鎌倉台から愛知用水を越え東に細い林を抜けると「濁池」の池畔に突然「藤田保健衛生大学」の建物群があらわれる。
此処の東にある駐車場からが「二村山」への山道へと続く、今川と織田の戦いが此処「田楽ヶ窪」であったとも一説にある。
鎌倉台から愛知用水を越え東に細い林を抜けると「濁池」の池畔に突然「藤田保健衛生大学」の建物群があらわれる。
此処の東にある駐車場からが「二村山」への山道へと続く、今川と織田の戦いが此処「田楽ヶ窪」であったとも一説にある。
鎌倉街道も住宅地を抜け、豊明市の境を進んでやがて田楽ヶ窪に行き当たる下り坂です、なんとなく古道の感じもあるところです。
前回は、ちょっと白壁で道草をしましたが「鎌倉街道」の続きです。
鎌倉中学正門にこの街道に因み、鎌倉台の名にした立て札を後に坂を登り切った町内を豊明市の境に来た処です、街道の面影は全くなく瀟洒な家々がならぶ高台の街並みです。
名古屋城の東、名古屋・熱田台地の北詰めの処(東区白壁)金城中学の校舎に「長久寺貝塚」の立て札があった。
縄文時代中期(凡そ5000位前か)の物で今は遺跡は無いが、あさり、カキ、潮吹き、など180センチもの堆積であったそうだ。
当時、名古屋台地の周り西北に、沖の島(七宝町か)、枇杷島、一宮、津島、長島、を島と残し岐阜市近くまで「伊勢湾」入り込んでいたと思い過っての海原であったところを望んだスケッチです。
緑区の鎌倉台です、古の鎌倉街道があった事に因み町名がつけられたとの由。
やがて豊明の二村に至る町内の坂みちを上がっている途中、西を望んで坂を見下ろしたところです、当時は鳴海の先に直ぐ海を見られたかもしれません。