古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「郭務悰」の来倭と「薩夜麻」の帰国

2018年04月02日 | 古代史

 『書紀』には「天智十年」に「薩夜麻」の帰国記事があります。

「(天智)十年(六七一年)十一月甲午朔癸卯条」「對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩夜麻。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。」

 この時の「郭務悰」達使節の構成を見てみますと、「唐使」が「六百人」、「送使」として「沙宅孫登」率いる「百済人」が「千四百人」とされており、併せて二千余人が四十七隻に分乗してきており、これは(概数ですが)一隻あたり平均四十四人ほどとなります。
 この乗船数から考えて、この「船」は「軍艦」であり、乗船している「唐使」とされる「郭務悰」以下「六百名」や、「佐宅孫登」以下「千四百名」という「百済送使」は基本的には「戦闘員」と考えるべきでしょう。単なる「使者」と「送使」の随員としては人数があまりに多すぎます。

 中国の例では「和平工作」のために使節を派遣する場合でも多くて十数人が普通であり、将軍など「軍事関係者」がその中にいたとしても数百人という例はなく、その意味ではこの「倭国」への使者は(これを「使者」とするなら)「希有」な例であると言えます。
 将軍以下軍事関係者が使者に付随するのは戦闘地域に対する和平工作の場合であり、そのことはこの「唐使」と「送使」が共に単なる使者ではないことを意味するものです。少なくとも、この時の「唐船」は戦闘行為を想定し、あるいは準備して、操縦要員や外交使節的人員とは別にかなり多数の「戦闘要員」も乗り組ませていたものと推定されます。
 このように「唐」など「外国船」(というより「敵国船」)が直接「博多湾」に進入しようとすれば「首都防衛」軍が発動され「攻撃」を仕掛けるのは明らかですから、当然「対馬」に到着した時点で事前に警告したわけですが、それでもなお戦闘になる可能性はあるわけであり、あるていど「反撃」可能な戦闘員を乗船させているのはある意味当然とは思われます。つまりこの大量の軍事要員が乗り組んでいる船が単なる「平和使節」などではないのは明らかと考えられます。しかしそう考えると、この大量の軍人の存在が何を意味しているのかがやや曖昧となります。つまり「郭務悰」や「百済禰軍」などの護衛なのかというと、そうではないと思われます。最も考えられるのは彼らを伴って帰国した「薩夜麻」と関連させて考えなければならないというものです。つまり「唐使」と「送使」が各々率いていた多量の人員は「薩夜麻」の護衛のためであって、彼が倭国と唐国双方にとって最重要人物であった証明といえます。
 このような例は「百済典支王」の即位の際に、「質」として「倭国」にいた「典支王子」に護衛数百人をつけて「百済」へ送り、即位させたという記事や、「扶余豊」を「阿曇比羅夫」が護衛して「百済王」として即位させたという記事とよく似ており、いずれも本国に危急があり、王位が空白となったために「質」あるいは「捕虜」となっていた人物を「王」として帰国させたという点が共通しています。これらを彷彿とさせるものでもあります。

 そもそも「二千人」に上る数の人員がこの時点で「和平」交渉のため来倭したとすると、それ以前にすでに「劉徳髙」らによって和平交渉が行われていたこと、「百済禰軍」の墓誌を見てもすでに六六五年段階で交渉は妥結していると思われることと矛盾します。
 彼らの「来倭」の目的は、一つには「捕囚」となっていた「倭国王」である「薩夜麻」の帰国であり、さらにその「薩夜麻」が安定して「倭国王」に復帰できるように協力することもあったのではないでしょうか。
 「唐」としては「百済」「高句麗」は滅亡させたものの、それらとの戦いで明らかになったように「倭国」が常に背後にいることを意識せざるを得なくなったものと思われます。彼等は「倭国」が今後「反唐」的立場に立って欲しくないと考えたものと思われ、「帰順」した「薩夜麻」との関係を基調とした「戦後体制」を確立したいと考えたであろうことが推察され、その「薩夜麻」が帰国後「不安定」な政治的状態になることは「唐」としては避けなければならないことと考えたものと思われます。このため、「使者」という名目で「戦闘要員」を乗船させ、「倭国」と「薩夜麻」に対し「威嚇」により「軍事的圧力」を加えると共に、場合によっては「薩夜麻」に対して「軍事支援」を実行できる体制を作っていたものではないかと思われるわけです。

 「唐」や「百済」の関係者(百済都督府関係者)が危惧していたのは、「薩夜麻」が捕囚の間に倭国内に政変が起こり、「反唐」「反薩夜麻」勢力が伸長し、それらの勢力が「薩夜麻」に対して反旗を翻し「倭国」の主導権を握るという状況であり、それが現実となったために帰国にあたって軍事支援を行う必要が出てきたと言うことではないかと推察されるわけです。
 つまり「薩夜麻」帰国に当たり、「天智」はともかく彼の後継たる「近江朝廷」(大友皇子)が意に従わなかったため、「薩夜麻」と「唐・百済連合軍」は共同して「反対勢力」の制圧に当たらざるを得なくなったものと思われます。「天智」を退位させたことにより「日本国」は消滅した形となっているものの「残党」ともいうべき「近江朝廷」勢力がまだその力を持ち続けていたものでしょう。「薩夜麻」を擁してそれに対抗するためには「威嚇」と「武力」の両面作戦を実行する必要があったものであり、「唐」がバックについたことで「薩夜麻」を支持する勢力の増強が可能となったものと思われるわけです。
 「倭国王権」にとっては「負けた」とか「捕虜となった」あるいは「唐」の援助によって「統治権」を回復した、などと言うことを明らかにはしたくなかったものと推察され、史書の編纂の際にもそれが強く反映した結果、「脱落」や「隠蔽」あるいは「年次移動」など、記事の操作をしているものと推量します。
 この争いに関与していたと思われる「郭務悰」率いる「唐軍」は『書紀』では「六七二年」に帰国しており、その後「壬申の乱」となりますが、実際にはその間に「空白の一年間」があり、そこで「壬申の乱」が起きたものと思われます。つまり「郭務悰帰国」は「乱」の後の話であり、その結果としての「褒賞」が「郭務悰」達に対する大量の下賜品として『書紀』に書かれていると思われます。

「(天武)元年(六七二年)夏五月辛卯朔壬寅条」「以甲冑。弓矢賜郭務悰等。是日。賜郭務悰等物。總合絁(ふとぎぬ)一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。」

 この「下賜」の内容を見ると、かなり大量の物品が「郭務悰」に贈られているのがわかります。たとえば、「一匹」が「二反」、「一反」がおよそ「一着分」とすると上記「下賜品」は「絁」(余り上質でないとされる絹製品)が「約三千二百人分」、「布」(綿布)が「二千八百五十二人分」、「綿」が「六百六十六人分」となります。
 これは筑紫に送られてきた「唐使」と「百済送使」の人数に対応していると見られ、駐留していた「両軍」に対する「衣料支給」という形での「補償」と考えられます。ここに書かれた数字から「百済軍」の総数は(記事中では「千四百人」となっていますが)実際には「千四百二十六人」(彼らに二着分ずつ)、「唐使」(唐軍)は同様に「六百人」ではなく「六百六十六人」(彼らに一着分ずつ)と推計できるものです。
 また「絁」の「千六百七十三匹」というものは「唐使」と見られる「六百六十六人」に対して一人「五反」という割り当てであったとするとほぼ整合した値となります。(その前段の「甲冑・弓矢」などの「下賜」についても同じように駐留唐軍に対する「褒賞」であると思われます。)
 またこの数字から彼らの総数は二〇九二人であり、それが四十七隻に分譲していたこととなるでしょう。

 また、この時の「百済送使」が「唐使」達に先んじて帰国していたという議論もあるようですが、慣例では送使は「対馬」までであり、そこで「倭国」の案内人に引き継いだものでした。逆に帰りは「対馬」まで「倭国」の送使が伴い、対馬以降は(来るときに「新羅」を経由していた場合は)「新羅」の使者が「対馬」で待機しており、これに引き渡す形でバトンタッチしていたものです。その意味で「沙宅孫登以下千四百人」がもし仮に「送使」であるなら彼等は「対馬」以降は来なかったこととなります。しかし上に見たようにこれがほぼ「戦闘要員」であったとすると、「薩夜麻」や「郭務宋」の「倭国滞在中」は同行していたものと思われ、当然「対馬」までではなく「筑紫」まで来ていたものと見られ(ただし「博多湾」へ直接ではなく『倭人伝』の時の「魏使」のように「松浦」側へ案内されたものと見られます)、「郭務悰」「薩夜麻」等の「要人」の警護に当たるとともに、「近江朝廷」との間の戦闘に補助勢力として参加していたという可能性が高いと推量します。
 (この時の「日本国」と「唐」の関係については別途検討します。)


(この項の作成日 2011/03/11、最終更新 2016/09/25)(ホームページに掲載したものに加筆)

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