中国共産党中央政治局常務委員で、現在の政権でのNo.5に当たる李長春が4月11日より25日まで、アルメニア、ルーマニア、スロヴェニア、ケニア、モザンビークの、中欧、アフリカの5カ国を公式訪問されました。
ケニアでは、4月20日にナイロビ大学を訪問、そこでの講演の全文が、《人民網》に掲載されました。
講演の題目は、《加強中非友好合作 携手共建美好明天》(中国とアフリカの友好協力を強化し、手を携え共に素晴らしい明日を作ろう)。
この中で、次のような一節がありました。
■ “海内存知己,天涯若比隣”,是一千多年前中国唐代的著名詩句,也是中肯両国人民遠隔重洋但友誼源遠流長的生動写照。600多年前,中国著名航海家鄭和率領当時世界上最先進的船隊飄洋過海,与亜非各国開展了広泛的経貿和文化交流。1415年,鄭和的船隊来到肯尼亜的蒙巴薩港,受到当時的麻林国王和人民的熱情歓迎,麻林国王還専門派使者随船回訪中国,留下了中肯人民友好交往的一段歴史佳話。鄭和帯来的是絲綢、茶叶、瓷器和対非洲人民的友誼,播撒了中非友誼的種子。
・重洋 chong2yang2 遠い海。“重”はchong2と発音します。いくつもの海原を越えて行く、隔てる、という意味合いでしょうか。[用例]遠渉yuan3she4~(遥か海の彼方へ渡る)。
・源遠流長 yuan2yuan3 liu2chang2 [成語]源が遠ければ、流れも長くなる。歴史や伝統が長い喩え。[用例]中日両国的文化交流~(中日両国の文化交流は歴史が長い)。
・写照 xie3zhao4 (真髄をとらえた)描写。
・飄洋過海 piao1yang2 guo4hai3 “漂洋過海”とも書く。発音は同じ。はるばると海を渡る。大海を航海する、の意味。
・播撒 bo1sa3 蒔(ま)く。
□ 「この世の中によく知った友人がいれば、たとえ地の果てにいても、気持は通じ合う」。これは千年余り前の中国唐代の有名な詩ですが、中国とケニア両国の人民が、大洋で遠く隔てられても、友好の歴史は長く続いていることを生き生きと描写しています。600年余り前、中国の有名な航海家、鄭和は、当時、世界で最も先進的な船隊を率い、大海を航海し、アジアやアフリカの各国と広範な経済貿易や文化交流を展開しました。1415年、鄭和の船隊はケニアのモンパサ港に到着し、当時のマーリン国王や人民の心のこもった歓迎を受けました。マーリン国王は更に使者をいっしょに中国へ訪問させ、中国とケニア人民の友好交流の歴史佳話を残しました。鄭和がもたらしたシルク、茶葉、磁器と、アフリカ人民に対する友好は、中国とアフリカの友好の種を蒔くこととなりました。
15世紀、明の鄭和の大航海で、実際にケニアのモンパサ港に来ていたとは、当時の技術を考えると、すごいことであったと思います。
さて、この文で引用された詩の一節、“海内存知己,天涯若比隣”についてです。
これは、王勃の詩《送杜少府之任蜀州》の一節で、人口に膾炙した句で、遠方へ離別する友を励ますのに、よく使われます。
《送杜少府之任蜀州》は、王勃が長安にいる時に詠まれたもので、“少府”は唐代の県尉に対する通称。友人の杜という姓の少府が四川へ赴任するのを前に、彼への送別の気持ちを詩に詠んで贈ったもの。
詩の全文は次の通りです:
城闕輔三秦,風煙望五津。
与君離別意,同是宦游人。
海内存知己,天涯若比隣。
無為在岐路,儿女共沾巾。
□ 城闕輔三秦,風煙望五津:
最初の二句は、送別の場所と、相手がこれから行く方向を表す。 “城闕”は唐の都・長安を指す。“闕”que4は宮門両側の望楼のこと。 “三秦”は広く、長安付近を指す。項羽が秦を破ってから、元の秦の領土は雍、塞、翟の三国に分けられ、秦の三人の降将を王としたので、“三秦”と呼ばれる。 “城闕輔三秦”は、都・長安の周囲が“三秦”の地に囲まれていることを表す。一方、“五津”は、杜少府がこれから向かう場所。四川の岷江は、灌県から犍為までの間に白華津、万里津など五つの渡し場があり、“五津”と呼ばれた。首都の堂々とした楼閣が聳える地から、遥か煙たなびく地に赴く友人のことを思い、別れを惜しんでいる。
□ 与君離別意,同是宦游人:
“宦游”huan4you2とは、官職を求めて、各地を転々とすること。当時、役人としての職を探すのも、なかなか大変であったのだろう。この二句の意味は、「君は蜀州に県尉の職を得、君とはここで別れるけれども、私達は共に官職を求めて各地を転々とするところは同じなのだ」と、宮仕えの悲哀を歌っている。辞令一枚でどこでも行かないといけない辛さは、昔も今も変わりが無いようだ。
□ 海内存知己,天涯若比隣:
この二句で、にわかに筆の調子が変わり、遠くへ旅立つ友への励ましの口調となる。私たちはここで別れた後は、遥かに分かれ分かれになるが、悲しむことはない。この世の中によく知った友人がいれば、たとえ地の果てにいても、気持は通じ合う。“海内”は“四海”の内。つまり全世界のこと。
□ 無為在岐路,儿女共沾巾:
分かれ道で、あの若い男女のカップルのように、涙でハンカチを濡らすようなことはしないようにしよう。
王 勃(650年-676年)唐代初期の人。字は子安。「初唐の四傑」の一人。絳州竜門(山西省河津市)の人。祖父の王通は隋末の高名な儒学者で、祖父の弟・王績も詩人として知られた。幼くして神童の誉れ高く、科挙に合格、664年に朝散郎となり、ついで高宗の子の沛王・李賢の侍読となってその寵を受けたが、諸王の闘鶏を難じた「檄英王鷄文」を書いて出仕を差し止められ、剣南(四川省)に左遷された。虢州(河南省霊宝市)の参軍となったときに罪を犯した官奴を匿いきれなくて殺し、除名処分にあった。この事件に連座して交趾の令に左遷された父の王福時を訪ねる途中、南海を航行する船から転落して溺死した。まだ25歳の若さであった。
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