名古屋城の東、名古屋・熱田台地の北詰めの処(東区白壁)金城中学の校舎に「長久寺貝塚」の立て札があった。
縄文時代中期(凡そ5000位前か)の物で今は遺跡は無いが、あさり、カキ、潮吹き、など180センチもの堆積であったそうだ。
当時、名古屋台地の周り西北に、沖の島(七宝町か)、枇杷島、一宮、津島、長島、を島と残し岐阜市近くまで「伊勢湾」入り込んでいたと思い過っての海原であったところを望んだスケッチです。
名古屋城の東、名古屋・熱田台地の北詰めの処(東区白壁)金城中学の校舎に「長久寺貝塚」の立て札があった。
縄文時代中期(凡そ5000位前か)の物で今は遺跡は無いが、あさり、カキ、潮吹き、など180センチもの堆積であったそうだ。
当時、名古屋台地の周り西北に、沖の島(七宝町か)、枇杷島、一宮、津島、長島、を島と残し岐阜市近くまで「伊勢湾」入り込んでいたと思い過っての海原であったところを望んだスケッチです。