“君は走る。汗まみれになつて駆ける。走ると言つても前後左右にぎつしりゐる連中も懸命に駆けてゐる。大人も子供も老人も何か叫びながら。君は彼らの動きに邪魔され、それでも必死になつて、駅の構内をゆく。汗がしたたる。何しろ八月十五日だから、朝と言つても残暑がきびしい。君は手ぶらだが、背には汚れたリュックサックが一つあつて、荷物がぎつしり詰つてゐる。その重さに堪へながら君は小走りに進み、跳ねるやうにして階段を駆けのぼる。君は長いプラットフォームをばたばたと疾走する。階段に近い車輛はみな満員だ。機関車の次の、先頭の車輛まで汗まみれになつて駆け通しに駆け、端の座席に腰をおろす。君は運がいい。この時節、列車に乗つて腰かけられるなんて、滅多にないことだ。”
『茶色い戦争ありました』 丸谷才一 「文藝春秋 2012.12月特別号」
『すばる歌仙』 「こんにやくの巻」 丸谷才一 大岡信 岡野弘彦 (集英社)
こんにやくが恋しくなりぬ天高し 玩亭
昼寝をさます百舌のさへづり 乙三
雲厚く待ちかね顔に月照つて 信
赤絵染付まよふ杯 玩
仕分けては親の道具をうりはらひ 乙
あすは何時に発つか訊きあふ 信
階段の近くで乗ればグリーン車 玩
富士が見えぬと怒る外人 乙
霊山も塵芥置場(ゴミタメ)と化す登山道 信
新緑のなか風紀みださむ 玩
干草に忍ぶ睦言こそばゆき 乙
グアム旅行の旅費ねだられる 信
貰ひぷり横綱なみにあつさりと 玩
ちやんこの鍋もゐのししの肉 乙
店出れば花札の月われを待つ 信
背中で見得をするは児来也(ジライヤ) 玩
土に散つてなほすがすがし路地の花 乙
細き雨浴び立つ孕み鹿 信
知らぬしらぬ春のゆくへも汝(ナ)が齢(トシ)も 玩
一座にぎはふ孫の秘めごと 乙
屈託のない子と言はれ辞書を引き 信
汨羅(ベキラ)に身投げした人を識る 玩
はばからず軍歌ながして九段坂 乙
唱へた日なし教育勅語 信
金次郎は弟ならむ金太郎の 玩
足柄山を降りて沙汰なき 乙
蕭々とひとすぢ道の葛に雨 信
あれは熟柿の落ちる音なり 玩
ビンラディンも洞(ホラ)いでて来よ月こよひ 乙
ほーっほーっと梟のこゑ 信
穴馬に朱線を引いて権(ゴン)の禰宜(ネギ) 玩
白衣(ビヤクエ)の襟のよごれ気にする 乙
仲人はきまり文句が祝ひなり 信
永き日かけて手入れせし髭 玩
迷い子もうつとりと立つ花ふぶき 乙
いづち行かめと霞む浮世や 信
興
り
ゆ
く
日
本
に
生
き
て
百も
世も
よ
ま
で
齢
た
も
た
む
。
心
た
ゆ
む
な
山幸彦たどりてゆきし洋(わた)なかの 潮の遠鳴り 胸をゆりくる
七色の螺鈿(らでん)の湯ぶね。わたつみの姫の湯あみの 黒髪なびく
ましぐらに暗闇坂を駆けくだり 蓮華花田の土に 身を臥す
君が若き命のはてを見とどけし 千年(ちとせ)の公孫樹(いちやう) いまよみがへる
海やまをかけて誓ひしひたごころ 征夷大将軍の歌 いさぎよし
うなばらの遠(をち)の父島 母の島 沖の小島の 恋しかりけり (実朝 補遺4)
(以上7首) 『美しく愛しき日本』 岡野弘彦 (角川書店)
現(うつつ)とも 夢とも知らぬ 世にしあれば ありとてありと頼むべき身か (鎌倉右大臣)