以下は以前投稿した記事を改定したものです。内容としては大きくは変わりありませんが、現時点で再考したものとなります。
すでに触れたように中国の「清」の時の書物に『歴代建元考』というものがあり、その中には以下のようにある事を示しました。
「持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后因主 國事始更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和」
つまり、「日本」と国号を変更したのは「持統天皇」である、というわけです。また、この記事では「国号変更」の時期としては「朱鳥改元」に僅かに遅れると書かれているようです。つまり「持統」に至って「国号」が変更される以前に(天武段階で)改元されたものが「朱鳥」(但し訓読みで「あかみとり」)であるというわけです。
しかし、そもそも国号変更が「王権交替」を伴わないとすると異例のことと思われ、当然「権力」が移動したものと推定されますが、さらに「国号」変更が「年号」の変更を伴わないとすると極めて不審と思われますが、正木氏が指摘したように「王都」の移動(遷都)を伴わなかったとすると「改元」されないこととなり、その意味で「朱鳥」を継続して使用したという『歴代建元考』の記述は正しいこととなります。
また後に「太和」という年号に変更したというわけですが、この「年号」が正確かどうかと言う点を除けば、後に「藤原京」という「新都」への移動が行われたらしいことを踏まえるとその時点での改元と考えれば整合すると言えます。
さらにこの文章は「日本」という国号変更と「朱鳥」という年号変更が「若干の年次差」をもって連続していることを示しますから、「日本」という国号と「朱鳥」という年号には関係があることが示唆されます。その意味で「国号変更」は「庚寅年」の改革と同時であるとみるのが相当でしょう。
「庚寅年」という年次には「造暦」(庚寅年籍)が行われるとともに「里」など行政区分の改正が行われたことが『風土記』の解析などから明らかにされています。さらに各種の「詔」が発布され、また「浄御原令」が出されたとされます。またこのとき「遷都」という事業も含まれていたものと思われ、これらのことはこの「庚寅年」という時点がある種「画期」であったことを示すものですが、その背景としては「国号」の変更があったとみます。
「持統」は「王権」を継承した段階で「遷都」を構想したと見られ、その意味では「国号」変更はそもそも「遷都」と一対であったこととなりますから、この「王権」がそれ以前の王権と一線を画するものであるとは当然といえます。ただし「持統」王権はそれまでの「天武」の王権とは別の全くの外来のものと言うことではなかったことが示唆されます。このような流れは「隋」建国の状況に近似しているといえるでしょう。
「隋」の高祖「楊堅」は「周」(北周)の要人でしたが、表面上「北周」の「静帝」からの「禅譲」を装いながら(「開皇」という年号は「建元」ではなく「改元」と明確に書かれています)、「天命」があったと称するなど、実体としては前王朝とは異なる「王権」を確立したものであり、「周」王権の後継とは単純に考えられない性格を持っています。この状況と「持統」が「王権」の座につく過程はかなり似たものといえるのではないでしょうか。
すでに見たように『書紀』では「朱鳥」という年号と「宮」の名である「浄御原」はそれ以前からあるものを継続して使用したという意味の事が書かれています。しかし実際には「宮殿」(この場合「難波宮殿」)の火災という記事は「倭国王」に不測の事態が発生したことを示唆するものと思われますから、それ以降実質的に「持統」に権限が委譲されたことを示すと思われますが、『書紀』にもそれを推測させる記事があります。
「(朱鳥元年)秋七月己亥朔…癸丑。勅曰。天下之事不問大小。悉啓于皇后及皇太子。是日。大赦之。」
この記事が示すようにこの時点以降「持統」に「王権」が継承されたらしいことが推察されますが、「朱鳥」改元はこの記事の直後(七日後)であり、双方の事象に強い関連性を考えるべきこととなっています。つまり『歴代建元考』がいうような「天武」の時代に改元された、というのは「表面上」のことであり、実質としては「持統」の「称制」と共に始まったと見るべきこととなるでしょう。