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看護倫理教育におけるキリスト教的視点について

2021年10月31日 | 看護学について

教育に宗教(キリスト教)が必要な理由【前編】

 

証14 宗教と看護~なぜ看護にキリスト教が必要なのか?~

今回は医療や看護、介護といった人の世話をする特殊な仕事をする人について

「なぜキリスト教が必要なのか?という理由についてお話していきたいと思います。

日本の学校教育では「宗教について教えない」ことで有名です。

では人間の良心はモラルは?といと日本人は「他人に迷惑をかけない」という「他者評価のため」だけに

モラルを持ち、ルールを守り、協調します。

逆に言えば「バレなければ何をしてもよい」「他人が見ていなければ何をしてもよい」

というマイナスな側面を持ち合わせています。

いわゆる衆人環視社会が日本社会の文化です。

室町時代には「惣」という寄り合い制度があり、江戸時代は「5人組」という連帯責任制度があったように

市民が市民を監視するという文化風土があります。

「世間様の視線」を意識しています。

これはこれで良いところはありますが、その「世間様の目の基準とは何で決まるのか?」

となると、学校教育やテレビや新聞などの主要メディアからの情報によって

価値観が決まってしまいます。

世論は教育を担当する、文科省と、情報を担当する総務省によってコントロールされています。

私たちの「価値観や思想」はこういった政府や大企業のコマーシャルによって知らず知らずのうちに作られています。

その政府や大企業はというと、創価学会や大本教といった「悪魔崇拝」理念を元に価値観が形成されていますから

支配者層が都合の良いように、「常識や価値観」が作られ、幼少の頃から親や学校、テレビなどのマスメディアから

一方向の情報が庶民へと流し続けられている「洗脳社会」だと言えます。

メディアや教育を使った情報統制を敷いているのです。

その思想自体が正義であり、善であれば良いのですが、残念ながら、大企業や政治家などはまともな思想を持っていない人ばかり

です。

こうした価値観の中では「人の役に立ちたい」という考えは芽生え憎い環境です。

テレビをつければ、美男美女の芸能人カップルの交際の報道がなされ、ニュースではプロスポーツが毎日放送され、

プロスポーツ選手は大金を手にし、英雄のような生活をしている姿を見ない日はありません。

芸能人が高級店に食事にいくレポートをしたり、お店の紹介をする。

ブランド品に身を固めた芸能人がさり気なく出演する番組を見続ける。

こうして私たちは「多くの名誉や名声を手に入れ、誰かに働かせて

自分は大金を手にして好き勝手遊んで贅沢な生活することが幸せだ」


「スポーツやビジネスで成功して大金を手にしたら幸せだ」

とテレビ番組や親の発言から刷り込まれてしまいます。

ここに何も正義もへったくれも存在しません。

そのおうな価値観で育ってきた人が、「人に献身して喜びを感じること」ができると思いますか?

報酬ありきだと思えませんか?

仮に医療従事者ではなく、土木作業員などの給料が物凄く高額で、国家資格制度となり、専門学校か大学を出ていないと従事できない

職業だとしたら、そこにたくさんの人が集まります。

「安定した給料が貰えて、かつ人のために働ける、社会貢献ができる仕事」として看護師は選択されるのです。

ところが看護の仕事が、介護と同じ給料になって

「給料は激安だが、責任は変わらず、人のために働ける、社会貢献ができる仕事」になったらどうなるでしょうか?

「だったら介護の仕事するよ」となりませんか?

つまり「自分が入院した時に親身になってもらい嬉しかったから、私も力になりたい」という動機や「制服カッコイイな!着てみたいな」

という動機で看護師になっても、実際に現場に出てみると

「毎日入退院の繰り返しで事務手続きばかり、医師の指示による処置ばかりで、看護がほとんどない」
「不規則勤務で心身ともに疲労がとれない」

となり「理想と現実の間、リアリティーギャップ」に絶望してしまいます。

 

「やりたい仕事、使命感に燃える仕事」ならばどれだけ劣悪な環境で、薄給でも仕事が続けられると思います。

しかし現実に、そういう看護師は少ないと思います。

「ほかに仕事があればやってみたいけど、、看護師しかやってこなかったから今更ね」

と続けている人ばかりです。


その証拠に、毎年6万人近くの人が看護師免許を取得しているのに、現場は万年人出不足は解消されません。

看護師養成や教育の方法に問題があるのかもしれません。

その根本的な理由に私は「看護で宗教を教えないからだ」と感じています。

キリスト教系列の大学や専門学校はあると思いますが、どれだけの学校が聖書や御言葉を反映した教育をしているでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また教員側もキリスト教の愛を受けて、その愛で生徒たちを愛しているでしょうか?

 

そんな学校があると聞いたことがありません。

私が看護や医療にキリスト教の考えが必要だと思うのは、「キリスト教の愛が必要だ」と考えるからです。

愛がなければ「本気で救いたい」とは思えません。

「仕事だから救う」これは義務的なものですから、いずれその気持ちは薄れていくでしょう。

しかしキリスト教における愛、「神様の人間に対しての愛の深さ、偉大さ」を知れば、

「人を救うために私に何かできることはないか?」という希望が湧いてきます。

「他人から褒められるためでなく、お金のためでなく、神様のために働きたい」

という動機が、キリスト教を通して育むことが可能だからです。

しかし、この「愛」がない状態で「人を救いたい」と考える人は、

「何か裏があるな」という「偽善者」にしか思えません。

なぜなら、「神様の愛を受ける、神様を愛する」ための手段として「人を救いたい」という動機以外

は偽物だからです。

愛を受けるため以外に「人を救いたい」と考えるということは、

「ありがとう」と感謝されたい「社会から必要とされたい」「社会に居場所を作りたい」という

「自分の名声や評価を高め自尊心を満たすため」や「利益やお金を得るため」しか

理由が見つからないのです。

「神様を愛さず、人を救いたい」という人は偽善者なのです。

なぜなら「ありがとう」と感謝されるだけで、メリットがないからです。

だとすると、「給料が良い」「社会的地位が高い」といった自己中心的な欲求を満たすために働く以外

なくなってしまいます。

「神様が創造された人間を愛おしい」と感じられる人が「医療従事者になるべき」だと考える理由はここにあります。

あなたに一生遊んで暮らせるだけのお金、100億円が手元にあったとして、その資産を恵まれない人に寄付したり施設を建てて

生活を支援しようとしますか?

その資産を投資してさらに資産を増やし、自分だけ安全な社会で悠々自適に生活しようと考えませんか?

 

それが神を愛していない、キリスト教を知らない人間の発想なのです。

思想の根本に「まずは自分の生活が保障されれればいい」という考えがあるのです。

しかし神様はどのように愛しておられるのでしょうか?

毎日酸素を作り、太陽と月が輝き、時に恵みの雨が降り注ぎ、生命体を循環させ、

悪人の上にも善人の上にも等しく、生きられるだけの「愛=自然」という恵を絶やすことなく与えてくださいます。

どれだけ「神は人間を愛しているのか?」ということです。

「神などいない」「神を信じる者は弱い人間だ」と金持ちや成功者は大言壮語します。

そのような不信仰な悪人にさえ、神様は自然の恵みを等しく与えます。

「どれだけ神様は人間を愛しているのでしょうか?」

「今日あなたは外出して、何台の車とすれ違ったか覚えていますか?」

仮にそのすれ違った1台の運転手に魔が差して脇見をし対向車線にはみ出したとしたら、それが偶々

あなたの目の前にはみ出してきたとしたら、あなたは交通事故で即死するか、重症を負い、

いままでの生活を続けることが困難になるかもしれません。

 

 

正面衝突だけではありません、後続車のトラック運転手に魔が差して、脇見をしてブレーキが間に合わずあなたの車に追突してきたら

あなたは、頸椎損傷で下半身不随となり歩けなくなる、トイレで排泄できなくなるかもしれません。

下手したら、首から下が麻痺して動かなくなるかもしれません。

そんなリスクを知って、あなたはまともに車で外出ができますか?

私たち人間がこの社会で1日何事もなく無事に生活できているのは、偶然でなく「奇跡の連続」なのです。

一つでも歯車が狂えば、人間はすぐに死にます。

「明日の事は誰も知らない。tommorow necer knows、つまり神のみぞ知る」のが人生の本質なのです。

そんな奇跡的な毎日を過ごしながら、未だに自分の利得だけを考え、神を感じることもなく

ましてや神の存在を知らずして人生を終えていく人を見て

「なんとつまらない人生なんだろう」と神を知る、クリスチャンは考えるのです。

そういった神からの愛を知れば、「神様が喜ぶことをしたい、そうだ神様が愛している人類を救いたい」と本気で思うようになるのです。

「神様からの愛を受けたくて、神様を喜ばせたくて、何ができるんだろう?」と日夜自分ができることを探し始めるのです。

その過程において「そうだ、人のお世話をして、人類の命を救ったら神さまは喜ばれるだろう、きっと祝福してくださるだろう」

という動機が芽生え、医療従事者の道に進むことになるのがベストではないでしょうか?

私が看護学校で教員をしていって、こういう動機の人が全くいません。

非常に残念だという気持ちと、「国家資格を取って卒業しても、看護学生の大半は辞めてしまうんだろうな、動機が不純だからもったいないな」

という気持ちで悔しい気持ちになります。

残念ながら日本の教育では宗教を教えることはタブー視されています。

しかし、倫理観を考える前に、正義感、真実とは何か?について考えなくてはいけません。

看護師としてどうあるか?の前に人間としてどうあるか?

が分かっていなければ本末転倒なのです。

世の中の学問や哲学に「人間とは?」という問いに対しての明確な答えがありません。

それは聖書、人間を創造した神様にしか答えがないのです。

それを学ぶにはキリスト教しかないのです。

倫理学をどうやって教えればいいのか?

答えは明確なのです。キリスト教、聖書を学べばいいだけなのです。

ただし教会に行くべきではありません。

是非、こちらのサイトで学ぶことをお勧めいたします。

キリスト教最大のタブー。イエス・キリストの「肉体」が生き返ったという大嘘。

キリスト教最大のタブーその二。聖書に書かれた奇跡はほとんど奇跡ではない。

その第一歩として今回、キリスト教を紹介させてもらいました。


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