古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

コンブとワカメ

2018年04月30日 | 古代史

 以下は「奈文研」木簡データベースから「軍布」という語をキーワードとして拾い上げたものです。

連番 本文 KWIC 型式番号 出典 遺跡名
1 海評中田里支止 軍布 31 荷札集成-185(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
2 海評海里人小宮 軍布 31 荷札集成-172(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区
3 海評三家里人日下部赤 軍布 31 荷札集成-182(飛20-27 藤原宮跡北面中門地区
4 次評新野里 軍布 31 荷札集成-191(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区
5 里上部← 軍布   39 飛22-21上(藤原宮1-21 藤原宮跡北面中門地区
6 知夫利郡由良里 軍布 39 木研5-85頁-(71)(奈良 藤原宮北辺地区
7 知夫利評三田里石部真佐支 軍布 筥‖ 31 荷札集成-170(木研5-8 藤原宮北辺地区
8 海評海里 軍布 廿斤 31 荷札集成-174(奈良県 藤原宮北辺地区
9 海評海里 軍布   31 荷札集成-175(木研5-8 藤原宮北辺地区
10 海評三家里日下部日佐良 軍布 31 荷札集成-183(奈良県 藤原宮北辺地区
11 次評鴨里鴨部止乃身 軍布   31 荷札集成-188(木研5-8 藤原宮北辺地区
12 里人大伴部知真利尓支 軍布 廿斤 33 奈良県『藤原宮』-(30 藤原宮北辺地区
13 評〈〉男田若 軍布 筥‖ 31 荷札集成-201(木研5-8 藤原宮北辺地区
14 周吉郡〈〉 軍布 筥‖ 31 木研5-82頁-(20)(奈良 藤原宮北辺地区
15 水江 軍布 十六斤 31 木研7-121頁-(22)(平 平城宮
16 海評佐々里阿田矢 軍布 31 荷札集成-179(藤原宮2 藤原宮跡大極殿院北方
17   軍布 廿斤 31 藤原宮3-1214(飛5-12 藤原宮跡東面北門
18 次評部里 軍布 31 藤原宮3-1178(荷札集 藤原宮跡東方官衙北地区
19 海評前里 軍布 31 藤原宮3-1177(荷札集 藤原宮跡東方官衙北地区
20 布西里 軍布 39 藤原宮3-1642(飛6-21 藤原宮跡東方官衙北地区
21 隠伎国周吉郡上部里日下部礼師 軍布 六斤霊亀三年‖ 31 木研10-90頁-1(3)(城6 平城宮左京二坊坊間大路西側溝
22 海部郡前里阿曇部都祢‖ 軍布 廿斤 31 平城宮7-11311(木研24 平城宮内裏西南隅外郭
23 鮑六十具鯖四列都備五十具‖須志毛十古‖割 軍布 一古‖ 11 日本古代木簡選(大宰 大宰府跡政庁地区正殿後方築地東
24 隠伎国海部郡作伎郷大井里阿部呂麻御調 軍布 六斤天平九年‖ 31 木研5-11頁-1(16)(城1 平城宮内裏北外郭東北部
25 隠伎国海郡佐吉郷阿曇部多 軍布 六斤 31 木研5-11頁-1(15)(城1 平城宮内裏北外郭東北部
26 隠伎国智夫郡大井郷各田部小足 軍布 六斤‖ 31 木研5-11頁-1(17)(城1 平城宮内裏北外郭東北部
27 隠伎国海部郡佐々里勝部乎坂‖ 軍布 六斤 31 城21-32下(354)(木研1 平城京左京三条二坊一・二・七・
28 依地郡奈具里 軍布 39 木研15-23頁-1(1)(飛1 藤原宮跡内裏東官衙地区
29 隠地郡村里三那部井奈 軍布 六斤 31 城27-20下(290) 平城京左京三条二坊一・二・七・
30 須二古心太二古 軍布 小二古荒 81 藤原宮3-1391(飛12-10 藤原宮跡東方官衙北・東面北門南
31 隠伎国周吉郡奄可郷吉城里服部屎人 軍布 六斤養老四年 31 木研20-41頁-4(5)(城3 平城京右京三条一坊三坪朱雀大路
32   軍布 廿斤 39 飛鳥藤原京1-932(荷札 飛鳥池遺跡北地区
33   軍布   32 飛鳥藤原京1-229(飛14 飛鳥池遺跡北地区
34 次評上部五十戸巷宜部刀由弥 軍布 廿斤‖ 31 飛鳥藤原京1-196(荷札 飛鳥池遺跡北地区
35 依地評都麻五十戸 軍布 31 飛鳥藤原京1-133(荷札 飛鳥池遺跡南地区
36 軍布   31 木研25-48頁-(60)(飛 飛鳥京跡苑池遺構
37 川内五十戸若 軍布   31 荷札集成-198(木研26- 石神遺跡
38 役道評村五十戸忍 軍布 廿斤 31 荷札集成-199(木研27- 石神遺跡
39   軍布   31 飛鳥藤原京1-228 飛鳥池遺跡北地区
40 軍布 十五斤 11 木研29-41頁-(26)(飛2 石神遺跡
41 軍布 嶋成百卅四連長寸六十九連布二准【「年魚二 11 ◎観音寺1-58 観音寺遺跡

以上の「軍布」がなんと発音するかについては、ヒントになりそうなものがいくつかあります。
例えば「連番23」は「太宰府政庁正殿後方築地」の基壇天場の下層土層から発見された木簡ですが、これは以下のようなものです。

(表)十月廿日竺志前贄駅□□留 多比二生鮑六十具/鯖四列都備五十具
(裏)須志毛(十古)割軍布(一古)

 この中に出てくる「割軍布」は「わかめ」と読むのではないかと推測されます。「割る」は「分かつ」であり「軍布」は「め」と読むと考えられるからです。
 「軍布」を「め」と読むことに関しては、以下の「歌」があります。

「然之海人者軍布苅塩焼無暇髪梳乃小櫛取毛不見久尓」(万葉二七八番歌)
「志可の海人は軍布(藻(め))刈り塩焼き暇(いとま)なみ髪梳(けづり)の小(を)櫛取りも見なくに」

  この歌は『万葉集』の「第三巻」にあり、この巻は「八世紀半ば」頃の時代のものとされています。
 つまり、ここでは「軍布」を「め」と呼称しているようです。しかし、「軍布」は「め」とは読めないのは明らかです。この「軍布」は「藻」のことであることが分かりますが、「藻」とは「海草一般」を指すものであり、その「代表」として「わかめ」が考えられていたと思われます。

また以下は「連番37」の石神遺跡から出土した木簡です。

 □□〔川内ヵ〕五十戸若軍布
 隠岐国隠地郡河内郷〈隠岐国隠地郡川内五十戸〉
 
これは明らかに「ワカメ」であると思われ、「軍布」で「め」と発音するらしいことが推定できます。

 また、「連番38」の「石神遺跡」からの木簡は「評制下」のものであり、また「五十戸制」ですから、「六九〇年以前」のものと推察されます。

 「役道評村五十戸忍 軍布 廿斤」

 また「藤原宮」出土木簡の「連番12」について。

「里人大伴部知真利 尓支軍布 廿斤」

 ここで「尓支」(爾支)(「にき」)とは「若い」あるいは「近い」「少ない」などの意味があり、ここでいう「爾支軍布」とは「ワカメ」であると考えられます。
 『書紀』の「斉明紀」にある「伊吉博徳書」の中に「唐」の皇帝に「蝦夷」を連れて行った記録がありますが、その中に「天子問曰 蝦夷幾種 使人謹答 類有三種。遠者名都加留、次者粗蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。??、入貢本國之朝。」という部分があり、「大系」では「熟蝦夷」に「『にき』蝦夷」と読みが振られています。つまり「にき」とは「近い」という意味で使用されているわけであり、これと同様の意味であると思われます。

「連番40」の石神遺跡十八次調査出土木簡について。

「和軍布十五斤」

 これも同様「ワカメ」であると思われます。

 以上「軍布」が「め」と呼ばれ、それは「藻」の意味であり、その「藻」の代表が「わかめ」であるとされていたらしい事がわかると思われますが、そもそも「軍布」という字面は上でも述べたように「め」とは発音できないものであり、これは明らかに「アイヌ語」の「コンプ」の音写であると考えられ、これがまずかなり早い時期に日本語の中に取り入れられた事を示すものと考えられます。
 ここでは「軍」が「コン」「布」が「ブ」ないしは「プ」を示すと考えられますが、例えば『万葉集』の中で「クン」や「コン」に「軍」を充てた例が「皆無」であり、「軍」は「いくさ」としか読みが振られていません。その他現存している万葉仮名を記した史料中には「軍」は見あたらないのです。この事から「万葉仮名」が固定化し、一般化する以前の段階で「コンブ」は「軍布」と表記されるようになったと考えられます。

 既に考察したように「万葉仮名」(文字)の成立は「五世紀終わり頃」つまり「仏教伝来」から「六~七〇年経過」した時点と考えられ、「武」から「磐井」にかけてのことと推察されます。つまりその時点以前に「コンブ」及びその発音に対して「軍布」と表記し、また「コンブ」と発音していたこととなるでしょう。
 「コンブ」は基本的に北海道等の北方圏に分布、生育するものであり、そこに居住していた「アイヌ」による呼称が起源であると考えられ、当然そう考えると「東国」以東や以北にその言語環境が限られていたものと思料されます。
 「コンブ」を「軍布」と表記したのは、当然「アイヌ」側ではなく、「倭人」側であったはずであり「コンブ」という発音を耳で聞いて「軍布」という「漢字」に当てはめたわけです。(中国などで「外国語」を無理に「漢字」に当てはめているのを見ますが、よく似ていると思われます。)その時代としては「筑紫」の勢力が「東国」に始めて進出した「五世紀」の「倭の五王」のころではなかったでしょうか。
 しかし、その後「軍布」という単語が広がるにつれ、それが「普通名詞」化していったものと思料されます。つまり「コンブ」の実体を見たことがない地域の人々については、「軍布」という「漢字」について、「海藻」一般を意味するというある種の「誤解」が生まれ、「海藻」の代表である「ワカメ」を表すのにもっぱら使用されると云うこととなったものと考えられます。
 それは「筑紫」などから「西国人」達が「東国」に移動した(武装植民)の際の出来事であると考えられ、彼らは「軍布」の実物を知らずに「藻」(海草)であると認識し、その「藻」の発音である「メ」をその「軍布」の発音に充てたという経緯と考えられます。

 現在「コンブ」は「昆布」と表記されますが、この表記は(『続日本紀』の「元明紀」を除くと)「九世紀の初め」に書かれたとされる『本草和名』に出てくるのが初見であり、それまではもっぱら「軍布」と表記されていたようです。(ちなみに『古事記』には「海布」と出てきますそれが「コンブ」なのか「ワカメ」なのかは判然としません)
 また上に見た木簡の表記の中で「軍布」を調として貢した地域が「昆布」を算出するほどの北方地域ではないことからも、「軍布」と表記されたものの実態が「コンブ」つまり「昆布」ではないことは明らかであり、この時点(藤原京)ではまだ「蝦夷」との交渉が本格化しておらず、「軍布」を「ワカメ」あるいは「海藻一般」の表記として使用することに違和感を感じていないことが推測されます。
 また、このことは「蝦夷」との関係が一旦希薄となった時点(六世紀付近か)以降「コンブ」というものの実態を目にする機会が減少したことを示すと思われますが、再度「蝦夷」との交渉が始められた時点がその後かなり時間が経過してからではなかったかと考えられることとなり、その時点以降「軍布」の実態に触れることとなった結果、その時点で「軍布」という字面と「ワカメ」という発音の乖離について問題とされるようになったのかもしれません。
 その時点で「海藻」の表記に「コンブ」とそれ以外とにその時点で分かれることとなり「昆布」と「若布」と別表記されるようになったと考えられるでしょう。そしてそれは「八世紀」も後半のことではなかったかと思われ、それが『本草和名』に反映しているということではないでしょうか。しかしそう考えると『続日本紀』の「昆布」表記はやや不審といえるでしょう。

「靈龜元年…冬十月…丁丑。陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥奈等言。親族死亡子孫數人。常恐被狄徒抄略乎。請於香河村。造建郡家。爲編戸民。永保安堵。又蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以來。貢獻『昆布』。常採此地。年時不闕。今國府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請於閇村。便建郡家。同百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。」(元明前紀)

 ここでは明らかに「昆布」と表記されていますが、それがこの「元明」当時(八世紀の初め)の実態と乖離しているのは木簡などからも明らかです。その『続日本紀』は「淳仁天皇」(淡路廃帝)の時代から編纂が開始され、「光仁天皇」の時代も継続し、最終的に編纂が終了したのは「七九七年」「桓武天皇」の時と言われています。

「是日。詔曰。天皇詔旨良麻止勅久。菅野眞道朝臣等三人。『前日本紀』與利以來未修繼在留久年乃御世御世乃行事乎勘搜修成弖。續日本紀・卷進留勞。勤美譽美奈毛所念行須。故是以。冠位擧賜治賜波久止勅御命乎聞食止宣。從四位下菅野朝臣眞道授正四位下。從五位上秋篠朝臣安人正五位上。外從五位下中科宿禰巨都雄從五位下。」「『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)二月己巳十三条」

 つまりこの『元明紀』の記述は『続日本紀』の成立時点における最新知識として書かれたという可能性が高く、古代の実態としてリアルなものかについては疑問が出て当然ということとなるでしょう。

 人々は「コンブ」というものの実態を知った結果「軍布」が示す「ワカメ」とは異なることが理解され、そうなると「軍布」の示す字面は「ワカメ」ではなくかえって「昆布」に近い(当然ですが)ということが問題になった結果、「ワカメ」は「若布」と表記されることとなり、「コンブ」は「蝦夷側」の表記として「昆布」が使用されたこともあり、以後「昆布」と表記されるという経過が考えられます。

(また、このことは『隋書俀国伝』に出てくる「軍尼」という官職様のものの名称の「読み」についても示唆を与えるものです。この『隋書俀国伝』自体が「隋代」のことであり、また「編纂時期」は「初唐」の頃ですから、基本として発音は「漢音」であると考えられます。そうすると「こんじ」ないしは「くんじ」と発音するのがいちばん「近い」と考えられますが、それが正しいと考えられるのは「コンブ」が「軍布」と書かれている事からもいえると思われます。)


(この項の作成日 2012/07/10、最終更新 2017/02/23)(ホームページ記載記事を転記)

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「来目皇子」の軍の編成について

2018年04月30日 | 古代史

 『推古紀』には「新羅」遠征軍として「来目皇子」を将軍とする軍が編成されたという記録があります。

「(推古)十年(六〇二年)春二月己酉朔。來目皇子爲撃新羅將軍授諸神部及國造伴造等并軍衆二萬五千人。
夏四月戊申朔。將軍來目皇子到于筑紫。乃進屯嶋郡。而聚船舶運軍粮。
六月丁未朔己酉。大伴連囓。坂本臣糖手。共至自百濟。是時。來目皇子臥病以不果征討。…」

 ここでは「兵士数」として、総数「二萬五千人」という「人数」が記載されています。後の例からもこのような大規模な遠征軍は複数の軍から構成されると考えられ、三軍構成(前軍・中軍・後軍)ではなかったかと見られ、「来目皇子」はそれらを総括する「大将軍」であったと見ることができると思われます。
 この当時は「五十戸制」ではなく、「八十戸制」であったと考えられ、軍の編成の基礎も「八十戸」という戸制にあったと考えられ、この「二万五千人」という兵員数も「八十戸制」と何らかの関係があると考えるのが自然です。ただし、「五十戸制」が「常備軍」につながるものであり、「律令」に則ったものであったと考えられるのに対して、この「八十戸制」はある意味「自然発生的」であり、「軍制」と直接は関連していないという可能性が強いと思われます。それは、この「八十戸制」が「中国」の制度に学んだものではなく、「倭国」独自の制度であったという可能性があり(「八十戸制」という戸制が中国には見られません)、またそれは「数や量」が多いという形容として「八十」という数字が広くまた古くから行なわれていたと推定できることからも言えると思われます。
 
 後でも触れますが、「難波朝期」に制定された軍制では一軍が「九千人」であり、これは「評」の戸数である「七五〇戸」と深い関係があったと見られる訳ですが、この「二万五千人」という兵員数においても、同様のことが想定され、当時存在していた「クニ」の戸数である「八〇〇」というものと関係していると見ることができるでしょう。
 『隋書俀国伝』には以下の記事があります。

「…有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。…」

 この「軍尼」という職掌が統括していた領域は「国別」や「国造」が支配していた領域と重なるものと考えられ、いわゆる「クニ」であったと考えられます。(「軍尼」がクニと発音するとか読めると主張している訳ではありません)
 上の記述から「クニ」は約「一二〇」あったと見られ、総戸数で「九万六千戸」ほどと計算できます。そこから「二万五千人」が徴発されたとすると約「四戸一兵士」という基準(らしきもの)があったことが推察できます。
 この基準は「臨時」に設定されたものであり、当時は「常備軍」はなかったと見られ、そのことはそれを規定したような「律令」や「軍制」(軍防令のようなもの)が存在していなかったことを推定させます。
 それは『書紀』の記事の中にも、「諸神部及國造。伴造等。」という表現がされており、「地方行政官」ともいうべき職掌の人間に対しても、軍兵として徴発し、派遣している事からも推察できます。
 この「四戸一兵士」という基準は、後の「一戸一兵士」よりかなり「緩く」、そのことからもこれが「律令」等に基づくというよりは「臨時」の「詔」によるという理解をすべきことを示しているようです。
 『隋書俀国伝』には「征戦がない」と書かれており、これは即座に「常備軍」がなかったことを意味するものですが、それはまた「軍制」が整備されていないことを示すものです。
 「外敵」が侵入を試みたり、海外に遠征するような際に、始めて「傭兵」感覚で「各地」から徴発したのではないでしょうか。(通常は各地の地場の勢力の私的武装集団として存在していたものと思われます)
 『天智紀』にある「邇摩郷」のように「戦いにこれから行く」という段階で「兵」を徴発しているように見られる記事もありますが、それは「地名」から来る「付会」であり、実際には「天智」時点では「軍制」があったと見られ、それに基づいて「徴兵」制が機能していたと考えられるものですが、それよりかなり以前の段階である「阿毎多利思北孤」の統治段階では「常備軍」はなく「八十戸制」は「軍制」に関連づけられる性格のものではなかったと思われます。
 ここで「来目皇子」の軍編成が「八十戸制」の中で理解すべきとすると、この段階は「隋制」導入以前の段階であることとなり、戸籍その他確認できる導入された「隋制」とは整合しないこととなり、明らかにそれ以前のものであることが推定できます。

 ちなみに、この「百二十」あるという「軍尼」が統括している領域は、後の「郡」に相当する領域であると理解できるものであり、「和名抄」などで確認すると、「筑紫」「肥」「豊」「長門」「周防」ぐらいの領域でほぼ一二〇をやや超えるぐらいになります。つまり、この段階においては「倭国」の領域といえるのは、「九州北部」と「中国地方」の西側程度であったのではないでしょうか。
 このことと、「利歌彌多仏利」の「六十六国分国」事業が行なわれる以前に既に「三十三国」が形成されていたとされていることを考慮に入れると、この「三十三国」の示す範囲とは、この「一二〇クニ」が存在していた領域を示すのではないかと考えられます。
 「国」(クニ)の国内における「成立」とその「変遷」を考えると、「従来説」のなかでも「有力」なもののひとつは、「七世紀」以前から「クニ」があって、そこには「国造」が存在しており(それは「ヤマト政権」の版図としてであるとされますが)、ある時点でその「クニ」がいくつか合わさった「広域行政体」としての「国」が成立したとみられています。この「ある時点」というのが「利歌彌多仏利」による「七世紀初め」と理解されるものですが、当然「三十三国」というものはそれ以前に遡らざるを得ず、その段階では「国」は「クニ」を意味する言葉であったと考えられます。
 ただし、上に見た「倭国」の範囲の各国は「後の令制国」に匹敵する領域があったと見られ、「六十六国分国」時には(「常陸」のように)集められたのではなく、「前後」に分けられるということとなったものと考えられます。
 ただしこの段階の「国」には「国宰」のように、行政を主管する人物が配置されてはいなかったと思われます。あくまでも名目的な分け方であり、実質としては各「クニ」の長である「国造」「国別」がその地と人民に対して支配権を行使していたものと考えられるものです。

 ところでこの「来目皇子」の名称は「久米」ではなく「久留米」であったという可能性が強いと思われ、「筑後」の「久留米」という地名との関連を考えるべきでしょう。さらに、彼の死去後跡を継いだ兄とされるのが『當麻皇子』であり、「當麻」が「肥後」の地名であることも関係しているといえそうです。「皇子」が「筑後」と「肥後」にいるというわけですから、「九州王朝」の直轄領域に対して「皇子」達で分治していたことが窺えるわけです。
 「新羅征伐」に「志摩郡」に駐屯したという記述も、地場の勢力であったと考えると、少なくとも「筑紫」にいることは「遠征」なのではないことと推定できます。このことからも、この段階の「軍」の編成の主体は「西日本」であり、まだ「東国」からの軍は少数であったことを示していると考えられます。


(この項の作成日 2012/08/12、最終更新 2013/03/25)(ホームページ記載記事を転記)

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