古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「狭山池」「依網池」等との関連

2018年04月27日 | 古代史

 これら「官道」の時期を推定するのに参考となるのが「狭山池」の造成年代です。
 「狭山池」については『古事記』では「垂仁」の項に記載されていますが、「東側」の「樋」に使用されていた木部(コウヤマキ)の年輪年代測定の結果から「六一六年」という年代が得られています。

「久米伊理毘古伊佐知命 坐師木玉垣宮 治天下也
 此天皇 娶沙本毘古命之妹 佐波遲比賣命 生御子 品牟都和氣命【一柱】 又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女 氷羽州比賣命 生御子 印色之入日子命【印色二字以音】 次大帶日子淤斯呂和氣命【自淤至氣五字以音】 次大中津日子命 次倭比賣命 次若木入日子命【五柱】 又娶其氷羽州比賣命之弟 沼羽田之入毘賣命 生御子 沼帶別命 次伊賀帶日子命【二柱】 又娶其沼羽田之入日賣命之弟 阿耶美能伊理毘賣命【此女王名以音】 生御子 伊許婆夜和氣命 次阿耶美都比賣命【二柱 此二王名以音】 又娶大筒木垂根王之女 迦具夜比賣命 生御子 袁耶辨王【一柱】 又娶山代大國之淵之女 苅羽田刀辨【此二字以音】 生御子 落別王 次五十日帶日子王 次伊登志別王【伊登志三字以音】 又娶其大國之淵之女 弟苅羽田刀辨生御子 石衝別王 次石衝毘賣命 亦名布多遲能伊理毘賣命【二柱】 凡此天皇之御子等十六王【男王十三女王三】 故大帶日子淤斯呂和氣命者 治天下也【御身長一丈二寸 御脛長四尺一寸也】 次印色入日子命者作血沼池 又作『狹山池』 又作日下之高津池…」(『古事記』中巻) 

 また「狭山池」の「堤」の構造を見ると「基層部分」に「敷き枝工法」が使用されており、「筑紫」に築かれた「水城」や「難波大道」など「古代官道」の基礎構造と共通した技術が使用されていると見られます。これら発掘の検討からの推論として、この「狭山池」の規模が当初からのものであり、以前は小規模な池で、それが「七世紀初め」という時期に拡大、整備されたというような推測が成立できないことが判明しています。つまり「コウヤマキ」の年輪年代に程近い時期にその始源が考えられるものであり、このことは『垂仁記』記事には「潤色」があることが明確になったと考えなければなりません。(それは「埴輪」記事から既に明らかですが)
 それと同時に、「記紀」には「依網池」についても複数の起源が書かれていて、その最終が『推古紀』であることも重要です。それは「狭山池」と同じ性格の記事である可能性が高いことが示唆されるものであり、「狭山池」同様「推古朝期」(七世紀初め)という時代に整備された池であるという可能性が高いことを示すものではないでしょうか。

 七世紀初めに築かれたこれらの池はその形から「官道」を敷設した結果「湖沼」が「堤」によりせき止められる形で造られたものではないと考えられ、当初から「灌漑用」として造成されたと見られます。このことはこの時期に「稲作」を大規模に行うべき理由があったことが窺えるものです。最も考えられるのは「制度」として「租庸調」などの(不完全ではあるものの)税の徴収制度が作られたことを示すものです。ただし「租税制度」そのものは従前からあったとみられますが、それを「戸籍」と連動した「口分田」制度とした点が新しいものと思われます。このような強い権力の発現があったとすると、その時点で包括的な統治行為があったと見るべきですが、そのような中に、というよりその前提ともいうべき段階で「各諸国」を貫通するような「官道」というものが造られたとみるのが相当ですが、そのことはそれら「諸国」を統合するような「強大」な権力者の元で構築されたと考えるのは当然であり、またこのような「古代官道」がその「強大な権力者」の構築した「階層的行政制度」(ここでは「国郡県制」と共にあったと考えるのも不自然ではありません。なぜなら、そのような人物が「国郡県制」を施行し、「律令」を諸国の末端のまで行き渡らせようとしたと考えると、「制度」もさることながら、物理的に中央と各諸国を結びつける「道路」の存在は不可欠であったと考えられるからです。
 さらに「難波大道」につながる「大津道」「丹比道」や「飛鳥盆地」を南北に貫通する「上ツ道」等の「古代官道」の盛り土からは「七世紀初頭」と思われる「土器」が出ているなどの考古学的事実があり、それらを踏まえると(特に土器編年は盲信できませんが)これらがほぼ同時期の施工である可能性が強く、「阿毎多利思北孤」とその「太子」「利歌彌多仏利」の為した事業である可能性が強いと思われます。
 (「敷き枝工法」そのものは「壱岐」の「原の辻遺跡」から確認されるなどかなり時代を遡る年次から使用されていたと見られますから、この事だけからは時代特定はできませんが)

 また、この「官道」整備事業が『書紀』に(全く)記されていないこともまた重要です。その時期、労働力の確保と資金調達の方法、等々が一切不明となっています。この事は「評制」などと同様「八世紀」の「新日本王権」から「忌避」「隠蔽」されていると考えられることを示しています。
 このことに関して「改新の詔」の中に「駅伝」と「騨馬。傳馬。及造鈴契」が定められたと言うことが書かれています。

「其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。(中略)凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。」

 この「改新の詔」にはその「時期」と「内容」について疑いの目が向けられていますが、「改新の詔」自体は「六世紀末」から「七世紀終わり」まで「複数回」出されたものと考えられ、「阿毎多利思北孤」によって出されたものが「最初」のものであったと見られます。その中に既に上に見るような「駅伝」や「騨馬。傳馬。及造鈴契」などについての規定が定められていたと考えるのは、上で見た「考古学的史料」と整合するものであり、これが事実である可能性はかなり高いといえるでしょう。


(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2014/11/29)(ホームページ記載記事に加筆修正)

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「秦」の「馳道」と「直道」

2018年04月27日 | 古代史

 この「官道」に関連すると考えられるのが、「古代中国」の「秦」において「始皇帝」が造った「馳道」と「直道」というものです。
 「馳道」とは「国内」の諸勢力に対するものであり、「直道」は「匈奴」等の「国外勢力」に対する軍事的対応行動の為のものであったとされます。特に「馳道」は「一般人」は立ち入ることさえできない皇帝専用の道路であったものであり「戦車」も走る事ができる「軍用道路」とされていたようです。表面は「金槌」でたたき固めてあり、「戦車」など重量物が通っても「轍」などが出来にくくなっていました。(轍の幅を統一したことと表面が堅くて轍ができにくいこととは関連していると考えられています)
 また、この「馳道」は「始皇帝」が「全国巡遊」に使用したと考えられていますが、それは歴代の「倭国王」の「巡行」においてもこの「官道」が同様の意図で使用されたのではないかと推察されるものであり、その意味においても類似していると考えられます。
 「直道」はもっぱら「北方」に造らせた「万里の長城」に通じる軍用道路であり、北方からの脅威に際して「軍隊」を応援派遣する際の道路でした。そのために「最短時間」で移動する必要があり、道路もまた「直線」で構成されたのです。
 『史記』には「山を塹り、谷を堙め、直ちに之を通ず」と書かれていますが、この形容はまさしく「倭国」に造られた「古代官道」にも当てはまるものでもあります。この点においても「秦」など中国の「古代道路」と様相が似ていると言えると思われます。
 その類似は「道路幅」の規格にも及んでいる可能性があります。「秦の馳道」の幅は「五十歩」とされていますが、これは「倭国」では「短里」(一里約80メートル)で適用されたものと見られ、同じ「五十歩」とするとその値は「13メートル強」となりますが、それは「古代山陽道」などの道路幅にほぼ一致しています。

 この「秦」の「馳道」や「直道」は指定された場所以外では横断することも禁止されていたとされますが、それは大部分「古代官道」においても同様であったと見られます。それは各地の「古代官道」が「行政区分」の境界線として使用されてきたという歴史からも窺えます。例えば「難波大道」は「河内」と「和泉」の境界線であったものであり、現在でも「住吉区」と「東住吉区」との境界線であったり、「堺市」と「松原市」の境界線として使用されています。これらのことは「難波大道」の「向こう側」へは容易に行き来することができなかったことの表れであると思われます。
 さらに「筑紫」周辺では「肥前」と「筑後」の境界線として「西海道」の一部が使用されていたことが明らかとなっています。このことは「官道」の完成した時点以降その両側の往来が事実上出来なくなったことを示すものであり、その官道沿いに「筑後国府」が存在することを考えると、この時点で「肥の国」が「肥前」「肥後」に分けられ、その間に「筑後」が割り込む形となった歴史が隠されているようです。つまり「官道」の敷設時点が「境界画定」の時点であるとみられるわけです。

 後の「天平年間」に「陸奥按察使」であった「大野東人」からの奏上により「陸奥」から「出羽柵」への「官道」が造成されていますが、『続日本紀』の記事によれば五千数百の兵を用いて「陸奥国賀美郡」から「出羽国最上郡玉野(大室駅」)を経由して「比羅保許山」に至る百八十里(約百km)の新道を開いたとされています。
 この工事においても「直道」と表現され、これがほぼ「直線」道路であったことが示唆されるものであり、「沢」を生め、「山」を切り通して道路が造られたと解されます。つまり、その建設の推移は当初の「官道」の建設とほぼ同じようなことであったものと考えられるものです。

 またこの「馳道」には「漢」の時代になって「三十里」毎に「駅」が造られていたようです。「倭国」に造られた「官道」にも「駅」が造られたと見られますが(ただし「難波大道」には存在しない)、その「駅間距離」も前述したように当初は「漢代の長里」が基準となっていた可能性があるでしょう。


(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2016/08/28)(ホームページ記載記事を転記)

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「古代官道」の施工主体と時期

2018年04月27日 | 古代史

 「古代官道」はその「規格」、その「延長距離」など、どこを取ってみても高度に集権的な構造物といえるものですが、そのようなものを造る事や、これを企図して実現させる事が出来るのは、当然「統一権力者」的人物と想定しなければならず、その意味でも「倭の五王」の時代の各王、特に「武」及び、「六世紀末」の「阿毎多利思北孤」などの「倭国王」がそれに該当すると考えられるでしょう。
 一部にはこの「官道」が「天武」により作られたと言う事を考える向きもあるようですが、『書紀』の記載からは「壬申の乱」の時にこの「官道」が既に存在していると推察されるものであり、そうであれば「天武」が造らせたものでないことは明白と思われます。

「(天武)元年(六七二年)六月辛酉朔丙戌条」「旦於朝明郡迹太川邊望拜天照太神。是時。益人益到之奏曰。所置關者非山部王。石川王。是大津皇子也。便随益人參來矣。大分君惠尺。難波吉士三綱。駒田勝忍人。山邊君安摩呂。小墾田猪手。泥部胝枳。大分君稚臣。根連金身。漆部友背之輩從之。天皇大喜。將及郡家。男依乘騨來奏曰。發美濃師三千人得塞不破道。於是天皇美雄依之務。既到郡家。先遣高市皇子於不破。令監軍事。遣山背部小田。安斗連阿加布。發東海軍。又遣稚櫻部臣五百瀬。土師連馬手。發東山軍。」

 ここでは「東山道」「東海道」を経由した人員の移動を行う事を想定していると考えられ、「不破」で「道」を塞げと指示しています。この「道」は「東海道」と「東山道」の分岐点付近であり、ここを止めることで「東国」からの援軍を阻止しようとしていると考えられます。この事は「東海道」や「東山道」が大量・高速に人員と物資が移動可能であったことを暗に示していると考えられ、これら「官道」がこの時点で既に「高規格道路」であったことを示唆するものです。
 「東海道」や「東山道」から「徴発」された「兵士」が「招集」されたことも書かれていますが、それもこのような整備された「高規格道路」があったからこそであると考えられるものです。
 更に「倭京」の「留守官」とされる「高坂王」に「駅鈴」を要求しています。この「駅鈴」も「官道」を移動する際に各「駅」に繋がれている「馬」の使用に関するものであり、これが存在していると言うことは「駅路」(官道)が既に実用されていたことを示すものです。
 このように「官道」は「壬申の乱」以前から存在していたと考えるべき事を意味するものですから、「天武」の手になるものでないのは明白です。

 では「天智」が造ったのかというとそれもまた違うと思われるものです。それは「天智」の「治世期間」がこれらを構築するには「期間」が短すぎると考えられるからです。このような大規模な構造物が数年で構築できるようなものではないものは明らかであり、完成が彼の時代であったとしても、それが創建されたのはかなり遡上する時代のこととなるでしょう。
 また(後述するように)、彼は「百済を救う役」に出征した「倭国王」の隙を狙って「革命」(クーデター)を起こしたものであり、その際の戦いにも「官道」が利用されているものと思料されますから、既にその時点(六六〇年時点)で使用可能な状態となっていたと思われます。このことは完成はそれ以前を想定すべきことを意味するものです。
 そもそも「百済」をめぐる戦いで多大な人員と経費を投入し、しかもそれを相当程度失ったわけですから彼の時代にこのような「大規模」なものを構築することができるような人的、経済的余裕などなかったと考えるが妥当ではないでしょうか。

 ではそれ以前のいつかということですが、「奈良盆地」地域で最初に作られた「古代官道」がいわゆる「太子道」と呼ばれる「斜め通り」であることが判明しています。この道は、それ以前に存在した「非直線道路」(自然発生的なものも含め)の中に現れた「初めて」の「直線道路」であり、この「道路」の敷設された時期の「王権」はそれ以前とはその「質」が異なることが分かります。それは「太子道」という名称にも現れており、「聖徳太子」と関連づけて考えられているという事に中に半ば回答が隠されているといえます。つまり「阿毎多利思北孤」ないしは彼の「太子」である「利歌彌多仏利」の時代に整備された「直線道路」なのではないでしょうか。
 この「太子道」はその後の「東西南北」に敷設された「正方位道路」により寸断されることとなっていることから、「奈良盆地」に「方格地割」が敷設されることとなった時点以前のものであることが推定されますが、そのような「方格地割」が「奈良盆地」に造られるのは「藤原京」時代の事と考えるのは時期的に遅過ぎるといえるでしょう。なぜなら『書紀』の「壬申の乱」には「上ツ道」などが舞台として登場しますから、そのことと時期的に齟齬してしまいます。
 これについては、近年の調査により「前期難波宮」の周辺など「上町台地」から「河内平野」にはかなり以前から「条坊制」が施行されていた形跡が確認され、そうであれば「太子道」の寸断時期と「壬申の乱」などとの「齟齬」が解消することを示します。つまり、「藤原宮」を遥かに遡上する段階で「難波宮」の条坊などと同一規格で「直交道路」が造られたものであり、「太子道」などがそれにより「上書き」されるという事態となったらしいことが推察されるわけです。
 この「難波大道」は「官道」として最初に手がけられたものであり、それに引き続き「山陽道」及び「丹比道」「大津道」などが造られたものと推量します。それ以外の「道路」は「阿毎多利思北孤」以降の産物と考えられます。特に彼の時代に路線強化が成されたものとみられ、それは「官道」が統治強化に結びつく具体的施策を実施したことと関係していると考えられます。
 彼は「遣隋使」を派遣し、「隋」の各種制度と技術を積極的に導入したわけですが、そのような中に「道路」に関するものもあったものと思われるのです。
 「隋」には当時すでに各地に「高規格道路」が造られており、「大興城」の「宮殿」前には「幅」が百メートルもあるような広い道路が存在していました。「遣隋使」はこれらを目の当たりにしたものであり、帰国した際にはそれを子細に報告したとみるべきでしょう。(「来倭」した「裴世清」からもそのような話を聞いた可能性があります。)
 「古代官道」はまず「難波大道」が造られ、それに続き「肥前」と「肥後」を分ける「西海道」が造られ、さらに「畿内」との連絡の良さを考えて「筑紫」に「太宰府」を設け、そこから「畿内」に延びる「山陽道」が造られたと考えられる訳ですが、「筑紫」では「外国使者」の迎賓館である「鴻廬館」と「筑紫宮殿」を結ぶものを始め、各所に「網目状」に建設されていたのが確認されています。
 この「官道」は「筑紫都城」の「南端」と「北端」に二本とりつくように伸びているのが確認されており、しかも「南端」側の「官道」は「鴻廬館」にまっすぐつながっており、「外国使者」などが「宮殿」に来る際に「都城」の南端から「都城中心軸」である「朱雀大路」を北上していくコースをとることとなるように造られており、「使者」に対してある種の「威圧」効果があったものと推定されます。
 
 旧都である「肥後」との連絡のためのものなど「太宰府」から「六本」の官道が伸びているのが確認されていますが、これは「近畿」から放射状に伸びる「官道」(東山道など)が「六本」であることと共通しており、これを「太宰府」が「模倣」したものという説もありますが、当然その逆であり、その「官道」の性格から考えて、当初「肥後」そして太宰府」を通じて各方面に伸びる「軍事的計画道路」であったものと考えられます。それが「近畿」に到達した時点以降は「東国」などの「統治」のために「二次的」に延伸されたものと考えられ、それが実現するのが「難波朝廷」の時代のことと考えるべきものと推察します。

 上のように推論を裏書きするものが、『延喜式』(兵部省式諸国伝馬条)による「都」(平安京)から放射状に伸びる七幹線以外にも「官道」が存在していたことが明らかになってきていることです。その多くは地方と地方を結ぶもので「駅路」のように「都」(平安京)と地方を結ぶものではなかったものです。しかし「平安時代」に入り、地方と地方を結ぶ官道は整備(維持・管理)が行われなくなり、廃止されるようになりました。しかし、「西海道」にはその整理時点ですでに他の地方とは異なり、九州を南北に結ぶ二つの道路とそれらを東西に結ぶ支線というようないわば「九州島」を網状に結ぶ交通路ができていたものです。 つまり「全国的」に「官道」整備を遥かに遡上する時期に「九州島」の内部では「道路網」が造られていたこととならざるを得ません。このような「官道」の整備がいつ行われたか不明ですが、「平安京」以前から存在していたことわけですから、それ以前の「平城京」段階かというとそうではないと思われます。なぜなら、「平城京」から放射状に伸びる官道などはみられないからであり、またそれはそれ以前の都においても同様であって、「藤原京」「難波京」「近江京」など『書紀』に記された各種の「都」のどれからも「放射状」伸びる官道などは確認できていません。それに対し「太宰府」を中心として伸びる「幹線」がそれらの都とは無関係に存在していたことは確かであるわけですから、「都」から延びる幹線である「街道」の姿を模したものという理解には全く根拠がないこととなります。
 そもそもそのような考え方はなぜ「九州」にそのようなものがあるかについて整合的に説明できていません。従来の観点に立てばもし「九州」が重要であるとしても結局は一地方であるはずであり、それほど道路のネットワークを広げる必要性がないことは明らかです。


(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2015/07/22)(ホームページ記載記事を転記)

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古代「山陽道」について

2018年04月27日 | 古代史

 「古代官道」に関連するものとして考えられるものに、「筑紫大宰」からの「報告」という記事があります。

(一)「推古十七年(六〇九)四月丁酉朔庚子条」「筑紫太宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于肥後國葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。」

(二)「皇極二年(六四三)四月庚子廿一条」「筑紫太宰馳騨奏曰。百済國主兒翹岐弟王子共調使來。」

(三)「皇極二年(六四三)六月己卯朔辛卯十三条」「筑紫大宰馳騨奏曰。高麗遣使來朝。羣卿聞而相謂之曰。高麗自己亥年不朝而今年朝也。」

 (二)と(三)の『皇極紀』の記事では「筑紫太宰『馳騨』奏曰。」と書かれているのに対して『推古紀』では単に「筑紫太宰奏上言。」と書かれていて「違い」があるようです。
 辞書によれば「騨」とは「まだら」のある「葦毛の馬」を意味するとされていますから、『平家物語』などに登場する「連銭葦毛」(銭文が多数ある葦毛の馬)というような類の馬であったと推定されます。
 つまり『皇極紀』の記事によれば「葦毛の馬」に乗って急いできたように読み取れますが、『推古紀』ではそうとは受け取れません。このことは『皇極紀』段階では上で見た「山陽道」が完成しており、そこを通り「驛(駅)伝」(途中駅においてある馬を次々使用して急行する)として来たものと推察されるのに対して、『推古紀』段階では「駅伝制」がまだ完成しておらず「乗り換える」馬がまだ「準備」されていなかったという可能性があります。
 後の『養老令』では「外国」使者や「亡命者」などについての報告の際には「早馬」を使用するよう規定されており、それに従えばこの『推古紀』の記事にも「『馳騨』」という用語が使用されるべきですが、そうなっていないのです。これはそのような「道路」(というより「駅」)がこの段階で整備されていなかったことと、その運用に関する事もまだ決められていなかったことを示すと思われます。
 しかし、(二)の事案段階ではそのような「駅制」を含む「道路環境」も「ルール」も整備されたものと見られ、この(一)と(二)の間に「画期」となる事象があったことが推察されます。
 想定されるのは「利歌彌多仏利」の「改新」断行という時点であり、この段階で「山陽道」という「筑紫」とその「前身基地」とでも言うべき近畿(難波)を結ぶ幹線が先行して完成し、運用が開始されたものと見られます。
 つまり、「駅伝」に関するルールなども『大宝令』(養老令)で規定される「はるか以前」に、「利歌彌多仏利」段階で定められたものと考えられ、それは『推古紀』以後の「六四〇年」付近にその年次が想定されるものです。
 
 また、「六四〇年」に「命長」と改元されていますが、それに関連して「善光寺」へ使者(黒木臣)が「願文」を持って訪れています。(「善光寺文書」による)
 このこともまた「官道」の整備と関係しているのではないでしょうか。少なくとも「近畿」まで行くことはかなり容易になったと考えられ、そこからの「東山道」整備も「信州」までは「難波朝」以前の段階である程度整備が進んでいたといえるでしょう。このためこのような「使者」の訪問という「公務」も容易に成し遂げられることとなったものと思料されます。
 ちなみに、「東山道」の「延伸」(群馬まで)は、「難波朝廷」時代になってから行なわれたと考えられ、その後「壬申の乱」時代以降に「北関東」である「栃木」から「福島」程度まで延伸されたと考えられます。(「那須直韋提評督」の碑文からの解析)
 また「北方地域」である「蝦夷」に対する戦略として「東海道」の延伸が「七世紀前半」には行われていたものと推測されます。それを示すと考えられるのが「仙台市郡山遺跡」あるいは「古川市名生部館遺跡」のような「多賀城」を更に遡ることが確実な「城柵」遺跡の存在です。これらは「七世紀半ば」までその起源が遡ることが確認されていますが、これらが造られることとなった「条件」としては、「官道」の存在が大きい、というより「必須」であったと思われます。
 「官道」がその「基本的性格」として「軍事」に関わるものである事から考えても、「対蝦夷」政策の重要な部分として「官道」の「延伸」が行なわれ、そこに「城柵」と「政庁」の機能を併せ持った「出先機関」が設置されたものと考えられますが、それが「七世紀なかば」まで遡上すると言うことは「長野」辺りまではその「前段階」でできていなければならないものと思われますから、「起源」としてやはり「七世紀前半」というのはかなり確度が高いのではないでしょうか。
 また「七世紀後半」の「百済」を救う役には「蝦夷」からも兵士が徴発されていたことが「捕虜」となって長期間抑留された後に解放されたという記事が『書紀』に出てきます。この事からこの時点では「蝦夷」(この場合は福島か岩手かが不明ですが)地域に対する統治が有効であったことは確実です。
 
 ところで『書紀』では「六三二年」に「唐使」(高表仁)が来倭したとされていますが、この際「船」で「難波津」に到着したように書いてあります。

「六三二年」四年秋八月。大唐遣高表仁送三田耜共泊干對馬。是時學問僧靈雲僧旻及勝鳥養。新羅送使等從之。
冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干難波津。則遣大伴連馬養迎於江口。船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整餝。便告高表仁等曰。聞天子所命之使到干天皇朝迎之。時高表仁對曰。風寒之日。餝整船艘。以賜迎之。歡愧也。於是。令難波吉士小槻。大河内直矢伏爲導者到干舘前。乃遣伊岐史乙等。難波吉士八牛。引客等入於舘。即日給神酒。

 上で推測したように、この「訪問」以前に「筑紫都城」周辺の官道や「山陽道」などは使用可能となっていたものと考えられますが、ここでは「あえて」「船」を使用しているものと思われ、それはこの「官道」を「知られないよう」にしていたとも考えられます。つまり、一種の「軍事機密」というわけです。この「官道」が軍事的意味が大きかったものとすると、当然「海外」の使者に対しては知られないように工夫をしたものとしても不思議はありません。(倭人伝で「一大国」と「不彌国」が「家」で表記されていること同じ意味を持つものかも知れません)

 以上から、「山陽道」は「筑紫」と「近畿」(難波)を結ぶ重要な「官道」であったものであり、最優先で作られたと考えられ、「阿毎多利思北孤」段階で既に「実用」に供していたものと考えられます。
 この「山陽道」及び筑紫大宰府周辺の官道については「唯一」の「大路」とされ、格別の広さであったことが確認されていますが、その「駅間距離」も重要です。『延喜式』によれば駅間距離は「三十里」とされ、現実に各地で発掘されるものを見てみると「16km」程度の距離がある場合が確認されており、これから「一里」を計算すると「530メートル」ほどとなって、『延喜式』の時代の一里の長さと整合していることが判ります。つまり「道路」はともかく「駅」に関しては八世紀に入ってから多くが整備されたらしいことがわかります。しかし、「山陽道」(明石から大宰府まで)については12キロメートル程度と、それらよりはかなり短く設定されており、これについては従来は「山陽道」の重要性と関連しているとだけ考えられていました。しかし、もっとも考えやすいものは「里単位」の変化ではないでしょうか。
 当初は短里系が採用されていたと思われ、それは「官道」特に「山陽道」の幅が12―13m程度ありそれが「秦」の時代の「五十歩」という規格に適合していることでもわかります。その意味では「駅間距離」が10km以上になっているのは明らかに「三十里」という長里規格であり、「短里系」とは異なると言えますが、そもそも山陽道(当初の「東山道」)は整備が他よりも先行していたものであるものの、『推古紀』の記事からみても当初「駅制」が施行されていなかったとみられ、「駅」の配置はやや時代を下るという可能性が高く、それであればそこに使用されていた「里単位」は「隋」との交渉が行われた時期以降に導入されたものである可能性が高く、その場合「一里」はおよそ「415m」程度であったと考えられるわけです。(※)
 これを念頭に入れて考えてみると駅間距離は他の官道と同様「三十里」であったと見られます。このことからは「隋・唐」との交渉が始まる以前から「山陽道」と「筑紫周辺」については既に官道が整備されていたということを考えなければならないこととなるでしょう。
 つまり、この「山陽道」を初めとする各「官道」は、その「延長」もかなりの距離になると思われますから、一時に完成されたはずがなく、その全体の完成はかなり遅い時期を想定すべきですが、「段階的」な完成としては第一に「阿毎多利思北孤」の「六世紀末」(これが遣隋使以前であり、六世紀後半に山陽道など筑紫周辺と筑紫-近畿(これは難波京か)の連絡道路として造られたもの)、続いて「七世紀初め」の「利歌彌多仏利」(遣隋使以降であり、東山道整備に関連するか)そして「七世紀半ば」の「伊勢王」更に「七世紀末」の「持統」というように、各「倭国王」の時代に「官道」がそれぞれ延伸され、それが即座に「統治強化」に結びついたものと思料されます。そして、その「傍証」とも言うべきものが「ヤマトタケル」神話です。

 日本武尊(倭建命)は『書紀』にも『古事記』にも出てきますが、この「二書」で「東征」のルートが異なっているのが分かります。
 『書紀』の中で「日本武尊」は「碓氷峠」を通っており、そこで「あづまはや」と詠嘆したとされています。これは後の「東山道」ルートです。これに対し『古事記』の中では「倭建命」は「足柄山」で「あづまはや」と歌っています。これは「東海道」のルートです。
 このようにその「東国経略」に使用した経路に「違い」があるのは、この「二書」の「性格」の違いでもありますが、また「東山道」と「東海道」の完成時期の違いでもあると思われます。
 『書紀』の原型は「伊勢王」段階で造られたものと考えられ、彼は「東山道」を整備し、その最新の「官道」に則って「東方統治」をおこなっていたものであり、これが『書紀』の「日本武尊」の東征ルートに反映していると考えられます。
 それに対し「利歌彌多仏利」が「東国経営」のために送り込んだ「親新羅勢力」は、当時未開通であった「東海道」を完成させ、それを利用して「あづま」の国を統治しようとしたと解されます。
 『古事記』は後述するように「天智」即位の大義名分確保の意味合いで書かれたとも考えられますから、「天智」の主たる支援勢力であった「あづま」(特に武蔵)の勢力の主要ルートであった「東海道」が「倭建命」の東征ルートとして書かれているものと思われ、この「二書」における「ルート」の差異は、それらの事情を反映した結果と考えられます。


(※)森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』一九四〇年 京都大学学術情報リポジトリより)


(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2016/08/28)(ホームページ記載記事を転記)

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「難波大道」について

2018年04月27日 | 古代史

 「古代官道」の造成の時期は、遺跡自体からは判定しがたく(土器その他が出土しても「道路」との関連が確定されないため)、現在まだ未確定ではあるものの、『書紀』の記事からの推定としては「七世紀」のはじめの『推古紀』と考えられているようです。しかしこの『推古紀』については既に見たように真の年代について疑いが生じており、一概に「七世紀初め」というような断定は出来ません。

 古代官道に関すると思われる記事の最古のものは以下のものです。

「(推古)廿一年(六一三年)冬十一月。作掖上池。畝傍池。和珥池。又自難波至京置大道。」

 この「自難波至京置大道」を「通例」では「難波津から竹内街道を経て横大路につながる東西幹線道路のこと」と理解されているようです。その場合「京」とは「明日香」の地を指して言うとする訳ですが、この「推古」の時代には「飛鳥」はまだ「京」(都)ではありません。「飛鳥」が「京」となったのは「舒明」「斉明」「天武」の三名の時代の宮が所在していた時点だけです。この時代には「飛鳥」は「天領」となっていたと思われ、それ以前に「倭国」の都がここにあったとは考えられません。
 また「推古」の都は「小墾田宮」ですが、それは「飛鳥」の地名をかぶせられずに呼称されています。その意味で「小墾田宮」のある地は「京」とするには時期としても地域としても「京」ではなかったこととなるでしょう。それを示すようにそこには「条坊制」が施行されていませんし、何より「天子」がいません。「推古」は「天子」を自称したという記録はありませんし、それに見合う強い権力を行使した形跡もありません。
 「京」(京師)は「天子」の存在と不可分ですから、「天子」がいない状態では「京」は存在していないとするよりありません。このことからこの「京」については「小墾田宮」を指すとは考えられず、「本来」は「筑紫都城」を指すものと考えるべきでしょう。

 ところで『仁徳紀』にも「大道」記事があるのが注目されます。

「(仁徳)十四年冬十一月。(中略)是歳。作『大道』置於京中。自南門直指之至丹比邑。又掘大溝於感玖。乃引石河水而潤上鈴鹿。下鈴鹿。上豐浦。下豐浦。四處郊原。以墾之得四萬餘頃之田。故其處百姓寛饒之無凶年之患。」

 しかしここでは「京中」に作ったとされていますから、『推古紀』の「大道」とは明らかに異なるものでしょう。『仁徳紀』の記事では「仁徳」の「難波高津宮」から「真南」に「大道」を作ったこと、それが「丹比邑」まで続いていたことが記されています。(多比邑も京の中にあったと言うこととなるものでしょうか)

 「二〇〇八年」になって、実際に推定されるルート上に「大道」が存在していたことが発掘により明らかとなったわけですが、それを見ると正確に「難波京」の「朱雀大路」の延長線に重なっており、このことから「難波大道」と「難波京」の間には深い関係があると考えられることとなります。
 上の「仁徳紀」の記事にも「京中」に「大道」を造ると書かれており、また「南門」から「直指」とするという表現と発掘の状況は全く同じと思われます。これは「朱雀大路」を念頭に入れた表現であるのは当然ですが、他方発掘された「前期難波宮」には「朱雀門」と推定される場所の前にはかなり深い谷が存在していた事が明らかとなっています。現在のところその谷は埋められた形跡がなく、また「橋」の存在も確認されていないため、この「大道」がこの「前期難波宮」の「朱雀門」まで延びて接続されていたかはかなり疑問と思われます。このことは「難波高津宮」と「前期難波宮」とが「等しい」存在ではないという可能性を示唆するものであり、この「大道」が接続されていた「難波高津宮」は「前期難波宮」とは異なる場所にあったと考えられることとなります。ただし、同じ「(仮想)大道」の延長線上にあったことも確かであり、「前期難波宮」のやや南側に位置していたものではないかと考えられるでしょう。(これは推定される「難波高津宮」位置と矛盾しないものでもあります)

 また、この「難波大道」が「丹比邑」までのものとしか書かれておらず、その先について記述されていない事にも注目です。このことは「難波大道」の建設目的が「飛鳥」などとの連絡用ではなく、「丹比邑」まで延長するというそのことだけにあったことを意味し、それはその「丹比邑」に何か重要施設的なものがあったことが推定できますが、そこには「仁徳」の「古墳」とされている「百舌耳原古墳」が存在しています。この古墳の築造時期は「五世紀後半」から「六世紀前半」とされており、明らかに「難波大道」が造られた段階と古墳が造られた段階が重なっていることとなるでしょう。そこに向かって「大道」が造られたとすると、両者の間には深い関係があることは明白であると思われます。
 このことから「古代官道」の中で最も初期に造られたものが「難波大道」であると考えられる事となり、それは「六世紀初め」からさらに「五世紀代」まで遡上する性格を持っているということになります。発掘からもこの「大道」を直交して横切る「溝」が確認されており、この地域全体として「正方位」をとる道路、溝などが存在していたことが明らかになっていますが、(「堺市長曽根遺跡」で発掘された「大溝」や「古市大溝」など)それらがいずれも「五世紀代」と考えられていることも重要でしょう。
 また「難波大道」がかなり早い段階で造られていたらしいことはその道路幅として確認された「17m」という数字にも表れています。(両側に側溝がありその心-心で18.5mとされる)
 この道路幅は他の官道の規格とやや異なっていると見られます。近畿においては官道の幅として20m程度あった見られますから、それよりやや狭いこの「難波大道」が同じような時期の造成であるとか、同じ規格であるというような想定は難しいことを示すと思われます。これは当然「隋・唐」の規格ではないこととなりますが、そうであれは「短里」規格であったと推定され、一里=80m程度を基準として構成されているように思われ、この大道の幅として「七十歩」(ただし「心―心」)で造られていたとみられます。
 そしてその後、その「難波大道」に接続させるために「丹比道」「大津道」など東西に連絡する官道が造られ、さらにそれに接続するべく「山陽道」が延伸されたとみられます。

 また先の『推古紀』の「又自難波至京置大道。」という記事を見ると、その直前に「池」を造るという記事がある事に気がつきます。これらの「造池」記事と前後して「造大溝」「造大道」記事が並んでいるのです。
 これは、この「大道」、つまり「官道」を「置く」という作業と関係していることを示しています。つまり「古代官道」の遺跡においてしばしば見られることですが、直線的に道路を敷設するために「沢」などを「横切って」おり、そのために「堤防」などを築いていることが知られていて、結果的にそこには「池」ができる場合があります。この記事における「造池」も同様のことを示しているのではないかと思われます。
 それを示すように「造池」記事を『書紀』で検索すると「推古朝」が最多で「九箇所」作っており、群を抜いています。これらが「純粋」に「農業の灌漑用水源」であるという場合もあるでしょうけれど、このうちのいくつかは「官道」の敷設と関係があるのではないかと推量されるものです。
 さらに「道」を造る場合「溝」や「池」とともに、その沿線に造られたとされる「屯倉」についても関係していると考えられます。なぜなら「屯倉」とは本来は「邸閣」的なものであり、戦闘要員に対する食料共給が本義であったと思われ、「農耕」などの「余剰生産物」を収容する施設であり、その後それらを「王権」に直送するという性格も出てきたものですが、「池」や「溝」が「灌漑」と関係しているとすると、その意義が「農耕」の利便性のためのものであって、そこからの生産物の一部が「屯倉」に収納されるとすると、同時ないし近接して記事があって当然でもあるからです。それは以下の記事に現れています。

「(仁徳)十二年冬十月。掘大溝於山背栗隈縣以潤田。是以其百姓毎年豐之。」

「(仁徳)十三年秋九月。始立茨田屯倉。因定春米部。
冬十月。造和珥池。
是月。築横野堤。」

「(仁徳)十四年冬十一月。(中略)是歳。作大道置於京中。自南門直指之至丹比邑。又掘大溝於感玖。乃引石河水而潤上鈴鹿。下鈴鹿。上豐浦。下豐浦。四處郊原。以墾之得四萬餘頃之田。故其處百姓寛饒之無凶年之患。」

 このように『仁徳紀』ではほぼ連年「溝」を掘り「田」を潤し、そこから収穫された「稲」などを収納する「屯倉」を造り、「作業集団」としての「春米部」を定め、また運送のための道路を造り、また「用水」として「池」を造り、また「溝」を掘るということを連続して行なっているのがわかります。
 これは「道」(官道)を作ることにより、「統治」の実質が進捗、遂行されていく過程を明確に表しています。
 同様のことは『常陸国風土記』の記事からも確認できます。そこには「池堤」を造る記事と「駅道」記事が連結されています。

「至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世 壬生連麿初占其谷 令築池堤時 夜刀神昇集池辺之椎株 経時不去 於是麿挙声大言 令修此池要在活民 何神誰祇不従風化 即令役民云目見雑物 魚虫之類無所憚懼 隨尽打殺 言了応時 神蛇避隠 所謂其池 今号椎井池 池回椎株 清泉所出取井名池 即向香島陸之駅道也」

 このように「池堤」のあった場所は「駅道」の場所でもあったわけであり、元々「谷」であり「池」であった場所を貫通して「道路」を造ったと思われ、そこに「堤」ができたと言うことを意味すると考えられます。
 この時代が「難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世」とされ、また「壬生連麿」という人物が登場しますが、上の文章中では「初」という形容がされていますから彼が「赴任」してまもなくの時期である事が推測され、少なくとも七世紀の前半あたりには「我姫」(常陸)にも高規格道路が造られていたことを示唆するものといえます。この時点で大量の軍事力が展開可能となったことが上の逸話の背景にあるものと考えられます。


(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2015/10/03)(ホームページ記載記事を転記)

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