
実はいくつもの謎が隠されている『百人一首』。日本文学研究者で東京大学大学院人文社会系研究科教授の渡部泰明さんに奥深い『百人一首』の和歌についてご案内いただきます。今回は日本史上最大級の女性歌人ともいえる和泉式部の歌がテーマです。

情熱的で有名な一首ですが、実は別の解釈もできます
今回は、『百人一首』に登場する歌人の二人目として、和泉式部を取り上げます。和泉式部の『百人一首』の歌は次の一首になりますが、有名な歌です。
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
和泉式部といえば平安時代、その中でも王朝文化最盛期を支えた女流文学者です。紫式部、清少納言たちと同世代で、宮中を中心に日本の貴族文化が最盛期を迎えた時代。そこで活躍した歌人であり平安時代最大の女流歌人、あるいは歴史上現れた女性歌人の中でも最大級であると言って構わないだろうと思います。その和泉式部の歌として、この歌が入っているのです。 勅撰和歌集の『後拾遺和歌集』に入っているこの歌は、『百人一首』の歌の中でも一番情熱的だと思います。多くの人の共感を呼ぶと同時に、実は解釈にかなりの議論の余地があります。
代表的なものは、『新日本古典文学大系』(岩波書店から出ている古典の注釈叢書)の中の『後拾遺和歌集』の注釈で、
「私はこのまま死んでしまうでしょう。来世の思い出としてもう一度あなたにお会いしとうございます」という解釈。
確かにそういう解釈も可能ですが、注目するのは上の句です。「思ひ出に」という言葉は非常に屈折した意味を幾重にもはらんでいる。つまり、この言葉には和泉式部があの世に行ってしまうため、この世に残される男が彼女を思い出すという意味も含まれていると考えられます。

今までの訳は、これでいいのだろうかと私はずっと納得できなかったのです。そこで次の訳を提出してみました。これは多分、私流の風変わりな訳だろうと思っているのですが、もしかしたら誰かもう既にこのような訳をしているのかもしれません。
「私がこの世からいなくなったら、あの世での思い出のよすがとなるよう、またこの世で私を思い出してもらえるよう、もう一度会いたい」
このような解釈の根拠として、渡部氏は和泉式部が恋人とやりとりした数々の贈答歌を取り上げます。
和泉式部には、死の世界と生の世界を自在に行き来する能力がある!
「我にたれあはれをかけん思ひ出のなからん後ぞかなしかりける」という歌では、死後、この世の相手に忘れ去られていく悲しさが詠まれています。
野辺送りの歌「たちのぼるけぶりにつけて思ふかないつまたわれを人のかく見ん」では、死者を見て自分の死後に思いを巡らせています。 こういう死の世界と生の世界を行ったり来たりできる能力が、和泉式部という歌人の最大の特徴だろうと思います。 こういう能力は、紫式部なども持っていました。
ただ紫式部の場合は歌でそれを発揮するというよりは、源氏物語という大傑作の中で、です。そこで、死の世界を行ったり来たりするような、あるいは六条御息所のように生霊(いきすだま)になったりということをし、紫式部は散文としてそれをやりましたけれど、和泉式部は和歌の世界で発揮したのです。 百人一首の歌もあの世からこの世を思っているだけでなく、現世に残される男の心情も含んだ、非常に物語性に富んだ歌といえます。藤原定家が百人一首の歌として選んだ理由もそこにあるのではないでしょうか。
これからもよろしくお願いいたします。