自然定数という物は理科や数学の本を開くと必ず出て来る種類の数である。ここには量子論の微細定数「h」とか、光の速度の「C」とか、重力定数「G」とか、アボガドロ定数、等々、枚挙に暇がない。然し乍ら、定数と言われて居ても本当の定数では無いものも多かろう。重力定数などは、宇宙が老いて行くに従って、だんだんに少ない方に変化していくだろう。では光速度はどうだろうか。これは電磁波の進行速度であり、磁界と電界が交互に変化しあいながら、進んでゆく進行速度である。それは3次元空間の球座標では全方位に発散的に進行してゆく。電磁波の拠点が運動物体だとすれば、光はその進行方向への円錐体として拡がってゆく。この光の速度も宇宙の最後には衰えるだろう。つまり光は速度が0となった場合は質量を獲得することに成り、それは光では無くなる。あらゆる定数は、この宇宙の在り様に関係しているのだろう。
宇宙はいつ始まり?、いつ終わるのか?、ある無に近い一点から始まり、拡大を続けてその速度が止まると、今度は収縮が始まるのか?。 始まりが有るのならば、当然の事乍ら終りも有ると思うのが、時間の中に生きて居る我々の道理である。その際に時間はどう流れるのか?時間こそが未知の最たる対象なのではないか?と、誰もが思う、事柄である。我々が自然を観察する際に、ここで定数という物が出て来るのだが、この定数こそ、その前提には宇宙という物の基礎があり、すべての定数を規定しているのが宇宙という物の在り様ではないかと思う。この定数同士のつながりはどうなのだろう。恐らくは、ひとつの定数は或る実態の一つの側面に過ぎず、かく定数はその実体のいくつもの顔を写し出した物なのだろう。おおくの基本的定数と言うもののつながりを把握できれば、自然理解のひとつのヒントと成るだろう。
さて、上に挙げた物はだいたい物質界の定数である。最も基本的な定数であると思われる、微細構造定数ー「h」はプランク定数と呼ばれるが、幾つもの自然定数の中で、是がこそ、宇宙の始まりと密接な関係を持っているのではないかと考える。この定数は、陽子などの核子や素粒子の質量の起源とも深く関係しているはずで、未知の宇宙の仕組みを、焙り出すための手掛かりとなる筈だ。基本的な定数とはいえ、当然の事ながら宇宙の中の現象からでてきた定数であるから、必然的に互いの関連はあるだろう。ところで自然定数という様な性質の物では無い、謂わば概念上の定数について考えて見たい。数学では定数と言うような言い方をして居ないが、数の関係の中から抽出された一つの数が存在する。
例えば、それは「π」とか「℮」とかいう定数である。この定数は幾何や数式の演算の中から出て来た物であり、それは外的物質世界とは直接の関係はない純然たる概念の指標と言える。特にπは、普段円周とその直径の比であるが、このπは無限級数などの他に、至る所に出現する不思議な性質がある。それは、なぜか分らない?、私達は、ごく当たり前で完全に理解していると考えて居る定数が、実の所はそうでは無く、何もわかってはいなかった。と言う感じがするのである。「π」こんな単純と思える物が、案外見えないだけで、世界の在り様を示す深い関係を写し出す鏡に成るかの知れない。確かに「π」、これは円周と直径の比と言う以上に、何らかの普遍性を表している性質の定数であろう。これは無限級数と常に関係して居るもので、無限が何らかの形で出て来ると、このπは静かに姿を現す。この定数は一体何なのだろう。また直径を象徴する分母の1とは何か?、最も単純で最も不可思議な数、その数の背後には何か得体の知れない構造関係が敷き詰められているが、普段、我々は気が付く事がない。物との対応の概念として数は紡ぎ出された歴史がある。だが、こんな単純と今も思われて居る自然数が、分らないとは!むしろ驚きではないだろうか。自然現象でも、数でも、理解が進むに従って分らない事が多くなる。物事は理解が進めば分らない事は少なくなると予想するが、実は逆なのである。
こう云った定数は何を意味しているのだろう?。これは我々を取り巻く世界の基本的な相互関係と深く結び付いている。
そもそも、定数が出て来た経緯はなんなのだろう?
世の中には「数秘学」という分野が有るらしいが、どうも胡散臭い占星術的な匂いがする。まじめな数学者は相手にしないだろう。ここで直ぐに思い浮かぶ人物は、ヨハネスケプラーである、彼は宿屋を経営していた人物の長男として育ち、ヴルリュツブルグ大学で自然哲学を学んだ。神聖ローマ帝国皇帝の宮廷附き数学官であったが、公式には何をして居たか?と言えば、戦争の勝機に付いて、皇帝の諮問を受け、占星術的な答えを出して居た。つまり勝つ為には、敵を攻めるにはいつ頃の時期が好いとか、今月出た彗星は何の象徴なのか?とかの質問に答えるための計算をして居た。笑ってはいけない、大真面目なのである。それが、西欧の16世紀・17世紀の世界観なのだ。ケプラーは宇宙の神秘や月旅行に関するファンタジーを書いて居る。彼の自然観の根底には宇宙には調和が存在し、それは数学の定理を基にして出来上がって居ると云う確信である。この様な確信は、現代の物理学や数学を専攻して居る人物の中にも時折見いだせる。それも最先端の分野においてである。例えば「超弦理論」や生物の分子進化に関する遺伝子浮動や生体の形態形成に関する、統計力学、カオス、多体問題、などの分野である。また神経系と心の問題もある。生態を支配して居るのが神経系である。生体自体は変化進化退化など様々な環境条件により変転して居るが、こころと言う問題はどうだろうか?我らの意識と言うか、もっと古風に、たましいと云えば好いのか?、その全貌は今の段階ではハッキリと規定できない。我々の認識段階が、まだそれを十分に掌握出来る段階にないと言うことだ。
定数とは、基本的な性質関係の中から出て来る概念で、何事につけて認識の基本線となる物である。例えばここで光速度を取り上げてみよう。ガリレイの時代から、音の伝わる速度には限界がある事が分って居た。当然の事乍ら、光速にも、ある限界速度が有るだろうと云うのが、一般的な考えであった。それで音の速度と同じように、光速を測ってみる事を試みた。ガリレイは弟子に命じて何十キロも隔たった山の上に登らせて、同じ制度の時計を弟子とガリレイが持ち、ある取り決めた時刻にランプに火をいれる様に取り決めた。そしてある条件が好都合の夜、その実験を行ったが、なんど遣っても、ガリレイの取り決めた時間と火の入る時間は同時だった。つまり光の速度は無限に見えたのである。この地上では光速度の正確な把握は失敗をしたわけだ。
後年、この光速度の把握に成功したのは、デンマークの天文学者レ―マーである。驚くべき事に、彼は木星の衛星の食から、光の速度を知ったのである。このレ―マーの業績は現在の光の速度の数パーセントで突き止めている。当時の人々には光速度は信じられぬ速度で有った。然も、この速度は一定であり、条件に依って変化する事は無かった。この速度の意味は何だろうと当時の人々は思っただろう。何か根本的な基本線に由来している。そう確信したに違いない。これは透磁率、誘電率に深く関係している。波の速度や音の速度と同じ様に、何らかの媒体の振動で、それが伝わると20世紀の初めまで誰もが信じて居たし、光も何らかの媒体の中を運動しているに違いない。そう誰もが思っていた。それでエーテルと言う様な矛盾に満ちた媒体を想像することに成った。幾多の試みの後に出て来たのは、例の特殊相対論である。
一度、特殊相対論が出てみると話はスッキリとして、今まで何で奇妙な媒体を考案して居たのかが返って不思議に思われた。時代の標準の考え方、その枠組みは、どうしても人の想像力を規定するらしい。認識の歴史は、その様な経過をたどり進んできた。ただケプラーの世界観は、キリスト教と言うよりもギリシア的なピタゴラス的な性質を持っていたと思う。彼は「宇宙の調和」を頌っている。たぶん数学的な整合性の事だろう。或いは調和の美というべきか?自然定数には、そんな側面も無いわけではない。実験と理論、この螺旋階段を歩いて世界認識は進んできたのであるから、当然の事だが、両方が大事だ。後年、英国の理論家P・ディラックは、重力定数は真の定数では無い、それは、宇宙の拡大の経過と共に変化すると云っているが、それだけでは無く、特に理論はイメージと不可分に結びついているので、理論家の個性が、または情緒が大きな影響をもっている。
*-ここで、自然定数とはなにか?の前に、数とは何か?に付いて考えて見たい。
人間以外の動物は数を認識するだろうか。サルは明らかに何らかの数的な認識はある筈だが、朝三暮四でハッキリとした厳密な意味での数は認識して居まい。カラスは如何だろう。多いか少ないか、は、認識できるとしても足し算も引き算も、掛け算も割算も少し無理だろう。基本的な四則は、人以外は操作できない。人の中でも、それが理解しない者もいる。是ばかりはそれなりの努力が必要不可欠だ。数とはなにか??それは「存在性」に密着した、意外に抽象的な概念だ。こんなに単純な自然数が、なぜ抽象的なのかと云われる方も居られるだろう。それで、ひとつ馬鹿げた事を云おう。我々は「1」と言う自然数を完全には理解して居ない。と言うのは「1」という数の背後に隠れた、其れこそ頭の痛く成るほど複雑な構造を理解して居ない。
また「1」という概念には不思議と無限の概念が付随している。1とか2とかいうが、これは皆な飛び飛びの数なのだ。連続性と言う意味では1は2につながらない。数はみな飛び飛びの値なのだ。それを結びつけるのは四則で、とくに加法と乗法のアルゴリズムで減法と除法も組んでいる。小学校では完璧に理解していたと思しきことが、進むに従い解からなくなって来るのが数と言う世界だ。小中高の塾の先生はどうやって数を教えているのだろうか??、塾の先生は生徒が混乱するようなことは教えない、解って居ることだけを教える。塾の目的が受験やテスト対策なのに、解らない事を教えて何に成る??ということなのですね。技法だけを教える。こんな事は、数とは何か?に直接の関係は無いからどうでも好い事ではある。
数の概念を、ごく最初に教わるのは、物に対応した数の存在である。リンゴが有る、リンゴが1つ、一つに対応する1。リンゴが2つ、に対応する2、…3つ、となる。その様にして数の個数の概念を習う。その様な過程を経て、我々は数に対する一応の概念を形成すると同時に、その演算を習うのだが、ごく自然な過程だ。その様にして自然数の列を認識する。だが江戸時代以来、「読み書き算盤」と言う様に、社会に出て困る事のないようにコトバと文字を書くこと、そして演算を習う。それで普通には困る事は無い。だが、こと算学に付いていは、それで済むはずはない。
言語の謎も深いが、数学の謎はモット深い。大体こういう事は決して浮世の話題にはならない、だがこれは人間の知的文明の最も基本的な核心部なのだ。人類の文化的な文明的な背景には、こう云う事を考えて居る人が不可欠なのだ。最も目立たない部分で、人類の知的価値が形成され、最も深い事が考えられている。是は人間の文明の核である。フレーゲの概念文字も、ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考も、ゲーデルの数理論理数学の二つの不完全性に関する定理も、連続体の仮説も、五次方程式の一般解の公式の不可能性も、また、レオンハルト・オイラーが、その生涯に残した600編近い論文も、39歳で死んだベルンハルト・リーマンの極めて質の高い30篇の論文も、そして最も理解しがたいのは、シュリニバーサラ・マヌジャンの数百の数式である。どんな問題であれ、その構想やアイデア、閃き、洞察は、当人が詳述してくれれば必ず努力の末には理解出来ると思われるのだが、事、ラマヌジャンに関しては、その明察の糸は常人には理解しがたい物だ。その数式の導入を聞かれた彼が、「その式は、私が深く熟睡している間に、ナマーギリの女神が、私の舌に書いてゆくのだ」、と云われて仕舞ったら、返す次の言葉が出て来るだろうか??
もちろん、ラマヌジャンと言えども、式に間違いが有るのだが、普通の数学者では間違いは話題に成らない、たぶん間違いが多いからだが、ラマヌジャンの場合は一大ニュースになる。それは彼の数式が、ほとんどの場合正しいからである。だが証明がつけ加えていないのが、ラマヌジャンの真骨頂で、後で他の数学者が、其れに証明を付け加えねばならなかった。その様な証明が、それで立派な論文として認められる。ラマヌジャンの場合は普通の数学探究者と言うより、謂わば巫座に近い存在なのだろう。我々は運が好ければ、この様な人物に出会う事がある。でもそれは一億円の宝くじに当るよりも難しいだろう。何せ宝くじならば、買った全員の中には、その数が百万人であっても必ず当選者が居るからだが、このラマヌジャンの様な人物は百年、或いは数百年に一人出るか、出ないかであろうから。むしろ学校教育が行き届いた世界では、恐らく出ない。知識や思考力が、すべてが平準化されるからだ。数に意味があるか??
或いは、その数や公式は、何を云おうとしているのか??。恐らく数自体は公式自体は語らないから、其れに言葉を与えるのは人間の役割だ。
いったいこう言う人物を、どう評価したら好いのだろうか??凡そ立っている地盤が異なっているような気がする。ラマヌジャンを考えるとき、人間は素晴らしい!と思わずには居られない。人間はこういう能力も発揮できるのだ!と。私は人間の文明と言うか?文化と言うか?人間の学校教育は未知の能力を矯めて来たのだと思っている。何かを助長する事で、未知の何かを省いて来た。それは確かに文化なのだが、では如何すれば好いか分らないが、物事の本質を洞察するのに、物事の神秘を知るのに競争は馴染まない。それから、ある一つの方法だけに、(例えば受験の技術のみを最上の価値とする事など)、そう云った一つのパターン認識の技術的価値のみに拘泥する事は、人間の知的文化にも馴染まないと思っている。
大分回り道をしてしまった。脱線はわたしの特技だから仕方がない。数とは何か?、自然定数とは何か?だった。結局のところ自然定数とは、人間が物事のあるいは自然の現象を捉える仕組みなのだ。自然現象の中に、本来は定数という物が有る筈はない。定数は人間の知的因果関係から、その本質を把握する為に創った関係である。人間はこういう風な捉え方をすることに因って、自然の関係、現象を理解しょうとする。そうすると見通しが良くなる、上手い一種の抽象化だ。定数と定数を比較する事もできる。そうすると認識が一層深まるということになる。然も出てきた定数にかんして、他の定数との比較分析もできるから理解はますます深まる。人間の自然把握はこのようにして進んできた。定数は天から与えられたものだと云う認識で、長い間を疑問にも思わないできたが、人間がどの様に物事を知るか?その方法論を振り返った見るのもおもしろいものだ。
妄想のついでに更に妄想を進めてみたい。
数の「1」という概念は、究極的には無限に結びついている。確率も「1」がパーフェクトだし、単位円1のモジュラー座標は、無限の概念を想起させる。仮にあの単位円の断面が、弦理論のヒモの断面だとしたら面白いと思う。素粒子の定数は陽子の質量に代表されるが、陽子が宇宙の何処ででも同じ質量だとするなら(多分同じだと確信しているが…)、それはこのヒモの性質の必然性を表して居る。陽子に質量があり、その定数は何らかの相互作用の帰結であることに違いは無い。私達の体も心も、この陽子と中性子の核できているし、その周り覆う電子で構成されて居る。これが物質としての生命と精神の実体だ。精神という物の究極は何なのだろう。我々には物事を知る形式には限界があるか??。思惟のチューリング性というものである。
言葉は単なる音ではない、音以前の何かである。また運動の相対性と光速度不変の原理から、C2乗の形で物質の持つエナルギー量を導き出した特殊相対論の帰結は、地球の自然と言う領域を超えて、大宇宙の存在基盤を明らかにした。これは本当に驚く事だ、高校レベルの数学で宇宙の実相を突き止めた。その特殊相対論の意味は、今の所それを応用して宇宙の根源に付いての洞察はない。宇宙の初期の頃、光はもっと遅かったとすると、物質のエナルギーレベルは今より低かった。宇宙は変化している以上、光速度は普遍ではないだろう。ただそれを確かめる人の命は、殆んど一瞬であるので、この人の文化が存続している内に確かめる事は出来ないだろう。我々の命は、宇宙に比べれは、刹那であるから。
宇宙の初期、今の光はもっと遅かった。とすると光の速度は宇宙時間の時計として使えることに成る。宇宙の始まりの時点では、光速度は極めて遅く、事によったら光はまだ存在して居なかった可能性が有る。力の分化は膨張の変化に依って生まれた現象である。初期に重力が次に核子を結びつける強い力、電子が核子に捕えられ弱い力が生まれた。この分化の理由は定かでない。宇宙の始まりの頃、物質は未だ存在していなかった。核子が電子を捕えて元素が出来た。元素が出来るまでには電磁気力の力が不可欠だ。一連の過程で空間と物質に関する相対論的世界がが形成された。たった光の速度を知ろうとするだけで、宇宙の過去の多くの姿と可能性が議論できる。この事は何と凄いことなのだろうか。
特殊相対論の結論が指示して居る事は、この元素の中にいかに膨大なエネルギーが封じ込まられて居るかを明かした事だ。初期宇宙は、如何に高温度のエネルギーに満ち溢れて居たかを語って居る。物質をどこまでも分解すると云う事は、宇宙の過去を見る事である。それは過去の元素の起源と、原子構造を再現する事でもある。今後の物理学の本質的なテーマは、時空のうち「時間」を探究する事、それら大きなテーマとなる事でしょう。21世紀の物理学は、「時間」と言う謎の解明が目標です。物質を細かく分けると云う事は、とおい過去を見ると言う事に他ならない。それは天文学で宇宙の遠方が過去であるという事と似て居る。私の直観的なイメージと異なって居たのは、標準理論が意外に複雑な粒子と力で満たされて居るという事だ。私は物質の究極は、もっと単純な構造であると信じて居たが、この複雑さは時間の関数であるのだろうか?元素物質と数の対応はどうなのだろう。数と言う抽象的な概念は、物質の生成を考察する際に何らかの存在の規則性に投影をする物なのだろうか?。
自然定数という物は確かに存在する、思い出してみると、光速度C、Planck定数h、重力定数G、これらが物理では代表的な定数だ。物理ではないが数学的にはπやeなどの超越数がある。物理の定数と数学的な物は質的に異なるはずだが、不思議と関連性が在る場合が見られる。それは宇宙が数学的に創られていることと関連している様に思える。物理定数は常に時間変化して行く宇宙の、瞬間の状態を現わしている物であろうという気がする。つまり、普遍ではないのだ。見えない相互関係が全体性の背後にあると想うのは私だけであろうか?。なにか我々がまだ知らない普遍性がそこにある。