不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「評制」と「総領」

2018年04月28日 | 古代史

 『常陸国風土記』によれば「我姫」地域に対して「高向臣(大夫)と「中臣幡織田連(大夫)」が「総領」として「坂より東」を支配していたとされますが、彼らはどこに所在していたのでしょう。

 後の『延喜式』でも「大国」に分類されているのは「板東」では「武蔵」「総」「常陸」の三つの国であり、遡って「阿毎多利思北孤」の時代でも、このいずれかの国に「惣領」の所在地があったと考えられます。
 「筑紫太宰」(惣領)の場合は、現「太宰府」が所在する場所に当時も「太宰」(惣領)はいたものと考えられます。また、「吉備惣領」の場合は「現在」もその所在地が不明ですが、いわゆるその地域の古代からの「中心」とも言えそうな場所に「惣領」がいたものと考えられ、現在の「広島県府中市」付近ではないかと考えられています。このような場所は、それ以降「国府」が置かれたため、いまでも「府中」という名が残っている場合が多いと考えられます。
 関東(坂東)の場合「古代」からの代表的な場所、というのは「武蔵」か「常陸」ではないかと考えられます。「武蔵」は「倭の五王」の時代にも、服従させられることなく、独立地域であったことが推察され、ここに「関東王権」の「都」というべきものがあったと考えられています。逆に言うと「武蔵」は独立性が強く、この時期以前には「倭国」の支配に「明確」に入っていたかどうかははっきりしません。
 それに比べ「常陸」は「九州」と文化的に近く、「直轄地」であった可能性が強いと考えられます。(「装飾古墳」や「五弦の琴」などの存在)
 また、「常陸」ではその後「天智天皇」が「六七〇年」に施行したといわれる「庚午年籍」も、実は作られておらず、その翌年の「辛未年籍」が作られていた経緯があります。(庚午から作り始め翌年の辛己で作り終えたとされるが、それでは他の地域ではなぜそうでなかったのかが不審となるでしょう。
 これらのことから「九州倭国中央」に(政治的に)近いのは「常陸」であり、「惣領」も「常陸」にいたのではないか、と考えられます。
 つまり、「高向臣」と「中臣幡織田連」の二人は「常陸」から「関東」全体の支配・統治行為を行っていたものと考えられるわけであり、この事を示すように後の「中臣鎌足」の伝承の中には、その出自が「常陸」であるというものがあるのです。
 また、その「評制」施行の目的である「軍事態勢」の強化のために構築されたのが「古代官道」と呼ばれるものであったものであり、「古代官道」の整備と「惣領」設置とは深く関係していると推察されます。それを示すように「惣領」が配置されたと『書紀』及び『続日本紀』に出てくる「筑紫」「吉備」「周防」「伊予」は「最重要路線」である「山陽道」及び「南海道」の要所であり、「筑紫」と「副都難波」の間の最重要路線(地域)に対して、統治強化の一環として設置・任命されたものと推量します。
 また「利歌彌多仏利」以来の「我姫」には「東海道」の末端として「常陸」に「国守」が設置されたという記事があります。

「(文武)四年(七〇〇年)冬十月己未条」「以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。」

 こでは「筑紫」「周防」「吉備」に「総領」が配置されていますが、「常陸」には「総領」ではなく、「国守」が任命されています。それは「常陸」の地を含む「我姫」には総括者として既に「総領」がいたためであり、その内部の各個別の「国」(広域行政体)の首長を任命するという段階にすでに進んでいたものと思われます。

 また『書紀』で「惣領」(総令)が出てくるものに以下の記事があります。

「儲用鐵一万斤送於周芳總令所。
 是日筑紫大宰請儲用物?一百匹 絲一百斤 布三百端 庸布四百常 鐵一万斤 箭竹二千連 送下於筑紫。」「(天武)十四年(六八五年)十一月 癸卯朔甲辰条」

  ここでは「周防惣令(惣領)」に対して「鐵一萬斤」が送られています。(同じ日に「筑紫」にも同様に送られています)これらの記事は(すでに見たように)「年次移動」の対象と考えられ、実際には「七世紀初め」の時点の記事である可能性が高いと思料します。すると、その段階で「周防」には「総領」が存在している事となります。
 また、「吉備総領」については以下の『備前国風土記』の記事が参考になると思われます。

「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後 石川王為総領之時 改為広山里…」『備前国風土記』「揖保郡」の条。

 ここでは「石川王」が「総領」として登場しますが、彼は「難波王」の子供とされ、その「難波王」が「六世紀終わり」の時代を生きた人物と推定されていますから、「石川王」についてもせいぜい「七世紀前半」程度の時代が活躍した時期と推定できます。その「石川王」が吉備総領として「広山里」へ変更したというわけですが、これは単純な「名称変更」ではなく「村」から「里」への変更が成されているようです。つまりこれは明らかな「制度変更」(それは境界変更も含む可能性があります)であると考えられます。
 ところで、『播磨国風土記』を見ると「餝磨郡小川里条」や「餝磨郡少宅里条」等に「庚寅年」に「里名」が変更されたという記事があります。こちらは「里」から「里」への変更であり、「備前国風土記」とは意味合いが異なりますが、こちらは単純な名称変更ではなく実態としては「五十戸」から「里」への変更を示すものと考えられるでしょう。
 この「庚寅年」というのは「三野国」木簡の解析からの判断として、「五十戸」から「里」変更が行われた年とされますが、これも「干支一巡」遡上した「六三〇年」のことと考えるべきです。
 しかし、この年次で制度改定があったとすると、「吉備大宰」であったとされる「石川王」の死去年次である「六一九年」以前に「播磨」において「五十戸制」から「里制」へ変更されたとは非常に考えにくいこととなります。
 このことから、この『播磨風土記』の記事は「五十戸制」以前の「八十戸制」段階での「村」であったものが「五十戸制」を経ずに「里制」へ移行した記事ではないかと推察されることとなり、「吉備」では「五十戸制」が施行されなかったのではないかと考えられることとなります。それは「評」が記された「吉備」関連の木簡群の中に「五十戸」木簡が見られず、「里」木簡しか見られないことからも推察できることです。
 現時点では理由は不明ですが、「吉備」では「五十戸制」が施行されず、いきなり「里制」へ移行したものであり、それも他の地域に先行して移行したと考えられることとなります。(このようなことが起きた可能性としては「五十戸制」が布かれていないのはその時点でそれを受け入れなかったことが考えられ、当時の吉備地方王権が倭国王権に対して拒否の姿勢を持っていたことを示すものではないでしょうか。他地域に先行して里制が施行されるのも特にこの吉備が重要地域であったからであり、「改新の詔」と一連の詔の中で「吉備姫王」の持つ「貸稲」の権利を返上させていることと関係していると思われますが
現段階では詳細は不明です。)

 これらの例から考えて「総領」(惣領)は「我姫」の例も含めて全て「利歌彌多仏利」朝の設置ないし任命と考えられ、「遣隋使」による隋制下にあった「州」に設置された「総管」を模したものではないかと思われます。それはこの「総管」が基本的に複数の将軍を束ねる立場の職掌であり、軍事面での存在意義が強かったと思料されることからの類推として、「惣領」においても「評制」施行などと同様「軍事的意義」がそこに込められていると考えられます。ただし「総管」が全ての州にいたわけではなかったように「総領」も軍事的意義の大きい地域に対して配置されていたものと見られ、選択的な配置であったと推量されます。(「総管」が「道」に対して設置されることを考えると「倭国」においても同様であったことが考えられ、各地域へとそこへの官道から命名されるものという意義があったものとみられる)

 「周防総令」の例は上でも見たように「大量」の「鐵」の支給を受けており、これは同時に「筑紫」に送られた「布生地」などと同様軍事目的であったと考えられ、それは「周防総令」の存在意義そのものに直結するものであることを強く示唆するものです。


(この項の作成日 2011/07/06、最終更新 2015/07/06)(ホームページ記載記事を転記)

コメント

「防人」と「評制」

2018年04月28日 | 古代史

 『書紀』では『天武紀』に「諸国限分」を行った記事があります。

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」

 この記事によれば「諸国」とありますが、実際には「限分」されたのは全て「東国」です。それは以下の記事が証明しています。

「詔曰。東山道美濃以東。東海道伊勢以東諸國有位人等。並免課役。」「(天武)十四年(六八五年)秋七月乙巳朔辛未条」

 この中の「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国」という言葉からは、「分限」されたのが「東国」諸国であったことを示しています。これは「評制」施行のために「境界画定」作業を行なったことを意味するものであり、その労苦に報いて「課役」を免除するという措置を下したものでしょう。これは「東国」に対する一種の懐柔策であると思われます。

 もともと、各地域にはその地を牛耳る権力者がおり、彼とその地域を防衛するための兵力は以前からあったものと思われますが、「評制」の全国的施行により(それは「官道整備」と関わるものと思われますが)「倭国王権」の支配が全国に透徹するようになったものと思われ、中央から諸国への軍事力の展開が可能となったことと、それとは逆に諸国からの農作物を始めとする物品の徴収あるいは搾取が可能となったほか、「直接」的兵力調達が可能となったものと思われます。
 それまでの「地域的ボス」(これを一般には「在地首長層」という言い方をするようです)だけが「兵力」保持できるものであったものが、この「評制」施行により「倭国王」が直接的に「兵力」を確保することが可能となったものと考えられます。そして、これらの兵力のうちの一部は「筑紫」(=畿内)の外部防衛線を形成するものとして徴発されたものであり、このような人々が「防人」(戌人)と呼ばれた人たちです。 
 この「兵力」確保については、この「評制」施行時点ではまだ「八十戸制」であったと考えられ(後述)、その時点ではまだ本格的な「軍制」は定められていなかったと見られますが、「遣隋使」が派遣されて「隋制」が導入されて以降「五十戸制」に変わったものと見られ、それによって「戸制」が「軍制」に関連させられることとなったと見られます。
 つまり「後の」『養老令』によると「軍隊組織」の基本である「隊」(一隊)の人数は「五十名」であり、これは「一戸一兵士」で選出するのが「基準」とされていたのではないかと推測されるものであり、それは「二〇一二年六月」に「大宰府」から発見された「戸籍木簡」でも「兵士」と書かれた人物は一名だけであったことからも理解できると思われます。
 つまり、この事はこの時点以降「評」や「評督」そして、その頂点にいたと考えられる「都督」など「軍事的組織」と「戸制」とが強く結びつくこととなったと考えられるものです。
 この「六世紀末」という時期に「一隊五十人」を基礎単位とする「軍制」があったと考えられるのは、『書紀』で「蘇我入鹿」についての描写で「五十人」の兵士に警護されている様子が描かれていることからも推測できます。

「(皇極)三年(六四四年)冬十一月。蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣雙起家於甘梼岡。稱大臣家曰宮門。入鹿家曰谷宮門。谷。此云波佐麻。稱男女曰王子。家外作城柵。門傍作兵庫。毎門置盛水舟一。木鈎數十以備火災。恒使力人持兵守家。大臣使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東。穿池爲城。起庫儲箭。恒將五十兵士続身出入。名健人曰東方■從者。氏氏人等入侍其門。名曰祖子孺者。漢直等全侍二門。」

 このように「蘇我氏」は「私兵」を所有しており、それは国家の軍隊と同様「五十戸制」に則っていたことが推定され、自家の領地とされる場所から「私兵」を徴集する権利を有していたものと見られます。

 このように「利歌彌多仏利」により制定された「軍制」では「一戸一兵士制」で「兵士」が選抜されたと見られますが、それらの人々のうち「首都外縁」の防衛任務についたものが「防人」であると考えられ、これにより従来「評制」と「防人」はまったく別のことと考えられていたものが、実は強く結びついた事柄であると考えなければならないことを示すものです。

 ちなみに、「防人」関連記事の初出は「改新の詔」です。(これは『書紀』の通常の理解では「六四六年」)この「改新の詔」の中で「防人」について触れているのですが、この「詔」の中身についてはこの時点で実行されたものではないと考えられており、その意味でも「防人」ももっと後代のものであるという理解がされているようです。通説では「白村江の戦い」の後に「防人」という制度が設置されたと理解されているようですが、本来、戦いの前に必要な兵力を確保することが重要であるのに、戦争後に「防人」についての言及があることがそもそも奇妙な事と思われます。
 『天武紀』には「防人」の遭難記事があります。

「天武一四年(六八五)十二月乙亥四条」「遣筑紫防人等飄蕩海中 皆失衣裳。則爲防人衣服以布四百五十八端 給下於筑紫。」

 この記事の中では「防人衣服」として「布四百五十八端」が支給されたと書かれていますが、「衣料」としては「一反」(端)がおよそ「一着分」と考えられますから、この数字はそのまま「四百五十人分強」のものであることとなります。
 「船」の「乗員」の数としては、『書紀』に記載された「白村江の戦い」などの際の推定される「船の数」と「兵員数」から考えて、一隻当たり「一五〇-一八〇人」ほど乗り込んでいたのではないかと考えられます。
 もっとも「白雉年間」などの「遣唐使船」記事から見ると「二五〇人」ほど乗り込んでいたようですが、船の構造の違いや「戦闘員」以外もいたことを考えると、「軍艦」としてはそれよりはかなり減少すると思われ、一隻当たり「一五〇-一八〇人」ほどという推定は大きく違わないと考えられます。これで計算するとおよそ「四百五十人強」というのは「三隻」分に相当すると思われます。
 後の「防人」に関する『駿河国正税帳』などの史料によると、「防人」として「徴発」され「帰国」する人数は計「十一国」の約「二千名」とされています。その内訳を見るとたとえば「常陸」において「二六五人」とされています。この「常陸」の国は当時(七三八年)「十一」の「郡」から構成されていたと考えられ、この当時の「郡」の戸数は「評」時代よりは増加していると考えられますが、上で推定した「評制」下の「軍団」の「単位」が「評」を構成する「戸数」と等しい「七五〇人」であったと推定すると、その類推として、「軍防令」に示された「千人単位」の軍団というものが、当時の「郡」の「上限」の戸数を示すと考えられ、これは「郡」の戸数において以前の「評」の時代の「七五〇戸」程度から約「千戸」ほどに増えた事を意味すると考えると、「防人」の徴発の割合は「四~五十戸」に対して「一名」の「防人」を出したものと計算されるものであり、「五十戸一防人制」つまりひとつの里(さと)から一名の「防人兵士」を徴発する制度とされていたらしいことが推定できます。
 このことから考えて、「百五十人」という船の定員は「ひとつの『国』(広域行政体としての国)」からの防人を集めたものと考えられます。つまり上に書かれた「四百五十八名」というのはほぼ「三隻分」つまり「三国分」に相当するものと思われます。
 
 また、この「遭難」はこれら徴発した「防人」を「現地」まで輸送する際のトラブルではないかと考えられます。それは「本来」「防人」は「船」で戦闘行為を行なうものではないからです。「砦」や「城」など半島や島などに造られた軍事基地に配置されるべき人員であり、彼らが「海中」に「漂う」事となったとすると、移動の途中の海難であった可能性が高いと思われるでしょう。
 この場合は実際には「瀬戸内」を航行しているうちに発生した「事故」ではないかと思われ、この「遭難記事」の直前の記事に「周防」という地名が出ることから(下記)、この記事との関連が考えられ、「関門海峡付近」で起きた事故(座礁か)と推定されます。

「天武一四年(六八五)十一月癸卯朔甲辰。儲用鐵一萬斤送於周芳惣令所。是日。筑紫大宰請儲用物。■一百疋。絲一百斤。布三百端。庸布四百常。鐵一萬斤。箭竹二千連送下於筑紫。」

 このように「防人記事」の直前は「周防」と「筑紫」に軍事物資と思われるものを運搬・輸送している記事であり、これが「防人」と深い関係にあると考えるのは自然です。(ここでも「布三百端」とされ、三百人分の衣料用材料と考えられますが、やはり「一五〇」の倍数になっており、これも「国単位」となっているように思えます)
 ちなみに、「箭竹二千連」を「筑紫」に送ったとされていますが、「軍防令」では「毎人。弓一張。弓弦袋一口。副弦二条。征箭五十隻。」とされており、一人「五十隻」(本)の割当てがあったようです。そして、ここで言う「二千連」が「何隻」なのかが問題ですが、「連」と言うからには何本かがセットになっていると考えられ、「束」と同じではないかと思料すると「二十本」で「一束」となります。「二千連」が「二千束」を意味するなら「四万本(隻)」の矢があることとなり、軍防令の通り「一人五十本」割り当てると「八百人分」の「矢」であることとなります。これは「一国」の「兵士」の数と対応していると考えられます。
 このように「防人」は現実の存在として「東国」から徴発されていたわけですが、実際には木簡(※)からは「防人」ではなく「戌人」(じゅにん)という名称であったことが知られています。これは「隋・唐」時代に配置されていた辺境防備の「砦」である「鎮」のスケールダウンした規模としての「戌」というものと関係があるとみられ、そこに詰める兵士を「防人」の中でも特に「戌人」と称したものと思われます。

(「新唐書/志第三十九下/百官四下/外官/鎮[底本:北宋嘉祐十四行本]」より)
「…鎮將、鎮副、戍主、戍副,掌捍防守禦。凡上鎮二十,中鎮九十,下鎮一百三十五;上戍十一,中戍八十六,下戍二百四十五。倉曹參軍事,掌儀式、倉庫、飲膳、醫藥、付事、句稽、省署鈔目、監印、給紙筆、市易、公廨。中鎮則兵曹兼掌。兵曹參軍事,掌防人 名帳、戎器、管鑰、馬驢、土木、?罰之事。
《上鎮有?事一人,史一人,倉曹佐一人、史二人,兵曹佐、史各二人,倉督一人、史二人。中鎮,?事一人,兵曹佐一人、史四人,倉督一人、史二人。下鎮,?事一人,兵曹佐一人、史二人,倉督一人、史一人。凡軍鎮,五百人有押官一人,千人有子總管一人,五千人又有府三人、史四人。上戍,佐一人、史二人;中戍,史二人;下戍,史一人。唐廢戍子,? 防人五百人為上鎮,三百人為中鎮,不及者為下鎮;五十人為上戍,三十人為中戍,不及者為下戍。開元十五年,朔方五城各置田曹參軍事一人,品同諸軍判司,專?營田。永泰後,諸鎮官頗增減開元之舊。》…」

 当時倭国は「隋」との国交開始を旧制度打破という一大改革の契機と考え、積極的に「隋」の制度や文化を導入したものです。当然「防人」というものもその中にあったと見るべきでしょう。「改新の詔」の中では「五十戸制」と共に記載されていますから、「五十戸制」の導入とそれほど時期が違わないという想定が可能です。
 当時「北朝」では「周・斉」の時代から国境線沿いに「防」を設けていたものであり、「隋」が中国北半部を統一した後はかなりの部分の「防」を廃したものですが、「吐播」などとの国境沿いなどには「鎮」や「戌」を設け軍事的な脅威に対抗できる施設として機能していたものです。そしてそこは「郡県制」の対象外として、民政支配とはしなかったものです。 
 このことから「倭国」においても「遣隋使」以降「首都」の外縁防備の存在として「鎮」あるいは「戌」という制度を真似て設置していたものと考えられ、そこは「郡県制」の統治の外としていたものと思われます。また「防人」という名称も「隋代」に「防」が廃止された以降も「鎮」や「戌」などの兵士についての一般的呼称として残っていたものであり、それをそのまま「倭国」でも採用していたということが考えられます。

 そもそも「防人」とは、中国では「辺境」の警備にあたる兵力をいうとされ、天子の所在するところを中心とした考え方でそこから「三千里」の外周を警護するのが役割であったものであり、「天子」の所在する場所「王城」から「千里四方」を「畿内」と称したものです。さらにこの範囲を「天子の直轄地」としていたのです。そしてその周囲に「斥候」を置き、その外周に「防人」となる兵力を置いたのです。このようにして「隋」やそれ以前の「周」などの「北朝」では「王城」とその直轄範囲を防衛する体制を構築していたわけであり、「倭国」でもこれに倣い、「首都」である「筑紫」を中心とした場所に「畿内」を設定し、その防衛体制として「斥候」「防人」などを配置することとしたものと見られます。そのための兵力を徴発するのに必要であったのが東国に対する支配・統制の強化であり、局地的な施行であった「評制」の全面的施行への移行であったものと考えられます。
 「隋・唐」では「防」などへの配置は犯罪人などの配流地として選ばれ、彼らを兵力として使うという方針があったほか、一般人民からも選抜して兵力としていたものです。つまり「倭国王権」は「東国」の人々を「部民」として扱い、これを「兵力」として使役していたものと考えられる訳です。その点についても「隋」「等」にほぼ倣ったといえるでしょう。

 ところでこの「防人」あるいは「戌人」については史書にも木簡などの遺跡でも「七世紀」にこれが行われた、という「徴証」がありません。『万葉集』に「防人歌」がありますが、全て「八世紀」のものです。上に述べた「戌人木簡」も同様に八世紀のものと考えられています。それ以前のものが全く残されておらず、まるで「消された」ようにみられません。その様子は「評」や「国宰」の隠蔽とよく似ています。共に「八世紀以前」に「存在」したという詳細が明らかになってはいけないものであったものでしょう。


(※)佐賀県唐津市原字西丸田 中原遺跡「小長□部□□〔束ヵ〕○/〈〉□□∥○甲斐国□〔津ヵ〕戌□〔人ヵ〕○/不知状之 ∥\○□□家□□〔注ヵ〕○【「首小黒七把」】・○□□〈〉桑□〔永ヵ〕\【「□ 〔延ヵ〕暦八年○§物部諸万七把○§日下部公小□〔浄ヵ〕〈〉\○§□田龍□□〔麻呂ヵ〕七把§□部大前」佐賀県教育委員会・唐津市教育委員会 遺構番号 SD502 出典 木研28-212頁-(2)(木研24-153頁-(7)) 木簡番号 0


(この項の作成日 2011/01/13、最終更新 2016/12/25)(ホームページ記載記事を転記)

コメント

「屯倉」と「駅家」

2018年04月28日 | 古代史

 『崇峻紀』に「猪」が献上された記事があります。

「有獻山猪。天皇指猪詔曰。何時如斷此猪之頚。斷朕所嫌之人。…」「(崇峻)五年(五九二年)冬十月癸酉朔丙子条」

 これを見ると「猪」が献上されたと書かれていますが、それは「生きたまま」であったものであり、それを食用にする直前にするものだったのでしょう。(記事からは「頚(くび)」を切断してしたらしいことが推察されます)
 現代のように「冷凍」「冷蔵」が出来なかったとすると「猪」は食べる直前まで解体されなかったものと思われますが、それまでの間はどこかで生きた状態で「飼育」されており、「王権」の元へ送られるのを待っていたと思われます。そしてそれは「屯倉」においてではなかったかと思われるわけです。
 
 ところで「磐井」について書かれた『風土記』の記事の中に「解部」記事があります。そこでは「猪」を盗んだものを裁く「解部」の姿が描写されています。

「…彼處亦有石馬三疋 石殿三間 石藏二間…」『筑後國風土記』磐井君(前田家本『釋日本紀』卷十三「筑紫國造磐井」條)

 そこには「解部」と「捕らえられた「窃盗犯」以外に上のように「建物」の描写があり、その「蔵」という表現からこれは役所(政庁)というより「屯倉」を示すものではないかと考えられます。つまり、「屯倉」で「保管」(飼育)されていた「猪」が「窃盗」の対象となったものと思われるわけです。
 「平城京」の門の造営にも「猪使氏」が登場すること(「丹波國造偉鑒門、猪使氏也」(日本後紀逸文))、「藤原京」の門にも「猪使門」があるなど「猪」にちなむ「氏族」が「王権」にとってかなり重要な位置を占めているらしいことが知られ、このことから当時「猪」の肉はほぼ「王権」専用であったのではないかと推測されます。
 その情景の説明では「偸人」について「生」きているとき、という表現がされていますから(「生為偸豬仍擬決罪」と書かれています)、彼は「死刑」となったらしいことが推定できます。このことから「猪四頭」を盗んだ事が「死罪」に値するというわけですが、それは「屯倉」に収められていた物品が「王」に直送される性質のものであったからではないでしょうか。
 この裁判が「解部」の「役所」で行われたものとすると「蔵」の存在の意義が不明となるでしょう。「石殿三間」という「役所的建物」に「蔵」が併設されているというのは「屯倉」がまさにそのような構造であったものと推定され、「屯倉」を舞台とした「窃盗」であったことを物語っていると思われます。(猪が「蔵」にいたという意味ではありません。多分「猪」は至近の「牧場」的な場所で飼養されていたものでしょう。)
 このように「磐井」の「墳墓」に記された情景が「屯倉」に関連しているとすると、その「屯倉」の監督官としての「評督」の存在を措定する必要が出てきます。
 他方「皇太神宮儀式帳」では「難波朝廷天下立評」とされていますから、「磐井」の時代にはまだ「天下」つまり「全国」に向けて「立評」されてはいなかったと考えられることとなります。(「磐井」の朝廷が「難波朝」であると考える徴証がないため)
 つまり、この「屯倉」は当初「地域」的な(局地的な)制度として先行して施行されたと考えられるわけです。

 ところで「屯倉」の『書紀』での初出は『垂仁紀』です。

「興屯倉于來目邑。屯倉。此云彌夜氣。」「(垂仁)廿七年是歳条」

 この「來目邑」は『清寧前紀』にある「難波來目邑」のことを意味すると思われ、そこでは「雄略」の死後跡目争いが起きた際に「河内三野縣主小根」が「贖罪」として「大井戸田十町」を献上したとされるものであり、これがその「來目村」にあった「屯倉」の「屯田」とされたらしいことが推定されます。
 この『垂仁紀』はかなり古い時期のこととされていますが、その「妻」である「日葉酢媛命」の死に際して「殉葬」の風習を止めたということが書かれており、これが「近畿」における「古墳」の示す実態と合わないというのは既に古田氏も指摘されています。(※)
 「近畿」では「人型埴輪」は「五世紀」中頃付近で既にかなりの数が現れますから、これは確かに上のエピソードとは合わないわけですが、他方「九州」は「埴輪」そのものの受容も遅く、また「人形埴輪」については「五世紀後半」に九州地域にも一部に見られるようになりますが、それも「六世紀半ば」になると「埴輪」自体が姿を消すという状況があります。
 これらのことから『垂仁紀』そのものの地域性という問題と同時に、その実年代についてもかなり下った「六世紀半ば」のことであったのではないかと考えられ、それは「屯倉」の設置の実年代が「磐井」の時代付近となるという可能性が高いことを意味するものと思われます。
 この時点付近で「難波」を初めとする各地に「屯倉」が造られ、その地域に対して「評」が立てられたものと思われますが、それは「点」としての存在であり、「局所的」であったと思われます。
 確かに『安閑紀』には「屯倉」が大量設置されていますが、分布を見ても全国各地に隙間なく存在しているという訳ではありません。後に「改新の詔」から三ヶ月ほど経過して「天皇」からの下問に対する「皇太子」からの「奏上」の中では、「返上する」とされた「屯倉」の数は「百八十一箇所」とされていますから、それに比べると圧倒的な少数であった訳であり、それはそのまま「面的支配」へはまだ移行していなかったことを示すものと思われます。つまり、「倭国」の諸国全体がくまなく「評」で覆われるというようなことはこの時代にはまだ行われなかったものと考えられる訳ですが、その「始源」としてはこの時点付近にあったと考える事はできそうに思えます。

 また、このことは当然「古代官道」の建設時期とも関係してくると思われます。「道路」の整備が「軍事的支配」の前提であったと見られ、「屯倉」が「邸閣」的存在であって「兵」に対する「糧食」の供給が主な使命であったとすると、その配置(設置)と「道路」の整備は表裏一体のものであったこととなります。その意味で「駅家」と「屯倉」には重なる部分があると見ることができるでしょう。
 平安時代の人物である「慈覚大師円仁」の家系図として知られる『熊倉系図』では、彼の父は「駅長」であったとされ、これは「世襲」であった可能性が強いと思われますが、「同系図」によればその祖先は「郡司主帳」や「擬小領」であった事が書かれており、これはいずれも「郡司」の元の補助的な職掌とされ、これはそのまま「屯倉」の監督的職掌であったと見られる「督領」(評督)につながるものと考えられます。つまり、このことは「駅家」の前身が(少なくとも一部は)「屯倉」であったという可能性が高いことを示すと考えられるものです。
 「駅家」の中には役所的建物に「倉(蔵)」が併設されている場合がかなりあり、遺跡として出土した場合それが「駅家」なのか「屯倉」なのかは時代で区別されているようです。つまり、共に「官道」沿いに立地していたと考えられるため、その新旧を判断して「駅家」なのか「屯倉」なのかを判定しているという訳です。(ただし「屯倉」はいわば「ターミナル」であるのに対して「駅家」は基本的には「ステーション」であり、そのコンセプトが全く異なっていたものとは思われます)
 また「山陽道」などの多くの「駅家」が「礎石瓦葺き」とされていますが、それ以前には「掘立柱建物」であったものであり、このことは「駅家」の始源ともいうべき時期としてかなり時代が遡上することが想定されますが、これを「駅家」とする限りにおいて「七世紀半ば」よりも遡上を措定しないのが通常のようです。しかし「古代官道」の年代そのものが確定していない現在「駅家」と見なされているものの中にかなり「屯倉」が含まれているという可能性は排除できないと思われます。(それは先ほどの「磐井」の墓の情景描写中に「馬」が書かれている事もそのことを推定させるものです。)
 そもそも「屯倉」を「ミヤケ」と訓読するのは「駅家」の「呉音」である「ヤクケ」からの転訛ではないかと思われ、(接頭辞として美称の「ミ」が付いて、「ク」音が促音便となり、さらに消失したもの)「邸閣」として造られたものが、「駅家」の意義を遅れて与えられ、その時点で「みやけ」と呼称するようになったという流れが想定できるのではないでしょうか。)

 以上から、「磐井」の時代に「律令」が施行され、それに基づき「評」が「立」てられ、「邸閣」として「屯倉」が造られ、その管理官としての「評督」「助督」が配置されるという体制が作られ、行政的な体制と共に軍事的体制も合わせて構築されたものと思料されることとなります。また同時に、「評督」と連動した職掌として「解部」が「廷尉評」的役割を持って設置され、「司法」「警察」権力がその前面に出て支配を貫徹する体制が造られ始めたものと推量できるでしょう。


(この項の作成日 2013/11/06、最終更新 2015/07/06)(ホームページ記載記事に加筆)

コメント

「屯倉」と「評」

2018年04月28日 | 古代史

 「改新の詔」の中に「公地公民」制に関する部分があり、そこに「屯倉」に関する事が書かれています。

「 罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。」

 これは「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する。」という意味であり、一種の国有化政策です。(というより「倭国王一元化」政策と言うべきでしょうか)
 しかし、「評制施行」が書かれていた『皇太神宮儀式帳』の中にはその「評」の施行と共に「屯倉」の設置記事が含まれているのです。

(『皇太神宮儀式帳』)
「難波朝廷天下立評給時、以十郷分、度会山田原立屯倉、新家連珂久多督領、磯連牟良助督仕奉。以十郷分竹村立屯倉、麻績連広背督領、磯部真夜手助督仕奉。(中略)近江大津朝廷天命開別天皇御代、以甲子年、小乙中久米勝麿多気郡四箇郷申割、立飯野(高)宮村屯倉、評督領仕奉」

 上の資料を見ると「廃止」されたはずの「屯倉」が「設置」されていることが分かります。しかもそれは「難波朝廷」からのものとされ、これは通常「孝徳」の王権を意味するとされますが、それでは「廃止」の「詔」を出した「改新の詔」中身と大きく食い違います。この事からこの『皇太神宮儀式帳』の記事と「改新の詔」とは「両立しない」と言うことが分かります、その場合「改新の詔」が出される相当以前に「評」が施行されていたらしいこととならざるを得ません。(この事は「難波朝廷」なるものの存在時期も同様に遡上する可能性を示唆するものです。)

 ところで、『常陸国風土記』によれば「郡家」が遠く不便である、ということで「茨城」と「那珂」から「戸」を割いて新しく「行方」郡を作った際のことが記事に書かれています。

『常陸国風土記』「行方郡」の条
「行方郡東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請惣領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家」

 ここでは「茨城」と「那珂」から併せて「十五里(さと)」を割いて「行方郡」を作ったと書かれており、それが計七百余戸といいますから、計算すると一つの「里」が五十戸程度となります。このことからこの段階ないしはそれ以前に「五十戸制」が敷かれているとする見解が有力でしたが、確かに分郡されたこの時点では当然そのように想定できるものですが、「それ以前」にも「五十戸制」であったかは以下の理由により、そうとは断定できないと考えられます。(これは以前の当方の見解を変更したものです)

 この分郡には複数の理由が考えられますが、「利便性」という観点だけで考えても、新しく建てられた「行方郡」はともかく「割譲」された「茨城」と「那珂」が小さくなりすぎては奇妙ですし、困ると思えます。これが「利便性」を優先したものでないことは「分郡」に当たって「理由」が示されていないことでも推測できます。通常「郡家」まで遠い等の理由が「分郡」ないしは「新設」の場合よく見受けられる訳ですが、この場合はそのような事は書かれていません。
 このことは「分郡」の理由がもっぱら「茨城」と「那珂」の人口増加にあったと見るべき事となりますが、そうであるとすると、この両郡は「割譲」後、スリム化されて基準(標準)値である「七五〇-八〇〇戸」程度まで「減数」されたと考えられることとなるでしょう。
 「分郡」の場合、元の「郡」(評)のサイズが小さくなりすぎない規模になるように調整されると考えられ、その場合両郡とも元々基準値をかなり超えた状態で「分郡」措置が適用されることとなったと見るべきです。「現在」の都市の「分区」などにおいても「人口」の大きくなりすぎた区を分ける際には「元」の区の規模が必ず「新設区」よりも大きい状態を維持しています。これはそもそも「分区」が「人口増加」によるからであり、その「人口増加」の著しいエリアを新設区側に割り当てることにより、そう遠くない未来に似たような規模になることを見込んでいる訳ですが、この時の「分郡」も状況としては似ていたものと思われ、「行方郡」の領域の人口増加が大きかったためにその部分を切り離すこととなったものでしょう。そうであれば「茨城」「那珂」の両郡の「分郡後」の戸数は「新設」された「行方郡」よりも小さくはないことが推定できます。
 「行方郡」が「七百余戸」とされているわけであり、このことから、「茨城」「那珂」の両郡は八百~千戸程度あったのではないかと考えられます。つまり、元々の基準値である「八百戸」の二倍を超えた時点で各々から半分弱程度を分けたという想定が最も蓋然性が高いと見られます。
 この時の「里数」を「五十戸」制として考えると「三十五里」程度あったこととなります。
 「改新の詔」では「郡の大小」について書かれており、「四十里」を超える「郡」の存在も許容しているようですから、「三十五里」付近で分郡しなければならないという必然性はないこととなります。しかし、この時点で「八十戸制」であったとして、分郡前に「茨城」「那珂」両郡とも「千九百戸」程度であったとすると、両郡とも元々「二十二~三里」程度となって『隋書俀国伝』に記された「十里」で一軍尼が管理するという基準の二倍をやや超えたぐらいになります。これは上の想定と一致しており、この程度であれば存在としてあり得ますし、またその程度で「分郡」するというのも規模、タイミングとして理解できるものです。
 ここから各々七-八里引いて新郡を増設したとすると「茨城」「那珂」がやや大きく、新設された「行方」がやや小さいという推定にほぼ整合します。このことからこの「分郡」時点以前では「五十戸制」ではなく「八十戸制」であったものであり、この「癸丑」という干支の指し示す時点で「分郡」と共に「五十戸制」に移行したのではないかと考えられることとなるでしょう。それは「遣隋使」の派遣された時期との関連で考えても首肯できるところです。つまり、この「癸丑」という年次は「六〇〇年以前」であるところの「五九四年」であるという可能性が高いと思料します。
 『皇太神宮儀式帳』の記事では「度会山田原」と「竹村」では共に「十郷」で一つの「屯倉」に充て、そのために「評督」(督領)を置いたとされていますが、「評」の戸数は上に見るように「七百-八百戸」程度あったと考えられるわけですから、「一郷」は「七十-八十戸」程度あることとなり、これは『隋書俀国伝』に言う「八十戸制」そのものであると理解できます。(この場合は「分郡」というわけではないと思われます)

 この「八十戸制」は「隋制」が導入された「阿毎多利思北孤」時代(六世紀末か)の時点で「五十戸制」に「改定」されたと見られますから、この「儀式帳」記事の年次は遅くとも「六世紀末」ごろの事を記したものではないかと推定されることとなり、「立評」そのものも「阿毎多利思北孤」の頃を想定しなければならないと言う事にもなります。つまり「難波朝廷」「難波長柄豊前大宮馭宇天皇」とは「阿毎多利思北孤」あるいは彼に目される「押坂彦人大兄」と共に「兄弟統治」を行なっていた「難波皇子」の「朝廷」を意味するものではないかと考えられることとなるでしょう。
 これは既に指摘した「六十六国分国」時点の倭国王についての表現である「難波長柄豊崎臨軒天皇」と同じであると考えられ、同一時点の記事であることが推定されるものです。
 またこのことは「屯倉」と「評」の間に密接な関係があることが推定されるものであり、「屯倉」の設置された領域だけに「評」という制度が施行され、「屯倉」の監督官として「督領」(評督)が任命されていたことが窺えます。
 既に述べましたが、「屯倉」は「邸閣」の意義を持っていたものと思われ、ある意味軍事施設と言ってもいいものでしたが、「評」や「評督」には軍事的意味があると考えられているわけですから、その意味では整合します。

 また、『常陸国風土記』には「香島神宮」の「神戸」の戸数の変遷について興味ある記録が書かれています。

「美麻貴天皇之世 大坂山乃頂爾 白細乃大御服々坐而 白桙御杖取坐 識賜命者 我前乎治奉者 汝聞看食国乎 大国小国 事依給等識賜岐 于時 追集八十之伴緒 挙此事而訪問 於是大中臣神聞勝命答曰 大八島国汝所知食国止事向賜之 香島国坐天津大御神乃挙教事者 天皇聞諸即恐驚 奉納前件幣帛於神宮也 神戸六十五烟 本八戸 難波天皇之世加奉五十戸 飛鳥浄見原大朝加奉九戸 合六十七戸 庚寅年編戸減二戸 令定六十五戸 淡海大津朝初遣使人造神之宮 自爾已来修理不絶」

 つまり、「香島神宮」の「神部」の戸数の変遷について、「本八戸」であったものが「難波天皇の世」に「加奉五十戸」となり、その後「飛鳥浄見原大朝」に「加奉九戸」され、「庚寅年」に「編戸減二戸」となったと書かれています。(ここでは「朝廷名」が書かれていません)そして、「令定」として「六十五戸」となったとされています。(ここでも明確には「朝廷名」が書かれていません)
 ここでいう「難波天皇」や「難波朝廷」というのは上に考察したように「六世紀末」の「阿毎多利思北孤」(あるいは「難波皇子」)の朝廷を指すと考えられ、その時点で「神戸」を加増したと考えられます。
 このような「神戸数」の変遷は「倭国」と「香島」の関係の変化を記すものであり、「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」の時代(難波天皇の時代)には「国家」の起源の一部として「神話」が創成され、その中で彼の祖先が全国を「平定」したこと示す説話を作り上げたことと「一体」を成すものであり、「東国」などに対して彼の時代に関与を強めたことを示すものと考えられるものですが、それは即座に「惣領」として「高向」「中臣」両氏が「我姫」(特に常陸)に配置されたと見られることと関連していると考えられます。
 また「香島」「香取」両神宮と「中臣氏」の関係が深いとされていることもそのことの反映であると思われます。またその「加増」した戸数として「五十戸」とされていることからも、「五十戸制」の導入時点と至近の時期に加増されたであろうことを想定させるものです。
 
  また上の記事を見ると各天皇の表記は「難波天皇之世」、「飛鳥浄見原大朝」、「淡海大津朝」というように各々微妙に異なっています。このうち「難波天皇之世」という表現は他の二つに比べ明らかに意味の異なるものです。
 「飛鳥」と「近江」の場合は「大朝」「朝」というように「大」の字がつくか否かの違いはあるものの、共に「行為」の主体が「朝」つまり「朝廷」であったことを示しますが、「難波」の場合は単に「時代」を示しているのみであって、行為の主体が「難波天皇」ないしは「朝廷」であったとは読み取れません。
 これは「常陸」を含む「アヅマ」に「総領」が配置されていたことと関係があると思われます。つまり「行為」の主体は「総領」であった「高向大夫」「中臣大夫」であり、「難波天皇」ではなかったと言う事を意味していると考えられ、逆に言うと「飛鳥」と「近江」の「朝廷」は「直接」この「香島神宮」に対して「神戸」の「加奉」を行ったものと言うこととなると思われます。その場合「飛鳥浄御原大朝」が示すと思われる「難波副都」を建設した「倭国王」の時代以降「総領」が(「アヅマ」には)廃止されていたらしいことを示唆するものといえるでしょう。(確かにその後「関東」の「総領」に関する記事は皆無となります)


(この項の作成日 2011/4/16、最終更新 2015/07/06)(ホームページ記載記事に加筆)

コメント

「評制」と半島の制度

2018年04月28日 | 古代史

 戦後、日本の古代史で有名になった論争があります。それは「大化改新の詔勅」に関するもので、そこでは「郡」という用語が使用されていますが、「那須国造碑」などの金石文(石碑などに書かれた文)には「郡」ではなく、「評」という用語が使用されていて、「実際には」どちらが使用されていたのか、というものです。
 この論争は「藤原宮」跡地(奈良県)から「評」と書かれた木簡と「郡」が使用された木簡がともに出土して終結しました。それは、地層の重なりなどから判断して「七世紀の終わりまで『評』」で、「八世紀の初めからは『郡』」というように、行政制度に「切替わり」があったことが明白になったからです。明らかに「評」という制度が「郡」に先立って実際に各地で施行されていたものと考えざるを得なくなりました。
 しかし、これについては従来からの学者の多くが「郡」でも「評」でもどちらも「こおり」である、という一種の「矮小化」の中に逃げ込もうとしています。つまり「制度」としては変わらない、表記する「字」の問題である、というのです。しかし、このような理解に真っ向から反するのが「木簡」の記述です。そこには「評造」や「評督」という官職名が記されていました。
 「郡」行政下の官職は「郡司」であり、「郡督」も「郡造」もありません。また逆に「評」行政下には「評司」はありません。これらのことは、単に表記上の字面の問題ではなく、「行政制度」そのものに「交替」があった、ということと考えなければならないということを意味しています。
 また、「評」を記した木簡の一番新しいとされるものは以下のものです。

「若佐國小丹生評 庚子年四月 木ツ里里秦人申二斗」(藤原宮跡出土)

 ここには「国―評―里」という行政制度が看取され、このような整った形の制度はかなり後期段階のものであり、このことから従来ここに書かれた「庚子」年は「七〇〇年」と理解されています。
 このように「諸国」から貢納される物品につけられた「荷札」として使用された木簡を見ると、「庚子」以前の干支が書かれている場合、そこには「評」と書かれているのが確認されています。しかし、『日本書紀』、『続日本紀』など「正史」と呼ばれる記録には「評」に関する一切の記録が現れません。「郡制」が施行されていなかったと思われる時期の記録においても、全て「郡」で書いてあり、また「郡司」や「大領」「小領」など『大宝令』で規定されたと考えられる制度や官職名が出てくるのです。
 この理由について、従来は「不明」であるとしか言えない訳ですが、あたかも「評」という「制度」を「忘却」もしくは「隠蔽」しているかのごとくです。もっとも「制度」というものは、施行した「体制(権力)」と不可分のものですから、「制度」の隠蔽はすなわち「体制(権力)」そのものの隠蔽と考えざるを得ません。

 ところで以下の「継体紀」記事では「任那」の行政制度として「評」が現れます。

「(継体)廿四年(五三四年)秋九月条」「…於是阿利斯等知其細碎爲事不務所期。頻勸歸朝。尚不聽還。由是悉知行迹。心生飜背。乃遣久禮斯己母。使于新羅請兵。奴須久利使于百濟請兵。毛野臣聞百濟兵來。迎討背評。背評地名。亦名能備己富里也。」

 また、それ以外にも「南史」や「北史」など中国の史書に「半島」の「評」の例が出て来ます。

「新羅…其俗呼城曰健牟羅,其邑在?曰啄評 ,在外曰邑勒,亦中國之言郡縣也。國有六『啄評』、五十二邑勒。…」「南史/列傳 第六十九/夷貊下/東夷/新羅」 
 
「官有大對盧、太大兄、大兄、小兄、竟侯奢、烏拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳 屬、仙人,凡十二等,分掌?外事。其大對盧則以強弱相陵奪而自為之,不由王署置。復有 内評 、五部褥薩。[一五]復有内評 五部褥薩 隋書「内評 」下有「外評 」二字。 …」「北史/列傳 第八十二/高句麗」

 このように「新羅」の「啄評(村落を有する城をいう)」や「高句麗」の「内評、外評」の例があり、朝鮮半島諸国にその使用例が見られるわけですが、この「評」の「起源」は「秦漢代」の中国にあり、「司法」に関する組織(官僚)である「廷尉」の「属官」としてのものでした。
 「廷尉」は「秦」において設置された「司法」を司る官であり、その「属官」として「廷尉監」「廷尉評(平)」「廷尉史」があるとされます。
 特に「廷尉評」はその後単に「評」と呼称されたと見られ、「半島」における「地名」としての「評」の淵源はこの「廷尉評」にあるのではないかと考えられます。そして「律令」(特に「律」)は「廷尉」がそれを駆使して「審理」・「判断」するものであることから、「尉律」と呼ばれたとされます。
 このように「治安維持」という国家統治の基本的部分を担う組織が「半島」に深く浸透していたものと思われるわけです。

 この「継体紀」の例は「任那」におけるものでしたが、古田氏もいうように「任那」は「倭の五王」が自称し、また「南朝劉宋」に認めさせた称号の中の「六国諸軍事」という中に含まれていますから、「倭国」は「軍事権」を「任那」において行使していたと見られることとなりますが、当時は「兵刑一致」の時代であり、「軍事」部門が「警察」権力をも握っていたと思われます。そう考えると、「評」について「任那」で「廷尉評」として「司法権」(あるいは「警察権」といっても良いわけですが)を行使していたのは「倭国」であると言う事となり、それが以下のような「探湯」を行っていたという記事につながると考えられます。

「(継体)廿四年(五三四年)秋九月。任那使奏云。毛野臣遂於久斯牟羅起造舍宅。淹留二歳。一本云。三歳者。連去來年數也。懶聽政焉。爰以日本人與任那人。頻以兒息難決。元無能判。毛野臣樂置誓湯曰。實者不爛虚者。必爛。是以投湯爛死者衆。」

 ここに見るような「訴訟」を「裁判」する権利は「廷尉」の専管事項であったはずであり、そう考えるとその「廷尉」の裁判の根本基準としての「律令」というものがこの時点で存在していたことが推定されます。

 「廷尉」については時代によりその名称が幾度か変遷したようですが、(一旦南朝「梁」の時代に「大理」となったがその前後「廷尉」であったもの)「唐」の時代になって「廷尉」は再び「大理」に変更され、その「属官」として「司直」と「評事」がいたとされます。このことから、「倭国」が「隋」や「唐」から「制度」を学んだとすると、「官僚」(司法)の制度として「評事」が導入されたというのなら理解できますが、「行政制度」として「評」が導入されたというのは考えにくいこととなります。そのようなものは「隋・唐」には存在しなかったからです。それでもなお、この「評」という行政制度が「七世紀半ば」に施行されたとするならば、そのような時期に「半島」(「百済」や「新羅」「高句麗」など)から「制度」を取り入れるということがあったとしなければならなくなります。しかし、通常の儀礼的な「朝貢」等のやりとりはあったとしても、「制度」を取り入れるとなると、「倭国」と「半島諸国」との間には「対等」な関係がなかったこととなるでしょう。つまり「隋」や「唐」との間のような一種の「文化勾配」とでもいうべきものが「半島諸国」と「倭国」の間にあったとしなければならなくなりますが、そのような想定は可能でしょうか。

 「倭国」は「七世紀初め」という時期に「隋皇帝」に対し「天子」を自称するということを行なっており、また『隋書たい国伝』には「新羅百済は倭を大国として敬仰していた」という意味のことが書かれており、これらを見ると、「新羅」「百済」に対して少なくとも「対等」以上の関係を保っていたことが窺えます。そう考えると、それ以降「制度」「文化」を学ぶというような姿勢が「倭国王権」にあったかはかなり疑問ではないでしょうか。
 『書紀』の記述から見ると当時「百済」「高句麗」との間の関係はあくまでも「対等」なレベルのものであったものであり、例えば「遣唐使」のような使者を送って「遣唐学生」などのような「制度」や「文化」を取り入れたというようなことは認められません。
 わずかに「三国」(高麗・百済・新羅)に「学問僧」を派遣したという記録が「六四八年」にありますが、これでは少々遅すぎるでしょう。なぜなら、通常の考え方ではこれは「評制」施行時点付近だからです。しかし、この年次以前に同様なものが派遣されたのは「六四五年」の記事ぐらいしかなく、この記事には確かに「高麗學問僧」という名称が確認できるもののその中身として「何時」「誰が」派遣されたのか、また「帰国」はいつのことなのかなどが一切不明であり、信憑性のある記事とは思えません。また彼らは「僧」ですから、「学問一般」あるいは「行政制度」などの学習が目的であったとは考えられず、「評制」導入に主体的な活動をしたとは考えられないこととなるでしょう。
 
「(六四五年)四年夏四月戊戌朔。高麗學問僧等言。同學鞍作得志。以虎爲友。學取其術。或使枯山變爲青山。或使黄地變爲白水。種々奇術不可殫究。又虎授其針曰。愼矣愼矣。勿令人知。以此治之病無不愈。果如所言。治無不差。得志恒以其針隱置柱中。於後虎折其柱取針走去。高麗國知得志欲歸之意。與毒殺之。」(皇極紀)

 以上のことからも、「評制」の導入とその施行は「七世紀半ば」とは考えられないこととなります。
 そもそもこの「評」という制度がこの時の「半島諸国」で使用され、あるいは地名にまでなっていたとすると、それが「七世紀半ば」まで「倭国」に伝わらなかったあるいは導入しなかったという想定は、やや困難ではないでしょうか。

 ところで、『欽明紀』には『書紀』で唯一「廷尉」という存在が書かれています(下記)。

(五六二年)廿三年春正月六月是月条」「是月。或有譖馬飼首歌依曰。歌依之妻逢臣讃岐鞍薦有異。熟而熟視。皇后御鞍也。即收『廷尉』。鞫問極切。馬飼首歌依乃揚言誓曰。虚也。非實。若是實者必被天災。遂因苦問。伏地而死。死未經時。急災於殿。『廷尉』收縛其子守石與中瀬氷。守石。名瀬氷。皆名也。將投火中。投火爲刑。盖古之制也。咒曰。非吾手投。以祝手投。咒訖欲投火。守石之母祈請曰。投兒火裏。天災果臻。請付祝人使作神奴。乃依母請許沒神奴。」(欽明紀)

 ここでは「廷尉」が「縛」したり、「刑」を執行したりしています。しかもそれは「古制」であるとされていますが、確かに『隋書たい国伝』に記された「刑」の中には「火刑」はありませんから、それをかなり遡る時期の制度であることは間違いないと思われます。上の「中国」における「廷尉」の推移から考えると、その伝来は「隋代」を含んでそれ以前であると思われます。
 また「火中」に投じる際には自分がやるのではなく「祝(ほおり)」がこれを行うのであるという、呪いとも言い訳ともつかないことを言上しています。この背後には「死刑」のような極刑は「生贄」を捧げる儀式に模したものであり、「祝」つまり神に仕える立場の人間の手による行為とすることで「死者」の祟りが実行者の身に及ぶことを避けようとしていることが窺え、その意味で思想背景として甚だ古典的であることが知られます。このことからこの「廷尉」制の導入は「評制」の施行とほぼ同じ程度の古さを持っていると見るべきこととなり、それらはほぼ同時ではなかったかと考えられることとなります。その意味で初出が『欽明紀』であるというのは示唆的です。
 これらのことから、「評制」は「五十戸制」に「先行」すると考えざるを得ません。「五十戸制」は「六世紀末」に「隋」から導入されたと考えられますから、それ以前の時期に「評制」は導入されていなければならないこととなります。つまり「六世紀半ば」という時期がもっとも蓋然性の高い時期と推定できるものです。(「国県制の成立と六十六国分国」で推測した「国」から「縣」への制度改定というものも、「諸国」においては「国」から「評」への改定であったと考えなければならないこととなるでしょう。)先に見た「皇太神宮儀式帳」の「十郷分で屯倉を作り評督を置いた」という記事内容もそのような論理進行に合致するものと考えられます。
 
 また、以下の『三大実録』の記事からは「允恭天皇」の時代に「国造」が定められたと言うことが記されていますが、この「允恭天皇」は古賀氏により仏教伝来時点の「倭国王」ではなかったかと言うことが研究されており、その意味では「倭国王」の最初である「讃」に重なる人物といえます。彼の時代に「国造」が定められたというのは、「倭の五王」の治績全体から帰納して考えても不自然ではありません。

 『三大実録』
「貞観三年(八六一)十一月十一日辛巳。…書博士正六位下佐伯直豊雄疑云。先祖大伴健日連公。景行天皇御世。隨倭武命。平定東國。功勳盖世。賜讃岐國。以爲私宅。健日連公之子。健持大連公子。室屋大連公之第一男。御物宿祢之胤。倭胡連公。允恭天皇御世。始任讃岐國造。倭胡連公。是豊雄等之別祖也。『孝徳天皇御世。國造之号。永從停止。』同族玄蕃頭從五位下佐伯宿祢眞持。正六位上佐伯宿祢正雄等。既貫京兆。賜姓宿祢。而田公之門。猶未得預。謹検案内。眞持。正雄等之興。只由實惠道雄兩大法師。是兩法師等。贈僧正空海大法師所成長也。而田公是大僧正父也。今大僧都傳燈大法師位眞雅。幸屬時來。久侍加護。比彼兩師。忽知高下。豊雄又以彫蟲之小藝。忝學館之末員。顧望往時。悲歎良多。准正雄等之例。特蒙改姓改居。善男等謹検家記。事不憑虚。從之。」
 
 ここで「空海」の父親(佐伯田公)の処遇について嘆願ともいえるものが書かれているようですが、その中に「允恭天皇」の時代に「国造」が置かれたらしいこと、「孝徳天皇」時代にその「国造」が「永從停止」とされたことが書かれています。このように「国造」が停止されたというのは、とりもなおさず「評」が成立したことを意味するものと考えられます。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2017/01/03)(ホームページ記載記事を転記)

コメント