空―地球と宇宙ーという題名ですこし書いたみたい。
私たちの空は、青い空を背景にゆったりと流れゆく白い雲や大空を掃く筋雲や夕焼雲の赤など、多彩な色彩に陶然とするのだが、もしもこの空に、空気と水蒸気の存在自体が無ければ、漆黒の空を見る事に成るだろう。そして空を見る事で、直接宇宙の深さに直面する事となる。これは壮観であるよりも、たぶん、むしろ恐ろしい相貌だろう。地球に住む人間が空気と水蒸気と云うサングラスを外したときに見るものは、空はどこまでも漆黒の闇を現し、その永遠の闇に、怯えを懐かぬ人が何人居るだろうか。宇宙飛行士Rシュワイカートは、船外活動に際して、宇宙の闇をビロウドの様な黒と表現している。同じ船外活動をしたレオノフ飛行士も、多分同じ様な経験を語るだろう。空気の無い宇宙では、地球上の印影という物が無い。光か闇か、の何れかなのだという。光に当たる物は強烈な反射に晒され、闇は漆黒の深淵なのだ。例えば手首から肘までが光にさらされたとする。そこは強烈に光って見えるが、では手首より前の五指は闇の泥に入った様に丸で見えないという。空気の反射が無い為に、或る意味では恐ろしいのだ。重力から放たれた宇宙では、上も下もない、有るのは、前と後ろ、左と右だけだ。我々は空を天とも言っているが、我々が生息している地球が丸い物だという事を知れば、天は足下を突き抜けた地球の下にも広がっている。人の立つ、一見水平に見える地面の他は、すべて空なのだ。地表の生物は、すべてが宇宙に向かい合い、対面していると云うのがただしい。
天文学は人間の歴史と同じくらい古い知識であり、人間の自然観察と同じくらい古い物だ。人間の自然観察は、我々の周りの環境の観察と共に、重要な物としては、空の星々の観察から始まった物で、それは栽培農業以前から存在していたものだ。採取狩猟の生活でも、人々はいつも空に関心を持ち観察していた。幾度の観察から、古代人は空の星々が、時の経過と共に極めて正確に廻って居る事実を知るのである。その経過を記録し太陽が一番中天にくる夏至の日を決めた。そして夏至の太陽がどの方向から昇るのかを決定した。それは冬至の決定事でも同じであった。こうして一年の日数が決められて、一日の長さにも刻みを入れて、年と月と日の概念が決定された。一日の時も後で正確に決まられた。空には、時には特異な現象が起こる事が有った。今で云う超新星の爆発があり、彗星の飛来が有り、隕石の落下が有った。こういう特異な現象の記録は、原住民や各国の昔の記録に見る事が出来る。
星学ー天文学を過去の遡って、人間の本格的な探究の学として見られるのは、エジプトープトレマイオス朝のアレキサンドリアであろう。ここに在った、人類の英知の結晶とも云うべきアレキサンドリア大図書館の、多くの書物と収蔵品は戦乱の為に灰と化した。救い難い愚者は古代にも現代にもいるのだが、この図書館の古代文書の焼失は何を置いても惜しいものだ。これで数千年の賢者の思索の結晶が焼けて仕舞った。アリスタルコスやエラトステネス、ユークリッド、アルキメデスの著作がすこし残った程度である。これ以後アレキサンドリアの叡智はイスラムに継承されて中世を生き残るのである。ローマがキリスト教化されて、極めて偏狂で攻撃的な一神教であるキリスト教が、ヨーロッパに蔓延した時代を中世と云う。この宗教の為に、どれだけ多くの人々が狂信的な教義に従って、拷問を受け殺されて行ったかを、史実から確かめて見れば好い。宗教をいう物は、フロイトに言わせれば集団ヒステリーである。19世紀から20世紀に掛けてもスタイルを変えた疑似宗教である共産主義が蔓延した。この幻想に因って、どれだけ多くの人間が犠牲に成ったことか。多くの悲惨な事がこの時代には起きたが、東洋である我々の国では、古墳時代である。
太陽系の生成は現宇宙の出現から大分あとの事に成る、太陽の元に成る凝集物の回転と、重力に塵が引き付けられて、塵はやがて層状にバーム・クーヘンのような層状の構造を創る。幾重にも中心部を取り巻く回転が創られ、それが個別に凝集してやがて星を作る。これは19世紀に太陽系の創生を考えたアイデアの一つで批判哲学で有名なイマーヌェル・カントの説である。つまり重力により凝集するのだ。これとは反対のもう一つの説は巨大化回転個体が回転力に依って分離する数学者ラプラスの説である。二つの考えの内、実際の現実に近いのはカントの説であり、恐らくは太陽系だけでは無くもっと莫大な太陽系を抱える銀河系宇宙の生成も、この様な重力に因る凝集から生成されている。すると重力は随分昔から力として宇宙の成り立ちに関与していたことに成る。ビックバン宇宙論が、どこまで正しいと云えるのか疑問な面があるのだが、そこでは力の出現が最初は重力が次に電磁気力が、そして強い力、弱い力、と順に出現する。いわゆる物質が出来る前に、重力はで聞いて居るのか?或いは物質と共に重力は出現したのか?面白い問題である。多分物質と密接に関係しているはずだ。当然の事だが物質は空間とも関連している。
創成の観点から順に云えば、宇宙の始まりが最初に来る。だがこれは曖昧模糊としていて未だ厳密な意味で数的科学に成らない。つぎは宇宙がはれ上がり物質の創生である。元素創生の初期の研究は、随分むかしソ連のサハロフと日本では吉村太彦により提案された論文がある。最初に出て来たのは最も元素的には単純な水素であり、つぎにヘリウムであり、このくらいの元素の創生であとは無い。この水素の集合体の星雲が重い元素を生成する。おそらく現在の宇宙の物質は一度星に依って生成された元素で構成されたものだ。元素が共有結合イオン結合などの分子を作ることに因ってひいては生命の発生に必要な分子を創り上げている。端的に云えば条件さえ整えれば、生命の発生は必然で有ると云う事なのかも知れないのだ。
既に出来上がったものとして太陽系の生成を考えてみると、太陽系は太陽の生成と共に形成された。そして太陽を回る軌道には一つの天体が出来上がる。惑星の質量と重力と回転力のバランスの下に各惑星は形成され、必然的に太陽からの距離も決定される。太陽の自転と各惑星に及ぼす重力、惑星の質量と自転、nなどのパラメーターが現象を決定する。然も、太陽の質量その物が、実に奇跡的なほどすごい。もしも質量がモット大きいならば、太陽は45億年を経ずして燃え尽きていただろうし、いまの質量よりも小さいならば水素の核融合の火は点火されて居まい。太陽の回りの惑星は、距離と質量により創れる環境が異なって来る。水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星(最近冥王星は惑星である事を取り消されたが)、そして、火星と木星の間には、惑星に成り切れなかった欠片が散乱している。惑星に成ろうとするのだが、木星の干潮力が邪魔をしてバラバラにする。冥王星の軌道は、余りに辺なので、惑星を取り消された、基本的には海王星の衛星だという事になった。
この回転する惑星系の運命を決定するものは重力にある。力の生成過程で重力は、最初に分離した力だ。この重力が水素を球体として締挙げている。水素と水素を融合させて、出来たヘリウムの質量差が、光と熱のエナルギーとなって太陽を輝かせている。惑星のすべても太陽からのエネルギーを得て、輝き、地球では生命の源のすべてを支えている訳だ。50億年の後に、水素ヘリウムを燃やし尽くした太陽は、次第に燃やすものがなくなり、赤色巨星として地球軌道を飲み込むまでに拡大される。その時に惑星系は終焉を迎える事になる。星の創り上げた傑作である生物も消滅する事になる。無論そこまで地球上の生命体の生態系が生き残って居ればの話であるが。それは何も人間が生き残る落ちう物では無い。
人をサピエンスと云う言い方をしている西洋人は思い上がりが顕著だ。人間は決して知恵ある生き物では無い。ここ300年の歴史的事実を見れば、技術が芽生え、技術改良が進み、戦争の技術と破壊力が増したために、自らが窮地に陥っているのが現実だ。現在に於いて、人間は長期的に人間が存続可能な社会システムを採用していない。過去の植物が残してくれた化石資源を湯水のごとく貪っている。電気を起こすと称してソーラー発電の為に森林を切り払い、植物を絶滅させているのが現実だ。動物は植物の恵みで生かされて居る存在だという真理を徹底的に忘れている。様々な現代の国民国家の産業の為に、地球上の資源の獲得競争が熾烈になり、それが原因で戦争の事態も起こりうる。人々の生活が文化を生み、それがさらに発展して文明を生む。
その典型的な資産は、コトバである。言葉が文明のすべての土台なのである。現在の地球上の人間集団が話す言語は、小さいものまで含めると数千と云う言語が有るという。それはみな文化と云う意味では貴重な物で、滅んでしまう前に記録されることが重要だろう。言葉の背後には、その文化特有の精神体系と云うモノが控えている。比較文化を探究する文化人類学や生態学は、依然は活発であったが、この所、余り有意味な知見が無い。人間の真の平等と豊穣の為には、本来、この様な比較分野の研究と思索が必要なのだ。地球環境の上に花開いた各文明は、混ざり合う事無く、独自にその深化を図ればいい。言語と蓄積された文化遺産が、国民性を支えているのだ。日本文明は、世界最古であると共に、一度も亡びた事がない特殊で特異な文明である。この偉大な文化遺産の下に日本人として生まれた事の有り難さと幸いを感じずにはいられない。
私たちの空は、青い空を背景にゆったりと流れゆく白い雲や大空を掃く筋雲や夕焼雲の赤など、多彩な色彩に陶然とするのだが、もしもこの空に、空気と水蒸気の存在自体が無ければ、漆黒の空を見る事に成るだろう。そして空を見る事で、直接宇宙の深さに直面する事となる。これは壮観であるよりも、たぶん、むしろ恐ろしい相貌だろう。地球に住む人間が空気と水蒸気と云うサングラスを外したときに見るものは、空はどこまでも漆黒の闇を現し、その永遠の闇に、怯えを懐かぬ人が何人居るだろうか。宇宙飛行士Rシュワイカートは、船外活動に際して、宇宙の闇をビロウドの様な黒と表現している。同じ船外活動をしたレオノフ飛行士も、多分同じ様な経験を語るだろう。空気の無い宇宙では、地球上の印影という物が無い。光か闇か、の何れかなのだという。光に当たる物は強烈な反射に晒され、闇は漆黒の深淵なのだ。例えば手首から肘までが光にさらされたとする。そこは強烈に光って見えるが、では手首より前の五指は闇の泥に入った様に丸で見えないという。空気の反射が無い為に、或る意味では恐ろしいのだ。重力から放たれた宇宙では、上も下もない、有るのは、前と後ろ、左と右だけだ。我々は空を天とも言っているが、我々が生息している地球が丸い物だという事を知れば、天は足下を突き抜けた地球の下にも広がっている。人の立つ、一見水平に見える地面の他は、すべて空なのだ。地表の生物は、すべてが宇宙に向かい合い、対面していると云うのがただしい。
天文学は人間の歴史と同じくらい古い知識であり、人間の自然観察と同じくらい古い物だ。人間の自然観察は、我々の周りの環境の観察と共に、重要な物としては、空の星々の観察から始まった物で、それは栽培農業以前から存在していたものだ。採取狩猟の生活でも、人々はいつも空に関心を持ち観察していた。幾度の観察から、古代人は空の星々が、時の経過と共に極めて正確に廻って居る事実を知るのである。その経過を記録し太陽が一番中天にくる夏至の日を決めた。そして夏至の太陽がどの方向から昇るのかを決定した。それは冬至の決定事でも同じであった。こうして一年の日数が決められて、一日の長さにも刻みを入れて、年と月と日の概念が決定された。一日の時も後で正確に決まられた。空には、時には特異な現象が起こる事が有った。今で云う超新星の爆発があり、彗星の飛来が有り、隕石の落下が有った。こういう特異な現象の記録は、原住民や各国の昔の記録に見る事が出来る。
星学ー天文学を過去の遡って、人間の本格的な探究の学として見られるのは、エジプトープトレマイオス朝のアレキサンドリアであろう。ここに在った、人類の英知の結晶とも云うべきアレキサンドリア大図書館の、多くの書物と収蔵品は戦乱の為に灰と化した。救い難い愚者は古代にも現代にもいるのだが、この図書館の古代文書の焼失は何を置いても惜しいものだ。これで数千年の賢者の思索の結晶が焼けて仕舞った。アリスタルコスやエラトステネス、ユークリッド、アルキメデスの著作がすこし残った程度である。これ以後アレキサンドリアの叡智はイスラムに継承されて中世を生き残るのである。ローマがキリスト教化されて、極めて偏狂で攻撃的な一神教であるキリスト教が、ヨーロッパに蔓延した時代を中世と云う。この宗教の為に、どれだけ多くの人々が狂信的な教義に従って、拷問を受け殺されて行ったかを、史実から確かめて見れば好い。宗教をいう物は、フロイトに言わせれば集団ヒステリーである。19世紀から20世紀に掛けてもスタイルを変えた疑似宗教である共産主義が蔓延した。この幻想に因って、どれだけ多くの人間が犠牲に成ったことか。多くの悲惨な事がこの時代には起きたが、東洋である我々の国では、古墳時代である。
太陽系の生成は現宇宙の出現から大分あとの事に成る、太陽の元に成る凝集物の回転と、重力に塵が引き付けられて、塵はやがて層状にバーム・クーヘンのような層状の構造を創る。幾重にも中心部を取り巻く回転が創られ、それが個別に凝集してやがて星を作る。これは19世紀に太陽系の創生を考えたアイデアの一つで批判哲学で有名なイマーヌェル・カントの説である。つまり重力により凝集するのだ。これとは反対のもう一つの説は巨大化回転個体が回転力に依って分離する数学者ラプラスの説である。二つの考えの内、実際の現実に近いのはカントの説であり、恐らくは太陽系だけでは無くもっと莫大な太陽系を抱える銀河系宇宙の生成も、この様な重力に因る凝集から生成されている。すると重力は随分昔から力として宇宙の成り立ちに関与していたことに成る。ビックバン宇宙論が、どこまで正しいと云えるのか疑問な面があるのだが、そこでは力の出現が最初は重力が次に電磁気力が、そして強い力、弱い力、と順に出現する。いわゆる物質が出来る前に、重力はで聞いて居るのか?或いは物質と共に重力は出現したのか?面白い問題である。多分物質と密接に関係しているはずだ。当然の事だが物質は空間とも関連している。
創成の観点から順に云えば、宇宙の始まりが最初に来る。だがこれは曖昧模糊としていて未だ厳密な意味で数的科学に成らない。つぎは宇宙がはれ上がり物質の創生である。元素創生の初期の研究は、随分むかしソ連のサハロフと日本では吉村太彦により提案された論文がある。最初に出て来たのは最も元素的には単純な水素であり、つぎにヘリウムであり、このくらいの元素の創生であとは無い。この水素の集合体の星雲が重い元素を生成する。おそらく現在の宇宙の物質は一度星に依って生成された元素で構成されたものだ。元素が共有結合イオン結合などの分子を作ることに因ってひいては生命の発生に必要な分子を創り上げている。端的に云えば条件さえ整えれば、生命の発生は必然で有ると云う事なのかも知れないのだ。
既に出来上がったものとして太陽系の生成を考えてみると、太陽系は太陽の生成と共に形成された。そして太陽を回る軌道には一つの天体が出来上がる。惑星の質量と重力と回転力のバランスの下に各惑星は形成され、必然的に太陽からの距離も決定される。太陽の自転と各惑星に及ぼす重力、惑星の質量と自転、nなどのパラメーターが現象を決定する。然も、太陽の質量その物が、実に奇跡的なほどすごい。もしも質量がモット大きいならば、太陽は45億年を経ずして燃え尽きていただろうし、いまの質量よりも小さいならば水素の核融合の火は点火されて居まい。太陽の回りの惑星は、距離と質量により創れる環境が異なって来る。水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星(最近冥王星は惑星である事を取り消されたが)、そして、火星と木星の間には、惑星に成り切れなかった欠片が散乱している。惑星に成ろうとするのだが、木星の干潮力が邪魔をしてバラバラにする。冥王星の軌道は、余りに辺なので、惑星を取り消された、基本的には海王星の衛星だという事になった。
この回転する惑星系の運命を決定するものは重力にある。力の生成過程で重力は、最初に分離した力だ。この重力が水素を球体として締挙げている。水素と水素を融合させて、出来たヘリウムの質量差が、光と熱のエナルギーとなって太陽を輝かせている。惑星のすべても太陽からのエネルギーを得て、輝き、地球では生命の源のすべてを支えている訳だ。50億年の後に、水素ヘリウムを燃やし尽くした太陽は、次第に燃やすものがなくなり、赤色巨星として地球軌道を飲み込むまでに拡大される。その時に惑星系は終焉を迎える事になる。星の創り上げた傑作である生物も消滅する事になる。無論そこまで地球上の生命体の生態系が生き残って居ればの話であるが。それは何も人間が生き残る落ちう物では無い。
人をサピエンスと云う言い方をしている西洋人は思い上がりが顕著だ。人間は決して知恵ある生き物では無い。ここ300年の歴史的事実を見れば、技術が芽生え、技術改良が進み、戦争の技術と破壊力が増したために、自らが窮地に陥っているのが現実だ。現在に於いて、人間は長期的に人間が存続可能な社会システムを採用していない。過去の植物が残してくれた化石資源を湯水のごとく貪っている。電気を起こすと称してソーラー発電の為に森林を切り払い、植物を絶滅させているのが現実だ。動物は植物の恵みで生かされて居る存在だという真理を徹底的に忘れている。様々な現代の国民国家の産業の為に、地球上の資源の獲得競争が熾烈になり、それが原因で戦争の事態も起こりうる。人々の生活が文化を生み、それがさらに発展して文明を生む。
その典型的な資産は、コトバである。言葉が文明のすべての土台なのである。現在の地球上の人間集団が話す言語は、小さいものまで含めると数千と云う言語が有るという。それはみな文化と云う意味では貴重な物で、滅んでしまう前に記録されることが重要だろう。言葉の背後には、その文化特有の精神体系と云うモノが控えている。比較文化を探究する文化人類学や生態学は、依然は活発であったが、この所、余り有意味な知見が無い。人間の真の平等と豊穣の為には、本来、この様な比較分野の研究と思索が必要なのだ。地球環境の上に花開いた各文明は、混ざり合う事無く、独自にその深化を図ればいい。言語と蓄積された文化遺産が、国民性を支えているのだ。日本文明は、世界最古であると共に、一度も亡びた事がない特殊で特異な文明である。この偉大な文化遺産の下に日本人として生まれた事の有り難さと幸いを感じずにはいられない。