古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『万葉集』について

2018年04月29日 | 古代史

 『万葉集』は「舒明天皇」以後『天武紀』までが基本的な部分とされています。つまり、『推古紀』以前については「雄略」などの歌がわずかに載っているだけで、他は全て除かれているのです。最古の歌と考えられているのが「仁徳天皇」の后「磐姫」の歌ですが、これ以後「推古」までの歌が極端に少ないのです。
 「仁徳」は『書紀』では「四世紀」の終わりから「五世紀」にかけての存在とされており、ここから「推古」の間『書紀』上では二〇〇年ほどが経過していることとなるわけですが、この期間はほぼ「空白」であるわけです。明らかに、この期間に造られた「歌」が集録されていないこととなると思われますが、それにしてもこれほどの「長期間」の空白があるのは「不審」としか言いようがありません。
 現在各地で発見されている「歌木簡」の解析から、『万葉集』に載せられた歌以外に数多くの歌が存在していたことが推定できます。これらの最古のものは「七世紀初め」と推定される「はるくさ木簡」であり、このことから、現在目にする事ができる『万葉集』は「七世紀初め」以前に(「推古朝」)で一旦成立した「古・万葉集」を原資料としており、その中からほんの一部だけが集められ、それに後代の歌群が附属された「新・万葉集」である、と判断できます。
 それを示すように『万葉集』の中には「古集」というものが出て来ます。
 『万葉集』の第七巻に出て来るもので「右の件の歌は、古集中に出づ」という風に書かれているものです。計五十首ほどが確認できます。そしてこれらの歌についてその内容を確認してみると、全て「筑紫」に関する歌なのです。(以下「古田氏」の研究による)
 例を挙げると以下のようなものがあります。

「ちはやぶる金の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神」(一二三〇番歌)
「少女らが放(はな)りの髪を木綿(ゆふ)の山雲なたなびき家のあたり見む」(一二四四番歌)

  ここに出てくる「志賀(しか)」も「木綿(ゆふ)」も筑紫(九州)の地名なのです。
 このことは、これらが集録されていたものは「古集」と呼ばれているわけですから、後の『万葉集』に先立つものであり、なおかつ「筑紫」で成立していたことを示すものと考えられます。
 『万葉集』の先頭が「天皇」の歌であることからも、この歌集が「勅撰集」という性格があることがわかりますが、さらにこの時点の「都」が「筑紫」であり、「倭国」の中心部である証明と考えられるものです。

 これら『万葉集』の先駆となった「古集」は、「利歌彌多仏利」の「天子」(皇帝)即位の記念として「勅撰集」として編纂されたものであったものではないでしょうか。
 「最古」の「歌」と考えられるものが「仁徳天皇」の后「磐姫」のものである、という事実は先に行った「解析」により「仁徳天皇」が「利歌彌多仏利」の投影である、と考えられることから考えても、彼の時代に編纂されたものが「原・万葉集」として存在していたことを裏書きするものといえます。
 
 また、『万葉集』の中では、「筑紫」の地は「大君の遠の朝廷」と呼ばれています。

万葉集巻三 第三〇四番歌
(柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首)
大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念

 この名称は現在のいわゆる通説では、「官衙」(政府の出先機関)の地をそう呼んだのではないか、という言い方がされています。「越」の国や「韓国」をさして、同じように使用されているかのように見える例はありますが、 それ以外の地域に対し、使用例が全くないことからも「一般的な呼び方」とはいえるものではありません。
 そもそも「朝廷」とは天子(皇帝)の居する「宮殿」の「大極殿」や「紫宸殿」などの「殿」に面する「中庭」的部分を言い、その場所に天子が出御し「百僚」がその庭で天子を拝謁する、という場所であったもので、そのことから「天子」の「統治」の中心的な場所の事となったのです。その呼称が「筑紫」の地に関連して使用されている、ということは、「筑紫」の地に「天子」がいた、ということにならざるをえません。
 さらに「聖武天皇」の歌の中では、「御」朝庭と尊敬を表す字が付加されており、天皇自身が筑紫に対して尊敬の念を表している事になっています。
 また、「越」の国をさして「大君の遠の朝廷」という言い方をしているのは「大伴家持」だけであり(他の人の歌などでは「越」に対しこのような使用例がありません)、「大伴氏」は「武烈天皇」亡き後、「越」の国から「継体天皇」を担ぎ出してきた氏族ですから、この事が家持をして「越」の国を「大君の遠の朝廷」と呼ばせるものと推察されます。
 もっとも、家持は「越」と「筑紫」とで表現を微妙に変えている事が注意されます。それは「筑紫」と違い「越」に対しては「大君の遠の朝廷」ではなく、「大君の遠の〝美可等〟」と表音表記を使用しており「朝廷」(または「朝庭」)の文字を使用することを慎重に避けている事です。(例外がありません)これは「朝廷」の文字が内包する重大な意味を、作者大伴家持が感じ取っていたが故の表記方法であろうと思われます。
 つまり「朝廷」というのは天子が政治を司るところであり、只一か所しかないのです。それを知っている人間には、実際に天子がいなかった場所には使えない、或いはためらわずには使えない、そういう性質の言葉なのです。
 その言葉が、「筑紫」に対してのみ使用され、しかも『万葉集』の中でだけ使用されているということは、もともとのこの歌集の持つ政治的、権力構造的な意味の「位置」が、通常一般に理解されているものとは大きく異なっているということでしょう。

 また、『持統紀』に「筑紫の軍丁」「大伴部博麻」にたいして「顕彰」の「詔」が出されていますが、その中で「天朝」と「本朝」いう言葉が使用されており、その解析の結果「天朝」とは「諸国」の立場から見た「筑紫朝廷」を指すものという理解が得られています。そして、この「天朝」については「遠朝廷」と同じ意義であると考えられ、「漢語的」表現か「和語的」表現か、あるいは「時間的」表現か「空間的」表現かという差でしかないと推察されるものです。

 また、万葉集中には「田邊福麻呂」という人物の「歌集」から採ったものが載せられており、それによれば上に見た「筑紫宮殿」と同様「難波」においても「大王」が「在通(ありがよふ)」という表現がされています。

(右廿一首之歌集中出也)
安見知之  吾大王乃  在通  名庭乃宮者  不知魚取  海片就而  玉拾  濱邊乎近見  朝羽振  浪之聲せ  夕薙丹  櫂合之聲所聆  暁之  寐覺尓聞者  海石之  塩干乃共 渚尓波  千鳥妻呼  葭部尓波  鶴鳴動  視人乃  語丹為者  聞人之  視巻欲為  御食向  味原宮者  雖見不飽香聞

(以下訓)
 やすみしし  我が大君の  あり通ふ  難波の宮は  鯨魚取り  海片付きて  玉拾ふ  浜辺を清み  朝羽振る  波の音騒き  夕なぎに  楫の音聞こゆ  暁の  寝覚に聞けば  海石の  潮干の共  浦洲には  千鳥妻呼び  葦辺には  鶴が音響む  見る人の  語りにすれば  聞く人の  見まく欲りする  御食向ふ  味原宮(味経宮)は  見れど飽かぬかも

 この歌からは「難波の宮」と「味経の宮」とが同一のものを指すことがわかるとともに、そこへ「大王」が「あり通ふ」という実態が示されています。そのことは「柿本人麻呂」の歌においても同様であり、「蟻通」っているのは「大王」です。
 このふたつの歌はほぼ同意であり、「遠乃朝庭」も「名庭乃宮」も、そこが「大王」の「居宅」などではなく、また「近隣」に居宅があったようにも見えず、かなり遠方より「通い」の身分であることと思料されるものです。
 「筑紫」の場合は「官道」(山陽道)は既に整備されていたと思われるものの、後の時代と違い使用に大幅な制限があったと考えられ、基本は「船」を使用し「博多湾」から上陸してその後「大宰府」までの間は「官道」が整備されていたと考えられ、ここを使用して「宮殿」に拝謁しに行っていたものと思料します。つまり「大王」とは「諸国」の王以上の身分ではなく、そこに居を構えている「天子」(天王)とは違う人物であると云うことが分かります。
 特に「後者」の歌からは「難波大道」を利用しているように見え、この「難波大道」が「宮」の「南門」(朱雀門)から「真南」に延びる道路であり、このことから「孝徳」の「宮」は「難波宮殿」の南の「方向」にあったと考えられます。

 また、この歌集のことは『書紀』や『続日本紀』などには全く片鱗すらみせていません。また、『古事記』と同じくずいぶん年月を経た後、世に現れており、それまで秘匿されていたようですが、それはなぜか?という問題があります。
 これについては、この書物が「呉音」で書かれていることが考えられます。
 朝廷からその後何度となく出された「呉音禁止令」のため世に出すわけにはいかなくなったことが考えられます。また、あってはならない「朱鳥年号」が書かれていたり、その「朱鳥年号」が書かれた『日本紀』が引用されていたり、「筑紫」のことを「朝廷」と呼んでいるなど政治的に「危険」な性質のものであったものであり、そのため長く秘匿され鎌倉時代あるいは室町時代など後代になるまで歴史には登場することがなかったものと思われます。

 現存する『万葉集』は本来冒頭に置かれるべき肝心の「代表権力者」の歌が省かれていると考えられます。つまり前半部分が残った状態では「秘匿」することさえ困難であった、ということを意味するものでしょう。
(後の時代に作られた「偽書」である、という指摘もありますが、「呉音」を駆使して書かれており、「字句」の使用法などについて考察しても同時代性が非常に高くずっと後になって偽作した、という仮定は非常な困難と考えられます。)

 『万葉集』は、はるか後の平安中期以降になって、復活します。完全な写本が名古屋の「真福寺」から出て来たもので、これは「南北朝」時代に(一三七二年か)「東大寺」にあった原本か、またはその写本を書き写したものとされています。これは平安末期に復活する「九州」の用語使用開始がその前駆となる動きだったのだと思われます。同様に『二中歴』も平安末期から書き継がれてきており、この当時は「九州王朝」に対する「隠蔽」が、約五〇〇年ほど経過して、「緩んで」来ていたものと思われます。
 「古集」と呼ばれる「古・万葉集」が「筑紫」で成立し、後にそれに「諸国」の人々の歌が付加された形で「現万葉集」の「原型」ができた後、一旦「お蔵入り」となったものを、「大伴家持」が「前半部」をカットする形で「編集」して、日の目を見ることができるようになったものではないでしょうか。


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2014/11/29)(ホームページ記載記事を加筆修正)

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「はるくさ木簡」について

2018年04月29日 | 古代史

 「なにはづ」の歌が書かれた大型木簡が出土していますが、「前期難波宮」遺構からは別の「和歌」を万葉仮名で書いた「長さ二尺」の大型木簡が出土しました。それは「はるくさ木簡」と呼ばれていますが、その大きさから「儀式」で手で「捧げ」ながら、朗詠したものと考えられ、そこには「はるくさのはじめのとし~」と読める「万葉仮名」が書かれていました。

「皮留久佐乃皮斯米之刀斯■(読めない文字)」難波宮跡出土木簡 遺構番号 谷七層 寸法(ミリ)「185×26×6」「下欠。表面には刻線がある。整形され墨書された後に施されている。表面は下から上の方向に削っている。上端部は表面側を面取りし、丸みを持たせている。」とされています。(木簡データベースより抜粋)

 この「木簡」は「下側」が欠損しており、残存部分の長さで18.5㎝有りますが、ここには(読み取り不明も入れて)「十二文字」書かれています。もしこれが「和歌」であり、残存部分同様「一字一音」であったとすると「三十一文字」書かれていたこととなりますが、そうであれば「48㎝ほど」はあったこととなります。更にこのような木簡としては異例に長大なものは「儀式」「儀典」などの際に「捧げ持って」「朗詠」したという考えもあるようですから、そうであれば「手に持つ」空白部分も必要となり、全長で「二尺」(60㎝)ほどあったであろうという推定もされています。

 この木簡は「前期難波宮」の最下層の埋土から出土したもので、この層は「前期難波宮」の造営に関わる「埋め立て」「以前」のものと考えられており、であれば少なくとも「七世紀半ば」よりも「古い」と考えなければなりません。
  この「木簡」は「難波宮」の「難波宮南西地点」の「下部整地層」(第七層)から発見されたとされています。(「前期難波宮」の地層は上から「第一層」(大阪夏の陣以降の層)、「第二層」-「第四層」(三期にわたる豊臣氏による整地層)、「第五層」(中世の作土層)、「第六層」(前期難波宮造営時の整地層)、「第七層」(それ以前に谷を埋めた層)と解析されており、この「はるくさ木簡」は「第七層」からの出土と報告されています。) 
 ただし、この地層解析については当初のものであり、その後見解が変更された模様です。それによれば「第六層」と「第七層」は(若干の停止時期を挟むものの)ほぼ同時とされることとなった模様ですが、詳細は文化庁への報告に書かれているらしいものの、一般には公開されていません。
 しかし当初の見解によれば明らかに「第七層」と「第六層」とでは出土土器の編年が異なるとされていましたから、それが覆るに足る証拠が必要と思われますが、それが明示されていないのは遺憾と言うべきです。(層毎の土器数とその各々の編年分布が提示されるべきでしょう。)
 ここではあくまでも当初見解に従うとすると、「難波宮造営」以前の時期が「はるくさ木簡」の年次と考えられ、上の推定から考えると「六世紀最終末」ぐらいまで遡上する可能性もあります。

 同様に「前期難波宮」遺構から発見されたものとして「戊申」と記された木簡があります。この「戊申」は「六四八年」を意味すると思われますが、この「木簡」が発見された「層位」は「難波宮」時点とされ、「前期難波宮」で使用された物品(木簡や土器など)を「廃棄した」場所という性格があるとされています。つまり、この「戊申木簡」は「はるくさ木簡」よりも「新しい」と判断されるものであり、「はるくさ木簡」の年代としてはこの「戊申」という「六四八年」よりも「以前」であるという可能性が非常に高いのではないかと思料されます。
 
 また「評制」の諸国への全面的施行の主体が「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」の時代であることも強く推定されています。
 『常陸国風土記』などによれば「東国」に対する「統治」の強化が各種の事例により確認されており、そこには「評制」の再編や「土着信仰の排除」などが記されていますが、この事は「九州倭国王朝」の「権勢」が「東国」に深く届くようになっていたことを示すものと考えられ、それは「近畿」に「前進基地」とでも言うべき「統治」の「拠点」となるべきものが出来たことを示すものと思料され、その意味からも「副都建設」がリアルな出来事であったものと思料されるものです。
 このような「強い権力」の行使ないしは発現とも言うべき「壮大な」宮殿が築かれたことは、「統一的権力者」の存在を前提とすべきであり、それは「阿毎多利思北孤」から「利歌彌多仏利」へと続く「六世紀後半」から「七世紀初め」の「倭国王権」の存在と切っても切り離せないものと考えられます。

 この木簡に書かれた文章は「はるくさのはじめのとし」と読み下すものと考えられ、何かの「元年」を記す木簡と考えられます。『書紀』においての「元年」の読み下しは「岩波」の「大系」でも「はじめのとし」です。そして、この「元年」が「何の元年」であるかというと、可能性があるのは「命長」、「常色」、「白雉」そして「倭京」などが候補に挙がると思われます。
 この場合「下部整地層」ということから「難波宮」完成以前であるのは間違いなく、その場合はこの木簡に書かれた「和歌」は「地鎮祭」のような儀式で詠われたと考えるわけですが、上にみたように『孝徳紀』の本来年次として「七世紀初め」ではないかということが考えられるわけですから、今仮に「前期難波宮」の工程進捗を「六十年」遡上させて考えてみることとします。
 『天武紀』にある「難波宮」を副都とするという記事自体が『孝徳紀』の記事が移動されていると考えられる訳ですが、そもそもそれが「七世紀初め」からの移動であるとすると、天武紀から「六十年」の遡上が措定され、その場合以下の年次への移動となります。

・「天武八年(六七九年)十一月」「是の月に、初めて関を竜田山・大坂山に置く。仍りて難波に羅城を築く。」

 この記事は実際には「六一九年」のこととなると思われるわけですが、(倭京二年)冬十二月乙未朔癸卯(九日)」「…天皇都を難波長柄豊碕に遷す。…」
 さらに以下の記事等も移動するとみられます。

「天武十一年(六八二年)三月甲午朔条」「小紫三野王及び宮内官大夫等に命して、新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都つくらむとす。(中略)己酉(十六日)、新城に幸す。」

 これも移動により「六二二年」記事となります。
 つまり、これらの記事を移動すると「倭京」改元の直後であることとなり、「倭京」つまり「筑紫本宮」造営に続いて「難波副都」造営を構想したこととなるでしょう。
 このように年次移動を措定することは特に不自然でもなく、「六一九年」以前に「難波」に「羅城」の計画が立てられたと考えて問題はなく、更に「六二二年」になってその「羅城内」に「都」(この場合「宮域」と思われる)を建築することとなったという経緯が想定されます。
 「はるくさ木簡」の出土した「層」は、「宮域」を造営するための整地層の「更に下」ですから、上の記事と対照すると「六一九年」以前に「羅城」を構築するための「儀式」の際に使用されたと考えると整合すると思われます。つまり「はじめのとし」とは「倭京」元年(六一八年)がその「年次」として該当するのではないかと推察されるわけです。そうであれば「倭京」改元は「難波宮」の造営と関連しているという可能性も出てきます。つまり「本宮」の整備と「副都」の整備とは同時並行して企図されたものであり、それは「天武」の詔にも明らかですが、「都城」は複数必要であるという観念の元のものであり、当初から計画されたものと考えられるわけです。

 この「はるくさの」という言葉は「枕詞」と考えられ、それは「始め」に掛かるものとされていますが(ただし『万葉集』には前例がありません)、「字義」上「季節」にも係っていると考えられます。つまり、旧暦の「春」と言えば「一月」から「三月」ですから、この「儀式」もそのような月を選んで行われたと見ることが出来るでしょう。
 新都計画(新宮)の計画がおおよそ定まった翌年春に「地鎮祭」と思われる儀礼が行われたと見られ、その際に「詠まれた」ものが「はるくさ木簡」ではなかったかと考えられます。

 さらに最近「年代測定」の新手法として開発された「繊維のセルロースに含まれる酸素同位体の量の測定」から算出された「難波宮」の「北方」の「柵」の木材の年代として「五八八年」や「六一一年」が報告されている(※)ことにも強く関係しています。
 それはまた、この「はるくさ木簡」が「重要な儀式」の際に詠まれたとすると、「難波皇子」あるいは「阿毎多利思北孤」の「太子」である「利歌彌多仏利」の「即位」と関連しているという可能性もあるでしょう。

 さらにいえば「万葉仮名」というものの発生が一般の想定よりかなり古い事をも示すものですが、それは『二中歴』の解析から「五世紀」には成立していたと考えられることが妥当性が高いことを示唆します。
 また、ここに書かれていた「皮留久佐乃皮斯米之刀斯■(読めない文字)」という文字列は「一字一音」で書かれており、それは『万葉集』の「初期」とされる「記載法」(仮名音)に合致しています。また『書紀』『古事記』に出てくる「歌謡」も全て「仮名音」であり、そのことからもこの「はるくさ木簡」の時期としても相当程度遡上すると考えるのは当然といえるでしょう。
 また、このことは『万葉集』そのものの成立についてもかなり遡上することを想定させるものです。
 また「現在」確認されている「和歌木簡」のうち『万葉集』中に同じ「歌」があるものは、「あさかやま」を除き一つも「確認」されていません。このことは「現在」見られる『万葉集』に先だって(以前)に「別」の歌集があったことを推測させるものです。

(※)中塚武「気候と社会の共振現象 ―問題発見の新しい切り口―」(『名古屋大学大学院環境学研究科・地球環境科学専攻・地球環境変動論講座』より。

 
(この項の作成日 2013/01/23、最終更新 2016/02/07)(ホームページ記載記事を転記)

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「なにはづ」の歌

2018年04月29日 | 古代史

 現存している「九州年号」史料に拠れば、九州島内で確認される九州年号資料は「熊本」「大分」「福岡」という北部九州地域に偏りを見せています。いわゆる「筑紫」「肥」「豊」三国は古代から非常に結びつきが強く文化圏としても緊密なものがあったと思われ、年号史料が多く見られるのもそういった事が理由と考えられます。
 ところが、この三国も含め全九州から全く「九州年号」が見えなくなる時期があります。(それを記した資料が存在しない、という事)
 それが「願転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」の各年号に渡る五十年ばかりのことなのです。これは、西暦で言うと「五九四年」から「六五二年」までの間です。この間、九州島内から九州年号が見えなくなるわけですが、かえって遠隔地であるはずの「奈良」「愛知」などで確認されているのです。また、遠隔地ながら九州年号発見例が多い「長野」「福島」でも、この期間はほとんど確認できなくなります。
 また、これらの年号が九州島内から確認できなくなる期間は「法興」などの別系統年号と重なっている期間でもあります。しかし、その「法興」も九州島内ではなく、他の地域で確認されているのです。(「愛媛」、「奈良」、「滋賀」、「大阪」)
 この時代は「阿毎多利思北孤」及び「弟王」と跡継ぎである「利歌彌多仏利」の時代に重なっています。彼らは『隋書』にも現れる、存在が非常に明確な人物です。彼らの存在証明とでも言うべき「地元での年号遺存」の状況が全く見られない、という事は彼らの統治が「筑紫」の内部に「及んでいない」という事ではないでしょうか。そして、「近畿」の地域を中心としてこの時代の年号が多く確認される、という事はこの時期「阿毎多利思北孤」と「弟王」は「近畿」に政治の中心を移動させていたのではないかと推察されます。

 「複都制」の詔により「難波」が「都」となるわけであり、そこで壮大な宮殿の完成となります。これを従来通り「七世紀半ば」のことと捉えると、それ以前に「摂津難波」に何かしら、倭国王の拠点のようなものがあったのではないかと考えざるを得ないこととなります。つまり、「難波朝廷」が「なぜ」「難波」に設置されたのか、なぜ「複都制」が最初に適用されたのが「摂津難波」なのか、という問題につながるものです。
 これに関しては「神功皇后」の時代に「住吉大社」の「支社」が「摂津」に作られた、という伝承が注目されるでしょう。
 すでにみたように「神功皇后」の実際の時代は「阿毎多利思北孤」の時代と同時代と考えられ、その「阿毎多利思北孤」は「筑紫」に「宮都」を建設しているわけですが、それを首都としながらも、仏教布教のため、「附庸国」を巡行していったと思われ、その際に(「四天王寺」を移築して)「摂津」という「筑紫王権」の前進拠点とも言うべき地に「天王寺」を作ると共に、その地に「行宮(仮宮)」を造り、ここに居する事が長くなったものと思われます。

 ところで、『二中歴』の「都督歴」によれば「最初」の都督とされる「蘇我日向」は「大宰」として「筑紫本宮」に赴任したとされています。ここで言う「本宮」というのは「仮宮」や「行宮」あるいは「離宮」などに対する用語であり、本来常住している「宮殿」を言うものです。つまりこの記述は「筑紫」に「本宮」つまり「本来の宮殿」があることを示すものといえますが、それが「孝徳」段階であるのは、『書紀』における「倭京」の初出が『孝徳紀』であることとつながっていると思われます。

(六五三年)白雉四年…是歳。太子奏請曰。欲冀遷于『倭京』。天皇不許焉。皇太子乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟等。往居于『倭飛鳥河邊行宮』。于時公卿大夫。百官人等皆隨而遷。由是天皇恨欲捨於國位。…」

 つまり「孝徳」(難波朝廷)段階以前には「倭国王」は「筑紫」など「近畿」とは異なる地域にいたものであり、それを「倭京」と称したものと思われるわけです。そしてこの時点で「筑紫」から東方へ進出しその「前進拠点」として「難波」に「宮殿」を造ったことを示すと思われますが、これはいわゆる「難波副都」を指すものと思われます。そして、その段階で「蘇我日向」が「大宰」としてその「前進拠点」から「筑紫」へ戻されたとするわけですが、「大宰」は本来「王」と共にいるものであり、この時点で「倭国王」もまた「筑紫」に所在していたことが想定されます。そう考えると、この時点で「難波副都」にいたのは誰かということとなりますが、『書紀』ではこの時「難波」にいたのは「中大兄」ですから、これが現実の何らかの反映であるとすると「倭国王」の「太子」が「前進拠点」としての「難波」にいたという可能性を示唆するものと思われます。そして、「蘇我日向」は「大宰」と兼務として「都督」つまり「倭国」の「軍事力」の「元締め」として「筑紫」を「守衛」していたと考えられます。
 また『二中歴』の「年代歴」によれば「倭京」改元は「七世紀初め」と考えられており、さらにその「二年」に「天王寺」が「聖徳」により創建されたと書かれていますので、この時点で「難波」に大きな拠点が築かれたことは確実と思われますが、これは『孝徳紀』のあるべき「年次」としては「七世紀初め」という時期がもっともふさわしいことを意味するものといえます。

 ところで、「なにはづにさくやこのはなふゆごもり、いまはるべとさくやこのはな」という和歌が書かれた大型木簡が各地に出現しています。それらは「徳島県」(観音寺遺跡)など地方にも及んでいます。
 この木簡は長さが「二尺」(60cm)以上あったと考えられ、全長を復元すると「74cm」あったのではないかとされるものもあるようです。これは「縦一行」に歌の全文が書かれているものです。このような大きな木簡は日常的使用の観念を超えており、明らかに「儀式」など公的な場で、この木簡を「捧げながら」「朗詠」する際に使用されるものであったと思われます。(合唱したのではないかという考えもあるようです)
 これに関して「古今集」の「仮名序」には以下のようにあります。

 「なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり(おほささぎのみかど、なにはづにて、みこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌也。この花はむめの花をいふなるべし。」という風に書かれています。

 この「仮名序」そのものは「紀貫之」の書いたものであると思われますが、「括弧」の中の文章は「古注」と呼ばれ、誰が書いたものか不明なのですが、非常に古いものであり、「古今集」成立から余り時間が経過してない時期のものと推察されています。そして、この「注」によると、この「なにはづ」の歌は「おほささぎ」つまり「仁徳天皇」に関わるものであるとされているようです。
 この歌が、ここに書かれたような古いものであるのかどうかは議論が分かれていましたが、「法隆寺」を解体修理した「昭和の大修理」の際に、解体された五重塔の部材に(天井裏組木)「奈爾波都爾佐久夜己」と書かれているのが発見されています。
 「法隆寺」の「五重塔」については心柱の伐採年が「五九四年」と確定しており、他にもかなり古い部材が使われているようにも見えますが、それとは逆にかなり新しい部材も使用されていることも判明しており、部材の構成が多様な面を持っています。このため、この天井組木についても確定した答えは出せませんが、もし古いものであったなら、移築前の「筑紫」段階で書かれたという可能性もあるでしょう。その場合は「七世紀初め」付近で書かれたものと思われ、この歌が捧げられたその時点で書かれたと言うことも想定できるものです。少なくとも、「八世紀」の初めには「五重塔」は建てられてしまっていますから、その直前(遅くとも「七世紀」の終わり)までにはこの歌が書かれたことは確実だと考えられます。
 これを書いたのは、このような寺院などの建築に携わる人たち(宮大工)などと思われますが、彼らの間でも著名であった歌なのだと思われます。
 ただし、これらのことは「この歌」の期限を確定させるものではなく、あくまでも下限を示しているものですから、「仮名序」に言うような「仁徳」のもの(つまり「四世紀」のもの)と即座に判断することはできません。
 
 また「仮名序」の「紀貫之」の「本文」でも「みかどのおほむはじめなり」、つまり、帝(御門)というものが始められた最初の時に歌われたもの、と言う意味のことが書かれていますが、「仁徳」が実は「阿毎多利思北孤」の「弟王」の反映ではないかと考えたわけですから、日本で最初に「帝」(御門あるいは天子)を自称したのは倭国王「阿毎多利思北孤」(というより「弟王」)だったのかもしれません。その弟王が「押坂(忍坂)彦人大兄」の「弟王」である「難波皇子」であるとすると、その名称と「古注」の「なにはづにてみこときこえける時」という形容は見事に重なるといえます。
 彼は「遣隋使」の言葉から判断して「隋王朝」が成立する以前から「阿毎多利思北孤」と共に「兄弟」で統治を開始していたと考えられ、その後「阿毎多利思北孤」が「倭国王」となった時点以降、彼が実務の面で「倭国」を代表する地位に就いた際に自らを「帝」(御門)の位置に置いたものと推量されます。そう考えるなら、「みかどのおほむはじめなり」という言い方がは実態に即しているともいえます。
 つまり、この歌は彼の「帝」としての即位の際に「お祝い」として詠まれた歌なのではないかと考えられるものです。

 また、「筑紫」の「志賀海神社」に古来から伝承されている歌にこの「なにはづ」の歌があることも明らかになっています。また、この「和歌」の中で詠われている「花」は「古注」にもあるように「梅」の事と考えられています。
 「梅」は原産が中国であり、「倭国」には元々なかった木(花)です。これが「倭国」に伝わったのは「南朝」と交流が始まった「倭の五王」の頃のことと考えられます。
 「梅」の発音は「むめ」ですが、本来これは「んめ」(nme)であったと思われ、これは「梅」の呉音「まい」(nmai)からの転音と思われ(漢音は「ばい」)、この言葉が南朝から渡来したことを示していると考えられます。
 当時の「倭国」には「ん」の音が無く、そのため「n」の発音ができず、それを「u」で代用しているのです。
 同様の例に「馬」「nma」→「uma」、「王」「wan」→「wau」、「阿吽の呼吸」の「吽(うん)」「n」→「un」などがあります。

 「仁徳」が本当に『書紀』に書かれているような「四世紀末」の人物であるとすると、まだ「倭国内」には「梅」が伝来していない時期と考えられ、「なにはづ」の歌の人物としてはふさわしくないものと考えられます。
 また、「外来種」である「梅」は、積極的に各所に根分けなどしなければ、広く各地の山野などで見ることができたわけではなく、そのためその後も「梅」は「筑紫」の「太宰府」付近でしか見ることができなかった模様です。今も「太宰府の梅」と言えば全国的に「梅の名所」で有名であり、中国から伝来した梅が最初に列島へ到着した地点が「筑紫」であったことを物語っています。
 そして「梅」はその後「倭国王」を象徴する「花」となり、「花」と言えば「梅」と云われる起源となったものでしょう。
 「なにはづ」に「天王寺」ができ、「仮宮」などが作られたときに「根分け」された「梅」が「難波」に植えられたものと推察されます。
 (「梅」が根分けされ、植えられたことが理由で「難波」という地名も(皇子と共に)「筑紫」から移動したという可能性もあるでしょう)

 『二中歴』の解析により「四八一年」に「明要」改元された際に「漢和辞書」ができたと推測され、これを完成させるために編み出された「万葉仮名」を用いて、その後たくさんの和歌が詠まれたこととなったと思われますが、それらが「倭国」の人々の一般教養となったのだと思われます。
 前記したように『万葉集』の中には「古集」というものが出て来ます。これらの「古集」は「阿毎多利思北孤」ないしは「難波皇子」の「勅撰集」として編纂されたものと考えられます。
 当然その中には「倭国王」の象徴である「梅」を読み込んだものもたくさん造られたことと思われ、「梅」伝来の地である博多湾岸の「筑紫の志賀海神社」にこの「和歌」が遺存しているのも理解できるものです。

 また、この「なにはづ」の歌は、同時に「あさかやまかげさえみゆるやまのいの、あさきこころをわがおもわなくに」と言う、いわゆる「安積山」の歌と共に歌われたものと思われ、この二つはセットで詠まれる歌であったと推定されます。
 仮名序でも「歌の父母」としてこの二つ歌は紹介されていますが、「紫香楽宮」跡地からこの二つの歌がセットで(裏と表)木簡に書かれているのが出土しています。
 この二つの歌「なにはづ」と「あさかやま」が「歌の父母」として仮名序に書かれているのは、つまり、誰でも知っている、非常に有名な歌である、ということを意味すると思われます。なぜ誰でも知っているかというと、公的な場で多くの人の面前で声に出して詠まれる歌だったからではないでしょうか。大型木簡に書かれていたのは、遠くから見てもわかるように、という意味であり、それは即座に多くの人が集まっている場を想起させるものです。
 また、このことは「紫香楽宮」で聖武天皇が「遷都」など儀式を行なった際に「なにわづ」「あさかやま」を読み上げていた事を推定させますが、彼にとってこの儀式は「特別」な意味を持っていたものと推察されます。
 彼は「不改常典」を遵守することを誓約して即位しているわけですが、(私見では)この「不改常典」が「十七条憲法」を意味すると考えられるわけであり、その「十七条憲法」の制定は「阿毎多利思北孤」ないしは「難波皇子」によるものと考えられますから、「なにはづ」の歌を詠ずるという儀式は、「不改常典」と共に「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」への尊崇を表明するものとなっていたことを推定させるものです。それは彼が「出家」した際に「沙弥勝満」という「法号」を授与されていることからも分かります。
 この「勝満」は「斑鳩厩戸勝鬘」という名称から流用したと考えられ、これが「聖徳太子」を指して使用されていたことは(これは誤用と思われるものの)確かであると思われ、その「聖徳太子」は「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」の合体の投影ともいうべき存在ですから、聖武天皇の「尊崇」の対象も実は「聖徳太子」というような人物ではなかったと考えられるものです。

 「阿毎多利思北孤」と「弟王」は「天子」(皇帝)を宣言し、「改新の詔」などを初めとする「大改革」を実行し、「聖帝」とされたわけですが、彼を「尊崇」することを「表明」していると云うことから、「聖武」も自らを「天子」や「聖帝」として意識していたのではないかと考えられますが、それは「聖武」を「あめのみかど」と称する「歌」や「解釈」が残っていることからも、推察できます。
 この「あめのみかど」という「呼称」に関しては「山田孝雄氏」の詳細な研究があり、それは「天智」を指すというそれまでの解釈を否定するものでした。彼はその研究の中で「あめのみかど」という語について『漢字で書く時に天帝若くは天皇といふ文字を宛ててよい樣だから、その意味でいへば、いづれの天皇をもさし奉りうることになる。さうすれば實はいづれの天皇をさし奉るのであるか、わからぬことになつてしまふ。そこで、これは、ある特別の天皇をさし奉つたのだといふことが證明せられねばならぬことである。』とされており、これは「先帝」という「語」の用法にも言えることと考えられます。
 この「あめのみかど」という一見「天皇」の普通名詞的な呼称が特に「聖武」に限って使用されていたということの中に「聖武」の「神聖性」が浮き出ていると思われます。それは「先帝」といえば「聖武」を指すものという事がこの時代以降形成されたことを示すのではないでしょうか。
 「なにはづ」の歌が書かれた「木簡」が「紫香楽宮」から発見されていることは、彼が「利歌彌多仏利」の「神聖性」を継承したという意味があったものと見られ、「大仏建立」などの事業を行なったのも同じ意識からであったという可能性があるでしょう。


(この項の作成日 2011/01/22、最終更新 2016/02/07)(ホームページ記載記事を転記)

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「君が代」について

2018年04月29日 | 古代史

 「君が代」の最古型とも言うべきものが「我が君は」で始まる「古今集流布本」タイプであることが古田氏の研究により指摘されています。(『「君が代」は九州王朝の賛歌』新泉社)以下はこの研究に準拠しています)
 これをモチーフとして用いた「薩摩琵琶」の「蓬莱山」の詞の中では「命長らえて」と歌われており、これは、この「和歌」が「我が君」の「長命」を願って作られたものであることを示唆するものです。

 以下「薩摩琵琶歌」「蓬莱山」の「詞」です。
「目出度やな、君が恵みは久方の、光り長閑けき春の日に、不老門を立ち出でて、四方の景色を眺むるに「峯の小松に雛鶴棲みて、谷の小川に亀遊ぶ、君が代は千代に八千代に礫石の巌となりて、苔の生すまで」命長らえて、雨塊を破らず、風枝を鳴らさじと云えばまた「堯舜の御代も斯くやあらん」斯程治まる御代なれば、千草万木花咲き実り、五穀成熟して、上には「金殿楼閣甍を並べ、下には民の竃を厚うして、仁義正しき御代の春、蓬莱山とは是とかや」(後略)」

 この歌では「不老門」(宮の北側の門)から出ると「四方」が見渡せる、と謡われており、「宮の北側」は「山」であったことを示唆させるものです。これは「筑紫」宮殿(太宰府)の場合に適合するものと考えられます。

 この「我が君」とは誰か、モデルとなった「倭国王」は誰かと考えた時に、注目されるのが「命長」という九州年号の存在です。
 この「命長」年間としては「六四〇年」から「六四七年」の事であったと見られ、この間のこととして「善光寺」に「聖徳太子」が「願文」を送った、という善光寺文書があることについても、その内容とこの「君が代」(我が君)という和歌との関連があると考えられるものです。

         御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
       斑鳩厩戸勝鬘 上

 前述したようにここでは、「斑鳩厩戸勝鬘」という人物が「困苦」している人物のために「済度常護念」ができるように助力を嘆願していると思われます。
 古田氏が言うように、「長命」を願って「和歌」や「願文」が作られ、また「命長」と改元される、ということは、「倭国王」(我が君)の現状として「病」に倒れていることを推測させ、その回復を願う為になされた一連の作業であったのではないかと思料されるものです。

 この『古今集』の「君が代」(我が君)は「題知らず、詠み人知らず」とされており、歌われた年代なども不明ですが、「命長」改元が「六四〇年」、「善光寺文書」の「願文」の日付が(後代の改定の手が入ってはいるものの)「六四六年」と考えられ、これらの年次から、この人物は『隋書俀国伝』に「阿毎多利思北孤」の「太子」と書かれた「利歌彌多仏利」である可能性が高いものと思料されます。
 
 彼は、『隋書俀国伝』に「征戦」がない、と書かれたように「父」である「阿毎多利思北孤」の仏教による「全国統一」という事業を継承していたと思われます。それを示すように「蓬莱山」の中では「弓を袋に」「剣を箱」に納めてしまっていて、戦いの無くなった世の中であること物語る状況が謡われているようです。
 またこの「和歌」に出てくる「千代」「細石」「巌」「苔生す」などが近接して地名として存在しているのは「福岡」市の他はなく、また九州博多湾に浮かぶ「志賀島」の「志賀海神社」(祭神は「阿曇磯良」)で古くから行われている「山ほめ」の神事でこの「和歌」が「謡われる」事、あるいは「善光寺如来」への願文の送付の使者が「黒木臣」という「福岡」・「宮崎」に非常に多い名前の人物が登場するなど、諸々のことから考えて、この歌は「筑紫」(「博多」)で歌われ、その時点の「我が君」も「筑紫」(「博多」)にいた、という可能性が高いものと思料されるものです。
 もちろん「薩摩琵琶」に採用されている、というのはかなり長い間「九州」内で謡われていた「伝統」のあるものということを前提にしなければ理解できない性質のものですから、この点でも「倭国王」と「九州」の関係の深さが覗えます。
 
 また、「香椎」という「謡曲」中にも以下のように謡われています。

「是処は香椎の浜びさし。久しき国の名をとめて。海原や博多の沖に懸りたる。/\。唐土船の時を得て。道ある国の例かや。三韓も靡く君が代の。昔に帰る政事。我等が為は有難や。/\。」

 ここでは「博多」(香椎)と「君が代」が何らかの関係があることを示唆する内容になっています。
また「難波」という謡曲では「仁徳」に関わる表現として、以下が書かれています。

「浜の真砂も吹上の。浦伝ひして行く程に。早くも紀路の関越えて。是も都か津の国の。難波の里に着きにけり/\。「君が代」の長柄の橋も造るなり。難波の春も。幾久し。雪にも梅の冬籠り。今は春べの気色かな。」

 など書かれており、「君が代」が「仁徳」と関係があるように書かれていますが、その中に「吹上」という地名も確認され、これは「筑紫」の地名でもあるわけであり、ここでも「君が代」と「筑紫」、「君が代」と「仁徳」というものが浅からぬ関係にあることが判明します。
 
 ところで、先述したように、この「君が代」は「志賀島」の「志賀海神社」の祭礼の際に「謡われる」訳ですが、その中では「君」とは「阿曇の君」であるとされています。つまり、「利歌彌多仏利」のための「歌」であるはずが、後に「阿曇の君」に対して使用されるようになったという事を示しています。この事は当然「阿曇氏」と「利歌彌多仏利」に何か関係があることを推測させます。
 「阿曇氏」の先祖と目されるのは「阿曇磯良」という人物であり、彼は「神功皇后」の「三韓征伐」の際に「水先案内人」的役割で登場するのが始めです。
 つまり、「神功皇后」との関係でその存在が『書紀』中で語られているわけであり、その「神功皇后」が実は「阿毎多利思北孤」の母(鬼前太后)ではないかという事と、この「君が代」が「阿曇の君」のために歌われているという事実を考え合わせると、「利歌彌多仏利」は「阿曇系」人の人物と考えられ、「阿毎多利思北孤」の妻である「干食王后」の出身が「阿曇族」ではないか、と推測されるものです。

 西村氏の研究(「神代と人代の相似形」古田史学会報第六十号 二〇〇四年二月)を「敷衍」すると、「天孫降臨神話」との対応において「山幸彦(彦火火出見)」が「利歌彌多仏利」のこととなると考えられますが、「山幸彦」は「海人」の娘「豊玉姫」と結婚したこととなっています。これは「利歌彌多仏利」が「阿曇族」と関係ができたことの反映したものと思われ、そうであれば「利歌彌多仏利」について謡われた「君が代」が、「阿曇磯良」を祀る「神社」の祭礼で登場するというのも了解できるものです。
 
 また、そのことは「七九二年」に提出された「高橋氏文」にも表わされています。この書は「高橋氏」の「膳夫」としての正統性を主張するためのものという性格の書ですが、この文書の中で「高橋氏」は「阿曇氏」について、「応神天皇」に仕えた「大浜宿禰」が最初である、という主張を行っているのです。(これに対して自分たちはもっと早い時期から仕えてるというわけです)
 「応神天皇」は「阿毎多利思北孤」の投影と考えられますから、この事は「阿曇氏」と「阿毎多利思北孤」の関係がこの時代になって始めて成立したことを示唆するものであり、先の推測に重なるものです。

 「神功皇后」は「宗像」系と考えられますが、対「新羅」との戦いにおいて彼らだけでは不足であった軍事力を補強する意味でも「阿曇族」と「婚姻」による「友好関係」を構築し、そのことがそれ以外の「松浦」水軍、「住吉」水軍等が加わる契機ともなったと考えられ、「統一水軍」が形成されたことが「倭国政権」の補強に重要であったこととなったと思慮されるものです。
 「利歌彌多仏利」と「阿曇氏」が関係していることを示すのが、「近江」に存在していた「崇福寺」(志我山寺)という寺院です。この寺は「天智天皇」の発願であり、「六六八年」の創建と伝えられています。この「崇福寺」が「滋賀」の地に建てられているのは、この地に進出していた「阿曇氏」を妻に持つ「利歌彌多仏利」であってみれば当然かもしれません。
 「滋賀」は「阿曇」氏が進出した場所であり、そのため「筑紫」の「志賀」の土地名をそのまま持ってきていると思われるのです。


(作成日 2011/09/05、最終更新 2014/11/29)(ホームページ記載記事を転記)

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「法円坂」遺跡について

2018年04月29日 | 古代史

 大阪の中心部、大阪城やその前身である石山本願寺などがあった「上町台地」上に「法円坂遺跡群」と称される遺跡が存在しています。これは「前期難波京」のさらに下層に存在しているものであり、総床面積が1500平米にもなろうという東西計16棟の建物群です。またこれらの建物群の存在時期として「五世紀後半」と考えられており、そのような時代にこれらの巨大な建物群が整然とした形で存在していたのです。

 この遺跡の大きさと配列については「短里系」の基準尺の存在が推定されています。その復元された寸法は「南朝尺」である「24.4センチメートル」付近の値が措定されており(東側列倉庫群)、また「正方位」が既に指向されていることから、「倭の五王」の時代に先進的「南朝文化」が導入されたものと思われることと重なっており、「倭国王権」が主体となった「直轄」事業であることは間違いないと思われます。
 「倭国王権」は幾度も「南朝」に対し「使者」を派遣し「将軍号」を授与されるなど関係を深めていたわけですが、それは「政治的」な部分だけではなく「文化」「制度」「宗教」など多岐にわたるものであったと考えるのが通常でしょう。そうであれば測量術など土木技術なども学んだという可能性を考えるのはそれほど不自然ではありません。
 また同じく「上町台地」上に「難波大道」の存在が確認されています。後でも述べますが、この「難波大道」は「古代官道」の中でも「初期」に部類するものであり、それらに共通してやはり「南朝系」の「基準系」があることが確認されています。
 この「法円坂遺跡群」は明らかに「前期難波宮」に先行するわけですから、「難波大道」も「前期難波宮」に先行すると仮定した場合、必然的にこの両者(「法円坂遺跡群」と「難波大道」)に関係があると考えざるを得なくなるものです。
 そもそも「法円坂遺跡群」は、その規模が非常に大きくこれが「一地方勢力」の範疇を遥かに超えるものであることは間違いなく、そこに「倭国王権」が深く関与していることは確実であり、そのことと「難波大道」という同じく「王権」の関与無しには建設できるはずのない「インフラ」がほぼ同時期に存在している事の間には「直接的関係」があると考えるのは相当と思われるわけです。

 ところで『書紀』に「難波」に都を構えた「天皇」として書かれているのは「孝徳」以前には「仁徳」がいます。「難波大道」記事が出てくるのも彼の時代のことであるわけですから、「難波高津宮」という「仁徳」の宮殿は「法円坂遺跡群」とどのような関係にあるか明確にする必要があるでしょう。
 (ただし『書紀』や『古事記』による限り「仁徳」の年代としては「五世紀」ではなく「四世紀」が想定されていますが、それが実際と異なるであろうというのは種々の理由から明らかです。)
 「法円坂遺跡群」は「建物構造」として「蔵」が推定されているわけですが、それらの建物群の中には「棟持柱」を持つものがあり、これは「集会場」などに使用されていた実績が「弥生」や「縄文」の遺跡から確認されています。このことは一概に「蔵」つまり「倉庫」としての機能しかこれらの建物にないと決めつけるのは早計であるようにも思われ、「宮殿」あるいは「祭祀」につながる用途のものも推定すべきものと思われます。少なくともこの「建物群」の中に「宮殿」がなかったとしても近在には必ず存在していたと思われ、そのことと「高津宮」とが重なるとも言えるでしょう。

 ただし、これらの「建物群」が「倉(蔵)」としての機能がその中心であったこともまた確かであり、その場合それが「邸閣」つまり「軍事用途」であったという可能性は十分にあると思われます。
 「邸閣」とは『倭人伝』にも見られますが、「租賦」を収めるとされると共に『三國志』全体からの結論として「軍事」用途であって、「軍」に糧食として供出すべき存在であったと考えられています。
 「法円坂遺跡群」の時代背景からも、また「武」の上表文からも「武」の時代に「東国」にその軍事的行動の範囲が広がったであろうと推定されることは確実であり、そのこととこの「法円坂遺跡」が関係している可能性もあり、「東国」に対する前進基地(ベースキャンプとでも言うべきでしょうか)を形成していたという可能性を推測させるものです。(その場合当然「糧食」だけではなく「武具・馬具・刀剣類」などの軍事物資も収蔵されていたと考えるべきでしょう。)
 これがそのような「軍事」に関係している施設であるとすると、この場所に「中央官庁」があったとは考えにくいこととなるでしょう。そのことはこの「法円坂遺跡群」がある時期一斉に取り壊され、柱の一本も残さず抜き取られているという事実からも推定できるものです。(しかもその後「更地」になっています。)
 これらの建物群の存在の背景として軍事的用途があったと見れば、その存在の「必要性」がなくなれば移動・撤去されるべき性質のものであったことは確かであり、軍事作戦の変更(他の地域への転進あるいは撤収)に伴うものというというようなことが考えられるでしょう。

 これら「法円坂遺跡群」の存在は倭国王権の東方進出と重なるものと考えられますから、その技術的背景とともに「倭の五王」の時代が想定され、その設置時期としては五世紀前半、その撤収時期としては五世紀後半ないしは六世紀はじめが考えられるでしょう。ただし「撤収」の意味としては、これが「東国」への支配が貫徹したからなのか、あるいは「武」の時代以降方針変更等があり撤退したからなのかはやや不明ではあります。
 「七枝刀」の考察のところでも触れたように「仁徳」の墓とされる「大仙陵古墳」から出土したとされる「七子鏡」とその年代(「六世紀初め」)から見てこの「古墳」が「武」の墓ではないかと考えられることからみても整合的といえるでしょう。 
 このように考えてみると、この「法円坂遺跡」というものが東国に対する軍事行動の拠点とすれば、それがある時期撤去されるというような流れを見てみると、その発進地として明らかに近畿にはその中心がないこととなり、発進地としては近畿以西のどこかであると思われることとなりますが、最も可能性が高いのは「九州島」の中にあったと見ることではないでしょうか。


(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2017/01/16)(ホームページ記載記事に加筆修正)

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