先日書きました連華寺は南北朝の古戦場でもあります。
元弘3年(1333)5月7日の京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は北朝の天子光巌天皇・後伏見華園二上皇を奉じて中山道を下り番場の宿場に着いた時、南朝軍の重囲に陥りやむなく連華寺に玉輩を移し、大いに戦いたるも、再び戦いに敗れ遂に本堂前庭に於いて、仲時以下四百三十余名悉く自刃した。
時の第三代住職同阿上人は深く同情してその姓名と年齢および仮の法名を一巻の過去帖に認め、さらに供養の墓碑を建立してその冥福を弔う。
その墓は境内にあり、過去帖は重要文化財として当山に所蔵されている。
これらの史実は、太平記、梅松論、増鏡等に詳しく記載されており、殊に吉川英治先生の私本太平記によって広く衆知されている。
また、ここには番場の忠太郎地蔵尊が本堂裏にそびえる古木「一向杉」の横に立っている。
この杉は樹齢700年と言われる巨木で、開山一向上人が弘安10年11月18日に遷化され荼毘に付された跡に植えられた杉といわれ、高さ30メートル樹の周囲5メートルを越える大木であり、平成14年に滋賀県自然環境保全条例の自然記念物に指定された。