J1昇格を決めた直後のyahooに掲載された記事です。転載します。
岡山のJ1昇格が我々に教えるもの 成功を支えたカルチャーと「30年計画」
➡https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/2024120800001-spnavi
大島和人 2024年12月8日 10:45
※以下、引用です。
新幹線の改札を出る瞬間から、岡山の街は「スタジアム」の空気だった。駅員や売店スタッフがファジアーノレッドの法被を身にまとい、構内は選手の旗がはためいている。張り出されたポスターには「全員で勝つ」の5文字が強調されていた。このクラブが地域に根づいた、特別な存在であることが否応なしに伝わるビジュアルだった。
「5度目の挑戦」が実った木山監督
しかしファジアーノは特定の企業に依存せず、一人ひとりのサポーターや地域の企業が薄く広く支える「市民クラブ」だ。決勝の先発11名のうち8名はJ1のリーグ戦未出場で、お金で人材を集めている気配はない。全員が献身的にボールを追い、タフに競り合う――。それがファジアーノの質実剛健なフットボールだ。
J2は2位以内が自動昇格で、3位から6位のクラブが1枠を懸けたプレーオフに臨む。準決勝、決勝ともスコアが90分で同点だと「リーグ戦の上位」が勝ち上がるレギュレーションだ。5位・岡山は6位・仙台に対してアドバンテージを持っていた。
さらに岡山は20分に末吉塁が左サイドからループシュートを沈め「実質2点差」の余裕が生まれる。
仙台は後半開始と同時にオナイウ情滋を投入し、右サイドの「ウイングバックの背後」を突く狙いから試合の流れを引き戻す。岡山はこの悪い流れを耐えると、60分に191センチの大型FWルカオを投入して反攻に出る。61分にはルカオの突破から本山遥のダメ押しゴールが生まれ、岡山は2-0で勝ち切った。
木山隆之監督にとっては5度目のJ1昇格プレーオフで、初の突破だった。彼は水戸ホーリーホックを皮切りにジェフ千葉、愛媛FC、モンテディオ山形、ベガルタ仙台、そして岡山と6クラブの監督経験がある。一方で決勝敗退2度(2012年/19年)、準決勝敗退2度(2015年/22年)という戦績から、悲運の気配が漂っていた。
彼は12年も漂っていた暗雲を振り払った。
「跳ね返されるたび、自分自身だけでなく、様々なものが大きく変わります。自分のことより、周りの人たちをハッピーにできなかったという思いが強いです。でもそれを何とか覆していこうと思いながら、岡山で指揮を執り始めています。ジェフで(2012年に)初めてプレーオフに行ったときは、自分自身の未熟さを感じました。(2016年に)愛媛でプレーオフへ行ったときは、クラブ規模を考えればそれ自体が快挙だったと思います。一概に4回負けたから4回ダメだったわけでなく、色んな思いを持ちながらやった10年でした。確実に言えるのは、そういった経験が着実に自分自身を強く大きくしてくれたことです」
監督、選手が語るファジアーノのカルチャー
本山遥は身体を張ったプレーでもチームを助けた 【(C)J.LEAGUE】
決勝は途中出場でピッチに入った神谷優太にも負の記憶があった。彼は清水エスパルスの選手として、昨年のJ1昇格プレーオフ決勝で悔しい思いをしている。清水は後半アディショナルタイムに東京ヴェルディの「勝ち越しPK」を喫して昇格を逃したが、PKにつながるボールロストは彼のプレーだった。
神谷は試合後にこう口にしていた。
「岡山に来たときから、本当に『このチームをJ1に上げる』という気持ちだけでした。(悔しさは)それでしか解消できません。だから今日はそれができて本当によかったです」
2点目を決めてこの試合のヒーローになった本山は大卒3年目だが、やはり悔しさを糧にしてきた。今季は様々なポジションを転々とし、ベンチ外が続いた時期もある。しかし最後は右ウイングバックとしてチームに取って欠かせない存在になった。
本山は中高とヴィッセル神戸のアカデミーでプレーしていたが、古巣に対しては反骨心を隠さない。
「自分にオファーをくれなかったクラブでもあるので、その悔しさをプロになってから忘れたことはありません」
在籍経験のある選手が揃って口にするのがファジアーノの「真面目さ」だ。木山監督はそれをこう表現する。
「大げさな言い方かもしれないですけど、もう間違いなくチームのために全員が本当にすべてを投げ打って仕事をしています。クラブに入ってきたときにそのような空気を感じて、そうなっていくのだと思います。それはもう間違いなく、我々のクラブの大きな財産です。献身性は失ってはいけない、武器にしていかなければいけない、最も大きなことです」
今季途中に加入した神谷はこう口にする。
「真面目なのがすべてプラスに行っていて、マイナスな真面目さがありません。選手同士が話し合うときも、みんな『聞く耳』と『話す意思』の2つを持っている。そういうところはここに入ってすごく感じます」
本山はこう振り返る。
「ウイングバックで試合に出るようになって、ある練習のあとに、嵯峨理久選手が『ハル(本山)は悔しい思いをしていたけど、今こうやって試合に出ている姿を見てパワーをもらっている』と言ってくれました。嵯峨選手だけでなく全員の『チームのためにやる』というエネルギーが強くて、出るからにはやるしかないと本当に毎試合思わされています」
献身性は強制で引き出せるものではない。しかしファジアーノは自然と全員がすべてを投げ打つ、挫けずに努力を続けるカルチャーが備わっている。
木村オーナーが作り上げたもの
試合後に喜びを分かち合う木村オーナー(左)と木山監督 【(C)J.LEAGUE】
2006年当時のファジアーノは「中国サッカーリーグ(CSL)」に所属していて、まずJFL(当時は3部相当)昇格が大きな目標だった。同年のCSLを制して地域リーグ決勝大会(現・全国地域サッカーチャンピオンズリーグ)に進出するも、決勝ラウンド3位で昇格に届かなかった。
「当時はみんな岡山の子で、アマチュアの選手でした。『俺がお金を集めてくるから、プロ化に踏み込む』と言ったら、選手25人のうち19人が退団したんです。自分が来たばかりに、彼らのプレーする場を奪ったことは事実です。そのときは本当に辛かったし、今も夢に出てきます。ただ彼らが自慢できるようなクラブを作るのが、自分にできる唯一のことでした。今日は彼らも観戦に来てくれて、一緒に喜び合えて良かったです」(木村オーナー)
当時はライブドア事件、村上ファンド事件で社会が騒然としていた時期。六本木ヒルズのオフィスで仕事をしていた木村オーナーにもその「風評被害」が及び、営業面で苦戦した時期もあったという。しかしクラブは踏みとどまり、2007年にJFL、翌年にはJ2への昇格を決めた。
岡山は兵庫県、広島県に東西を挟まれている。兵庫にはタイガースとヴィッセルがあり、広島にはカープとサンフレッチェがある。一方で岡山はファジアーノが誕生するまでプロ野球、J1どころかプロスポーツさえない土地だった。
「僕は『何も無くていいですか? スポーツチームがなくてもいいですか?』と問いたくて、岡山に帰ってきました。チームが必要だと色んな方が認めてくださって、今はこういう景色になっています」(木村オーナー)
シティライトスタジアムの記者席はすぐ左にVIPエリアがあり、岡山の政財界要人と思しき方々が「ノリノリ」で試合を楽しんでいた。昇格が決まると木村オーナーは古参のサポーターからスーツ姿の紳士まで、様々な方々と抱き合い、喜びを分かち合っていた。それは木村オーナーとクラブが18年かけて積み上げた人の「縁」と「絆」だろう。
「30年計画」の実現に向けて
木村オーナーは次の夢に向かう 【(C)J.LEAGUE】
ファジアーノは岡山という土地に深く根ざし、すでに「なくてはならない」存在となっている。もっともJ1昇格がクラブのゴールではない。木村社長は2006年の会社設立時に、このような「30年計画」を立てていた。
「『3年でJリーグ昇格、7年で練習拠点、10年で1万人、15年でJ1に昇格、20年でフットボールスタジアム、25年でACL出場、30年で(サッカー以外も含めた)すべてのスクールを作る』という30年計画でやっています。2006年は役員が5人で、社員は2人しかいなかったんですけど、役員合宿を3回して決めた計画です」
J2昇格は2009年、政田サッカー場の開場は2013年で、まさに計画通りだった。J1昇格は予定より3年遅れの18年目に実現した。次のステップは「フットボールスタジアム」「ACL(AFLチャンピオンズリーグ)」だが、J1昇格と同等以上に高いハードルになる。
J1昇格プレーオフは満員で、約1万5000人収容のスタジアムの外には仙台サポーターも含めて「チケット難民」があふれた状態だった。相手がJ1のビッグクラブとなれば、このキャパシティでは不足だ。またクラブの経営規模はJ2でも「中の中」「中の下」で、決してビッグクラブではない。20億円弱の年間予算はJ1定着を目指すなら、どう考えても心もとない。
J1昇格は成長に向けたチャンスだが、同時に試練でもある。一方で「何があっても屈せず、全力を尽くすカルチャー」をピッチ内外で彼らは持っている。
木村オーナーは言う。
「明日からは『お金がない』とまた地元のメディアで言い続けます。新潟は2003年11月23日に、4万人のビッグスワンでJ1昇格を決めました。でもウチは15000人しか目撃者がいなかった。お金とスタジアムは絶対に必要です。明日からもう休む暇なく、私も営業をしまくろうと思っています」
岡山の成果は、地方の市民クラブでも夢が見られるという証明だ。一方で「ここまでやらないとゼロからJ1まで届かない」という教訓も我々に教えてくれる。
ストーリーの続きが、今から楽しみだ。
かなり無理を続けながら辿り着いたJ1ですが、何とかJ2を16年かけてトップリーグに届いたことを素直に嬉しく思います。ファジがJ2で費やした年月はサガン鳥栖の13年を上回って、史上最も遅いJ1昇格になりました。
J1に挑むことへの実感は中々湧かないというのも事実です。それは不安とも恐れとも言えそうですが、それ以上に期待もかなりあります。初めて見るJ1の景色がどのようなものか? 岡山がJ1クラブの試合を開催するのに相応しい場所となる為にもクラブと共に街も人も成長しないといけません。大都会「岡山」と揶揄され、馬鹿にされている内は岡山が更に発展することはないのではないかと感じています。
J1昇格はゴールではなくスタートです。スタート地点にやっと立った段階で今後のことを心配するよりも、新たな戦いの場に踏み出す喜びとサッカーを楽しむ文化を創造する為にまだまだ頑張らないといけません。
開幕に向けてクラブがどのような動きを見せるのか?
注目しながらこのオフを過ごします。
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