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お彼岸の日に、22歳の自分の時代と父の時代

2022年09月28日 09時51分50秒 | 日記

どんなに時代は変わろうとも、その時代に生きる青年の心は変わらない。置かれた時代の条件と環境に多大な差異があろうとも。20歳から22歳という青年時代の条件の中で父の時代を振り返ってみよう。

父は大正12年の秋10月1日に、栃木県宇都宮戸祭にある14師団の官舎で産まれた。祖父は14師団の経理をしていて将校でもあるが実戦とは直接の職務関係は無かった。また大正12年はあの関東大震災の年でもある。9月1日の昼近く東京が揺れた。大震災は公式に発表された記事とは異なり、様々の裏話がある。震災の被害は家屋の倒壊も勿論あるにしても、なによりも大火に因る焼死者の災害が思い出される地震である。昼近くだと云うから、各家庭では食事の支度に火を使う事は考えられる。火の回りは早く類焼に人々は惑わされ、家財道具を大八車に積み込んで道に溢れた。その逃げる道を大八車が塞いだ為に、多くの焼死者がでた。大八車に積んだ家財道具は火の粉にさらされて、それは一種の焚き木である。焚き木を引いて道に溢れれば火事を拡大する事にもなる。多くの人はそれを考え無かった。家財道具は暮らす為に大切な財産である。それは分らないでもないが、それが火を拡大させ被害を大きくした。祖母に聴いた話では、昼近く地震が発生し、祖母は父が育って大きなお腹をしていて、余りにも強い揺れに、大黒柱に摑まって居たという。祖父は地震が発生すると、取る物も取り敢えず東京の陸軍省に急いで出掛けた。汽車で行ったのだろうと思う。線路は地震の被害は有ったと思うが程度は知らない。東京は灰燼し新たな設計が新都として為された。

大正12年10月1日に長男として宇都宮市に生れた。父の少年・青年時代は、大正の後期から昭和の十年代のことだ。父は地元の尋常小学校の1年生に入学したが父が9歳の頃に祖父は14師団から離れて、満州の地に職を得て家族と共に満州の新京や吉林に住むことに成ったらしい。その地の尋常小学校の2~4年、高等小学校を経て旧制中学へ進んだ。何回かの転校が有ったらしい。満州の地で短歌好きの教師から短歌の魅力を教えられ、それは父の一生の情熱となった。

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