。偉大な事です。心理学は巨大な設備や高価な実験道具を必要とはしない。瞑想と集中力だけです。それがどんなに大変な事か!。もともと原始仏教は、日本仏教とは似ても似つかぬものだった様ですl原始仏教は、心理学を基盤にした、存在と認識の哲学でもあったらしいのです。初期に入って来た仏教が、詰まり奈良仏教です。それは、哲学と論理学、数学、などが混在した思想であり、人の生き死にとは、余り関係のない物で、これが日本仏教になるには長い時間を要したと思います。ですから奈良仏教から平安仏教へ、そして鎌倉五山を始めとした鎌倉仏教に変わって、初めて日本仏教に成ったともいえるのかも知れない。そういう事を考慮して、もう一度その心理現象の根底を探求し再現してみたいです。


主人ー いったい、寅彦は坊主にでもなる気かね?(笑)


男ー ハハハ…、坊主になる気はありませんが(笑)古い仏典は、昔の人間が初めてこの世の意味を探求した記録の一つですから、然も真剣に心と謂う現象の批評と分析の集大成ですからね。心理学の参考の一つには成ると思いますよ。但し、かなり変な分析もあります。本来、地獄や極楽もこの古い原始仏教時代の概念には無いんですね。


主人ー ほお~、それはいつから出来たのかね?


男ー さあ~、生まれた以上は万物は死ぬわけであり、それは「無常」であるわけです。永遠に存在するものはこの世界には存在しない。今の生活形態が死後も続くという先入観が抜けなかった為に、来世という事が考え出され、そしてこの世の中で正しい生き方をした者は極楽に、悪にまみれた生き方をした者は地獄に、という考え方で創り出されたのが、あの世観ではないですかね。


主人ー 人間が始まって以来、そんな事が繰り返されて来たんだな。それはそうと次の小説だが、自分が東京から愛媛の松山中学で暮らした一年間のことを書いてみる積もりだ。あのときは全く出鱈目だった。生徒からして小生意気で弱った。東京高師に勤めたがあまり気乗りせず、辞めて子規が療養していた松山へ行った。松山中学の英語教師の募集に応じたのだ。松山は一年しか居なかったが、東京の雰囲気から急に四国に行ってみると、何だか土地柄と云うか僕の肌合いに合わん。俸給は校長よりも多かったが、五高から誘いが来て、熊本に移ることに成った。それが寅彦との出会いのきっかけだ。


男ー そうでしたか、幕末期にわが寺田家でも色々な事が有りました。父も精神的に相当苦労している。幕末期に父は藩主から喧嘩両成敗の命令で弟を切るという無残な仕事をさせられている。それは恐らく一生父の心の底にわだかまりを生んだ。遣りきれない気持ちが何時も有った様に感じる。


主人ー うん、そんなことが有ったのかね。自分も母の40過ぎの子供として、要らない子として生まれたのだ。生まれた年が大泥棒に成る宿命だという事で早々と養子に出された。露店で泣いて居るのを見て、姉が不憫に思い連れ帰った。そして再び養子に出された。思えば不思議な運命だ。


男ー  まったく不思議な縁ですね、何事もなく順風満帆として暮らして居ると思いこんで居ても、人生は予想のつかない不思議なものです。無秩序でランダムと言っても過言ではない。この世のランダムと必然性は人の智慧を越えている。世の中の現象は自然に無秩序へ移行するのが自然なのです、それは時間の進行と共にあらわれる必然性だ。エントロピーと言う熱力学の分野の基本法則です。このエントロピーと謂うのが、この宇宙の形成と並行している。この分野は時間の現象と絡んで、今後の物理学の根幹をなす興味深い世界です。


主人ー そのエントロピーというのは具体的には何なのだね?



男ー そうですね、この概念は熱力学の探究から出てきました。19世紀の物理学は、ごく身近な対象から始まりました。水の沸騰だとか、凝固だとか、熱物理学です。こんな中から生まれてきた概念が、エントロピーという物です。物事は秩序ある段階から、放って置くと段々に、その秩序が壊れて行く。これが熱力学から生まれた概念の一つで、エネルギーの保存則と同じく、熱力学の原理を構成する第二原則です。このエントロピーという概念を付けた人は、ドイツの物理学者クラウジウスという人です、それを厳密に基礎付けし展開したのは、L・ボルツマンというオーストリアの物理学者でした。物事は放って置くと形あるものが壊れて、バラバラの無秩序になるというのが自然の流れで、それが時間軸の必然性だという事です。人は、この世の因果性を言うが、大宇宙の始まりでは因果性は存在しなかった。因果性は時間の流れが出来てからの話です。この宇宙が無から生成するとき、時間も空間も、そして物質も存在し無かったのだから、因果性は有るはずがない。無と言っても先生、空っぽの事では無いんです。すべて、ある時、無の宇宙がシャボン玉の様に急激に拡大を始めた。そして物質が生まれ時間と空間が生まれた。順番を云えば、まず時空が生まれて、次に物質が生まれた。その物質を司る力は、重力が次に強い力、つまり原子核を纏めて居る力が生まれ、次に、弱い力つまり、原子核を変換する力が生まれた、次に我々の最も身近な電気力磁気力がうまれた。その順番は、宇宙の進化を示している。この過程の中からわれわれ人間も生まれて来た、という事です。


主人ー バラバラになる方はエントロピーだとしても、じゃ、形を創る力の方はどうなんだい?、何だか因果性の世界のようで面白いな。外来の典籍を見れば、自然は老子のコトバにあるが、寺田がいう自然は、ヒトなどと言うチッポケな存在を超えるコトバだ、科学における自然の概念には、物事を押進めて、新たな構成物と輪廻を作り出す力が有ると日本では大昔から信じられてきたのだ。やっぱり、俺も理科を選ばずに失敗したかな?(笑)


男ー 先生、図星です。これからは形を作る作用を探究する様になるでしょう。僕は色々と自然の作用が及ぼす形の研究を、これから主に遣ろうと考えて居ます。構成の原理、これは自然現象の、最も基本となるだろう未知の概念です。これからの形の科学は、この構成の原理を掴む事が、重要な事に成るでしょう。その際は、原子から分子に、そして、分子から構造へと進むことになりますが、そのフィールドでの基本的な力を突き止め、その作用の原理を知らねばならないと思います。これは古来の気の概念にも、ある意味では繋がる物でもありましょう。 先生、即座に勘所を掴むなんて、ハハハ…やっぱり理科に進んだ方が好かったのではありませんか?(笑)。それで、わたしも思うのですが、直ぐに分る学説という物で、革命的な物はひとつも有りません。例えば、或る学説を提唱したが、誰も相手にせず、当事者が没してから50年後に、或いは100年後に、何を云っていたかがわかったと言う様な物でないと、大した事は無いです。
そう言う飛び切りの人は、在世中は苦労することに成ります。それは人間の文明の為の代償なのかも知れません。


主人ー 成るほど、余り先の見える人は通常、共通範疇から飛び出る人は、研究人生的には、不幸なのかも知れない。しかし、自分もその世界に参加してみたい気はするんだが、でも、今となっては手遅れかも知れんな…(笑)。 反面、俺は文学でも良いか?とも思うんだ。江戸以来、日本の文学は主に戯作を家業としてきた。そこでは、新しい形式の文学は、まだ創造されて居ない。江戸以内の日本の伝統は、済し崩しの西洋化の為に打ち捨てられているのだ。基本的に、西洋の文明をダイレクトに入れることには僕は反対なのだよ。余りにも性急すぎると思わないか? その点、科学は好いよ、これは今まで日本では余り発達しなかったのだからね。江戸時代には、技術と哲学は大いに在ったが、数学と技術が緊密には結びついてはいなかったから。これから先、西欧に学んだものを自分で縦横無尽に改造して、日本の科学として定着させることだな。寺田君らの努力が、やがて実るだろうと僕は思うよ。


男ー 話は飛びますが、たぶん先生は相対性理論と云う、運動に関する物理学の革命を聞いた事が有ると思いますが、あれは、速度の限界を光速度と規定して居ますが、如何なる運動物体上でも、光速度は保存される。そう仮定すると、妙な事が起きることになります。運動物体が光速度に近づくにつれて、時間がそれを外から見て居る人に取り遅れだし、空間は収縮してゆきます。運動物体の慣性系にある人には、そんなことは感じられない。あの理論以来、「時間と空間と物質」は、独立の存在では無く、互いに関係しあう、惹いては同一のものと考えられるようになります。一応、この相対性理論は古典物理の範疇で治まりますが、ここ最近、また極微の世界では、量子論という世界が議論されつつあります。最初に話した、あのレントゲン線(X線)の世界の新しい知見です。これは実に奇妙な物でして、一言で云うことは出来ませんが、どうも世界は、私たちが生まれて以来、常識的に考え感じていた世界とは、まるで異なるような世界です。量子力学は現在の時点では建設中ですが、その問題は大きな世界観の変革を伴う事でしょう。


主人ー ここ20世紀以来、自然科学の方は大いに新知見が出てきているね。自分も、実は漢文のほうが好きだったのだ。算術の方も得意で好きな方だった。然し、何せ大学予備門は、英語が難しいと聞いて居たので、神田の英語学校で必死で英語を学んだのだ。そしたら英語は、同級の中でも自分が可成り出来る事が分ったので予備門から、大學は英文科に進んだのだ。英文の文献を読む事も幾らかは有るが、残念だが理科に進まなかったので、数学の習得が不十分だから。考えれば、若い頃は、少しでも食う為に職業を選んでいた帰来がある。江戸時代以来、算術は武士階級には重要視されなかったからな。然し時代は変わったのだ、寧ろ、此れからは算術と窮理学(物理学)が重要な基礎土台になるから、若い人は、出来るだけ、その方向に進むべきだろう。とは言っても、数学は明らかに適性が有るからね。寺田君は若い頃からその適性を意識して居たかね?


男ー いや、特別には、そんな意識は有りませんでした。でも物事の道理を進めてゆくのは好きな方でしたね。こうして若い頃から先生といろんな話をして教えられることが多かった。今日もお邪魔して好かったです。


主人ー そりや自分も同じだよ、僕だって君に教えられ感心する事が多いのだ。歩く道は異なって居るが、むしろ、歩く道の違いが、新たな発見と展望を生んでいるんだ。今度来た時に、その量子力学とやらを聞かせてくれないか?世界は不思議に満ちて居る。生きている内にこの世界の様相を知ることは、成仏の為の第一の課題だろうからな。(笑)


* 秋の日は暮れるのが早い、男が主人の家を訪ねて二時間もすぎると、日は西に傾き外は急に暮れだした。男は帰り支度をはじめようとしている。


主人ー なんだ夕めしを食ってゆかんのか?


男ー 今日は家に用事がありまして、残念ですが帰ります。


*- 主人は立ち、台所に行くと、


主人ー おい、寅彦が帰ると言っているぞ…。


奥方ー まあ、せっかく牛肉を買いにやらせて、いま帰って来たところなのに…


主人ー 包んで持たせてやればいい。


奥方ー 直ぐ用意します。確か、寺田さん甘いものが好きだったはず…。このイチゴジャムの大瓶も持た

せてやりましょう。


主人ー そのジャムは、俺のなんだけど…。


奥方ー あなた何を言っているんですか!!こんな物ばかり舐めているから胃が悪くなるんです!

あれほど、お医者さまに言われて居るでしょう!。甘い物は控えるようにって!胃が悪くなった時の辛さ

を忘れたのですか!


主人ー …



* 主人が玄関の方が行くと、男はたたきに座り、靴の紐を緩めて履こうとしている所だった。奥方がその後からついて来て、買って来たばかりの牛肉とイチゴジャムの瓶を入れた包みを持って居る。


奥方ー 食べてゆくものとばかり思っていましたので残念ですわ。


男ー ええ、また今度伺います。その時にはゆっくりと頂きます。

それから、これは先日、外国人を浅草に案内した時に買ったものです。子供たちにあげてください。

(大袋の中には小さなお人形が三つと二十枚以上のメンコが入っていた)

奥方ー これお持ちになってください(笑)


男ー ありがたく頂きます。では先生又来ます、奥さんお邪魔しました。


* 男は軽く会釈すると、もうすぐ暮れる、西に傾いた秋の陽を、顔に受けて帰って行った。


人の幸せとか不幸とかに関係なく、歳月は過ぎてゆく。人の一生も四季の変化のように、若い春があり、力漲る夏がある。人生の秋がきて、やがて静かに眠る冬が来る。人の一生は、その時その時の時代の中で、季節を過ごすように、 一途に生きるほかに方法は無いのだ。

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素粒子物理学の世界と人間の自然認識

2016年10月11日 14時47分56秒 | 日記
人間の自然認識の歴史は、此処3000年頃から急速に発達し、特に17世紀の世界認識は宗教的な強制から隠れる事により、18世紀に至って漸く今日の世界認識に近付いて行った。然し自然科学が現代の様な形式に、つまりパラダイムが形成されたのは、19世紀の半ばから終わりに掛けてである。自然科学では、原子論が大勢を占め、力学が自然科学の土台となり、数学がその道具となった。この様な方法論と認識の枠組みを形成するまで、人間は様々な誤謬と迫害に晒されねばならなかった。20世紀に入ると自然科学は、過去の如何なる時代にもまして、その力を発揮するに至り、20世紀の初期に量子論、と、相対論、中期に原子爆弾が現れて、その圧倒的な破壊力に依る力を誇示して見せた。それ以後、自然科学は権力と戦争に勝利する為の基本的な鍵となり、独裁者は科学的な探求に莫大な資金を投ずるように成ったのである。

そして20世紀の半ばには究極的な物質の根源を把握する為に、素粒子物理学が探求されていった。物質の究極の状態を把握する為に、電気的な或いは磁気的な装置によって、物理学は実験的な事実のより、その実体を明らかにすることが出来た。それは物質は原子で構成されているという事実であった。このモデルは、残された文書的記述によれば、遠くギリシア時代に始まるが、明らかに厳密な数値的原子の世界観が確立されたのは、ここ近代に至ってからであり、古代の原子論は単なる想像上の類推でしかない。我々を含めた、この世界の物資は、すべて原子で出来ている。そして原子は元素を形作り、その元素は現在100以上の物が確認されている。現代の物理学は、物質の究極の存在の探求に向かっており、それの最新の知見は、超弦理論という呼び名で認識されている世界像である。素粒子物理学は、この超弦理論や超重力理論に象徴される様な分野で呼ばれている。そして、この究極の世界を明らかにする道とは別に、この宇宙の果てを探求する天体物理学という分野も同様の発展を遂げていて、ここからは我々がその小部分として大きな集合体の要素として存在する宇宙に付いて、根源的な認識に向かいつつある。

20世紀後半の生物科学の発展は、それと同時に、生命の複製と生殖と複製の為のDNAのような基本的遺伝物質の構造が確定されて爆発的に生命の現象、特に遺伝と複製の理解に至る扉が開かれた。19世紀の終わりにマックスプランクに依って量子的世界像が導入され、原子に構造が有る限り物質は飛び飛びの値で現れる。その様な自然認識は、やがて量子力学を産み、物質の最小単位に関する認識を進めて行った。現代の素粒子論はこの彷徨の系譜線上にある。そして2016年の現状の段階では、1970年あたりにハドロンの分類に為に作られた南部陽一郎と後藤鉄男による弦理論に始まったアイデアである。それは結局、ハドロンの段階では破綻が生じ、現象をうまく説明できなかった。しかし、時を経て、そのアイデアは、ハドロンの段階よりももう一つ下の段階で機能し始めたのである。つまり紐が振動して、その振動値によっていろいろな素粒子を説明することが最新のイデアになった。その最初の切っ掛けは長い間、紐の理論を追いつ続けた人達シュワルツやグリーンの努力と執念が実ったのである。そして、その理論は原子世界での力である、強い力、弱い力、電磁気力、重力を統一できる可能性が出てきた事である。宇宙の始まりから、物質の創成、そしてそれを司どる基本的な力があり、宇宙の進化に従い、出現した物質を司る力と法則の根拠、進化(低温化)に伴って、力が出現する。その力は、基本的には同じ土台から出ている。それ故に、基本的にはその力は形と大きさこそ違え、同根の物であるとする認識である。

物理学の現状は以上の様な状況であるが、では物質から生まれた、生命についてはどうか?と云うのが、20世紀の後半の時代的なテーマである。分子生物学は、人間の生命に対する認識を大幅に変革した。そして、工学レベルでは電子計算機の出現は、人間の活動に革命をもたらした。それは足で歩いていた人が、列車と云うものを得る事で、大幅な活動範囲を開拓したことと同様である。人間の機能を機械的に増強、或いは拡大する。この力は人間が思慮をもって、謎に挑んだ結果であり、その基本的な方向性としては、数学や物理学、化学などが有り、天文学や生物学は、それらの基礎的な理解の上に築かれた領域である。そして、ここから先は、言語学や脳科学と云うまだまだ未知の分野が控えている。この領域は、現状では漸く一歩の歩みを始めた世界であり、殆んどの部分が知られていない。しなければ成らない事が多々ある。いまの所、生命は人工的に有機物から合成は出来ていない。ゆえに未知そのものである。ただし遺伝暗号の束であるデオキシリボ核酸の構造は解明できた。それ故に、この遺伝指令書を解明できれば、ある程度の生命の歴史的な地層はあきらかにすることが可能の様に思われる。

21世紀の対象は生命体の現象であろう。この次元の問題は多様な焦点を持っており、その認識は多くの驚きとその意味をそれを理解しょうとする者達に深淵を示唆するであろう。21世紀の課題は生命とはなにかであり、出来れば生命を合成することである。それは複合的なシステムで成り立っている。細胞同士には緊密な連絡があり、互いに一個の生命の全体の調和活動に維持の為に働いている。この事は、個体の連絡としての音はを使った言語や、思惟活動への大きな根本的な鍵を握っている。

再び謂う! 

音は媒体であって本質ではない。では本質とは何か? 

それは、分節を創る力である。つまり、音を意味に交換する力のことだ。

分節とは何か?

時制、助詞、動詞、差異、などの関係を分節に織り込んでゆく力の事だ。

その作用から、記憶に従って意味が生まれて来る。

意味とは飽く迄も其れのみで意味は完結はしない。

意味とは概念と概念を結ぶ力だ。

人間の記憶系の中で、形成された概念は自己増殖をして、新たな概念を創り出すのだ。

是こそ人間が、聴いた事のない言葉を理解し、新たな概念を理解できる鍵である。

この認識機構は、言葉を創り、新たな概念を創り、新たな定理を証明し、本質的な問いを紡ぎ出すのだ。

この神経機構を解明することは、現在の最大の課題だ。
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悟りはことばで語りうるか?

2016年07月27日 20時58分16秒 | 日記
「悟り」は、言葉で語りうるか?

何やら禅の公案のようにも聞こえるが、至って大真面目である。
ことばは、凡そ個々人の意味形成や認識に支えられていて、それらに左右され厳密性には程遠い。
敢えて「悟り」のイメージをことばで語ろうとすると、それは、その存在がなぜ、「そこにある事の意味が解ること」と表現できる。

私たちが、いまこの一瞬に、生きている世界から五感を通じてみる限りでは、世界は階層の構成になっており、大は138億光年の彼方まで広がり、今も尚、光速の80%で拡大している。この我々が存在する宇宙は、いつどの様に始まったか?、それが解らない。そして、この宇宙がまたどの様に終わるのか?に付いても、それが解らない。この問題は、若しかすると、私たちの理解、認識、を超えているのだろうか?世界の様相は、クオークとレプトンレベル、原子レベル、分子レベル、物質レベル、地球レベル、太陽系レベル、銀河系レベル、超銀河系レベル、それ以外の極小・極大レベルに分けられる。そして、この世界が極大レベルに関して、138億年と云う時間設定を行います。138億光年には観測的理由がある。最新の大気圏外望遠鏡によれば、最遠の銀河からの光を観測し、その赤方偏移が極めて大きく、その数値を換算すると出た光は138億年前と算出された。宇宙は今も拡大を続けているのであるから、もっともっと古い光が見つかる可能性は大である。

では極小レベルでは、どうであろうか?素粒子物理学は、現在「標準模型」を持っているが、その模型は、陽子崩壊を正確に予想できない理論である。いずれ、この模型は改良か新たな模型が形成されねばならないだろう。標準模型を超える提案が、幾つかある。代表的な例を挙げてみると、超対称性重力論、超弦理論、超重力論、など、対称性の次元を増やし、それで現象の矛盾を解消する発想であり、あまり上手くは行かないだろう。こんな複雑な物を自然は採用はしないだろうと思う。現在は、重力と電磁気力が我々の生活上は関係している代表的な力であるが、原子核の形成に関する強い力、と、元素変換に関する、弱い力の二つが、原子核の中では関係していると云う。しかし、この力の存在の意味は、禅の公案の様に解らないものだ。悟りと云うものは、上に挙げた、存在の意味が、忽然と得心され、その謎が氷解することを云う。

と、同時に内的世界に付いての覚醒の意味もある。
自己意識がはじめて形成されるところまで戻ること。それは過去にまで形成の記憶を戻ることで、一個体のはじめに出合うことだ。意識が形成される前はなんなのか?その再現の過程を体験することでもあり、それは禅の瞑想にも似ている。もともと禅の目的は、その様な内的意識の一種の冒険であり、存在と現象の間に立つことだ。面壁八年は、只座っているだけでは無く、内的世界を辿る冒険そしているのだというべきだろう。現代人の精神生活は、切れ切れに成り、ごく意識の表層でのみ生きている。それも仕方のないことでもあろう。生きて行くためには食わねばならず、座り続けることでは食う事が出来ない。寺にでも行き、そこで食い物を貰いながら座る以外に現在では方策は無い。


その意味では、私たちは自分の生の意味も、自分の死の意味も、恐らく解らないのだ。ただ、そこに存在に関する謎などの、そこにそれが何故在るか?、その意味がわかる事が悟りである。悟りとは、一面では「物と事」が分かることである。「物」とは「存在」のことであり、「事」とは「時間」であり「関係」のことであり、時間と関係は因果関係のことであり、それを認識する意識のことである。「物」は「存在」に密接につながっていて、「事」とは、我々の認識の有様の一つであり、「物」と、つながっている。


「もの」と「こと」のなかに、我々の認識がハマっているのだ。そして心の内面から離れて、「場」と「所」が人間の外部世界を形成する。「場」とは「空間」のことであり、「所」とは「時間」のことである。では物質とはなにか?それは、場と所をつなぐものであり、その「場」と「所」と「物質」が、互いに補完することによって意識的宇宙が形成される。「時間・空間・物質」を、統合して扱うものに物理学がある。

禅的には、そこに在る存在の意味が解ることが、一種の悟りである。存在とは何か?それは人間にとって感覚を通じて得た意識・認識である。存在の確実性など人間に分る筈がないのだが、存在が解ることが「禅」での悟りであり、「哲学での存在論である」また、「その存在を認識するのが、感覚を通じた意識である」、という事は、「その意識に付いての考察が認識論である」。
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音から意味へー分節の原理は、思考の原理・脳神経系の原理だ

2016年04月10日 09時08分09秒 | 日記
音から意味へ、分節の原理は思考の原理だ。文字の発音はローマ字と云うものがある。ローマ字は音表文字であるので、その発音は記憶しているために、自動的に発音できる。しかし、意味の方は音声とは別の区切りとなって居て、その区切りこそが一つの意味に対応している。この区切りの原理こそ、将に思考の原理でもある。

*「言語学だけで、言葉の謎は解けない」!

構造言語学の共通理解では、言葉は音声であり、それがすべてで音声を解明できれば精神活動のあらましが解明できるという事らしい?

しかし言語は、音声だけではないのである。確かに交信の直接的手段は音声である。しかし、言葉にまつわる情報のプール(池)には、人間の基本的感覚である、目や耳、鼻や口、皮膚や意識、など、それらから得られ感覚記憶は潜在意識のプールへと流れてゆき、そこに溜められる。その莫大な個人の記憶のそれぞれの対応関係から概念が生成発生する。およそ、人間の知的活動で、そのプールに発生しない物は一つも無い。
ゆえに、言語学が単に、音声のみを扱うとすれば、それは、プールに溜められた情報の一側面を調べるだけの分野となってしまう。

確かに音声は、そのプールの中で、創られた共通概念を喚起する為のキー(鍵)ではある。しかし、その音声のみで、その音声のみが、人間の言語活動のすべてであると誤解している人々(構造主義言語学者)には、そのプール(池)が分かっていない。それは、真のドアを開ける事もせず、ただドアらしき、カギを弄び、それで人間の精神活動を解けると信じている奇妙な人々だ。言語学は、言語学だけでは解き得ないというのは、上記のことを踏まえた、私の見方です。
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