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映画『東京家族』について

写経 30. 『レイテ戦記』 大岡昇平 (中公文庫版 上巻)から 

2013年08月15日 | 『レイテ戦記』
 “大本営海軍部はしかし、敵機動部隊健在の真実を陸軍部に通報しなかった。今日から見れば信じられないことであるが、恐らく海軍としては全国民を湧かせた戦果がいまさら零とは、どの面さげてといったところであったろう。しかしどんなにいいにくくともいわねばならぬ真実というものはある。 
 決戦が迫っていた(昭和十九年)十月十七日、アメリカの機動部隊は健在である。従って比島の飛行場、船舶は一,〇〇〇機以上の艦上機に攻撃される危険がある、ということはこの種類の真実に属していた。
 もし陸軍がこれを知っていれば、決戦場を急にレイテ島に切り替えて、小磯首相が「レイテは天王山」と絶叫するということは起こらなかったかも知れない。三個師団の決戦部隊が危険水域に海上輸送されることはなく、犠牲は十六師団と、ビサヤ、ミンダナオからの増援部隊だけですんだかも知れない。一万以上の敗兵がレイテ島に取り残されて、餓死するという事態は起こらなかったかも知れないのである。
 こういう指揮の誤りは個人の一責任ではなく、その個人を含む集団全体に帰せられねばならない、――これはフランスの歴史家マルク・ブロックの意見である。彼は陸軍大尉として一九四〇年のフランス戦線の崩壊に立ち会い、「奇妙な敗北」でその実態を分析した。(彼はレジスタンス運動に加わって銃殺されたので、戦後の出版である。)
 旧日本軍の軍事機構は天皇の名目的統帥による「無責任体質」(丸山真男)といわれるが、これは必ずしも天皇制国家の特技ではないようである。民主主義国家でも軍部という特殊集団には、いつも形骸化した官僚体系が現れる。夥しい文書化された命令、絶えず書き改められる指導要綱、「機密」「極秘」書類の洪水が迷路を形成する。外部の容喙は許されないし、また不可能である。内部の部課同士でも理解不能なのだから。セクショナリズムが生じ、競争心と嫉妬をもっていがみ合っているのである。
 勝利によって鼓舞されている間は、円滑に働くこともあるが、敗北の斜面を降りはじめると、欠陥が一度に出て来る。
 真珠湾出撃の時はあれほど厳密な電波管制を敷いた日本艦隊が、なぜミッドウェイの前にはやたらに通信を取り交して、艦隊の動きをアメリカに諜知されるようなへまをやったか。山本五十六は六ヵ月の間にばかになってしまったのか。答えは否定的なのである。戦勝におごった軍事組織の全体をひきしめることは、聯合艦隊司令長官個人の能力を越えていたのである。
 海軍は昭和十九年には、日米戦力の比が一〇対一になることを知っていたといってよいくらいまで、的確に予想していた。それなのに開戦に対して「否」といえなかった。いまさら軍備が不十分だ、とは天皇と国民の前でいえなかったからだといわれる。しかしこれは軍令部総長の自尊心と気の弱さにだけ帰することは出来ない。日本海軍全体がそういう合理的な動きが出来ないほど老朽化していたのである。サイレント・ネイヴィの沈黙の内側は空虚だったのだ。”

                           第四章 「海軍」



 “フィリピンのゲリラの歴史は、原住民のよそ者襲撃としてなら、一五二一年にマゼランを殺したマクタン島の酋長にまで遡らなければならない。支配者に対する反抗という観点からすれば、一八九六年スペイン人に対して蜂起したボニフォシアである。一八九八年アメリカが、反乱の拡大によって、実質的にフィリピンの支配者ではなくなっていたスペインと不当な取引をして、新しい主人となってから、反乱は三年続いた。アメリカの歴史は米西戦争に続く鎮圧段階として略述するだけだが、フィリピンの歴史家は米比戦争と呼んでいる。それはアメリカが十二万六千の大軍を送って、三年余かかった鎮圧であった。そしてレイテはアギナルド将軍が降伏した後も長く抵抗を続けた島であった。最後の武力抵抗が終るのは、サマール島南方で一九〇七年のことである。”

                           第二章 「ゲリラ」



 “私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一のことだからである。”
 
                           第五章 「陸軍」

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