神道と修験は深く関係してゐる。元々修験は神道に発したものだが、仏教が入って後には仏教とも融合して現在の修験の形式が確立した。但し、仏教との習合は修験に於ける神道の根幹を消し去った訳ではない。寧ろ仏教は本来の姿を、神道に依って変えられたと謂った方が正確であろう。修験は神道の血を引いており、根幹に祖先と自然の崇拝がある。仏教の哲理に於いて、それは空海の「真言宗」の心性と深く関係してゐるのではないだろうか。何に於いても真言宗のドグマは、「大自然と言葉」なのである」。遠い昔に日本にはインド由来の奈良仏教が支那朝鮮を経て入った。だが移植されたその原型の仏教は日本の神道とは馴染まなかった。元来、日本に入った仏教は印度で発展した最終期の仏教であり、その哲学や世界観は誠に立派な物であるが、日本の原型との差異が大きく且つ溝は深かったのである。私は、この印度と日本の本質的な差は自然環境がもたらした世界解釈の於ける価値観の差であったろうと思うのだ。
日本の自然は噴火や地震など恐ろしくもあるが、総じて人間を包み込む優しい母なのであり、日本人はその自然に強い愛着を懐いて来た。そこに印度との根本的な差異がある。印度は灼熱に地帯であり、自然は概ね乾いて居り人間を易しく包み込むものではない。人間の世界観や価値観には、生活の基盤である自然環境が深く左右するのは、すでに大正時代のむかしに和辻哲郎が著作「風土」で詳述していることであり、食料を得る為の方法はヒトの考え方や文化に強い影響を与える。彼はその気候を幾つかに分類した、ツンドラ、ステップ、モンスーン、砂漠、熱帯、などを気候分類として挙げている。太陽系第三惑星としての地球は、その緯度によって太陽の放射エネルギーの数量が異なるからだ。さらには地球自体の自転と、地表の凹凸による空気の流れ、海では熱せられた海水のよる循環の経路などが、気候に与える要因として挙げられる。
日本の属するモンスーンとしての気候が、日本の四季を彩る根幹だ。日本ほど四季が明確な所はない。春夏秋冬があり、更には二十四節気と称する季節の微妙な移り変わりが多くの歌に詠まれている。夏は多湿高温で密閉された家屋では途てもでは無いけれど住めない、それで伝統的な日本の家屋が、風通しの好い南向きの茅葺であることが理解されるであろう。冬は日本海側は多湿低温度で、日本海を吹き抜けて来る季節風は多量の水分を含んでおり、それが山に当たると多量の雪を齎し、それは水となり、春の農耕に多くの恵みをくださる。冬と夏の間に展開する、春と秋は殊更に美しい色どりの多い世界で、日本文明の美的感受性はこの四季の美しさから励起された物であろう。日本人は旧石器時代から類推すると、最も古い時代の石器を物を思えば、この列島に定着して原日本人は十数万年を生きて来たのであろう。日本的美学はこの春夏秋冬の世界と無関係ではない。そして、我々の遠い祖先は磨製石器を使いながら、先鋭なガラス質のナイフも使う。「相澤忠洋記念館」には、相澤さんが火山灰層の中から発見し、考古学に常識を覆した美しい黒曜石ガラスのナイフが飾られている。この黒曜石は長野県和田峠で作られた物なのだろうか。成分分析をすれはその場所は特定できよう。
修験の元である自然神道は、恐らくは縄文時代をこえて石器時代に始まるのではなかろうか。修験のイメージは日本三大修験の一つ羽黒山で見た通り、白青の一松模様の法衣を着て白い股引を付け草鞋掛け、数珠を首から垂らし、頭には兜巾を付けて深い山中を歩き回る。という印象だが、この形式はいつ頃に確立された物だろうか。