①で虚時間に附いて少し書いたが、もう一つ深く想像してみょう。因果律は文字の通り原因とその結果である。こころと謂う問題を扱い場合に、最初に当惑するのは心と物体は、どういう関係にあるか?という事だ。因果律はそこで成立しているのか?、日常の常識に捉われている人は、生体を離れてこころや意識は無いと思っている。それがこの世界に生きている普通の感覚だ。だが本当にそうか?。では、あなたのこころ、いや、あなた自身という意識は物質の投影なのか?。そうではあるまい、単なる物質は質量を持つが、意識を持たないという通念でこの社会は動いている。二元論の世界認識である。二元論とは心と物質は別なものだという理解である。自然科学はこの二元論を物質でもなく、こころでもない、或る別な段階に昇華させようとする。心とは感覚の統合された次元を云う。生命体は感覚を持っている。そして顕在的な感覚の個数を五感という。だが、それだけではないのであって、太古から受け継ぎ喪失した感覚はもっと在るのだろう。
Aー わたしという意識は本来は存在しない。では、わたしが存在しているように見えるのはナゼなのか?。それは世に満ち溢れている時間の函数である因果律のためである。因果律はナゼあるのか?、それは詰まる所時間があるからだ。ナゼ時間はあるのか?、それは平準化のために宇宙が動いているからだ。因果律は時間の進行から派生するもので、すべてが停止すれば因果律の謂う原因から結果への道筋は無い。わたしという概念が幻想であるのは、私という物が在るように見えるのは、生物体の保存のためだろう。
生命の起源は別に地球起源でなくともよい。アミノ酸を含む有機化合物は星間物質の中でも確認されている。大きく言えば生命それは太陽系が産んだものだからだ。大きなことを言うようだが、太陽系を含む宇宙といのちは繋がっている。すでに、それは聴覚の研究から脳の探求に進んだ医科歯科大の角田忠信博士がご指摘されている。脳の自律サイクルと太陽とその惑星としての地球は同期して居るのだと仰っている。日本で一番最初に思い出す人はそのことに気が付いてゐる。遠い過去に居た。日本ではいまから1200年ほど前の宗教家、私は宗教家と云うより自然哲学者だと、その著作を読みながら感じている。高徳の宗教家であるが同時に自然哲学家でもある。彼の時代には精密な観測技術は無かった。応用数学もそれほど発達していない中で、この人は相当に果敢なことを言っている。この人の想像力と核心を掴む感性はもう人間業ではない。こんな凄いひとが居たんだなと驚く。もしも可能ならば対話してみたい方だ。現代の自然科学と数学はもう一度飛躍が必要だ。物を細かく分けてゆき究極の存在を確認するのも好いだろう。然し細かく分けて行くのは際限が無いという人も居るし、ある地点で細分化は終わりだと思う人も居る。それと生命の起源はダイレクトには関係が無さそうだ。むしろ原子レベルで生命体のシステムは説明できるのではないだろうか?、あるいは原子まで行かなくても分子レベルで済むかも知れない。