古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「吉備池廃寺」と「百済王寺」

2018年04月25日 | 古代史

 奈良県桜井市から発見された「百済大寺」と目される「吉備池廃寺」には「四天王寺」に使用されている瓦と「同笵関係」(同じ「型」を使用した)が相互にあることが確認されています。つまり「素弁蓮華紋軒丸瓦」は「四天王寺」(及び「若草伽藍」「飛鳥寺」など)から「吉備池廃寺」という順序で作られたとされるのに対して、「単弁蓮華紋軒丸瓦」は「吉備池廃寺」から「四天王寺」へという順序で製作されているというのです。
 従来「百済大寺」の完成は「素弁蓮華紋瓦」からの関係や『書紀』の記述から「七世紀第2四半期」程度が推定されていました。

「(六三九年)十一年…
秋七月。詔曰。今年造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以西民造宮。東民作寺。便以書直縣爲大匠。
秋九月。大唐學問僧惠隱。惠雲。從新羅送使入京。
…十二月己巳朔壬午。幸干伊豫温湯宮。
是月。於百濟川側■建九重塔。」(舒明紀)

 しかし、「単弁蓮華紋瓦」からはその逆コースが考えられることとなってしまったわけであり、この「百済大寺」の創建年代を考える上で非常に重要なポイントであると思われます。

 「飛鳥寺」(法興寺)を初めとしてこれらの寺院はいずれも「百済」を通じて中国南朝に由来があると考えられるものであり、その創建時期として「五八〇年代」後半が想定されますが(後でも述べますが『書紀』に記された「六七〇年」の「法隆寺」焼亡が実際には「六二〇年」のことと推定され、「五十年」の差があると考えられることとなっています。)「飛鳥寺」の創建時期については『書紀』によれば「五八八年十月」に部材を取りに山に入ったとされ、伐採はこの年以降のことと考えられています。
 また、「四天王寺」についての「編年」としては「七世紀第一四半期の後半」という理解が優勢のようであり、これは「法隆寺(西院伽藍)」の編年とほぼ同じ時期となります。(ただしこれは『聖徳太子傳私記』などが言うように「移築」と思われますが。)
 「斑鳩寺」の創建については、その「同笵瓦」の解析から「四天王寺」「飛鳥寺」などと接近した年次が想定されていますが、「瓦」の「笵」の損傷の程度から考えて「飛鳥寺」「斑鳩寺」などは「四天王寺」よりも「先行する」とされていますから、そう考えると「斑鳩寺」の創建年次として「六世紀後半」から「七世紀初め」というあたりが想定され、それからやや遅れるとしてもせいぜい「六二〇年」程度の時期までと思われます。
 このようなことを勘案すると、この「百済大寺」(吉備池廃寺)の創建についても同様の時期を措定すべきではないでしょうか。この「吉備池廃寺」の瓦と「同笵」とされる瓦を使用している寺院がいずれも六世紀後半から七世紀初めという時期にその創建時期が措定されているわけですから、当の「吉備池廃寺」においても『書紀』の記述に引きずられず、その創建時期を推定すべきでしょう。

 この「吉備池廃寺」は、『書紀』による寺院名としては「百済大寺」という名称であり、その名称からもこの寺院が「百済」と深い関係にあることが考えられますが、「六三〇年代」であるとすると遣唐使などを派遣するなどの外交活動を行っている時期であり、「百済」一辺倒というにはその実態とそぐわないものと見られます。
 また、ほぼ同時期にこれらの寺院群が建てられたとすると、塔の高さやその重層の数などから考えてもこれらの中心的存在は「百済大寺」であると思われ、これは「倭国王」の寺院であり、「勅願寺」であると思われることとなります。(『書紀』においても「詔」として「造営指示」が出されていますからそう読み取ることができます。)
 「新羅」においても「九重の塔」が建てられたという記事がありますが、その際技術者として「百済」から人が招かれたとされていますから、このような高層の建物を造る技術が当時の「百済」にはあったこととなります。
 倭国においても同様に「百済」からそのような技術者を招来してこれを完成させたものと見る事ができるでしょう。そのような「権威」と「力」を「倭国王」が持っていて不思議はありませんから、やはり「勅願寺」であるという可能性が高いと思料します。
 その場合「同笵」とされる、「飛鳥寺」「若草伽藍」「四天王寺」など他の寺院はその規模や配置から考えて皇親あるいは諸王・有力氏族などの寺院として創建されたものではないかと推察されるでしょう。(実際「天王寺」は「聖徳『太子』」の発願によるとされています。)

 ところで、「舒明」の言葉によると「百済川」の側に「宮」(と「寺」)を作るとされています。

「(六三九年)十一年…秋七月。詔曰。今年造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以西民造宮。東民作寺。便以書直縣爲大匠。」(『舒明紀』)

 ここに書かれた「宮」については「川」からほど近いことが推定できますが、「寺」については指定がなく多少離れていたという想定も可能です。
この「百済川」が現在のどの川なのかは確定していませんが、「飛鳥川」「曽我川」「寺川」などがその候補としてあがっており、いずれにしても「宮」はその西側とされますから、「広陵町百済」の地が比定されており、それは「敏達」の「百済大井宮」とほぼ同じ領域に存在していたこととなります。また「川」の東側に「寺院」が造られたとすると場所として「吉備池」付近は該当するものと思われ、その規模などからもこれが「百済大寺」であることは確実性が高いと思料します。
 この遺跡が「吉備池廃寺」と称されているのはこの地域が「吉備」という地名を持つからであるわけですが、それはそもそも「吉備姫」の領する場所であったとみられることがあるようです。これは「押坂彦人大兄」に深く関係した人物であり、すでにみたように『古事記』などでは彼の夫人とする記事と娘という記事とが双方存在しています。
 この『古事記』の「敏達天皇」の段の解析などからは「忍坂日子人太子」(押坂彦人大兄)の夫人は「庶妹」つまり腹違いの妹である「糠代姫」とされていますが、それは「吉備姫」と同一人物とされています。つまりこの「吉備池廃寺」そのものが「忍坂日子人太子」(押坂彦人大兄)に直接関係したものであると考えられることとなるわけです。

 これについては「塚口氏」の研究(※)などで明らかとなっているといえそうであり、そこでは「敏達」を初めとする「忍坂王家」(それは「長屋王」まで続く)は「百済」という地(奈良県広陵町百済)にその本拠ともいうべき場所があったことが確実となっており、「百済」の名をかぶせた「宮」や「寺」なども全て彼ら「忍坂王家」につながるものといえるとされます。その意味では「息長氏」系と思われる彼ら一族はまた「百済」に深い関係のある一族でもあったものと思われることとなるでしょう。
 そして、その権力の強さを考えると、「舒明」という「六世紀前半」を想定するより、他の寺院同様「阿毎多利思北孤」の前代の「倭国王」に擬されている「忍坂日子人太子」の手になるものと考えるほうが整合するといえるものであり、「瓦」の「笵」の問題もそれを裏書きすると思われます。


(※)塚口義信「百済大井宮(敏達天皇)-その所在地を探る-」堺女子短期大学デジタルライブラリー1992年


(この項の作成日 2014/12/09、最終更新 2015/01/01)(ホームページ記載記事を転記)

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「斉明」と「舒明」

2018年04月25日 | 古代史

 後にも述べますが、『書紀』による「押坂彦人大兄」についての記述と『古事記』による「日子人太子」の系図とは大きな食い違いがあります。それは「舒明」と「皇極」に関する部分です。

『舒明前紀』「息長足日廣額天皇。渟中倉太珠敷天皇孫。彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女。」

「敏達天皇四年(五七五)正月是月条」「立一夫人。春日臣仲君女曰老女子夫人。更名藥君娘也。生三男。一女。其一曰難波皇子。其二曰春日皇子。其三曰桑田皇女。其四曰大派皇子。次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人。生太姫皇女。更名櫻井皇女。與糠手姫皇女。更名田村皇女。」

 これらによれば「糠手姫皇女」は「舒明」の母であり、またその別名が「田村皇女」であったこととなります。
 さらにこれを『古事記』で見てみます。

(『古事記』「敏達天皇条」)「御子沼名倉太玉敷命坐他田宮 治天下壹拾肆歳也 此天皇 娶庶妹豐御食炊屋比賣命 生御子 靜貝王 亦名貝鮹王 次竹田王 亦名小貝王 次小治田王 次葛城王 次宇毛理王 次小張王 次多米王 次櫻井玄王【八柱】 又娶伊勢大鹿首之女 小熊子郎女生御子 布斗比賣命 次寶王 亦名糠代比賣王【二柱】 又娶息長眞手王之女 比呂比賣命 生御子 忍坂日子人太子 亦名麻呂古王 次坂騰王 次宇遲王【三柱】 又娶春日中若子之女 老女子郎女生御子 難波王 次桑田王 次春日王 次大股王【四柱】
 此天皇之御子等并十七王之中 『日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命』生御子 坐岡本宮治天下之天皇 次中津王 次多良王【三柱】 又娶漢王之妹 大股王生御子 智奴王 次妹桑田王【二柱】 又娶庶妹玄王生御子 山代王 次笠縫王【二柱】 并七王【甲辰年四月六日崩】 御陵在川内科長也」 

 『書紀』の「糠手姫」は『古事記』では「糠代姫」とされているようですが、この人物はさらに意外なことに「田村王」とも「寶王」とも同一人物とされているようです。

「…次寶王 亦名糠代比賣王」「日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命」

 この文章では明らかに「寶王」と「田村王」とが同一人物であるかのように書かれています。しかもこの文章が奇妙なのは「日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命 生御子 坐岡本宮治天下之天皇」という部分において、「生御子」の名前が書かれていないことです。このような場合ここには「王名」が入るはずであり、それが書かれていないのです。その理由はその「王名」が母である「田村」と同じ名前だからであり、それでは大きな矛盾となってしまうからではないでしょうか。この事は逆に言うと「坐岡本宮治天下之天皇」という記述が本当かどうか疑わしいと考えられる事につながります。
 この「寶王」という名称は「皇極」の名前とされる「寶女王」と同じでありまた「田村王」とは「舒明」の名前と同じとされますから、結局「舒明と「皇極」は同一人物という事とならざるを得ません。(「たむら」と「たから」と発音も似ています)
 その場合当然『書紀』の記述には不審があることとなるでしょう。なぜなら『書紀』によれば「皇極」は「茅渟王」の子であり、その「茅渟王」は「彦人太子」の子とされているからです。しかし上に見るように『古事記』では「皇極」は「日子人太子」の「庶妹」であり、また「夫人」であったこととなるわけですから、「世代」が一つ遡上することとなります。つまり『書紀』は「田村」と「寶」という同一人物を、二人に分けて「縦」に年代差を以て配置していることとなります。それが「栗隈王」達の活動年代の矛盾として現れていると思われるわけです。

 以上のことから「六世紀末」には「押坂彦人大兄王」と「難波王」、さらには「押坂彦人大兄王」の死後は「難波王」と「春日王」という「兄弟」により、それ以前とは「権威」「権力」の次元が異なる「強力」な政権が造られたものと推定できることとなります。
 彼らは強力な「刑事」「警察」等の治安維持機能を保有し、その「力」によりこの「倭国」を「直接」統治していたものです。(それはこの時「部民」から解放された下層の人々の強い支持を受けていたと考えられます)
 そのような「力」を「倭国」の隅々まで行き渡らせるために「郡県制」という階層的行政制度を施行し、各々の「郡」「県」には中央から「官」(国宰)を任命・派遣するなどの施策を実行していたものです。
 さらに、広く「隋制」を採用し、「戸籍」「暦」「班田制」を導入すると共に、「屯倉」「屯田」など以前からの制度を拡充・拡大するなど多くの「地方」統治及び収奪の制度等の整備が行われたものと思料され、それまでの「倭国」とは全く異なる状況が作り出されたと考えられます。


(この項の作成日 2013/06/07、最終更新 2017/01/13)(ホームページ記載記事を転記)

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栗隈王達の活動期間について

2018年04月25日 | 古代史

 ところで、「難波皇子」の子供が「栗隈王達」であるとすると、「年齢」に矛盾があることに気づきます。「難波王」は「守屋討伐」に参加していますから少なくとも当時「聖徳太子」と同じ程度(十五-六歳)にはなっていたと考えられます。しかし、それでは「難波王」の「子供達」とされる「栗隈王」や「石川王」の死去した年次についての『書紀』の記録などと整合しないようであり、これは何らかの錯誤が『書紀』にあるとされています。
 確かに「難波王」が「五八七年」という時点で死去していたとして、この時点で既に「栗隈王」達が全員生まれていたとすると、『書紀』に書かれた年代には九十歳になるほどの長寿になることとなってしまいますが、にも関わらず「大宰」や「留守司」という現役の官人として活躍していることとなって矛盾するのは明らかです。
 また「小野毛人」という人物は「小野妹子」の子供であり、その小野妹子は「春日王」の子供とされています。(『公卿補任』による)

「大宝二年条 参議 従四位下 小野朝臣毛野 同日〈五月十七日〉任。天武天皇四年十月為筑紫大弐。/小治田朝大徳冠妹子之孫。小錦中毛人之子也。…」

「弘仁十三年条 参議 従四位下 小野峯守 四十五 三月廿日任。元皇后宮大夫。治部大輔。近江守。同日兼太宰大弐。/征夷副将軍永見(陸奥介永見)三男。母。 延暦廿二四ー任権少外記。五月ー任春宮少進。大同二正月廿任畿内観察使判官。同四四十二従五下(イ任右少弁)。十四日兼春宮亮。十一月庚午式部少輔(亮如元)。同五九月丁未兼近江介。同月癸丑内蔵頭(輔如元)。弘仁三正辛未兼美乃守(少輔如元)。同四正辛酉従五上。同五正廿三兼左馬頭(守如元)。同六正十陸奥守。同十正七正五下。十一正甲申阿波守。廿七兼治部大輔。同十二正七従四下。十日兼皇后宮大夫。二月二日兼近江守。/〔頭書云〕敏達天皇―春日皇子―妹子―毛人―毛野―永見―峯守/イ押紙云。延暦廿二四ー権少外記。大同元三ー少外記。同五月ー春宮少進。同三正ー畿内観察使判官。四月従五下。任右少弁。兼春宮亮。」

 このように彼は「難波王」の直接の子供ではないものの、同時代人であったと考えられる訳です。その彼らが死去した時点でかなりの高齢であったことは彼らの死亡記事がある程度の年次範囲に収まることでもわかります。(年次は通常考えられているもの)

(六七六年)「(天武)五年…六月。四位栗隈王得病薨。」(『天武紀』)

(六七七年)「小野毛人」死去(「墓碑」(表)「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位」/(裏)「大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」による

(六七八年)「(天武)七年…秋九月。…三位稚狹王薨之。」(『天武紀』)

(六七九年)「(天武八年)… 吉備大宰石川王病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」(同上)

(六七九年)「(天武)八年己酉朔癸酉条」「大宅王薨。」(同上)

(六八三年)「(天武)十二年…六月丁巳朔…壬戌。三位高坂王薨。」(同上)

 このように兄弟の死亡時の年次が長兄である「栗隈王」から「末弟」の「稚狹王」や「高坂王」あるいは「甥」といえる「毛人」も含めて十年以内に収まっていることは、彼らがほぼ当時の平均寿命近くまで生存していたと見るのが相当であることを示すものです。
 この当時の平均寿命などは全く不明ですが、七十代程度と見るのが相当ではないかと思われ、「七世紀第一四半期」の早い時期を生年として想定せざるを得なくなりますが、それでは「守屋討伐」で死去したはずの「難波王」が実は生きていたこととなってしまう不具合があります。
 それについては『公卿補任』や『尊卑分脈』では「大俣王」という人物が「難波王」の子供におり、彼の子供達が「栗隈王」達であるとされています。しかしこの両記録とも相当後代のものであり、その真偽(正確性)にはやや問題があるとされます。たとえば『公卿補任』では「天平十年条」の「橘宿祢諸兄」のところには以下のように書かれています。

「天平十年条 右大臣 正三位 橘宿祢諸兄 正月十三日任。叙正三位。元大納言従三位。年五十五。敏達天皇之子難波親王〔男〕大俣王男贈従二位栗隈王男治部卿兼摂津大夫従四位下美努王一男。母縣犬養東人之孫。大夫人贈正一位三千代刀自(光明皇后兄弟也)。天平十年叙正三位。任右大臣。元大納言従三位。」

 この中の〔男〕というのは後代の補注であり、本来はなかった字ではないかと思われます。それを含んでこの記録を読むと、この「大俣王」は「難波親王」の子供(男)であるとは断定的には言えないと思われます。
 また『尊卑分脈』にも「大保(俣)王」なる人物が書かれていますが、「贈正二位」と書かれているものの「官職」などが書かれていません。それはその次の「栗隈王」についても「在職官位」などが書かれておらず、また「贈従一位」という表記があり、それは上の「公卿補任」の記事とも異なっている事が注意されます。また「美奴王」が「美好王」となっているなどその記述について信憑性にやや疑いを持たざるを得ない部分があるのが事実です。つまり、この「大俣王」は『書紀』で「難波王」の弟とされる「大派王」が誤伝したという可能性もあると思われます。これらの点については『書紀』などの資料の成立時点で、すでに年代に「矛盾」があることが既知となっていたことを示すと考えられ、『書紀』の記述に合理性を与えるため後代資料において「修正」が施されているのではないかと考えられます。
 『古代氏族系譜集成』などには、この「大俣王」なる人物は出てきません。「難波皇子」から直接「栗隈王」達につながる形となっています。
 つまり、ここでは『書紀』の記事に何らかの「改定」が行われている可能性が強いと考えられますが、「大俣王」という人物を挟むと整合するということは、「一世代」分どちらかの時代(年次)がずれている(移動されている)という可能性を示唆します。
 しかし、上に見たように「難波王」が「押坂彦人大兄」の弟であることを疑わせる史料は存在しませんから、実際には「栗隈王」の時代が上ると理解すべきではないかと考えられます。「栗隈王」達が「難波王」の子供であるとすると、「栗隈王」達の生年は「六世紀後半」へと繰り上がらざるを得なくなるでしょう。
 それが正しいと考えられるのが「遣隋使」派遣の時期です。

 既に行った検討から「遣隋使」派遣の真の年代は「六世紀終わり」であるということと理解されることとなり、「小野妹子」の活躍時期も二十年ほど遡上することとなりました。それは即座に彼の子供とされる「毛人」の生存年代の問題と重なり彼も「六世紀末から七世紀第二四半期」程度が活躍の時代と見られることとなりますから、上に示された「死去」の年次はやはり三十~四十年ほどの遡上を検討することが必要と思われるわけです。
 「難波王」達の系譜には誰か一代挟む必要があるということで「大股王」が措定されているわけですが、当然彼らだけではなく同時代を生きた全員にそのような改定が必要となるわけであり、そのような仮定が著しく不合理であるのは疑えません。

 さらにそれを推測させるものが「威名大村骨蔵器銘文」です。
 この骨蔵器は天明年間に大和国葛城下郡馬場村で発見されたもので、慶雲四年(七〇七年とされる)に四十六歳で没した「威名大村」のものです。そこには(蓋に)に銘文が刻まれており、それは以下のようなものでした。

「卿諱大村檜前五百野宮御宇天皇之四世後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第三子也」

 つまり「大村」は檜前五百野宮御宇天皇の四世で、父は後岡本聖朝で紫冠だった「威奈鏡公」であるというわけです。
 ところで『書紀』によれば「猪名公」は「宣化」天皇は「継体」の皇子である「上殖葉皇子」(『古事記』では恵波王)を祖としているとされます。

「(宣化)元年(五三六年)春正月。遷都于桧隈廬入野。因爲宮號也。…己酉。詔曰。立前正妃億計天皇女橘仲皇女爲皇后。是生一男。三女。長曰石姫皇女。次曰小石姫皇女。次曰倉稚綾姫皇女。次曰上殖葉皇子。亦名椀子。是丹比公。偉那公。凡二姓之先也。」

 この二つの史料は微妙に食い違っています。銘文に出てくる「檜前五百野宮御宇天皇」とは、『書紀』では「檜隈盧入野宮」(『古事記』では檜?盧入野宮)に遷宮したと記される「宣化」を指しているとみられます。これは『書紀』の記述通りであり「宣化」―「上殖葉皇子」(二世)は間違いなさそうです。また「大村」本人からは父が「鏡公」であることから「鏡公」―「大村」の二代も明確です。
 この二つの世代を単純に連続すると「宣化」―「上殖葉皇子」―「鏡公」―「大村」となり、これは「銘文」に合致するというわけです。しかし、『書紀』によれば「宣化」天皇は五三九年に没していることとなっており、そうであれば息子の「上殖葉皇子」は当然それより以前の出生となります。「鏡公」の生年がその「上殖葉皇子」の五十歳程度と遅く考えても息子の「鏡公」生年は五九〇年より遅くはならず、さらにその「大村」の生年を六六二年とすると「鏡公」七十二歳の息子ということになってしまいます。
 このようなかなり無理な推定をしなければ代としてつながらないのです。これらのことは「宣化」の時代を繰り下げなければ成立しないことを示すとみられ、実祭には一世代つまり約三十年ほど繰り下がった六世紀後半を想定して始めて成立するといえます。

 このように両者の例は『書紀』の記事にどこかに無理に引き延ばした部分があることを示唆するものであり、年次をそのまま信ずることができないことを示しますが、また合理的な解釈を施すことにより史料として使えることをも示すものです。


(この項の作成日 2013/06/07、最終更新 2017/02/25)(ホームページ記載記事を転記)

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「兄弟統治」について

2018年04月25日 | 古代史

 『古事記』に「彦人大兄」の死去年時が「五八七年」と表記されていると見られることから、『書紀』で「皇祖大兄」とされる「押坂彦人大兄皇子」(忍坂日子人太子)が「阿毎多利思北孤」ではなく、その「弟王」とされる「難波皇子」(難波王)が該当する人物であると推定されることとなりました。
 『隋書』ではその「阿毎多利思北孤」の最初の遣使は「開皇二十年」つまり「六〇〇年」と考えられていましたが、すでに検討したように実際には「南朝」(「陳」)が平定される段階以前に既に倭国から遣使されていたものと見られます。
 そこでは「天を以て兄とし日を以て弟とする」と語られており、これを「隋皇帝」(高祖文帝)から「無義理」とされ「訓令」により改めさせられたとされます。(下記記事)

『隋書俀国伝』「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩𨿸彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰 此太無義理。於是訓令改之。…」

 これは従来「兄弟統治」を表すと理解されています。確かにこれを単なる「観念的」なものと受け取るには、「天」と「日」、「兄」と「弟」というように「対称型」で語られ、「阿毎多利思北孤」単独で「統治」しているというようには受け取れない論理性を有しているようです。
 またすでに述べたように、この時点で「強い権力」が行使されるようになり、非常に多岐に亘る改革が行なわれたと推定される訳ですが、そのようなものが「一人」の改革者により行なわれたとは考えにくいと思われます。
 有力なブレーンを複数抱えなければこのような改革はおぼつかない訳であり、信頼に足る人物が傍で支えていたという可能医が高いでしょう。というより「共同」で事に当たっていたという可能性を考えてみるべきであり、「弟王」がいたという想定はあながち無理なことではありません。それが「夜明け前」と「日の出後」という「時間差」で分担しているというのが「リアル」な話かどうかは不明ですが、「双頭体制」ともいうべき権力構成であったと推定できるものであることは確かです。

 ここでいう「兄弟」のうち「兄」については年次から考えて「皇祖大兄」と尊称される「押坂彦人大兄」の「弟王」である「難波皇子」であると考えられることとなりました。
 『古事記』においては「忍坂日子人太子」(『古事記』による表記法)について特別に彼の夫人と皇子達が列挙されていますが、このような扱いは彼が「皇祖」の名にふさわしい人物であることを示しています。このような表記は「天皇」以外には為されておらず、『古事記』の中で彼が特別な存在であることが示されています。このことから「日子人太子」は(明確には書かれていないものの)「倭国王」として即位していたのではないかと考えられることとなるでしょう。
 しかし彼は「隋」との国交が開かれる以前に死去したと考えられ、後を承けた「弟王」(難波皇子)がその遺志を受け継いで「改革」を続行したものと推量します。このように「弟」に当たる人物が「難波王」であるという推測がそれほど的外れではないのは彼の子供たちについて調べてみることで明らかとなります。

 この「難波王」は『書紀』にほとんど「動静」や「事績」が書かれていません。(もっともそれは「兄」である「押坂彦人大兄皇子」も同様ですが)
 その「経歴」等については彼ら兄弟については全く情報が欠落しています。ところが、このようにいわば「存在の希薄」な彼らですが、それと反するように見えるのが彼らの子供達です。
 「押坂彦人大兄」の場合は「舒明」でありまた「皇極」です。彼らは何と言っても「天皇位」についています。しかもその後の「新日本国王権」につながるような各天皇の「祖」ともいえる位置にあります。
 また「弟」である「難波王」にはその子供達として「栗隈王」「石川王」「高坂王」「稚狭王」「大宅王」がいるとされます。(『古代氏族系譜集成』などによる)
 彼等は各々かなり高位の存在として扱われていたことが『書紀』から窺えます。
 例えば「栗隈王」は「筑紫大宰」という地位にありました。その彼は「壬申の乱」の際に「近江朝廷」からの「援軍」要請を拒否しています。このとき「彼」は「筑紫の城」は「外敵」に対するものであって内乱には与しない」としていますから、この「大宰」時点で既に「軍事」に関する権能を有していたこととなるでしょう。また後に「兵政官長」をも兼務しています。この「兵政官長」は後代の「兵部卿」に相当する役職であり、国内全体の「軍事部門」のトップとも言うべき存在です。

「(天武)四年(六七五年)二月是月条」「新羅遣王子忠元。大監級飡金比蘇。大監奈末金天冲。弟監大麻朴武麻。弟監大舎金洛水等。進調。其送使奈末金風那。奈末金孝福。送王子忠元於筑紫。」

「(天武)五年(六七五年)三月庚申(十六日)諸王四位栗隈王爲兵政官長。小錦上大伴連御行爲大輔。」

 「栗隈王」はこの人事時点で既に「筑紫」における民生部門のトップと軍事部門のトップを兼ねていたわけですが、さらにここで「兵政官長」という国内全体の軍事部門のトップを兼ねるという相当強い権力を保有することとなったものです。彼やその補佐である「大伴御行」などと協議を行ったのは、「新羅王子」である「忠元」と彼が引率してきた「大監」等軍事部門の責任者であったと見られ、ここで両国軍事トップによる本格的な「対唐戦略」を含めた打ち合わせが行われたものと考えられます。
 このことから、「栗隈王」と「忠元」とは同等の立場で会談に臨んでいたことが推定され、「忠元」が「新羅王」の「皇子」であり、また「新羅王」の代理であるわけですから、それに対応する「倭国側」も同様の布陣であったと考えると、この「栗隈王」が「倭国王」の代理であり、また「王子」(皇子)の位に相当する可能性が考えられることとなります。(でなければ外交上の「非礼」にさえ当たるものと思われます)

 また、「石川王」については「播磨惣領」であったという記事や「吉備大宰」であったという記事があります。

(「播磨国風土記揖保郡」の条。)「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後 石川王為総領之時 改為広山里…」

(天武紀)「天武八年(六七九年)己丑条」「吉備大宰石川王病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」

 つまり「難波王」の子供達のうち(少なくとも)二人までが「大宰」となっているのです。

 また「高坂王」は「壬申の乱」の描写中で「倭京」の「留守司」とされています。

「六月辛酉朔…
甲申。將入東。時有一臣奏曰。近江群臣元有謀心。必造天下。則道路難通。何無一人兵。徒手入東。臣恐事不就矣。天皇從之。思欲返召男依等。即遣大分君惠尺。黄書造大伴。逢臣志摩于『留守司高坂王』。而令乞騨鈴。因以謂惠尺等曰。若不得鈴。廼志摩還而復奏。惠尺馳之往於近江。喚高市皇子。大津皇子逢於伊勢。既而惠尺等至『留守司』。擧東宮之命乞騨鈴於『高坂王』。然不聽矣。」

「己丑。天皇往和■。命高市皇子號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。是日。大伴連吹負密與留守司坂上直熊毛議之。謂一二漢直等曰。我詐稱高市皇子。率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家。自南門出之。先秦造熊令犢鼻。而乘馬馳之。俾唱於寺西營中曰。高市皇子自不破至。軍衆多從。爰『留守司高坂王』及興兵使者穗積臣百足等。據飛鳥寺西槻下爲營。唯百足居小墾田兵庫運兵於近江。時營中軍衆聞熊叺聲悉散走。仍大伴連吹負率數十騎劇來。則熊毛及諸直等共與連和。軍士亦從乃擧高市皇子之命喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰百足乘馬緩來。逮于飛鳥寺西槻下。有人曰。下馬也。時百足下馬遲之。便取其襟以引墮。射中一箭。因拔刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝。物部首日向。俄而赦之置軍中。且喚『高坂王。稚狹王』而令從軍焉。」

 上に見たように「高坂王」は「留守司」とされているわけですが、通常「留守司」とは「天子」が行幸している間「京師」に残る、文字通り「留守」を預かる職掌です。しかも後の例から見ると、多くの場合「兵部卿」など「軍事関係」の重要人物がその任に当たっています。(危機管理という観点で考えると、当然とも言えますが)
 彼の場合も「駅鈴」を管理しているわけであり、このことは「官道」の管理を行っていたと推測され、その「官道」が後の『養老令』では「兵部省」の管轄下にあったことから「軍用」であったものと推定されますから、それを考えると、彼は「軍事」部門の高位にあったという可能性が高いと思われます。また、これについては後の『養老令』においても「留守官」には「駅鈴」がいつもより臨時に多く支給されるとしていますから、「留守官」はそもそも「軍事」と深い関係にあったことが判ります。

「公式令 車駕巡幸条 凡車駕巡幸。京師留守官。給鈴契多少臨時量給。」

 上に見たように「栗隈王」は、「近江朝」から(「吉備」へと同様)の「援軍」要請を拒絶しており、これは彼の協力がなければ「反乱」を制することはできないことの裏返しとも言えます。つまり、「栗隈王」が(留守司である「高坂王」も含め)「倭国王権」全体の軍事的方向性を決めていたと言っても過言ではないと言えるでしょう。
 また、それについては「近江朝廷」としては制御できていなかったことを示します。それは彼等「栗隈王」等「難波皇子」の子供達の専管事項であり、「近江朝廷」側には何も指示・命令する権限がなかったことを示すものです。
 また、この時「栗隈王」の身辺は彼の子息である二人の「王」が守護していました。(「三野王」(美奴王)と「武家王」)彼らについては詳細は書かれていないものの、既にこの段階で「成年」に達していたという可能性が高いと思料されます。(でなければ「護衛」の役は難しいでしょう)つまり、この時点で彼には成年に達するような子供が二人いることとなります。
 「栗隈王」が「筑紫」へ「近畿」から「派遣」されている人間であるとすると、彼の周囲に「成人」に達するような子供が一緒にいるというのは不思議ではないでしょうか。
 例えば後の「大伴旅人」は「筑紫大宰率」として赴任する際に、子供である「家持」と「書持」を「妻」である「大伴郎女」と共に「筑紫」へ同行していますが、それは子供がまだ幼かったからという事情があったというべきでしょう。しかし、彼ら「成人男子」の場合は別行動が基本ではないでしょうか。彼等は既に「冠位」を持っていたという可能性もあり、その場合は「父」と連動して「筑紫」へ派遣されたこととなりますが、それもまた他に例がなく、考えられないと思われます。
 つまり、この時の情景から考えて、彼は「赴任」しているというわけではなく、「地場」の勢力としてこの「筑紫」に存在していたと考えられ、彼の「本拠地」ともいうべき場所は実は「筑紫」であったと考えられるものです。

 また、「難波王」の子供の一人である「稚狭王」は「留守司」である「高坂王」と行動を共にしており、「高坂王」と共に「大海人軍」に帰順しています。
 この部分の描写は「微妙」であり、「大海人」側は「高坂王」には「駅鈴」を「乞」とされており、「敬意」を以て臨んでいるようです。これを「高坂王」は拒否している訳ですが、断られても、これに対し攻撃を加える風ではありません。それに対し「近江側」は「栗隈王」に対する使者に、「栗隈王」が「援軍」に対して断るようなら「殺す」ように指示しています。(吉備の「当麻臣広島」に対しても同様の指示を出しています)
 これらのことから「倭京」の「高坂王」や「筑紫」の「栗隈王」は、少なくとも元々「近江方」ではなかったということがわかります。というより、彼らも含めて各地に配置されているポストに就いている人物達については、その任命権者が「近江朝廷」つまり「大友皇子」あるいは「天智」ではないこととなるでしょう。
 そのような彼等が「近江朝」から「敵」と明確に断定されず、重要なポストに就いていたということは、彼らが「利用」するに値する人物であり、兄弟であったと言うことと思われます。

 彼らの「父」である「難波王」が「倭国王」であったと考えると、「近江朝廷」側は、彼等のようなある種「高貴」であり、また「権威」と「権力」を有している勢力を傘下に入れることで、他の勢力に対する「牽制」ともなると考えたとして不思議ではありません。当然、彼等を「正面切って「敵」とはしたくなかったものと考えられます。
 逆に言うと、「大海人」側からはそもそも「敵」とは見なされていないこととなり、また「栗隈王」達も「大海人」という人物を「敵」とは認識していなかったという可能性があります。(『書紀』でも元々親しかったという表現がされています)そのことから、彼らないし彼等の「父」である「難波王」と「大海人」という人物が「近しい」関係にあったことが想定されます。
 
 また、「大宅王」については情報がなく経歴などが不明ですが、その死去記事において「薨」という用語が使用されていますから、(下記の記事)「三位」以上の高位にあったことが推定できます。

「天武八年(六七九年)八月己酉朔癸酉条」「大宅王薨。」

 ここでは「冠位」は書かれていないものの、「三位以上」でなければ使用されない「薨」の字が使用されていますから、(四位以下は「卒」で表記される)かなり有力な人物であったことが推定できます。
 ところで、『書紀』ではこの「薨」と「卒」の使い分けはかなり厳重にされているように見えますが、唯一の例外が「栗隈王」であり、『書紀』では「四位」とされているのも関わらず「卒」ではなく「薨」の字で表記されています。

「天武五年(六七六年)六月。四位栗隈王得病薨。」

 これは「四位」という「官位」表記に問題があると思われ、もっと高位の人物であったことを推定させるものです。(これが「死後」の加増でないのは同様に加増されているにもかかわらず「卒」表記の人物がいることでわかります。)

 これらのことから、少なくとも「難波王」の皇子達はいずれも「軍事関係」の「要職」に就いていたこととなり、「軍事・警察」に力を持つ一大勢力を形成していたこととなるでしょう。
 しかし、この時代は能力主義ではなく血縁が非常に重視された時代であったと思われます。にも関わらず、彼等の父とされる「難波皇子」という人物については、特に何か『書紀』内で特記すべき事績などが書かれておらず、重視されている形跡が見あたらないことと矛盾するといえます。
 「物部守屋」を滅ぼした「丁未の戦い」の中にその名が出てくる以外は全く記録に残っていないような人物の子達が、多くこのように高位にいると言うことははなはだ理解しづらいことであり、不思議というより「不審」であるといえるでしょう。

 さらに『書紀』では「天武」の葬儀の際に「左右大舍人」に関して「誄(しのびごと)」を奏する役割で「河内王」が登場します。彼はこれ以前に全く現れず、唐突に登場するわけですが、その後『持統紀』に「河内王」という人物が「筑紫大宰」として現れます。

「九月戊戌朔…甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆『河内王』誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。」

「(六八九年)三年…潤八月辛亥朔…丁丑。以淨廣肆河内王爲筑紫大宰師。授兵仗及賜物。以直廣壹授直廣貳丹比眞人嶋。増封一百戸通前。」

「(六九〇年)四年…九月乙亥朔…丁酉。大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽■郡大伴部博麻。從新羅送使大奈末金高訓等。還至筑紫。…。
癸丑。大唐學問僧智宗等至于京師。
戊午。遣使者詔筑紫大宰『河内王』等曰。饗新羅送使大奈末金高訓等。准上送學生土師宿禰甥等送使之例。其慰勞賜物一依詔書。」

「(六九二年)六年…潤五月乙未朔…乙酉。詔筑紫大宰率『河内王』等曰。宜遣沙門於大隅與阿多。可傳佛教。復上送大唐大使郭務■爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。」

「(六九四年)八年…夏四月甲寅朔戊午。以淨大肆贈筑紫大宰率『河内王』。并賜賻物。」

 このように彼は「五年間」「大宰帥」として現れ、最後亡くなった模様ですが、彼は「系図」によれば「押坂彦人大兄」の孫とされている人物です。(異母兄弟である「百済王」(久多良王)の子供)その意味では「難波王」の子供達である「栗隈王」などとほぼ共通した時代を生きた存在といえるでしょう。そして彼もやはり「兵丈」を倭国王から授けられている模様であり、「難波王」の子供達と同様「軍事」を手中にしていたことが推察されます。

 彼らの主要な勢力である「軍事・警察」という力が彼らの「父」から継承したものと考えると、「難波王」とその「兄」である「押坂彦人大兄」の持っていた勢力と重なることが推測できます。つまり「栗隈王」達の権威の源泉は共に「倭国王」として君臨していた彼らの父と伯父である「難波王」と「忍坂日子人太子」(に擬されていた人物)であると考えられることとなるわけです。


(この項の作成日 2013/06/07、最終更新 2017/02/26)(ホームページ記載記事を転記)

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「皇祖大兄」とは(三)

2018年04月25日 | 古代史

 『筑後国風土記』には「筑紫君磐井」の墳墓の説明として書かれた中に「解部」という「官職」についてのものがあります。この「解部」はその説明の中でも「盗み」を働いた人物を取り調べる立場として描かれているようであり、それはまさに「刑部」の職掌そのものであると思われます。

『筑後國風土記』磐井君(前田家本『釋日本紀』卷十三「筑紫國造磐井」條)
「縣南二里,有筑紫君磐井之墓。墳高七丈,周六十丈,墓田南北各六十丈,東西各卅丈。石人?石盾各六十枚,交陣成行,周匝四面。當東北角,有一別區。號曰解部。前有一人,裸形伏地。號曰盗人。生為?豬,仍擬決罪。側有石豬四頭。號曰賊物。賊物,盜物也。…」

(以下読み下し)
「縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は南と北と各六十丈、東と西と四十丈なり。石人と石盾と各六十枚交陣行を成して四面に周匝れり。東北の角に當りて一つの別區あり。號けて衙頭と曰ふ。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。號けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。號けて偸人と曰ふ。側に石猪四頭あり。臟物と號づく。臟物とは盗物なり。…」

 後の『養老令』でも「解部」は「刑部省」と「治部省」に分かれて別々に存在、配置されており、それはこの「解部」が本来「律令制」の枠組みから外れた存在であり、かなり以前から広範な「刑事・警察」を職掌としていた過去を反映していると考えられます。そのような「解部」の地位の確立に甚大な成果を上げたのが「押坂彦人大兄」であったのではないかと考えられ、彼の時代に「解部」の立場を強化するような「律令」の拡大施行があったと考えられます。
 この「解部」が「押坂彦人大兄」の時代に彼の業績を讃える意味で彼の「御名部」となり、「押坂(忍坂)部」となったものと思われますが(さらに言えば、彼が「磐井」の後裔であったという可能性も考えられ、そのため「解部」を「伴部」としていたということかもしれません)、その後「御名部」の返還という事態となって、「押坂(忍坂)」という名称が外され、再び「解部」に戻されたものと思料します。(「刑部」という名称となったのは『大宝令』以後と思料されます)
 
 なお「律令」そのものは「前述」の「磐井」の墳墓の様子でも容易に推察されるようにこの時代に「律令」が定められていたであろう事、その中心はやはり「律」であったであろう事が理解できます。(この「律令」の制定に関わったのは「武」の晩年時代の「磐井」ではなかったかと考えられますが)
 しかし、「物部」の「筑紫占拠」という事態になって、「律令」は有名無実となったと考えられ、死文化していたと思われます。
 『古事記』の記事を信憑すると「押坂彦人大兄」は「甲辰年」(五八七年)には死去しているとされますから、「守屋」を打倒して「筑紫」を解放するという事業は彼の「弟王」である「難波皇子」達により行われたものではないかと考えられることとなります。
 彼らは「守屋」打倒を果たした後、改めて「律令」を改定施行したものと考えられますが、それを示唆するのが『隋書俀国伝』の記事です。
 『隋書俀国伝』の記事によると、そこにはしっかりした刑法が存在していた事が判ります。記事を見ると後の「笞杖徒流死」の原型とも言うべき「杖流奴(奴隷になる)死」が定められていたことが窺えます。

「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。 」

 この内容は「開皇年間の始め」に派遣された遣隋使の語った内容をまとめたものと推量され、「六世紀末」の「倭国」における「法秩序」について述べられたものと判断して間違いないものと考えられます。
 このような「刑法」を含んだ「律」中心の「律令」が新たに施行されたものと考えられ、それに功績があったのが「押坂彦人大兄」の「弟王」である「難波皇子」であったという可能性が高いと思料します。

 また、彼の「御名部」としての「押坂(忍坂)部」は「倭国内」に広く存在・分布していたものと見られ、(「刑事・警察」はどのような場所にも必要であったでしょうから)実数としてもかなりの数に上ったものと見られます。
 「皇太子の下問の詔」では「其群臣連及伴造、國造所有昔在天皇曰所置子代入部」「皇子等私有御名入部」「皇祖大兄御名部入部」というように、かなりの数に上るであろう「群臣連及伴造、國造」が私有している「入部」および「皇子等」が私有する「御名部」に並べて書かれるほどのウェイトを占めていたと考えられ、「獻入部五百廿四口」という中のかなりの数は「皇祖大兄」の「御名部」ではなかったかと推察されるものです。
 実際に『和名抄』に「地名」として「おさかべ」という読みが充てられる「刑部」「忍壁」が残っている例を数えてみると、1/3近くが「吉備」の領域であることが判ります。これに隣接する「因幡」と「丹波」を加えると「半数」を占めることとなります。
 後でも述べますが、「押坂彦人大兄」の「夫人」である「糠手姫」は「嶋皇祖母命」という別名があったとされますが、それは「皇極」の母である「吉備嶋皇祖母命」と同名であり、この二人は同一人物という指摘もあります。そのことから考えると「吉備」に「刑部」地名が遺存していたというのはある意味当然ともいえると考えられます。

 これについてすでに検討された「故・中村幸夫氏」の論では、「皇祖大兄」とは「天智(中大兄)」を指すとされます。それはこの「改新」の詔全体が潤色であると見る立場からですが、その場合「御名部」とは「何部」になるのかが言及されておらず不明です。それは「正木氏」の論においても同様であり、「皇祖大兄」を誰に充てるかという論は即ち「皇祖大兄の御名部」とは「何部」という事が問題となると思われますが、それは議論された形跡がありません。
 「中大兄」は幼名が「葛城皇子」でしたから、その類推から考えると「葛城部」という「部」になりそうですが、『書紀』や『古事記』では「葛城部」は「允恭天皇」の「皇后」と関連して語られており、別の起源を持つとされています。

(仁徳紀)「仁徳七年秋八月己巳朔丁丑条」「爲大兄去來穗別皇子定壬生部。亦爲皇后定葛城部。」
 
(古事記下巻)「大雀命 坐難波之高津宮 治天下也…此天皇之御世 爲大后石之日賣命之御名代 定葛城部亦爲太子伊邪本和氣命之御名代定壬生部…」
 
 更にこの「葛城部」がその帰趨が問題になるほど大量にはいなかったと推定される事からも、「詔」にいう「皇祖大兄」の「御名部」ではなかったと推定されることとなりますが、そうであるとすると「献上」する「御名部」がなかったにもかかわらず「記事」が構成されていることとなり、不自然であると思われます。この点からは「皇祖大兄」が「中大兄」とはいえないこととなります。(正木氏の論も同様の意味で不適格と思われます)

 ところで、『書紀』に書かれた「山背大兄」の失脚の場面では「蘇我入鹿」が「高向国忍」に対して至急「捜査して、捕らえるように」という指示を出しています。ここで指示されたという「高向国忍」は『続日本紀』等によれば「刑部尚書」つまり「刑部省」の長官とされ、「刑事・警察権力」の頂点にいた人物でした。「蘇我」は天皇の権威を上回る行動を取ったとされていますが、それは「刑事・警察」という国内統治の「ツール」を手に入れていたからであり、そのことは「国政」を統治するためには必ず「刑事・警察権力」を手中に収めなければならないことを示します。「押坂彦人大兄」もやはり「刑事・警察」を抑えた上でそれを自在に操るために「法」を整備したものであり、結果として大量の「御名部」を持つなど絶対的権力を発揮したものではなかったでしょうか。しかもそのことは『常陸国風土記』に「我姫」を統治するために派遣された「惣領」として「高向臣」が出てくることにも現れていると考えられます。この「高向臣」と前述の「高向国忍」とが「無関係」であったとも考えにくく、元々彼等は「解部」を職掌とする氏族であったのではないかと考えられ、「惣領」たる「高向臣」もその「惣領」という名にふさわしく「総帥権」を持っていたと考えるべきであり、(後でも述べますが「軍事」に関する権能も有していたと考えられます)「刑事」「警察権」をも保有していたと見るべきでしょう。それは「国司」に対して「管内」の訴訟を自ら裁いてはいけないという趣旨の「詔」が出されていることと関係していると思われます。それは「惣領」の役目柄であったと言う事を示しており、そのような「惣領」という職掌を、「我姫」を始め各地に配置するというようなことも「押坂彦人大兄」の業績の一端に存在するものと言うべきでしょう。(このことからもこの「押坂彦人大兄」という存在が「阿毎多利思北孤」によく重なると云えるでしょう。)

 この「皇太子への下問の詔」では「皇子」に対して「私有する御名部」についてどうするか「皇太子」に問いかけています。それを問われた皇太子は「書」を使者に持たせ、文書で回答していますが、結局「天皇」に献上するとしています。
 このやりとりから考えて、文章中の「皇子」は自分の子供を指しているものではないと考えられますし、また「皇太子」は傍にいないと言うことも判ります。
 「皇子」がその「名」を取り込んだ「御名部」を私有するのに、「父」である「天皇」(ここでは倭国王)がその経緯についてあずかり知らないと言うことは考えられず、「御名部」を保有する経緯に「現倭国王」(「現爲明神御八嶋國天皇」)が関与していないことは明白です。ましてやそれを「父」に「献上する」というのは奇妙な話といわざるを得ません。つまり「現倭国王」は「皇子」や「皇太子」の父ではないと云うこととなるでしょう。

 また、ここでは「皇太子」という人物が「臣」として「使者」を派遣して「奏請」し、「奉答」しており、これは「表」(文書)によって天皇と応答していることとなるのが注目されます。
 「屯倉」の数量等細かい数字が書かれているのは、使者が「口頭」ではなく「文書」を持参した事を示唆していますから、ここでは「皇太子」が「表」(文書)によって天皇と応答していることとなりますが、これは「倭国」では珍しい出来事です。「倭国」ではそれまでの歴史でもそれ以降でも「天皇」と「皇太子」ないし「臣下」の会話が「表」によるということはありませんでした。
 また、このような「表」による応答というものが『大宝令』にも規定されていないのは基本的には「八世紀」の天皇家と「臣下」の諸豪族との間には「共通」の権力基盤があり、ある意味一心同体であったからとも考えられるものです。しかし、この「改新の詔」の時点では「天皇」の諮問に対して「皇太子」なる人物は「使者」を遣わし「表」を「奉じて」回答しています。この「臣」が「皇太子」を指すならば、「天皇」と「皇太子」はよほど遠距離に離れて所在している事を示すと考えられます。でなければ、直接面前で応答することでしょう。
 
 また、この「詔」の中には「品部の接収」などと違って、「朕」が現れません。あくまでも「天皇」と「皇太子」が主人公として現れます。他の「詔」では「朕」と「今之御寓天皇」という両者が主人公とされており、それらとは状況設定が異なると考えられます。このことから、この「皇太子使使奏請」条そのものが「時代の様相」が異なることが推定されます。
 
 また、この文章中には「昔在天皇」という表現があります。

「昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。」

 つまり「昔在天皇等世」には「天下」がまとまって一つであったものが今では各国がばらばらになったという訳です。「天下」つまり「倭国」が「混齊」つまり、「国内」のどこも「混じり合って等しい状態」となっていたという訳ですから、これは「強い権力者」が「倭国」の全体を「統一」していた時代を指す表現と思われます。それは「阿毎多利思北孤」に始まり「七世紀半ばの難波朝期」ぐらいまでを指すものと考えられるものです。
 この時代は「官道整備」などを始め、「難波宮殿整備」など非常に高度の中央集権的事業が行なわれたことが確実視されており、それは「強い権力者」の存在を前提にしなければ理解できないものです。
 これに対し「分離失業」した状態というのはそれ以降を指すと考えられ、「唐」「新羅」との戦いに敗北し、「倭国王朝」の求心力が大きく低下した時代を指すと考えられます。この時代には「天智」による革命などもあったものと推定され、各諸国では誰を「倭国の盟主」と仰ぐべきか決めかねていたものとではないかと推測されるものです。
 それをここでは「天人合應。厥政惟新」という訳ですから、改めて「天」つまり「天神」を表徴するものであり、これは「九州倭国王権」の本拠地からの「てこ入れ」があったことを示し、また「政」つまり政権運営の全てを全く新しくするという訳であり、それを「歓迎する」というわけです。
 これらの時系列から考えて、これは『持統紀』が該当すると考えられ、「禅譲」により「日本国」が新王朝として誕生した時点のものであり、「朱鳥改元」及び「藤原副都」への「遷都」時点の発言と考えられます。それは、この段階まで「忍坂部」が存続していたことを示すものと思われ、この「詔」によりこれ以降「解部」に戻されたものと思料します。それを示すものが『持統紀』の「庚寅年」に出てくる「解部増員」記事です。

「(持統)四年春正月戊寅朔。(中略)丁酉。以解部一百人拜刑部省。」

 ここに書かれたような大量の「解部」増員記事は一見不審です。それはこの「解部」が『大宝令』にも規定されているものの、その地位はかなり低く当時すでに重視されるような職掌ではなかったことが知られているからです。
 また『大宝令』は「飛鳥浄御原令」を准正としたと書かれており、大宝令の「解部」の状況は必ず「飛鳥浄御原令」の実情でもあったはずですが、そう考えると「解部一〇〇人」という大量増員は考えにくいこととなると考えられています。それは『大宝律令』も、それが「准正」としたという「飛鳥浄御原朝廷の制」も、かなりの部分が「唐制」(『永徽律令』あるいはそれを遡上する『貞観律令』など)に則っているとされており、特に「律」の部分は「令」よりもはるかに「唐制」に近いとされ、倭国独自のものというのはそう多くはないというのが言われています。しかも、この「解部」というのはその「唐制」にはない「職掌」ですから、このような大量増員が「持統朝」の出来事とするのは、「矛盾」であると思われます。
 しかし、この矛盾は「忍坂部」から「解部」への復帰という内容に置き換えて考えると納得しうるものであると思われます。つまり、これは「御名部」の返還という中で、それまでの「忍坂部」を名称変更して「解部」として再配置したものと考えることができると思われます。
 しかしその後「解部」は「律令制」から「はみ出した」状態となっていたと考えられ、下記にあるように「八〇八年」には消滅してしまい、「刑部」という「漢語」と(おさかべ)という「訓」だけが古の状態を遺存してしまったものと推量します。

「日本後紀卷十六逸文大同三年(八〇八)正月壬寅廿」「(『令集解』職員令)壬寅。詔曰。觀時改制、論代立規、往古沿革、來今莫革。故虞夏分職、損益非同。求之変通、何常准之有也。思欲省司合吏、少牧多羊、致人務於清閑、期官僚於簡要。」…(『類聚國史』一〇七刑部省)臓物司、併刑部省。刑部解部、宜從省廃。」

 以上「皇祖大兄」を『書紀』の「注」の通り「(押坂)彦人大兄」として解釈してみましたが、この解釈によれば「六世紀後半」と考えられる「倭国統一王権」の誕生の過程と重ねて考えることができるとともに、「七世紀末」の「庚寅年」の改革についても説明が可能であり、より整合性が高いものと思料します。


(この項の作成日 2013/05/05、最終更新 2014/12/20)(ホームページ記載記事を転記)

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