もし、「20歳に戻れたら何がしたいですか?」と問われたら、即座に「大学生に戻りたい」と答えます。
「千里山上白亜の殿堂」 長い人生の中で最も光り輝いた時間だったと思う、関大での4年間でした。
今、母校を訪れても当時の建物はほとんど残っていませんが、その場所に立っただけであの時の気持ちを思い出します。
尚、表題には応援歌の歌詞を借用しました。ご容赦ください。
関大初の女子学生に特別卒業証書「生きていたら入学し直すかも」
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/AST2W2HMPT2WPTIL00NM.html?_gl=1*1s3onkv*_ga*NzcwMTc4NjE2LjE2NzA1NzA2Mjg.*_ga_XJ5END643J*MTc0MDcyODMxNi4zMDAuMS4xNzQwNzI4NDcxLjYwLjAuMA..
以下に引用します。
関西大学(吹田市)で初めての女子学生で、戦前、ジャーナリストとして活躍した故・北村兼子さんに対し、同大学は27日、特別卒業証書を贈呈した。おいの北村高さんが同大千里山キャンパスで受け取った。
関大が特別卒業証書を贈呈するのは、今回で5人目。終戦後、戦地から復学できなかった留学生ら4人の男子学生に贈られてきたが、女子学生は初めて。
北村さんは1923(大正12)年、関大法学部法律学科に入学した。当時、女性は大学への正規入学が許されず、聴講生という立場で学んだ。
入学から2年後、在学中のまま大阪朝日新聞の社会部記者に採用され、福岡や神戸の歓楽街で働きながらの潜入取材などで注目された。
当時は働く女性への差別意識が強く、複数の男性と関係があるなどとするゴシップ記事が出回ったが、北村さんは自身の著作などで反論した。1927年に朝日新聞退社後は国際ジャーナリストとして活躍。女性参政権の実現に向けた活動も続け、国際会議にも日本代表として参加した。
道中で航空機に魅せられ、1930年、立川の日本飛行学校に入学し、翌年7月には飛行士の免許を取得した。8月に自ら操縦して渡欧する予定だったが、腹膜炎のため27歳で亡くなった。
関大が大学昇格100年を迎えた2022年、ちょうど北村さんが聴講生として入学した年から100年目だったこともあり、「志の高さを賞したい」といった声が校友会からあがった。
高さんは「恐れ多いこと」と何度か辞退してきた。しかし、その後も北村さんの話題は尽きず、「後輩の励みになる」と言葉をかけられ、受けることを決めたという。
高橋智幸学長から特別卒業証書を受け取った高さんは「兼子も喜んでいると思います。でももし生きていたら、これを受け取らずに改めて大学に入学し直すような気もします」と思いを巡らせた。
高さんは、祖母や母から兼子さんについて「自分のやりたいことを目標にかかげ、突き進んだ人」と聞いて育ったといい、「好きなことに打ち込める恵まれた家庭環境だったことも大きいが、男性社会の中で懸命に生き抜いた兼子の生き方を知ることが、誰かの力になることがあればうれしい」と話した。(佐藤慈子)
何事においても外圧に屈しないのが関大の姿勢でした。「自治」という言葉が常に出てくる、伝統的なバンカラ気質も今に引き継がれていると思います。
そんな大学でも当時は女性の正規入学が認められなかったというのは、「虎に翼」の頃よりも前だったことを考えたら残念ながら仕方のないことなのかも知れません。彼女は聴講生であり、新聞記者との二足の草鞋を履いていたにも関わらず、卒業に必要なすべての単位を取得していたそうです。つまり、大学を中退したもののその後の活躍が顕著であったとして「名誉卒業生」と認められた方々よりも、卒業証書を受け取るに相応しい方であったと感じます。
自らを振り返った時、決して優秀な学生でもなく、何かを見つけ突き詰めて何かを成し遂げた訳でもない、そんな平凡な学生時代ではありましたが、何物にも代えがたい大事な時間であったと回想します。それが関大という素晴らしい大学とともに歩めたことは大事な宝物と思います。
3月を迎え、各学校でも卒業の季節がやって来ました。人生のひとつの区切りを迎える皆さん、おめでとうございます。これからの人生は「山あり谷あり」。幾多の苦難が立ちはだかるでしょうが、それにも増して歓喜の時間も多く訪れるでしょう。できることならそれらを楽しんで、日々の糧にしていただけたら嬉しく思います。
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