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北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

2024年02月03日 | 中国史

清朝廷、剃髪令を発し、漢人に辮髪を強制

清初、統治者が踏みにじった手工業と商業

 土地の囲い込みは漢族の農民を破産、逃亡させ、北京地区の農業生産を破壊しただけでなく、北京城内の手工業や商業に損害を与えた。城内の多くの漢族の手工業者や商人は、住居が囲い込みで占拠され、身を安んじるところが無く、またしばしば満州貴族やその走狗たちの抑圧に遭った。満州貴族は奴僕をそそのかして城外に行かせ、公然と北京に交易に来る商人たちから掠奪させ、一度は販路が存続の危機を迎えた。大通りには「人市」が出現し、一部の満州貴族は自分がさらってきた漢族の男女を、少しもはばからずに「人市」に引き出して売り出した。こうした情況下、私営の手工業や商業は急激に衰退した。官営の手工業は、清朝廷と満州貴族の需要により、まだ明代から残されてきた一部を維持することができた(例えば、順治年間(1644年ー1661年)、内監(宮廷内の御用を行う宦官)は明の制度で設立された内織染局、制造局などを引き続き利用したし、工部(官営工事を司る官庁)も一部の木廠、磚瓦廠、鉄廠、鋳銭局と軍器廠、火薬廠などを主管した)が、これらの機関の実際の生産はたいへん少なく、これらもその後だんだん衰退していった。

統治者の人々への政治的弾圧

 満州貴族が経済的な掠奪を行うのを保護するため、清朝廷は政治上、基本的に明朝が設立した中央政府機構と地方政府機構を真似、一般の人々を弾圧する道具にした他、更に厳しい「逃人法」を制定し、北京に専ら逃亡人を捕まえる兵部督捕衙門を設立した。 逃人法の規定に基づき、漢族の貧民(庄丁(壮丁)と佃農(小作農))は逃亡すると、自分本人が捕まって死刑に処せられる(三度逃亡すると死刑)危険があるばかりでなく、彼らをかくまった者も取り調べられ、拘束され奴僕にされた。このため、その後、多くの満州貴族が故意に奴僕(しもべ)を逃亡させ、漢族の人々を罪に陥れた。満州貴族が方々で掠奪をし、法に背いた活動を行ったにもかかわらず、清朝はあまり厳重に取り締まらなかっただけでなく、地方の州や県の衙門が関与しないよう規定し、こうした案件は内務府、八旗都統、及び歩軍統領衙門に引き渡して処理させた。これらの役所は全て満州貴族によって掌握され、したがって当然自分たちの仲間を罰するはずもなかった。満州貴族の権勢を頼みにした庄頭は、騎馬のまま直接府、州、県の衙門に乗りつけ、府、州、県の役人と直談判し、好き勝手にふるまった。この他、清朝廷は漢族の人々の反清意志を打ち壊すため、何度も命令を出し、漢人の薙(剃)髪(髪を剃って辮髪にする)、漢人の着衣を満州族の衣冠に改めることを強制した。

北京の人々の反清蜂起

 清初、こうした経済上、政治上の赤裸々な漢族への弾圧政策により、しばしば北京の人々の強烈な反抗が引き起こされた。1644年(順治元年)5月、昌平州紅山口の農民たちが清朝に抵抗して蜂起し、清朝廷は固山額真巴顔、石廷柱、李国翰、劉之源らが率いる軍隊を投入して、ようやく彼らを鎮圧することができた。翌年、近郊の農民の指導者、劉自什は群衆を率いて海子の紅門から渾河を渡り馬家山に向かい、そこで隊伍を拡大し、蜂起を起こそうとしたが、結果として清朝廷の厳しい鎮圧のため失敗に帰した。いくつかの活動は、北京城郊外の聞香教、無為教、白蓮教会といった秘密宗教組織が、何れも反清を旗印に掲げたもので、清朝統治者にとって、たいへん大きな脅威となった。

 清初の大規模な反清蜂起は、1673年(康熙12年)の楊起隆が指導する蜂起であった。この年、呉三桂が雲南で反清の挙兵をし、清の統治者たちを震撼させた。楊起隆はこの期に乗じて北京の漢族と一部の八旗の家奴(下僕)を組織し、義起(決起)の旗を挙げた。政治的な影響力を拡大するため、楊起隆は「反清復明」のスローガンを掲げた。自ら朱三太子と称し、「中興軍」を組織し、「広徳」という元号を使った。彼らはもともと1213日の五更(明け方の3時から5時)に松明に点火し決起する計画であったが、11日になって、情勢が突然変化した。この日、ちょうど「中興軍」に参加した八旗の家奴(下僕)、黄吉、陳益、及びその他30人余りが鼓楼西街で会議をしていた時、 黄吉と 陳益の主人がその知らせを聞いて密告し、清朝廷が軍隊を派遣し四方から彼らを包囲した。こうした情勢下、楊起隆は決起の予定を早めることを決断した。「中興軍」はひとりひとりが頭に白い布を巻き、肩に赤い布を掛けた。彼らの人数は少なかったが、戦闘は非常に勇敢で、幾重にも重なった清軍の面前でも、少しも恐れなかった。双方の軍事力の差がかけ離れていたため、「中興軍」は最終的に失敗した。斉肩王焦三、護駕指揮朱尚賢、閣老張大など数百人が捕虜にされ、磔(はりつけ)にされて殺された。楊起隆は包囲を突破し、陝西へ逃げ、引き続き反清活動を行った。7年後、この勇敢な蜂起指導者は清朝廷に逮捕され。殺害された。

 この時の蜂起は失敗したが、影響はたいへん大きく、以後北京と全国各地でしばしば漢族の反清復明活動が起こり、しかも多くの地方の蜂起で朱三太子の旗印が掲げられた。清の統治者はこのためあちこちで民間でかくまわれている朱三太子の行方を秘密裏に調査した。1708年(康熙47年)清の統治者は、明の太祖の第13子、代簡王の末裔、正定知府、朱之槤を探し出し、延恩侯に封じ、世襲させ、彼に明陵の墓守をさせた。

 人々の反抗、怒りの渦を突きつけられ、清朝廷は1685年(康熙24年)基本的に土地の囲い込み、家屋敷の占拠を禁止(雍正初年には完全に停止)し、間もなく「逃人法」の適用の制限、修正を行った。康熙末年から雍正初年、清政府は前後して「盛世滋丁、永不加賦」(康熙50年(1711年)の丁税(人頭税)の金額を基準とし、それ以降新たに増加した人丁(成人)からは丁税(人頭税)を徴収しない)の命令と「地丁合一」(人頭税を地租に組み入れる)の制度を公布し、人々の賦役負担を軽減した。この他、清朝廷は近畿一帯で水利事業を行い、荒地の開墾を奨励した。これらの措置は北京地区の社会生産性回復にプラスの効果をもたらした。

 清初、満州貴族と漢族地主の関係はいささか複雑なものであった。満州貴族は漢族、その他少数民族の反抗、自分たちの財産の掠奪を鎮圧するため、しばしば漢族地主の協力を取りつけ、漢族地主も次々と清朝の統治機構に加わった。しかし一方、満州貴族は自分たちの政治的地位を強固にするため、あちこちで漢族地主の進出を妨害し、彼らの力を抑制しようとした。彼らの経済利益は時には衝突を生み、北京近郊の多くの漢族地主の家屋敷、土地も満州貴族に囲い込まれ、占拠された。逃人法は漢族地主にとっても脅威であった。しかし、康熙帝の親政以降、こうした状況に変化が生じた。この時、八旗の組織は既に完全に封建君主により制御され、漢族地主と満州貴族の経済上の連携は次第に緊密となり、漢族地主の政治的な地位も向上していた。それに反して、八旗旗丁はこの時代、激しい分化が起こり、貧困旗丁は次第に漢族の人々同様に土地を失い、衣食に事欠く苦しい境遇に陥った。こうした情勢下、満漢両族の間の民族対立は相変わらず存在したものの、むしろ貧富の差が日増しに顕著になっていった。

第三節 経済活動と身分階級の関係

 康熙中期以降、北京地区の経済は次第に回復と発展の道を進みだした。郊外の多くの逃亡した農民たちが、また戻って来て農業生産に従事するようになった。北京城内の手工業者、商人たちは、前門外地区を再び繁華な商業地区、手工業者の工房の集中する地域として再興した。

 当時、中国国内の情勢も生産回復に有利に働いた。清朝が康熙20年(1681年)に三藩の乱を平定して以降、中国国内に平和が実現した。南方の物資は修復された運河に沿って続々と北に運ばれ、北京は再び全国の商業ネットワークの中の重要な拠点となった。

 この時代、北京地区の農業、手工業、商業は、大いに発展した。

農村での身分制度と地租、使役

 郊外の農業生産品は、食糧作物、野菜及び綿花などのような経済作物を含め、農民が自分で消費する部分を除いて、多くが都市の需要に供するために生産されたものであった。

 当時、郊外の皇庄は、糧庄、豆稭(豆がら)庄、半分庄、稲庄、菜園、瓜園、果実園などに区分された。清朝廷は1685年から1708年まで(康熙24年から47年まで)に次のように規定した。糧庄は一ヶ所の占有地が1800畝、毎年の食糧歳納が百石、豆稭庄と半分庄は一ヶ所の地畝(土地)と税糧が糧庄の半分とした。近郊の玉泉山の 稲庄水田、旱田は、それぞれ別途歳糧を徴収した。各皇庄に庄頭を置き、庄田を耕作するのは庄丁であった。王庄も基本的に皇庄と同様に管理された。八旗旗丁の壮丁地はたいへんこまごまとした小面積の土地で、貧しい旗丁は、多くの旗地を漢族地主や少数の自作農に転売した。乾隆年間に到り、旗地は既に半数が売り払われていた。転売された旗地は後に一部分が清朝廷により買い戻され、官有資産とされたが、大部分が漢族地主の世襲の不動産となった。

 康熙末から雍正初、清朝廷は新たに増えた人口の丁銀と、元々あった賦役丁銀を地租に組み入れ、農民の負担は明代や清初期に比べて軽減した。こうした北京地区で引き起こされた変化は、曾ては庄頭が庄丁を奴隷や農奴と見做して使役していたのが、今は強制的な労役は減少し、庄丁は主に地租を納めなければならず、庄丁の身分は次第に小作農に転化した。小作農は耕作地から追い出されることはなくなったが、彼らは引き続き満州貴族と漢族地主に地租を払い、貴族地主に家の修理などの雑役をする必要があった。自作農は国家の租税、賦役の負担は少なかったが、清朝の緊急の事業があると、相変わらず現場に召集派遣、もしくは雇用募集された。

農業生産の回復と発展

 農業生産を発展させ、自らの困窮した生活を改善するため、近郊の農民はこの時期、満州貴族と庄頭に反対し、「増租奪佃」(地租を増額し、小作人の土地を奪い、別の小作人に耕作させ、小作料を増額する)に反対し、清朝廷の雑派差徭(正税以外の各種の労役の割り当て)に反対するといった闘争を行い、清朝廷に迫って、乾隆年間に買い戻された旗地(八旗の官兵に分配された土地)に庄頭を設けるのをやめ、満州貴族と庄頭が「増租奪佃」を行うのを禁止し、衙門の白役(編成外の差役)などをやめるよう求めた。これらの闘争は、生産の発展に有利に働いた。例えば、庄頭の土地を設けるのをやめ、清朝廷も自らこう承認した。「ひとたび民を招いて耕作させ、また肥沃な土地になる。もし庄頭がいれば、次第に荒地になってしまう」。庄頭を置くのをやめるに従い、旗地の中でも漢族地区の小作農制度が盛んに行われた。農民たちは大規模な荒地の開墾、水利建設、収穫の多い作物や経済作物の作付けなど生産発展の取り組みを進めた。

 過去近畿(都北京の周辺地域)一帯には多くの荒地があったが、康熙中期以降になると、これらは徐々に農民によって切り開かれ、耕作可能地になった。大興県は康熙年間に全部で120116畝(約8千ヘクタール)開墾され、宛平県では40895畝(約27百ヘクタール)開墾された。雍正年間は正式な記録が無く、乾隆年間には北京南部一帯だけで数千頃の水稲田が開墾された。これ以外に、満州貴族や庄頭が地方の役所に返却した荒廃した開墾地(熟荒地)があり、こうした「熟荒地」は元々多くが漢族が開いた肥沃な土地であったが、満州貴族が囲い込みをして後、これらは次第に荒廃し、「薄碱沙压」(土地が痩せ、アルカリに浸食され、流砂に覆われた)の劣地となった。地方の役所はこれらの土地を貧しい農民に貸して耕作させた。土地を愛する農民たちは、やがてそれら荒廃した土地の様相を一変させ、いくつかの土地は三五年も経たぬうちに再び上等の沃地に変えられた。こうした荒地の開墾は、近畿一帯の農業生産量を大幅に向上させた。

 水利建設も重要な生産発展の事業であった。郊外の農民は、康熙年間から乾隆年間、清朝廷の監督下、永定河、北通河、通恵河(大通河)、清河、及び南苑の団河、一畝泉などの河川を改修し、その中でも特に取り上げられたのが、永定河の浚渫であった。永定河は旧名を渾河、またの名を無定河と言った。永定河は山西省から山を出て近畿一帯の平原地区に入って後、地勢が平坦であるため、盧溝橋から下流でしばしば氾濫を起こして災害となり、宛平、良郷などの地の農田や村落を水没させた。清の統治者は当時の階級間の対立を緩和し、自らの統治を強固にするため、1698年から1772年まで(康熙37年から乾隆37年まで)、大量の貧農と河兵を雇い入れ、永定河の浚渫を六度行った。改修方法は、「疏筑兼施」で、一方で川に沿って堤防を築き、一方で川の流れる方向を改め、流れをよくした。最後に永定河の水を沙家淀から鳳河を巡って大清河に入れ、再び天津から海に流した。六回の改修を経て以後、永定河はこの時代、基本的には安定していた。

 永定河等の河川を大改修して後、過去積年の水害は減少し、水利の効用は増加した。河患問題は当時は真の解決は不可能だったが、尚小さくない効果が発生した。農民たちは到るところに水門を開設し、水を引いて灌漑をし、多くの畑を水田に改めた。例えば雍正年間、盧溝橋の西北の修家庄、三家庄一帯に、農民が永定河の水を引いてこれを投入し、村の南の沙溝は肥しを施すことなく肥沃になった。乾隆年間、南苑の団河と一畝泉を改修し、その川の畔に稲田数千頃を開墾し、益々灌漑の利を資することとなった。

 水利の構築に伴い、北京地区の農民は水稲などの収穫量の多い作物を植え付けた。過去にもここでは一部水稲田もあったが、雍正年間に永定河の改修を行ったことで、短期間のうちに水稲の作付面積は133千畝(8,860ヘクタール)以上の数字にまで向上した。乾隆年間には京南で数千頃に達した。当時、北京では「苑囿(皇族の囲い込み地)以南、淀河以北は、を引いて順に流し、秔(=稲(うるち米の稲)が生い茂った」。水稲田の収穫量は、『順天府志』の記載に依れば、「中熟(中程度の作柄)の歳、畝(当り)谷五石を出ず」、麦や粱(コウリャン)、黍(キビ)の生産量に比べ、数倍高かった。水稲の他、別の高収穫作物としてトウモロコシの清代初めに繁殖が開始した。この時、近畿一帯では大部分の土地がまだキビ、コウリャン、麦などを植えていたが、これらの食糧作物も、水利によって以前よりかなり増産された。

 近畿(都北京の周辺地域)一帯の農民が栽培した経済作物は、主に綿花と染料植物であった。清の内務府管轄下の荘園では、棉靛戸を設け、綿花と藍の生産に従事し、官営の手工業の需要に供した。

 都市の需要に供応するため、野菜栽培と花卉栽培が盛んになった。近郊農民は、用水路や井戸水を利用して多くの菜園を灌漑し、北京城中の野菜農家は大小の菜園数か所を回復、開拓した。豊台の花卉農家は芍薬など高価な花卉を栽培した。毎月3日、13日、23日に、彼らは車を押して北京城内の槐樹斜街に行って販売した。草橋にも多くの花畑があり、各種の花の苗を栽培していた。



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