古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「六十六国」分国と「国縣制」の施行

2018年04月24日 | 古代史

 「阿毎多利思北孤」と「弟王」の時代(実年代)は「六世紀末」から「七世紀初め」であり、これは『書紀』で言う「推古天皇」の時代に重なっており、「聖徳太子」の業績とされるものは「阿毎多利思北孤」とその弟王(これは「難波皇子」に擬された人物)の業績と対応していると考えられます。
 その「聖徳太子」に関わる伝承の中に「六十六国分国」というものがあります。それによれば彼は「成務天皇」により「三十三国」に分国されていたものを更にその倍の「六十六国」に分けたとされています。(これについては「古賀達也氏」の論文「続・九州を論ず-国内資料に見える『九州』の分国」「九州王朝の論理」所収二〇〇〇年五月二十日明石書店を参照してください)
 これに関しても同様に「阿毎多利思北孤」(と弟王)の業績と考えるべきでしょう。
 
 この「六十六国分国」という事業は全国(陸奥を除く)を「法華経世界の具現化」のために、既に「広域行政体」としての「国」が成立していたところでは「前・後」などに「強制分割」するなどし、まだ成立していなかった地域では各「クニ」を統合するなどして無理に「六十六」という数字に合わせたものです。そして「六十六国分国」の実態というものは「倭国中央」とその「直轄領域」に施行された「国県制」と全く同一の事業と考えられ、それを示すのが『常陸国風土記』の冒頭の記事であると思われます。

「古者 自相模国足柄岳坂以東諸県総称我姫国 是当時不言常陸 唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂国 各遣造別令𢮦挍」「其後 至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世 遣高向臣中臣幡織田連等 総領自坂已東之国 于時 我姫之道 分為八国 常陸国 居其一矣所以然号者 往来道路 不隔江海之津済 郡郷境堺」

 上の文章からは「古」は「我姫国(道)」が「唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂」という国々で構成されていたことがわかります。そしてそこには「造」や「別」など派遣されていた、という事のようです。しかし、この文章にある「相模国足柄岳坂以東」という表現からわかるように、「我姫国」は「広大」とも言える広さがあったものであり、(現在の「関東」とほぼ同じか)このような広さの領域に対して、個々の「国」に「別」や「造」を個別に配置するだけでは、「統治行為」の執行が甚だしく不十分であるのは明らかであると思われます。この様な状態は「個々の」「国」(ないし「県」)の主体性が強くなりやすく、「倭国中央」の「権力者」の意志が「透徹」しにくい体制であると考えられ、この段階では少なくとも「常陸」の領域に権威を及ぼすことのできる「強い権力者」つまり「統一王者」と言うべき「存在」がまだ発生していなかった事を示唆します。
 そして、これが「其後」「難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世」になって「我姫之道 分為八国」となり、「新治筑波茨城那賀久慈多珂」はまとめて「常陸」の国となったというわけですから、この段階で「強い権力者」が発生したものであり、「統一王者」の出現となったものと考えられます。

 ところで、この「其後」以降の記事については従来「難波長柄豊前大宮臨軒天皇」というものが「無条件」に「孝徳天皇」のことと考えられ、ここに書かれた「我姫之道 分為八国」という事績も「孝徳天皇」のものと考えられており、従来は「大化の改新」により「律令制」が施行され、「国郡制」が始められたことを指すものとされていたようですが、これについては「大化の改新」そのものに疑義が発生している現状と、また「木簡」その他から「評」の存在が確定した現在、この文章の解釈は変更になったものとみられ、これは「孝徳天皇」の時代(「難波朝廷」)に「評制」が始まったことを意味する記事と考えられるようになったようです。
 しかし、それでは「難波朝廷」(つまり七世紀半ば)まで「強い権力者」は現れなかったことになってしまいますが、この解釈は『常陸国風土記』の別の部分に書かれている以下の記事から考えて疑義があります。

「『筑波郡』 東茨城郡南河?郡西毛野郡北筑波岳
 古老曰 『筑波之縣』古謂『紀國』 美万貴天皇之世遣采女臣友屬筑?命於紀國之國造時 筑?命云欲令身名者著國後代流傳 即改本號更稱筑波者 風俗諺云握飯筑波之國 以下略之」

 ここは「筑波郡」の記事であり、この「郡」は「八世紀時点」の「郡」であると思われます。そして「古老」が言う「筑波之県」というのが「郡制」以前の制度であると考えられ、更に過去に遡ると「古謂紀国」というわけです。
 上の例で見ると「県」が使用されていた地域は、それ以前「国」(クニ)であったと言う事が解ります。そして、これはその後(八世紀)「郡」となる、という流れと理解されるものです。
 
 ところで、「評制」施行については多くが「七世紀半ば」という時点を想定していますが、私見では「七世紀」以前にすでに「評制」は施行されていたと見るべきと思われます。さらにその上部組織である「国」制がどうなっていたのかについても議論がかなり紛糾しているようですが、たとえば「評制」施行以前に既に広域行政体としての「国」が成立していたという意見も少なからずあるのに対して、「評制」が施行された時点において「国」制も施行され、いわゆる「国-評制」が成立したと見る見方もあります。さらには「評制」施行時点ではまだ「広域行政体」としての「国制」はなかったと見る考え方もあります。これは以前の「クニ」がそのまま「評」になったと見る見方です。
 このように「評」と「国」との施行時期の組み合わせとしたいくつかあるわけですが、私見では「評」が成立した時点ではまだ「広域行政体」としての「国」はなかったと考えます。つまり「国県制」の施行は「評制」に遅れると思われるのです。

 「木簡」の解析によると「評」から書き始められるタイプのものがかなりあり、「国-評-五十戸」というような書き出しのものよりはるかに多いことが確認されています。これは「国」の成立以前に「評」が施行されていたことを示すものと思われ、後の「令制国」に相当する広域行政体としての「国」の成立は「屯倉」に付随して発生したと思われる「評」より遅れると思われることとなります。ただしその「評制」は全面的に施行されていたわけではなく、「屯倉」に付随するという初期の特徴から局所的存在であった可能性が高いものと思料します。
 
 「倭国」の本国とその「直轄地」とも言うべき地域には以前から(諸国と違って)「国郡県制」が施行されていたと思われます。それはその「国郡県制」というものが「中国」の正統な行政制度であり、「南朝」に臣事していた倭国王がそのような権威と伝統のある制度を導入していなかったはずがないと思われるからです。
 「倭国」は「武」の上表文からもわかるように「開府」しているのであり「官職」などを「倭国王」が中国に倣って(真似して)施行していたとされます。このようなことから「秦漢以来」の伝統のある「国郡県制」を採用していたと見るのは不自然ではないと思われます。但し、それが「列島全体」に及んでいたかというのは疑問であり、上に述べたように「倭国」の本国である「九州島」を中心とした「限定的領域」への施行に留まっていた可能性が高いと思料します。
 そして、「評制」の「天下」への施行という状況になっても、「倭国」の本国とその直轄地域ともいえる場所には「評制」ではなく「国県制」が(国郡県制から変更されて)施行されたものであり、そこでは「郡」がなくなり、「国」が「縣」を直接統治する形へと変更されたものと見られます。しかし、それ以外のいわゆる「諸国」では「クニ」(広域行政体ではなく)が「評」へ変更される形で「評制」が「全面的に」施行されたものであり、それと併せ「広域行政体」としての「国」が成立したものと見られます。つまり「諸国」では「国評制」が施行されることとなったものです。
 『常陸国風土記』の冒頭の記事は「我姫之道 分為八国」となっており、明らかに「国」のレベルの再編成を示していますから、ここに書かれた事業は、「国県」制あるいは「国評制」の施行段階を示すものではないかと考えられます。

 「我姫」が「八国」に分割された時点で、その下層には「評」が造られたと思われますが、この「常陸」という国に限っては「県」が作られたものであり、その「県」はそれまで「国」(クニ)であったものを再編成したものと推察されます。これは「常陸」が「倭国王権」の直轄領域であったものであり、ここに「アヅマ」全体を統治する「総領」を配置していたと思われます。そして、その「評」及び「県」は後に「郡」へと変わったものです。(ただしそれは「呼称」だけの変更ではなかったことは確かであり、領域そのものとその「性格」も変化したことが窺えます。)
 また、ここで施行されたと考えられる「国県制」は、明らかに「隋」の「州県制」に関連があると考えられるものです。これ以前に中国に対し「制度」導入などの意図を持って使者を派遣した記録は、「倭の五王」以降に限れば「遣隋使」しかないわけですから、そのことは即座に「国県制」が「遣隋使」によりもたらされたものであると推測されるものです。
 「国県制」の施行は「隋」においては「初代皇帝」(文帝)の治世下のことでしたが、早速その次代の「煬帝」の即位以降それが廃されることとなり、再び「郡」を復活させることとなったとされています。

「(開皇)三年十一月…甲午,『罷天下諸郡』。」(隋書/帝紀第一/高祖 楊堅 上/開皇三年) 
「(大業)三年夏四月…甲申,頒律令,大赦天下,關?給復三年。壬辰,『改州為郡』。改度量權衡,並依古式。改上柱國已下官為大夫。」(隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上/大業三年)

 これで見ると「開皇三年」(五八三年)に「罷天下諸郡」とされ、「大業三年」(六〇七年)に「改州為郡」とされていますから、「倭国」に「国県制」が伝わったのは、結局上記期間に限定されることとなります。この間に「遣隋使」が派遣されたものであり、彼らが持ち帰った知識の中にこの「国県制」があったと見られることとなるわけです。このことは「大業三年」に派遣されたと言う『推古紀』の「遣隋使」記事がもし正しかったとしてもその派遣月が「十一月」とされていることから、この「郡制復活」以降のこととなってしまい、彼らが「国県制」を学んで持ち帰ることはできなかったであろうと推測されることとなります。そうであれば「遣隋使」が派遣されたのは「六〇〇年代」以前のことであった可能性が非常に高いと考えざるを得ないものであり、「我姫」が「八国」に分けられたのはその時点付近の「六世紀末」であったという可能性が高いものと思料します。
 
 ところで『三大実録』の「貞観三年十一月十一日条」に「國造之号永從停止」という記事があります。

「貞観三年(八六一)十一月十一日辛巳。…
 書博士正六位下佐伯直豊雄疑云。先祖大伴健日連公。景行天皇御世。隨倭武命。平定東國。功勳盖世。賜讃岐國。以爲私宅。健日連公之子。健持大連公子。室屋大連公之第一男。御物宿祢之胤。倭胡連公。允恭天皇御世。始任讃岐國造。倭胡連公。是豊雄等之別祖也。『孝徳天皇御世。國造之号。永從停止。…」『三大実録』

 この記事は「孝徳天皇御世」の時のこととして書かれています。一見これは「七世紀半ば」の出来事であるかのようですが、この「記録」の「原資料」には「孝徳天皇」とあったわけではないと思われ、(このような「漢風諡号」が付されたのは後代のことですから)それは「別の呼称」から「翻訳」されて「孝徳天皇」と見なされたものと思われます。つまり元々は「…治天下天皇」のような表記であったものと思われますから、考えられるものとしては「難波治天下天皇」というような呼称が書かれてあったものと見られますから、本来「阿毎多利思北孤」ないしは「弟王」にかかる呼称であったと考えられ、時期として「六世紀後半」から「七世紀始め」の頃のことと推測されることとなります。(それは『常陸国風土記』にも表れていると見られるわけです)
 
 さらに『日本後紀(逸文)』にも以下のような文章があります。

「日本後紀卷廿一弘仁二年(八一一)二月己卯(十四)」「詔曰。應變設教。爲政之要樞。商時制宜。濟民之本務。朕還淳返朴之風。未覃下土。興滅繼絶之思。常切中襟。夫郡領者。難波朝庭始置其職。有勞之人。世序其官。逮乎延暦年中。偏取才良。永廢譜第。…」

 ここでは「郡領」という職掌が「難波朝廷」が始めて置いたものという認識が示されていますが、この見解は『書紀』などとは異なっています。
 『書紀』などでは「郡制」は遙か以前から継続していたかのように書かれていますから、「難波朝廷」からというように時期が限定されてはいませんでした。しかしここでは「難波朝廷」というように明確にそれが始められた時点が書かれています。
 これは「詔」ですから「天皇」の言葉であり、その解釈は恣意的であってはなりません。この事からここに書かれた「郡制」施行の時期は「難波朝廷」の事であったことが確実と見られることとなるわけですが、この記事は上の「三大実録」とも重なるものであり、一見これらは、「七世紀」半ばの「孝徳天皇」の時代に「国造」が停止され、代わりに「郡領」が置かれたことを意味するというように考えられそうですが、実際には『常陸国風土記』の書き方と同様、「阿毎多利思北孤」の時代である「七世的始め付近」のことと見るべきと考えます。

 上の『隋書』記事でわかるように「煬帝」即位以降「郡県制」が復活しています。この時点で「煬帝」の布いた制度に則ったとすると倭国内でも(特に「直轄領域」)国県制から国郡県制へと逆コースをたどった可能性が高く、「県主」から「郡領」へと呼称替えが行われたものと見られます。このことは「改新の詔」の中で「郡県制」が示されていることにもつながります。
 彼らはこの時点で「国内統一」を果たすわけですが、そのために重要だったのが仏教であり「法華経」であったと考えられます。彼らはこれを「武器」(あるいは「ツール」というべきでしょうか)として国内諸国の再編成・再統合・分割という事業を行ったわけですが、その様な事業を行う「動機」というものには「隋」という存在が非常にインパクトがあったものと推測されます。

 「五八一年」に「隋」王朝が成立すると、「新羅」はすぐに使者を送り「隋」に対し「服従」の姿勢を見せると共に「隋」の皇帝をただ一人の皇帝と認めます。「隋」はその見返りに「楽浪郡新羅公」という称号を授けます。これにより「新羅」は「隋」の「柵封下」に入ったわけですが、他方「倭国」も「隋」に「使者」を派遣し、それまでの「南朝」偏倚から方向転換をしたものと見られます。つまり、「筑紫」を奪還し国内体制をさらに強固にする必要があった「倭国王権」はそのために「隋」から「文物」を導入することを企図したものと見られますが、「遣隋使」が語った内容について思いがけず「訓令」を受けることとなってしまい、その結果「隋の高祖(文帝)」の仏教治国策に準じて「法華経」によって国内政策を進めることとなったものと見られます。 
 このように仏教導入を(結果的に)本格的に行うこととなった「阿毎多利思北孤」はその「六十六国分割」において、「倭国」本国とそれ以外の「諸国」という分け方自体を否定したかったのではないでしょうか。
 「法華経」の教義に則り分割した「六十六国」について、これらの国々は「遍く仏の御威光の照らすところ」であり、彼には(「宗教的」には)それらについて、「倭国」の本国であるとか「属国」だとかと「区別」する意義を見いだせなかったのでしょう。このことが「意識」されて「全国統一」という動きの下地になったものではないかと考えられます。
 それまでは、「倭国」と言えばそれは「倭国」の「本国」である「九州島」のその近辺に限定されていたものであり、それ以外については「諸国」であり「属国」であったものです。つまり、「倭の五王」以来その版図に入った国々とそれ以前から「倭王」の居する近辺の国々とは明確な区別があったものでしょう。
 一種の「エリート意識」かもしれません。そのような意識の差を無くしたのが「法華経」講義であり、それに感化された「阿毎多利思北孤」は国内を「平等」に扱おうとし、そういう「意識」の上から「六十六国分割」を実施し、(「筑紫」でさえ前後に分けられたことがそれを示しているようです)「統一倭国王」というものを目指したものと思料されるものです。


(この項の作成日 2011/07/26、最終更新 2015/10/04)(ホームページ記載記事を転記)

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「太宰府」の条坊制

2018年04月24日 | 古代史

 「大宰府政庁」の発掘調査の結果によると、現在地上に見える礎石の下に同じような配置の礎石が確認され、さらにその下層に「掘立柱建物」の柱穴があり、計「三期」に及ぶ遺構であることが明らかになっています。
 そして、「第Ⅱ期遺構」は「条坊」と「ずれている」事が判明しています。(使用された基準尺が異なると考えられているようです)
 例えば「朱雀大路」は最終的に「政庁第Ⅲ期」段階で「条坊」の区画ときれいに整合する事となりますが、それ以前の「朱雀大路」は「条坊」と明らかに食い違っているのです。(「政庁中軸線」の延長が「条坊」の区画の「内部」を通過しています)明らかに「条坊」区画が既に存在しており、それにも関わらず「政庁中軸線」を「別途」設けた基準点に従い施工したため、既存条坊とずれてしまった事を示しています。(※)
 このように「条坊」と「政庁Ⅱ期」の施工期が違うというのは確かであると思われますが、では当初の「条坊」が敷設されたのはいつなのでしょうか。
 『隋書俀国伝』では「倭国」の都について「無城郭」とされています。これは「遣隋使」による報告がベースの記述の部分であり、倭国側の記述であると見られますから、相当程度正確な実態を示すものと思われます。この「無城郭」という書き方は「城郭」がないというわけですから、「城」とそれをめぐる「郭」がなかったことを示すものですが、他方「条坊」の有無については言及されていません。「城郭」の有無と「条坊」の有無は直接は関係しないと思われますから、(条坊のない城郭も存在するため)、この「遣隋使」時点で「条坊」がなかったとは断定できないこととなります。

 「遣隋使」が派遣されたのが「開皇の始め」であるとすると、まだ「隋」の新都である「大興城」はかなりの部分が未完成であったと思われます。「遣隋使」が「都城制」について学ぶとすると、「魏晋代」から続く「長安城」であると思われますが、これは『周礼』に基づいているものであり、「宮域」は「条坊」の中心付近に位置していました。「遣隋使」がこの「長安城」の都城について見聞したことが倭国の都城制に大きく影響したことは十分考えられると思われます。

 一般に「正方位」をとる建物や街区を構成する場合、遠方に見通しの利く「基準点」を設け、それを目安に「方位」を定めていくと考えられます。また、その「基準線」は「政庁中軸線」つまり「宮域」の中心線を設定するものと思われますが、この「大宰府政庁」の遺構の「第Ⅱ期」の場合、「朱雀大路」を南方に延長すると「基肄城」の門の一つと一致します。しかし、「条坊」と「第Ⅱ期朱雀大路」は「ずれている」わけですから、同じ「基準線」の元に施工されたものではないことが明らかです。このことからこの「条坊」を敷設した際の「基準点」は別にあることとなります。
 「大宰府」の南方で特に有力な「基準点」は「基山」であると思われ、この山を(当然「山頂」となると思われます)基準とした場合、この山から引いた仮想的南北線は「朱雀大路」ではなく、「右郭四坊道路」に(正確に)一致します。(正方位から一度以内のズレしかありません)
 このことから、当初の「宮域中心線」は「右郭四坊道路」であったこととなり、この「右郭四坊線」が本来の「朱雀大路」であったと判断できます。つまり、現在とは違う場所に「宮域」があったこととなるわけです。
 
『周礼(考工記)』によれば「王城」のあるべき姿として以下のことが書かれています。

「匠人營國。方九里,旁三門。國中九經九緯,左祖右社,面朝後市,市朝一夫。」『周禮 冬官考工記第六』

 ここでは「面朝後市」つまり、宮域の北方に「市」を設けるとされており、これに従えば「都城」の北辺には宮域は設定できないこととなります。このことも併せて考えると、「大宰府政庁第Ⅰ期」以前に「プレⅠ期」とでもいうべき時期があり、その時点では「都城」の中央部付近に「宮域」が設けられたと考えられ、その場所は「右郭南方」に存在する「通古賀地区」がそれであったという可能性があります。
 そうなれば、現在の「太宰府政庁遺跡」の最下層建物(政庁第Ⅰ期古段階)の「柱穴」は、当然「中心部付近」にあった「宮域」が「北辺」に「移動」した際に形成されたこととなります。(これは「移築」ではないかと考えられます)
 この時点が「通説」では「白村江の戦い」の後(直後)であると言うことになるわけですが、もしそれが正しいとすると「中心部付近」に「宮域」が存在していた時期はそれをはるかに遡ることとならざるを得ないものであり、上に見たように「遣隋使」派遣直後にその時期を推定することも可能と思われますから、「改新の詔」に書かれた「初めて京師を修む」という文言が「七世紀始めのもの」という見方と大きく齟齬するものではないこととなります。

 また、「改新の詔」の中には「京師」の詳細として「凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。」とありますが、これも「考古学的」な事実とよく整合すると言えるでしょう。上に述べたように「当初」の「宮域」は「中央部」付近にあったことが想定されていますが、そこを中心とした当初の「都城域」として、「東西四坊」程度であったのではないかと言うことが想定されるのです。
 前述した「通古賀地区」というのは現在の「都城」の「中心」に配置しておらず、「右郭」に偏って存在しています。上に見たようにこれが当時の「宮域」であったとすると、その偏りに理由がなければなりません。
 上に見た『周礼考工記』に拠れば縦横とも中央を貫く幹線道路を設けることとされています。つまり、真ん中に「朱雀大路」的道路を設け、東西南北に直交する幹線道路を設けるというように指示されています。(九本中真ん中に一本上下左右に四本ずつと言うこと)このことから「通古賀地区」が本来の「真ん中」であり「宮域」であったという可能性が高いと思われます。
 また、この「筑紫都城」(政庁プレ第Ⅰ期)が『周礼考工記』に準拠して造られたとすると、「王城」の大きさも『周礼考工記』の規定に則っていた可能性があるでしょう。
 すでにみたように『周礼考工記』によれば「王城」つまり「天子」の城の決まり(理想的配置)として「方九里、傍三門、九経九緯、左祖右社、面朝後市,市朝一夫」とされています。
 「通古賀地区」が中心(宮域)であったと仮定して、この「方九里」という規定を当てはめてみると、「一坊一里」ですから、「方九里」とは「九区画四方」(九坊四方)という範囲を意味し、これを「条坊」に当てはめて考えてみると、ちょうど現在見られる「右郭」の南側半分程度の範囲となります。
 その東端としては現在「朱雀大路」跡と思われているところが該当することとなり、また「朱雀門」礎石が出た場所は「区画」の東北の隅に当たります。
 これらのことからも、これらの「位置関係」が当初から「計算」されたものであることを示すものであると同時に、条理設計の際に「基山」が基準点となっていたことが改めて確認できることととなったと考えられます。(その名前の「基山」という文字面にもそれが現れていると推察されます。…八世紀になってから「基肄」と二文字表記になる前は「基」の一字だけだったと思われるのです)

 以上の推察から「通古賀地区」に「宮域」があった当時の「原初型」としては、現在の「太宰府」のほぼ「四分の一」程度の広さであったこととなりますが、これは当初のサイズとしては逆に合理的である可能性が高いと思われます。つまり、「都城域」は時代の進展と共に拡大されたものと見られ、(つまり「左郭」は後になってから増加された部分と思われることとなります)そのタイミングはいわゆる「大宰府政庁第Ⅰ期」と考えられている遺構の時期を指すと思われ、その時点で「北朝形式」の都城が形成されたと考えられます。この実際の時期としては「隋」の「大興城」の整備がかなり進捗した時点ではなかったかと考えられ、それを真似て「倭国」でも「都城」の形式を変更したものと考えられ、それは「隋」に対する随従的姿勢の表れであると思われますが、それが完成したのは「九州年号」の「倭京改元」が「六一八年」とされていることから、少なくとも「煬帝」の治世期間の末まで遅れたものと思われます。


(※)井上信正「大宰府条坊区画の成立」(月間考古学ジャーナル二〇〇九年七月号『特集 古代都市・大宰府の成立』所収)


(この項の作成日 2011/08/28、最終更新 2014/08/04)(ホームページ記載記事を転記)

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「周礼」と「改新の詔」

2018年04月24日 | 古代史

 中国古代の「礼制」を記した書である『周礼』によれば、「天子」の自称と「京師」を構築すること、そして、「畿内」を設定することはいわば「セット」とされています。
 この『周礼』の影響は大きく、歴代の中国王朝においてもかなりの影響の元に京師や畿内が設定されていると考えられます。もちろん『周礼』は「理想型」を示しているだけですから、全ての中国歴代王朝の「京師」や「畿内」が『周礼』の「完全に」基づいているというわけではありませんが、これを「念頭に入れつつ」構築していると考えて問題はないでしょう。 
 それが特に「明確」なのは「北魏」以来の「北朝」です。特に「北周」はその「国号」に「周」という「国名」を使用していることからも分かるように「周」の古制に復帰し、『周礼』に基づき「統治」を行なうということを「国是」としていました。(ただし、『周礼』に全て基づこうと試みたものの、現実にそぐわない部分もあり、早い時期に改められた部分はあったものです。)
 「倭国」においても、この「北周」からさほど時期の離れていない時点付近で『周礼』によると思われる現象が記録される事となったのは偶然ではないと思われ、何らかの影響が「倭国」に及んだという可能性があると考えられます。
 また「隋」はその「北周」から(形式上ではあるものの)「禅譲」を承けて成立した国であり、『周礼』に基づく国家体制は(直接は)継承しなかったものの、かなりの影響が「隋」にも遺存したものと見られます。「倭国」は「隋」に至って、正式に「使者」を送り、「隋」の各種の制度を取り入れることとなったわけですが、「根本」に据えたのは『周礼』であったと思われます。

 その『周礼』によれば「天子」(皇帝)の所在する場所は「京師」(都)であるとされ、そこは「羅城」で囲まれた中に「坊」で区画された領域を設定し、それを「京師」として、「皇帝」の「都」とするということが示されています。いわゆる「都城制」です。
 そして、その「京師」を中心として「方千里」を「畿内」として「皇帝直轄領域」とするように設定することが決められていたものです。
 これを踏まえて「改新の詔」を眺めると、そこでは確かに「京師」、「畿内」というものを構築し、設定していることが判ります。

「(大化)二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。…
其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌按検戸口督察奸非。其坊令取坊内明廉強直堪時務者死。里坊長並取里坊百姓清正強〈𠦝+夸〉者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。兄。此云制。西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來爲畿内國。…」

 さらに「関塞」「斥候」「防人」が定められていますが、これらは「京師」の周囲を防衛する軍事態勢を示すものであり、このことから、この「改新の詔」を出した「人物」(倭国王)は「天子」の位置に自らを置いていたということを意味すると考えられ、その「天子」としての自覚が「京師」「畿内」を設定する動機となっていると思われます。

 ところで「天子」の自称は『隋書俀国伝』によれば(すでに示したように「開皇年間」のことであったとみられますが)「隋」へ派遣された「遣隋使が携えていた「倭国王」からの「書」に書いてあったものであり、当時の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」が自称したということが判ります。

『隋書俀国伝』
「大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云。帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者勿復以聞。」

 既に見たようにこの記事(言葉)は本来「隋」の「高祖」(文帝)に向かって出されたものと見られ、本来の年次はもっと以前(六世紀後半か)のことと考えられますが、そこでは「阿毎多利思北孤」は「天子」を自称したとされていますが、この「天子」を自称したという状況から考えて、彼によって「京師」が構築され、「畿内」が設定されたとして何ら不思議ではないことを示すものです。それはすなわち、彼が「改新の詔」を出したとしても不自然ではないということとなるでしょう。
 このことは一般に考えられている「改新の詔」そのものと、それが出された「年次」に対して「強い疑い」が生じることとなります。
 つまり「改新の詔」はもっと以前に出されたものではないかと考えられることとなりますが、その時期を推定するのに考慮すべきなのは「郡県制」の記述です。
 「郡県制」は「隋の高祖(文帝)」の時代に「州県制」に変えられ、さらに「煬帝」の時代になって旧に復して「郡県制」が復活したものです。その流れに即して考えると、「倭国王権」が「隋制」の導入に積極的であったことを踏まえると「改新の詔」は「煬帝」の「郡県制」復活時期以降のものと考えられ、「六〇七年」以降が最も措定されることとなります。
 
 「改新の詔」が出され、そこでは「京師」が創設され、「畿内」が設定された訳ですが、また「詔」の中では明確に「条坊」についても記述があり、そこが「条坊制」に基づく都市であることが明記されているわけです。ところで、国内で「条坊」が確認される最古の都市は「太宰府」です。このことは「改新の詔」の舞台は「筑紫」であったことを意味するものです。ここに「京師」が構築され、そこを中心として「方千里」の地に「畿内」が設定されたとみなさざるを得ないのです。
 しかし、「改新の詔」で示された「畿内」の「四至」の範囲は明らかに「現在」の「近畿地方」をその範囲に含んでいますから、この「六世紀末」という時期に「筑紫」を中心地として設定されたものとは異なることが判ります。
 このことは「改新の詔」が「孝徳朝期」つまり「七世紀半ば」という時期に設定されているという事からもわかるように、「七世紀初め」の「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」による「改新の詔」を、その本来の位置から移動させ、主体を入れ替えて「換骨奪胎」して利用していると推定できます。つまり、「七世紀初め」の時期に出されたものであることを「隠蔽」し、更にその「詔」を「利用」して「近畿」に「最初」に「京師」と「畿内」が設定されたように「見せかける」作業が行なわれたことを示しています。
 このように「京師」「都」が「改新」の時点以前には存在していなかったと思われることは『古事記』の中に「京」「都」という語が現れず、「天皇」の「宮」名だけが書かれていることからも窺えます。その『古事記』の描写が「推古」とされる人物の時代までしかないことからも「推古」の時代付近(以降)で「京師」「都」「畿内」などが設定されたものと思われ、また『古事記』が書かれることとなった契機がそのような時代の大きな変化の中に読み取れるものです。


(この項の作成日 2011/04/16、最終更新 2015/05/16)(ホームページ記載記事を転記)

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「改新の詔」の実情

2018年04月24日 | 古代史

 『書紀』によれば「大化の改新」後(六四六年)に「孝徳天皇」から「大化の改新の詔」というものが出されたとされています。

「(大化)二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。
其一曰。罷昔在天皇等所立 子代之民處々屯倉 及別臣連、伴造、國造、村首所有部曲之民、處處田庄。仍賜食封大夫以上。各有差。降以布帛賜官人。百姓有差。又曰。大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。

其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌按検戸口督察奸非。其坊令取坊内明廉強直堪時務者死。里坊長並取里坊百姓清正強〈𠦝+夸〉者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。兄。此云制。西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來爲畿内國。凡郡以四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。其郡司並取國造性識清廉堪時務者爲大領少領。強〈𠦝+夸〉聰敏工書算者爲主政主帳。凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。

其三曰。初造戸籍。計帳。班田收授之法。凡五十戸爲里。毎里置長一人。掌按検戸口。課殖農桑禁察非違。催駈賦役。若山谷阻險。地遠人稀之處。隨便量置。凡田長卅歩。廣十二歩爲段。爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。

其四曰。罷舊賦役而行田之調。凡絹絁絲緜並隨郷土所出。田一町絹一丈。四町成疋。長四丈。廣二尺半。絁二丈。二町成疋。長廣同絹。布四丈。長廣同絹絁。一町成端。絲綿絇屯諸處不見。別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄。亦随郷土所出。凡官馬者。中馬毎一百戸輸一疋。若細馬毎二百戸輸一疋。其買馬直者。一戸布一丈二尺。凡兵者。人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者。改舊毎卅戸一人以一人充廝也。而毎五十戸一人以一人充廝。以死諸司。以五十戸仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺。庸米五斗。凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者從丁一人。從女二人。以一百戸充釆女一人粮。庸布。庸米皆准仕丁。」

 「改新の詔」は以上のように「事項別」に出されているわけですが、この「まとめ方」としては「其の一」が「公地公民制」に関する事、「其の三」が「戸籍、計帳、班田収受」に関する事、「其の四」が「調」、「庸」など「税」に関する事、という様になっており、各々の項目で言及している項目が判然としており、非常にわかりやすくなっています。しかし、「其二曰」で言及されていることについては、従来の理解に「誤解」があると考えられるのです。
 従来この「其二曰」とされている部分は「行政制度」に関する事と読まれているようです。確かに「国司」「郡司」などを定めており、間違いではないようですが、良く文章を見ると、ここで言及されているのはすべて「畿内」に関する事なのです。つまり、ここの文章は「置畿内~」というふうになっていて、「国司」や「郡司」「防人」なども全て「畿内」との関連で書かれていると考えられるものです。つまり、文章構成として「初修京師」という冒頭の句で「京師」という言葉を提出し、その説明として「凡京毎坊置長一人…」と書いてその「京師」が「条坊制」に基づくものであることを提示しているのです。これと対を成すものとして「置畿内…」という文章があり、ここで「畿内」という用語を提出し、その説明として「凡畿内…」という「畿内」の範囲指定の文章が続くのですから、「置畿内…」という文言以降の文章は全て「畿内」に関するものである、という理解が成立するでしょう。
 ところで、ここでは「初修京師」とされています。この文章を素直に考えると、倭国で初めて「京師」が制定されたという意味と考えられますが、「周礼」によれば「京師」とは「天子」の「都」を意味するものですから、この「京師」には「天子」がいる(天子の宮殿がある)ということを意味するのは当然です。
 『隋書俀国伝』によれば「天子」の自称は「阿毎多利思北孤」の時のようですから、彼は「京師」にいたということとならざるを得ません。また、それは「史料」として『二中歴』等にいう「九州年号」の中に存在する「倭京」年号の改元が「六一八年」のこととされている事、「考古学的」にも「太宰府」遺跡発掘の成果から、「七世紀前半」に「条坊」が成立しているように見える事などがあり、実際にはこの「詔」は「七世紀初め」という時点で出されたものと推定できます。

 また、この「詔」で設置が謳われている、「關塞」とは「関所」の意であり、この「詔」が初見です。つまり「關塞」はこの「詔」で「畿内」防衛のために「初めて」設置されたのです。
 また、「斥候」はその「關塞」の外部で「畿内」侵入を意図する軍事的勢力を早期に検知し、抑制すると共に、本隊に伝達するのがその任務です。これと同時に「防人」を配置していますが、彼らは共同して「關塞」の外部に「拠点」を設け、共に「畿内」侵入を企図する勢力に対して防衛を行うものと考えられ、この「詔」の「其二曰」で示された事柄は「畿内」防衛のための必要な軍事的配置、いわば「首都圏防衛体制」とでも言うべき構成について述べたものと考えられるものです。
 通常「防人」は「筑紫」防衛のために東国より集められた人々を指すと考えられていますが、本来は「筑紫」であれどこであれ「畿内」を中心とした防衛体制の一環であったものであり、「畿内」が始めて設置された時点では「筑紫」を中心として「方千里」が「畿内」とされていたと見られ、この「畿内」防衛のための兵力として「斥候」や「防人」が定められたものと思料されます。

 このように「畿内」という「天子の直轄領域」を「防衛」するために軍事態勢を構築しているというわけですが、そのためにはそれを統括する官職が必要であると思われます。本来は「都督」がその役割をしているはずですが、この時点で任命されているかは不明です。
 この「改新の詔」の文言には「第二次」つまり「後年」の文も混在しており、そのためかなり紛糾していますが、『常陸国風土記』など見ると「総領」という職名が見え、これは『書紀』の「周防総領」の記事などから「軍事関連」の職とも思われますから、これは「都督」の直下の職名であったという可能性があります。

 またこの「畿内」というものの制定と、「改新の詔」の「三」や「四」に見られるような「戸籍」や「行政制度」の改定の他「租」の制度などの変更が直接結びついているという考え方があります。つまりこれらの改定は先ず「畿内」に適用され、その後周辺諸国へと敷衍されたというのですが、新しい制度「戸籍」や「度量衡」などが先ず「畿内」に適用されたのは私見でも正しいと思われます。
 「畿内」はある意味「特別」な領域であり、「皇帝」の足下に置いて先ず最新、最高の制度と組織が確立されたと見られます。
 中国の例でも「軍事的緊張」が発生した場合は「畿内」勢力が「皇帝」と「首都」の防衛に率先して当たるべきとされ、「軍備」についても各自が即戦力として戦える能力を維持することが各戸に求められました。このことから、「改新の詔」で定められた制度等も「畿内」が除外されたと云うことはあり得ず、他の地域と同様あるいは先行して「畿内」に適用されたと見るのが妥当ではないかと思われます。
 それに類似するものは『文武紀』に例が見られます。

「文武三年九月辛未。詔令正大貳已下無位已上者。人別備弓矢甲桙及兵馬。各有差。又勅京畿。同亦儲之。」

「文武四年二月丁未。累勅王臣京畿。令備戎具。」

 ここでは「官人」に対して「武器」や「馬」など戦いに必要なものを準備するよう「詔」が出されていますが、「京畿」に対しては特に「勅」されており、「倭国王」からの直接命令という形で「武器」を備えるように指示が出されています。
 「班田」についても先ず「畿内」に適用され、測量その他も「畿内」が先行して実施されたと見られます。
 『書紀』の『持統紀』記事においても「畿内」への「班田大夫」の派遣記事があり、この直前の時点(庚寅年)で何らかの「制度改定」が行なわれた見られますが、それもまた「畿内」が先行して適用されている事を示すと思われます。

「持統六年(六九二年)九月癸巳朔辛丑。遣班田大夫等於四畿内。」

 この時点で「日本国王権」へ禅譲されたと見られ、それに伴う遷都と制度変更であったと思われます。これらを見ると「畿内」を別として「制度改定」が及んでいるという考え方は当たらず、先ず「畿内」という「天子」の直轄エリアにおいて「理想型」を作り上げ、それを周辺に拡大発展させていくという手法がとられたのではないかと推定できます。


(この項の作成日 2011/04/16、最終更新 2014/05/13)(ホームページ記載記事)

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「狭義」の「筑紫」と「広義」の「筑紫」

2018年04月24日 | 古代史

 ところで、『書紀』で確認される「筑紫」の多くは「小筑紫」とでも言うべき「福岡県」程度の広さを指していると考えられます。古田氏が『盗まれた神話』の中で指摘したように「天孫降臨の地」も「福岡県を指す「狭義」の「筑紫」でした。(日向峠付近か)
 また、同様のことは「磐井」の記事からも言えることと思われます。
 「磐井」については「筑紫国造」とされ、また「筑紫君」ともされています。(「子」とされる「葛子」も同様)そして、『書紀』の記載を見ると「肥」「豊」の二つの国に「拠点」があるというように書かれていますが、この事からも「筑紫」の領域と「肥」の領域や「豊」の示す領域は異なっている、という事が分かります。つまり「筑紫」と「肥」や「豊」が「並列」的に存在するわけであり、そのことかこの「筑紫」は狭義の「筑紫」の意と取らざるを得ないものです。
 他にも「宣化元年の詔」などでも「夫筑紫國者遐邇之所朝届」という表現があり、それに加えて「修造官家那津之口又其筑紫肥豊三国屯倉散在県隔運輸遥阻儻如須要難」ともあります。これらを見ると、ここに出てくる「筑紫」が「肥」「豊」と同格的に表示される「狭義」のそれであるのは明白です。
 実際「筑紫」の領域を『書紀』から拾い出すと以下の「二例」を除き全て「狭義」の筑紫であることが分かります。

「神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十月辛酉(五)行至『筑紫國』菟狹。菟狹者地名也。此云宇佐。時有菟狹國造祖號曰菟狹津彦。菟狹津媛。乃於菟狹川上。造一柱騰宮。而奉饗焉。一柱騰宮。此云阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰。」

「景行天皇十二年(壬午八二)九月甲子朔戊辰(五)天皇遂幸筑紫。到『豐前國』長峽縣。興行宮而居。故號其處曰京也。」

 上の二つの例が「狭義」の「筑紫」ではない例であると考えられますが、ここに「豊前国」という表記があるのが注目されます。さらに『書紀』中には下に見るような「筑紫後国」などと言う「後代表記」(既に分国された後の表記)が「景行紀」という「古い時代」に使用されていることからも、「八世紀」以降の編集の跡が歴然であり、これらの「広義」の「筑紫」表記が「八世紀」の潤色である可能性が高いものと思料されるものです。

「景行天皇十八年(戊子八八)秋七月辛卯朔甲午(四)到『筑紫後國』御木。」

 現在「肥前」と「肥後」はつながっておらず、「筑後」により分離されています。また「筑紫」の本来の領域はいわゆる「筑前」に相当する部分であり、「筑後」は元々「筑紫」ではなかったと考えられます。この領域は以前は「肥の国」の一部であったと考えられますが、「ある時点」で現在の「筑後」に相当する部分が「筑紫」側に割譲・編入されたものと推察され、それは「六世紀末」という時点が最も考えられるものです。そしてその段階で成立したのが、例えば『筑後風土記』などや、上に示した(二)の『筑紫國風土記』であったと考えられ、その当時においては「筑紫」とは「筑紫国」と「筑紫後国」で構成されることとなったものでしょう。
 それまで「大」「肥の国」であったものが、「何らかの」理由により政治的比重が低下し、それにより「領域」が分割され、「筑紫」に割譲・編入されることとなったものであり、そのことは相対的に「筑紫」の政治的比重が著しく高まった事を示唆するものです。
 その理由としては当然「倭京」の構築、つまり「筑紫」に「都」が造られたことがあると思われます。例えば、『隋書俀国伝』時点では「阿蘇山」についての記載があり、「噴火」に対する「形容」であったり、それにまつわる「信仰」についての記述があるなど、「肥の国」が「倭国」の中心としての地であることを意識した文章であると考えられ、この時点での政治的位置の高さを示しているようです。ただし、『隋書たい国伝』ではこれが「六〇〇年」の記事とはされていますが、実際にはそれをかなり遡上する時期の情報と思われ、「隋」の「開皇年間」時点ではまだ「肥」は分割されていないものとみられるわけです。その後「阿毎多利思北孤」の「太子」という「利歌彌多仏利」により「改革」が行われ、その時点で「筑紫」の「拡張」が行われたと推察されます。その時点において「筑紫」という領域を示す言葉の内容が、元々の「筑紫」と新たに編入された「筑後」とを併せたものを指すものに変わったと考えられ、「筑紫」の指す領域が拡大はしたものとは思われますが、いずれにしてもその時点では「全九州」を表す意味はなかったと考えられます。

 これらのことを考えると、「筑紫」(「筑紫國」)という表記で「全九州」を表している(一)の『筑紫國風土記』が書かれたのは遙かに下る時期の事ではないかと思料されるものです。つまり「筑紫」という名称で「全九州」を示す例が現れるのはずっと後の「近畿王権」が「列島」の主役になった時点以降ではないかと考えられ、『大宝令』などで「筑紫大宰府」が「九国二島」を総監する、という立場が「近畿王権」により明確に与えられたことがその遠因ではないかと推察され、そのことにより「筑紫」=「全九州」というような等式が成立する余地が発生したと言えるものでしょう。それは「鎮西」あるいは「西」という一語で「九州」を指すという用法と軌を一にしている可能性が高く、ほぼ同時代のことではなかったかと考えられます。

 ところで「阿蘇」に関する記事は『書紀』にはいくつか出てきますが「山」の名か「人名」などとして出てくるだけであり、「阿蘇神社」のような形では『書紀』には全く出現しません。また『続日本紀』に至っては「阿蘇」関連資料は全く姿を現さず、『続日本後紀』に「九世紀」に入ってまもなく「阿蘇神社」として記事が初めて出てきます。その後はかなりの頻度で「史書」に現れることから考えて、実質的に「阿蘇神社」として「近畿王権」からその存在を認められるのは「九世紀」のことであったと考えられます。そのことは「能(謡曲)」の「高砂」という演目にも現れています。

 この「高砂」という演目は「世阿弥」が古伝からアレンジして作ったものと考えられており、そこでは「九州阿蘇神社の神主友成の一行」という者達が登場し、その時代も「醍醐天皇」の頃(在位は「八九七年」から「九三〇年」)とされていて、彼らの「上洛」の途中に「播磨」で「住吉大神」の化身である老夫婦から「歌道」についての「話」を聞くというストーリーですが、これは、このころになって「阿蘇神社」と「政権中枢」との間の関係が深まった、あるいは「認知された」と言うことを示しているものと思料されます。
 「阿蘇神社」資料にもこの「友成」は登場し、彼の時代から以降の資料の信憑性はかなり高いとされているようです。
 これらのことから、この『釈日本紀』に引用された『筑紫國風土記』とされる資料は「筑紫國風土記に曰く」とありながら、その実「阿蘇神社」に関わる史料であると考えられるものであり、それはその「奇形沓々(とうとう)、伊(これ)天下之無双。地心に居在す。故に中岳と曰う。所謂閼宗神宮、是なり」というように「阿蘇山」の偉容を形容する文章に「閼宗(阿蘇)神宮」が直結されていることや、明らかに「肥後」を中心としているその書き方からも判別できると思われます。
 一般にはここの「阿蘇神宮」とは「阿蘇山」の事という理解がされているようですが、それは甚だ不審と云わざるを得ません。そこには「所謂」という言い方がされていますが、そのようなことはどの史書などにも見られないわけですから、この「所謂」が何の根拠もないのは確かであり、また「阿蘇山」そのものが「神宮」であるというのは「神宮」の使用例の中に「阿蘇山」が見られないという点でやはり否定的と云わざるを得ません。
 そもそも「神宮」という形容は「史料」の中では限定的にしか使用されておらず、その中には「阿蘇」がありません。あくまでも「阿蘇山」であり、また「阿蘇神社」なのです。
 上に見たように「阿蘇神社」が歴史上姿を現してくるのは「九世紀」のことと考えられ、この『筑紫風土記』を引用した形の「阿蘇資料」はその時代ないしはそれ以降のものではないかと考えられます。「阿蘇」に関しては「神宮」という表記は歴史上全く見られないものであり、『異本阿蘇系図』の中にさえも「神宮」とは出てこないようです。それがここに書かれているのは、この「神宮」がこの当時一時的に自称したか、あるいは『釈日本紀』の編者である「卜部兼方」の独断(誤断)かもしれません。

 そもそもこの『風土記』を逸文として集録している『釈日本紀』はその編集開始が「十三世紀」付近と考えられ、その時点で収集可能であった各種の文書を集大成したものと考えられますが、この時点では確実に「元明天皇」の詔により「撰定」された『風土記』であると確定できなくなっていたものも多数あったものと考えられます。それは『風土記』といわれるものが「公式文書」であり、「国司」に対して「中央」への回答を求めたものという性格があったものだからです。
 つまり、『風土記』そのものは『書紀』などと違い「宮廷内」で「広く講義が行われた」というような性質のものでもなかったわけであり、保存年限を過ぎたら「廃棄」されるという運命であったものです。ですから、一般に広く出回るはずもなく、写本は「志」のある特定の個人などによって行われたものであり、年月の経過と共に「信憑性」に疑いのあるものも出回り、自家の宣伝広告のために「捏造」されたようなものもあったのではないかと推察されます。そのようなものの中に「阿蘇神宮資料」としての「私製風土記」があったのではないかと思料され、それが『釈日本紀』に『風土記』の「逸文」として引用されたという可能性を想定します。

 ただし、「阿蘇神宮家」は長い歴史があり、「秘伝の資料」があったと考えても不思議はありません。そのため「評督」関係資料という貴重なものも遺存しているものと考えられ、「私製」とは云いながら、それを生かしたものとなっていると思われ、「資料」としては大変貴重なものであることは当然ですが、『風土記』という観点で見ると「元明天皇の詔」による編纂「以降」の時点で作成された「別資料」という性格になるものと考えられるものです。


(この項の作成日 2012/02/08、最終更新 2016/08/15)(ホームページ記載記事に加筆)

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