古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

いわゆる「筑紫風土記」の成立について

2018年04月24日 | 古代史

 現在確認されている風土記の中に「筑紫風土記に曰わく」という出だしで始まるものが二つ確認されています。いずれも『釈日本紀』に「逸文」として採録されているものです。
 以下にその文章を掲げます。

 (一)筑紫の風土記に曰く、肥後の國、閼宗の縣(あがた)。縣の坤、廿余里に一禿山(とくざん)有り。閼宗岳と曰う。頂に霊沼有り、石壁、垣を為す。計るに縦五十丈、横百丈なる可し。深さは或は廿丈、或は十五丈。清潭百尋(せいたんひゃくじん)、白緑(びゃくろく)を鋪(し)きて質(そこ)と為す。彩浪五色、?金を ?(は)えて以て間を分つ。天下の霊奇、?(こ)の華に出づ。時々水滿ち、南より溢流(いつりゅう)して白川に入る。?魚醉死し、土人苦水と號す。
 其の岳の勢為(た)るや、中天にして傑峙(けつじ)し、四県を包(か)ねて基を開く。石に觸れ雲に興(おこ)し、五岳の最首たり。觴(さかづき)を濫(うか)べて水を分つ、寔(これ)に群川の巨源。大徳巍巍(ぎぎ)、諒(まこと)に人間の有一。奇形杳杳(とうとう)、伊(これ)天下之無雙。地心に居在す。故に中岳と曰う。所謂閼宗神宮、是也
(『釈日本紀』巻十、五一七~五一八ぺージ)

 譯注:居在地心者,意其位於國之中心也.

(二)「筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の縣(あがた)。子饗(こふ)の原。石兩顆(りょうか)あり。一は片長一尺二寸、周は一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸なり。色白くして鞭(かた)く、圓きこと磨成せるが如し。俗傳へて云う、息長足比賣命、新羅を伐(う)たんと欲し、軍を?するの際、懷娠(かいしん)漸(ようや)く動く。時に兩石を取りて裙腰(もこし)に插(さ)し著(つ)け、遂に新羅を襲う。凱旋の日、芋眉*野に至り、太子誕生す。此の因?有りて芋??野と曰う。?を謂いて芋?と為すは、風俗の言詞のみ。俗間の婦人、忽然(こつぜん)として娠動(しんどう)すれば、裙腰(くんよう)、石を插(さしはさ)み、厭(まじな)ひて時を延(の)べしむ。蓋(けだ)し此に由(よ)るか」
(『釈日本紀』巻十二、五〇〇ページ)

 この二つはどちらも「筑紫の風土記に曰わく」とで始まっていますが、前者は「肥後」を含んだ全九州とでも言うべき「筑紫」であり、後者は「国名」がなく「県名」から始まっていて「筑紫」と言っても「狭義」の(というより「本来の」)「筑紫」(福岡県程度)であることが分かります。

 『風土記』として現在残っているものの中にはいわゆる「県風土記」と呼ばれるものがありますが、(たとえば『筑後風土記』など)そこでは「国県」が行政制度として使用されているように見えます。この「国県制」は「阿毎多利思北孤」の改革により定められた行政制度と推量され(※)、そのことから、これらの「県風土記」の成立が「六世紀末」という時点ではないかという考えに至りますが、これと同様の「県」を使用した風土記が上の二つの『筑紫國風土記』です。
 ここに見られる「行政制度」が『筑後風土記』などと同様に「阿毎多利思北孤」の改革による「国県制」に則っているように見える、ということから、一見これら『筑紫風土記』も同様の時点で「撰定」されたものと考えられそうです。しかし、そうであれば「筑紫」という名称の示す領域は「狭義」の「筑紫」ではなかったでしょうか。それはこの時点で「九州島」の内部が(逆に)「九つ」の「州」(国)に分けられたものと推定されているからです。
 この点から考えて、(二)の方の『筑紫風土記』は確かに「利歌彌多仏利」時点のものという理解が可能ですが、(一)の方はそうとは考えられないこととなります。
 ではこの(一)の方の「筑紫」と称して「全九州」を示す『風土記』はいつ頃の成立であると考えるべきでしょうか。

 この(一)の「全九州風土記」が「利歌彌多仏利」改革の「以前」に既に成立していたとすると、ここに「国郡制」が見られないことは「矛盾」と言えると思われます。
 『風土記』の編纂に関係するものとして「履中紀」の記事があります。

「履中四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸國置國史。記言事達四方志。」

 仮にこの時の「詔」以降に、この(二)の「全九州風土記」が成立していたとすると、「行政制度」としてこの当時「郡」が使用されていてしかるべきと考えられます。なぜなら、当時の「倭国の中心部」と思われる「九州島」の内部では以前より「国(州)郡県制」が施行されていたと考えられるからです。
 この「郡県制」は「漢代」以来の中国の伝統的制度であり、歴代の中国王朝と交渉を継続してきていた倭国王朝がその制度を導入しなかったはずがないと思われます。
 「倭王権」(当時は「伊都国」あるいは「奴国」が中心王権と思われる)は「漢」が半島に「楽浪郡」を設置した紀元前一〇八年付近から、「使者」を送っていたようであり、「漢」の制度を(「暦」や年号などと共に)摂取したと考えられます。少なくとも「親魏倭王」と言う「金印」を授かった「卑弥呼」の時代は「魏」の制度(つまり「漢」の制度でもあります)を国内にもかなりの範囲適用していたのではないかと思料されます。
 当時の「邪馬壹国」率いる「倭王権」は「魏」に「臣従」しており、「親魏倭王」という称号も授与されています。さらに「狗奴国」との戦いに際しては「帯方郡」に「援助」を請い、「張政」など「告諭使」の派遣を受けるなどしています。また「卑弥呼」だけではなく「大夫」と称する彼女の配下の人物達も「魏」の天子から印璽を受け、あるいは「魏」の軍隊の「階級」を授けられています。これらから見ても、「卑弥呼」が、というより当時の「倭王権」が「魏」の配下の諸候王国のひとつとして存在していたことは間違いなく、少なくとも宮廷内部では「魏」の「法令」(律令)に依拠していたと考えるのは不自然ではありません。それは「戸籍」などについて『倭人伝』において「戸」という表記がされていることでもわかります。
 「戸」と「家」の解析からも判るように、この当時「魏制」(漢制)というべきか)と同内容の「戸籍制度」が「倭国内」に存在していたらしいことが推察できます。
 また『魏志倭人伝』によれば「倭王権」は中心国である「邪馬壹国」から諸国に「官」が派遣されていたとされ、「王」は「伊都国」を除くと全く確認されていません。(狗奴国は別ですが)つまりこの段階では「倭王権内」には「郡県制」らしきものが施行されていたこととなるでしょう。(正確には「国郡県制」か)

 ただし、この「国郡県制」の様な「中央集権制」は強い中心権力がなければ、維持は困難であり、その後「倭の五王」の時代を通じて、長い間「倭王権」の「中枢部」つまり「九州島内部」では施行され続けていたと推量されるものの、「諸国」ではそれらは施行されなくなりそれら「諸国」が別個独立的に「国(クニ)」としての統治行為を行うようになったと見られ、いわば「封建制」に戻った時期があったと考えられます。そのような地域の長は「造」や「別」を名乗っていたものであり、それは「倭国王権」側からは「任命」ないし「派遣」されていたというスタンスであったわけですが、それは当然「官僚」というわけではなく、また「倭国中央」の意思を全面的に体して動いていたというわけでもないと思われ、明らかに「半ば独立」した「候王」という状態ではなかったかと考えられます。つまり「封建制」的世界がそこにあったと見られるわけであり、その意味では「行政制度」というようなものはなく、その地域には彼らの「上部組織」というようなものは「なかった」と考えられる事となるでしょう。
 ただし、いわゆる「地方」に相当する「道」(未開の地域を指す古典用語)と呼称される「領域」はあったと思われますが、これは「行政組織」というようなものではなく、「常任」の「管理者」ないし「責任者」が任命されていたというものではなかったと思われます。
 「倭国」中央からの重要な方針などを指示・伝達するために「使者」(将軍など)を「倭国」の本国から派遣する、というような行動はあったものの、そのような場合には「道」(地方)という意味の概括的領域を示す用語が使用され、当該「道」周辺の各「国造」などを一個所に招集し、「倭国王」の意を伝えるという形で広い意味での「統治行為」を行っていたものと思料します。

 基本的には「別」や「造」など在地勢力により、いわば「自治」が行われていたものであり、せいぜい「収穫物」などの一部を「上納する」というようなものが目に見える形の「義務」であったと思われます。もちろん「統治」「支配」の象徴としての「墓制」(前方後円墳)やそこで行われる「祭祀」の共通化という形での「服従」などはあったと考えられるものの、倭国中央で決められたものが逐一(しかも時間をおかず)実行されるというような、いわば「本格的」な統治行為は行われていなかったと考えられます。そのようなことは「封建制」的世界ではあり得ないものと考えられるわけです。

 これに対し「倭国」の本国では「国郡県制」が施行され続けていたと考えられます。それは「ある程度狭い領域」であれば「倭国王」の直轄的統治が可能であったからであり、この「倭国本国」内では「各地域」に「官」が派遣され、「封建制」を脱した「郡県制」的世界があったものと思われます。
 つまり、この頃の「日本列島」は「倭国」(の本国)の制度とそれ以外の諸国の制度(体制)とが異なるという「二重行政」的体制であったと考えられるのです。
 これらの事情から考えて「利歌彌多仏利」の改革「以前」に「全九州」としての『筑紫國風土記』が出来ていたとすると、そこは「倭国」の「本国」といえる場所ですから、「国郡県制」が使用されていてしかるべきと考えられますが、上記「全九州」『筑紫國風土記』では「郡」が見あたらず、「国県制」になっています。このように「郡」が廃止され「国県制」が施行されていたのは「隋代」に限られ、その前後の時代にはなかったものですから、明らかにこの『筑紫國風土記』の成立は、「遣隋使」以降であり、「利歌彌多仏利」以降であることを意味するものと考えられます。
 正確に言うと「国県制」の施行は「隋」の「高祖」(文帝)の治世下のことでしたが、「煬帝」の即位以降それが廃され、「郡」が復活したこととなっています。

「(開皇)三年十一月…甲午,『罷天下諸郡』。」(隋書/帝紀第一/高祖 楊堅 上/開皇三年)

「(大業)三年夏四月…甲申,頒律令,大赦天下,關?給復三年。壬辰,『改州為郡』。改度量權衡,並依古式。改上柱國已下官為大夫。」(隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上/大業三年)

 これで見ると「開皇三年」(五八三年)に「罷天下諸郡」とされ、「大業三年」(六〇七年)に「改州為郡」とされており、「国県制」が「倭国」へ伝わる機会はこの期間以外ないこととなります。
 

(この項の作成日 2012/02/08、最終更新 2016/08/15)(ホームページ記載記事に加筆)

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法隆寺の「四天王像」と天王寺の「四天王像」

2018年04月24日 | 古代史

 「尺八」に関する伝承や「梵鐘」の「音高」についても「隋代」にもたらされたものと思われ、それが「隋の高祖」との関連で「天王寺」に伝来したことが推定できるわけですが、このような重要な伝承が「四天王寺」に偏っていることを考えると、「隋」から「尺八」その他「音律」が伝わった時点で既に「四天王寺」が存在していたことを示すといえます。それは「四天王寺」が「百済」からの仏教」(法華経)伝来に端を発した創建であったとされることと関連しています。つまり「五七七年」という年次のこととして「百済」からの仏教伝来が記されており、その時点で「四天王寺」が作られたとすると「隋使」による「訓令」などの事案の発生する以前に既に「四天王寺」は存在していたこととなります。

 また『書紀』には「百済」から渡来した人により「呉」の伎楽が伝えられたとされています。

(推古)廿年(六一二年)
「是歳。自百濟國有化來者。其面身皆斑白。若有白癩者乎。惡其異於人欲棄海中嶋。然其人曰。若惡臣之斑皮者。白斑牛馬不可畜於國中。亦臣有小才。能構山岳之形。其留臣而用。則爲國有利。何空之棄海嶋耶。於是。聽其辭以不弃。仍令構須彌山形及呉橋於南庭。時人號其人曰路子工。亦名芝耆摩呂。又百濟人味摩之歸化。曰。學于呉得伎樂舞。則安置櫻井而集少年令習伎樂■。於是眞野首弟子。新漢齊文二人。習之傅其■。此今大市首。辟田首等祖也。」

 既にこの三年前の「葦北」の地に流れ着いた百済人や呉国人について、実際の年次として「隋」による「平陳」時点付近が想定できるとしました。このことはその三年後の記事として書かれているこれら「百済」から帰化した人々の事情についても同様に「平陳」付近のことではないかと考えられることを示します。
 「味摩之」という人物は「呉」で「伎樂舞」を習得したとしており、その人物がここで「倭国」へ渡来してきた事情は、「呉」つまり「陳」が「隋」に滅ぼされるという混乱が「陳」に発生したためであり、彼らはその混乱を避けて本国へと帰省したものと思われますが、既に「百済」は「隋」に遣使し「隋」の封国となってしまっていたものであり、彼らの習得した「呉」の「舞楽」もその技を発揮する場が「百済」には既になくなっていたのではないかと推量されます。そう考えると、この「帰化」したという時点も「平陳」からそれほど遅くない時期を想定すべきと思われ、先に見た「葦北」に流れ着いたという記事の真の年次として、「南朝」が滅びて間もない頃でまだ「百済」がそれを「認識」していなかった「五八九年以前」のことと想定したことからも、その三年後つまり「五九二年」付近ではなかったと推察される事となります。
 これら「帰化」した「百済人」の舞楽などに使用される「楽」についてはその基準音が「南朝」伝統の「宋氏尺」によったものであるのは当然であり、遣隋使がもたらした「七弦琴」や「尺八」「笛」の音律(黄鐘)はこの段階では(唐の呂才による改定以前)「南朝」のものと同じであったと思われますから、問題なく使用できたものと思われます。
 またこのような「隋楽」その他「隋」の文化の伝来を契機に「元興寺」(後の「法隆寺」)が作られたものであり、伝来のその時点では受け入れる寺院としては「四天王寺」がそれを担ったということが考えられるものです。「鐘」もその時点で造られたものでしょう。

 ところで、「法隆寺」の「金堂」の外陣に「四天王」像があります。この「四天王」像について「水野孝夫氏」の研究があります。(※)それによると、「四天王像」は、その足元に「邪鬼」を踏みつけていますが、その「邪鬼」は両手は高く差し上げ、何かを掴んでいるような形になっています。(実際には何もつかんでいません)
 これは何を意味するかということは平安時代に書かれた『別尊雑記』という当時の寺院などの本尊などを写した「図象集」を見ると分かります。そこには当時「難波四天王寺」にあったといわれる「四天王」像が描かれており、そこでは踏みつけられた邪鬼が「四天王」の武器である「戟」とその「鞘」を両手に握っているのが分かります。
 「法隆寺」における「四天王」像に踏みつけられている「邪鬼」も、本来その上の「四天王」の持つ「戟」と「鞘」を握っているはずなのですが、実際には何も握っておらず(空間の配置が違っていて握ることができない)、不自然な状況となっているのです。このことから、法隆寺の「邪鬼」と「四天王」像は統一的に(同時に同一人物の手により)製作されたものではないと推定できるでしょう。

 ところで、「一一四〇年」に「大江親通」が著した『七大寺巡礼私記』には、「法隆寺の四天王像は四天王寺の像を写したものである」と書かれています。また「一二三八年」頃に僧顕真が著した『古今目録抄』(聖徳太子伝私記)でも、「四天王寺」の「四天王」と「法隆寺」の「四天王」は同じである、と伝えています。
 『別尊雑記』に描かれた「難波四天王寺」の「四天王像」を見ると、「邪鬼」の上に軽く足を広げて立ち(ただし踏みつけているという感じはない)、中国南北朝自体の様式と思われる武人の姿を表しているらしい服装やその表現方法など、「現在の」「法隆寺」の「四天王」像と似ている部分があります。(ただし若干時代差も感じられますが)
 しかし、この両者を「全く同じ」とか「一方を他のコピー」と考えるほど似ているわけでもありません。このことから「大江親通」や「僧顕真」がみた「法隆寺」の「四天王像」は今のものとは違うものだったのではないかと疑われることとなります。
 「法隆寺」の「四天王」像は美術史的には「推古仏」と同時代のものと考えられており、「百済観音像」、「夢殿観音像」などと同様に古いものと考えられていますが、「法隆寺」の資材帳には記載がなく、また途中で移されてもたらされたという説もあり、当初から「法隆寺」に存在したものかは不明とされています。
 そうであれば「創建時」の「法隆寺」の「四天王像」は実際に今見るものとは異なるものであり、『別尊雑記』に見る「四天王寺」の四天王像によく似た姿をしていたと見るべき事となると思われます。少なくとも『別尊雑記』のスケッチが正確であって、それと同時代人である彼らの目に狂いがなければ、本来の「法隆寺」の「四天王像」は現在のものとは異なっていたという可能性が強いといえるでしょう。

 「四天王寺」はその後幾度も戦災に逢い、現在は当初のものは全く残っていないと考えられており、この平安時代に描かれた『別尊雑記』によってのみ当時の姿が分かるとされます。
 この『別尊雑記』の「四天王寺」の「四天王像」は、その「意匠」から考えると、「南北朝」時代の「士大夫」(というより「武人」)の服装を模しているとされ、「百済」的ではないとされます。このような「意匠」は「南朝」の「漢文化」の影響を「北朝」が受けた中で作られたものとされ、「北朝」からの伝来を考慮する必要があるとされています。
 ところで「四天王寺」はその建築様式がいわゆる「四天王寺式」という「門-堂-塔」が一直線に配置される形式の代表であるわけですが、この様式は「南朝」から「百済」へとつながる形式であり、「百済」の首都であった「泗比城」の寺院に良く似ているとされ、「飛鳥寺」などと同様に「百済」の強い影響に建てられていることは明らかですが、「四天王像」に関しては「北朝的」であるとされているわけであり、これは一種「矛盾」であるわけです。これに関してはこの寺が当初は「天王寺」と呼ばれていたらしいこととつながります。


(※)水野孝夫「四天王寺」(『古田史学会報』No.50 二〇〇二年六月一日)


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2014/12/24)(ホームページに記載記事に加筆)

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「秦王国」と「豊国」と「蘇我氏」

2018年04月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』の記事には「秦王国」という国名が登場します。その行程記事から見て「秦王国」が「筑紫国」のすぐ東側にあるのは明確です。また「秦」の文字が使用されていることから「秦王国」には「帰化人」特に「秦」姓の人々が多くいる者と推測されます。現実にこのような場所として候補に挙がるのは「豊」国(今の大分県)です。『豊前国風土記(逸文)』によれば「香春」の地には「新羅」からかなりの数の人が渡来し、彼らの信奉する神社を建てたようです。

「鹿春の郷というは(清河原が)なまれるなり。むかし、新羅の国の神、みずからわたり来たりて、この河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春の神という」

 「行橋」や「中津」では大宝二年(七〇三)の戸籍で「秦部」の姓および秦氏が多く名乗った「勝(すぐり)姓」(または村主)が非常に多く、全体の八割以上を占めていました。また、彼らが「王」と仰ぐ人物がいて、彼が「秦王」と呼ばれたであろう事が推察され、ここが「秦王国」であったものと推定されるものです。
 ところで、『魏志韓伝』には「辰韓」について以下のような記述があります。

「辰韓在馬韓之東。其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵、其言語不與馬韓同。名國爲邦、弓爲弧、賊爲寇、行酒爲行觴。相呼皆爲徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人爲阿殘。東方人名我爲阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之爲秦韓者。始有六國、稍分爲十二國。」

 つまり、「馬韓」の東には「辰韓」という地があるが、この地は「秦」が戦争になったとき、それを避けてやって来た「秦人」が多く住み着いていて、言葉が違っている、というわけです。そのため「辰韓」は「秦韓」ともいうとあります。
 この「辰韓」(秦韓)の人々と、この『隋書』に言う「秦王国」には関係があると考えられます。
 特に「東方人名我爲阿」とあるように「自分」のことを「我」ではなく「阿」と言うとされていますが、『隋書』内の「倭国王」についての「自称表現に「號阿輩鶏彌」とされており、「我輩」という言い方を「阿輩」としているようであり、これは「魏志韓伝」に言う「東方人」の特徴と一致します。
 このことは「秦王国」には「秦韓」からの亡命者「渡来人」が多く占めていると考えられますが、「倭国王」の自称にも現れていることから考えてもその言葉の影響は「倭国」全体に及んでいると考えられるものです。
 「秦韓」の地は「馬韓の東」という地理的説明からも、その後「新羅」に併合されることとなった地域を指すものと考えられ、この地から渡来したしてきた人々による「国」が成立していたと考えられます。
 また、この「豊」の地域に多くの新羅系渡来人が住み着いた理由としては「金」「銀」「銅」の鉱物資源が豊富であったことや、養蚕・機織などの殖産も非常に活発であったことなどがあると思われます。
 また、のちに医術によって「文武天皇」から賞せられた「法蓮」がいたように、医術の名声も遠く「明日香」にまで及び、「五八六年」には「用明天皇」の病気の治癒を計るために、宮廷に「豊国法師」が迎え入れられたこともあるとも『書紀』に書かれています。

 また、『推古紀』二十年条に「推古天皇」の次の歌があります。

「(推古)廿(六一二年)年春正月辛巳朔丁亥条」「置酒宴群卿。是日。大臣上壽。歌曰。夜須彌志斯。和餓於朋耆彌能。訶句理摩須。阿摩能椰蘇訶礙。異泥多多須。彌蘇羅烏彌禮麼。豫呂豆余珥。訶句志茂餓茂。知余珥茂。訶句志茂餓茂。知余珥茂訶句志茂餓茂訶之胡彌弖。兎伽陪摩都羅武。烏呂餓彌弖。兎伽陪摩都羅武。宇多豆紀摩都流。天皇和曰。摩蘇餓豫。蘇餓能古羅破。宇摩奈羅麼。辟武伽能古摩。多智奈羅麼。句禮能摩差比。宇倍之訶茂。蘇餓能古羅烏。於朋枳彌能。兎伽破須羅志枳。」

 ここでは、「大臣」の「大君」を「寿ぐ」言葉に「和して」と書かれ、「大臣」(蘇我)の「寿詞」に「併せて」「寿詞」を奉っていると考えられるものであり、これは「問答」ではなく「蘇我」と「推古」が「共に」に「大君」に対して「お祝い」の言葉を述べている状況であることが推察できます。
 「蘇我」の歌が「大君」に対して末永く仕える旨の歌を贈呈しているのに対して、「推古」の歌の中では「於朋枳彌能。兎伽破須羅志枳使」というように、「大君」が派遣してくれた、という「蘇我」を「賞賛する」ことで「大君」に対して「感謝」する歌を贈呈していると考えられるわけです。
 当然「推古」自らが「大君が遣わすらしき」と述べているわけですから、ここでいう「大君」は自称ではないのは当然であり、明らかに「推古」とは「別」に存在しているわけであり、その人物に対して「寿詞」を捧げている、というわけです。(蘇我はその大君から派遣された人物として表現されているようです。)

 この「寿詞」は「正月」の「賀詞」であると同時に「前年」に行われた「遷宮」と「改元」に対してのものでもあったと思われます。
 「六一二年」という年は『二中歴』によれば「定居」と「改元」した年とされ、「肥後」の宮殿から「筑紫」の仮宮へ遷宮を行ったものと推量され、それに対するお祝いであったと思われます。
 またここでは「大君」という呼称(尊称)が使用されていますが、これは「皇」とは違うものであり「天子」を指す言葉ではありません。つまり、彼らが「お祝い」の歌を捧げた人物はこの時点では「即位」していないものと思慮されます。
 この「大君」は「利歌彌多仏利」を指すと考えられ、彼が「即位」する事となった「六一八年」までは、「大君」という呼称であったかと思料されます。

 また、「『日本霊異記』(上巻第五話)に「和泉の国の海に流れてきた楠で蘇我馬子が仏像を作り、「豊浦堂」に安置したが、「物部守屋」に非難され、隠したものの「道場」を焼かれ、多くの仏像を難波の堀江に捨てられた、という記事があり、この時「物部守屋」は「速やかに豊国に棄て流せ」と皇后に言ったとあります。
 従来はこの「豊国」は「百済」のことという解釈が一般ですが、当然「大分県」の「豊国」である可能性を考慮するのが正しいと思われ、蘇我氏の本拠地(出身地)が「豊国」であることの間接的証言と考えられますし、またこの「楠」の産地が「豊国」であったと言うことも示唆しているのではないでしょうか。
 現代でも「氏姓の地域分布」を見てみると「蘇我氏」は「大分県」に濃密に分布していますし、そもそも「楠」が「流れ着く」という書き方が「象徴的」であり、これは「楠」の「本場」とも言うべき「九州」(豊国か)から「仏像」を彫るために「楠材」を贈呈(下賜)されたと言うことを意味するものでしょう。
 この「楠」は九州特産の木であり、特に「大分県」の奥に特に良質な「楠」の産地があったとされますが、この話の中でも「霊木」とされていますから、普通の木ではないわけであり、それを使用して「仏像」彫刻を作ったというわけです。その際には「仏師」(彫り師)も派遣されたものと推察されます。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/01/29)(ホームページ記載記事に加筆)

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「肥の国」と「淡海」の関係

2018年04月24日 | 古代史

 「能」で使用する「翁面」やそれを使用した「翁舞」は非常に古いものであり、面に「眉毛」があったり、「切り顎」と呼ばれる可動式の「顎」で出来ていることなど他の面に見られない特徴があります。
 これらの起源は「倭国王権」に服従した国が従順の姿勢を示すため「一族の長」が舞い寿詞(よごと)を述べたのが「翁舞」の源流ではないかと考えられます。

 「筑紫傀儡(くぐつ)」が現代に伝えた「筑紫舞」というものがあります。この舞の主要なレパートリーに「各地の翁」が「都」に集まり舞う、という趣向の「翁舞」があります。この舞は、その中心人物が「肥後の翁」なのです。「都」の翁が中心ではなく「肥後」が中心人物として行動します。舞う翁の数で何種類かありますが、頻度が多いのは「五人」から「七人」であり、たとえ「三人立」でも肥後と加賀(越)の翁は不可欠で、これらは古代からの倭国を支える有力な勢力(豪族)を示しているものと考えられます。
 この「翁舞」は「十三人立」まであったとされますが、現在は絶えています。多く舞われるのは「七人立」であり、この場合「七人の翁」とは「肥後の翁」「加賀の翁」「都の翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「出雲の翁」「夷の翁」となるようです。
 これらの国々は「倭の五王」により征服された地域を表すと思われますが、その中に「難波津より上りし」という表現がされている地域があります。これが「近畿王権」を表すと思われ「河内」か「明日香」だと思われますが、それを明らかにすることが「はばかられる」ため、このような表現となったものでしょう。伝統を絶えないようにするための方策の一つと思われ、苦心の跡がしのばれます。

 また『書紀』においては「景行天皇」遠征説話において「筑紫」と「肥後」は征服対象領域とはされていないのが注目されます。
 その足跡をたどるとまず「周防」の「佐波」から始まり、それから対岸である「宇佐」に行きます。「筑紫」から「宇佐」に向かっていないように見えるのは「筑紫」と「宇佐」の間にある「山城」(神護石)がそれを邪魔しているのでしょう。これらの「神護石」はこのような場合の防衛線となっていたと考えられ、「巡行」の噂を聞いた諸国は「警備」を固めていたものと考えられ、そのため「裏手」から攻め込むこととなったものと考えられます。
 続いて「日向」に行き、その後「薩摩」・「大隅」へと向かい、「肥後」に入ります。「肥後」に入ってからは戦闘シーンはなく単に巡行しているのです。これらのことは古代より「肥後」と「筑紫」は友好的関係にあり、他の地域とはその関係の密度が違う、ということを意味するものと考えられます。

 また「肥の国」との関連で言うと、「淡海」という言葉も注目されます。この「淡海」という言葉は従来「琵琶湖」のこととして考えられ、それに誰も疑問を持ってはいませんがよく考えると不審な点があります。
 「水野氏」などが言うように(※1)「和歌」に詠い込まれている「淡海」では「鯨(いさな)=くじら」がとれたり、千鳥が居たりするのです。
 「琵琶湖」には当然ですが「鯨」は居ませんし、千鳥も波打ち際にいるものですが、基本は「海」です。内海である「湖」に生息しているのは珍しいと言えるでしょう。
 一般に「枕詞」に使われる言葉は、その「枕詞」の対象物からの「連想」であったり、「比喩」であったり「近縁」であったりするわけですが、「鯨(いさな)取り」という言葉は「海」からの「連想」あるいは「近縁」であると考えるのが普通です。この枕詞」が「淡海」に転用されているのです。つまり、「淡海」が「近江」であれば「琵琶湖」のことですから、「湖」(淡水)に転用されていることとなりますが、他に「湖」に転用した例がありません。「湖」ならば必ず「鯨(いさな)取り」という枕詞が使われているかと言うとそうではなく、「淡海」だけの現象なのです。

 また、「淡海」の枕詞は「石(いわ)走る」ですが、全く意味が不明で、従来解釈に困難を極めていたのですが、石棺に使う「阿蘇熔結凝灰岩」を近畿に運ぶためには、切り出した「石」を運搬船に乗せて「有明海」を運ばなければならず、その光景はまさに「石(いわ)走る」という形容そのものと思われます。(これは「古賀氏」の指摘(※2))
 「淡海」を「有明海」ないしは「八代海」のことと考えた場合であれば、「千鳥」も居ますし、滅多にはないことですが、「鯨」も捕れます。
 これらのことは「九州」西岸に広がる「海」が「淡海」と呼ばれる場所であり、これは倭国の中心にあったものを遷都の際に全て「地名も含めて」移転したものという可能性を感じさせます。
 「淡」い「海」という言葉面も「有明海」のような「干潟」が多い海を表す言葉として適切ではないでしょうか。このようなタイプの海は「河川」からの流入水の占める割合が多くなり、特に河口近くでは塩分濃度がかなり下がっていて、まさに「淡い」つまり「塩味が少ない」という形容詞が適切であると考えられます。
 このことは「有明海」ないしは「八代海」において「淡海」という呼称が適切であることを示すものです。そう考えると「肥の国」と「淡海」とが強く関連することとなりますが、その「淡海」については「淡海帝」という一般に「天智」を表す呼称があることが注目されます。これが「琵琶湖」なのか「有明海」なのかは容易には結論が出せないこととなるでしょう。


(※1)水野孝夫「阿漕的仮説 さまよえる倭姫」(『古田史学会報』No.69 二〇〇五年八月)
(※2)古賀達也「石(いわ)走る淡海 「古賀事務局長の洛中洛外日記」より転載」(『新・古代学の扉』)


(この項の作成日 2011/01/14、最終更新 2017/01/05)(ホームページ記載記事に訂正加筆)

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「申楽」について

2018年04月24日 | 古代史

 「世阿弥」が著した『風姿花伝』には「申楽の始原」についての記事があります。

「…それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、あるは仏在所より起り、あるは神代より伝ふといへども、時移り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力およびがたし。ちかごろ万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて、和州・江州のともがら、両社の神事に従うこと、今に盛んなり。…」(『風姿花伝』序)

 つまり、「推古天皇」の時代に、「聖徳太子」が「秦河勝」に命じて「天下安全」、「諸人快楽」という目的のために「六十六番の遊宴」というものを作成したというのが「申楽」の起こりであるというわけです。
 また、この「六十六番の遊宴」というものについては、当時倭国内に疫病や飢饉が発生し、その際「六十六番」の「物まね」を、「六十六」の面を作って舞ったところ、天下が治まった、という伝承に基づくという伝承もあります。その意味で『書紀』によれば「敏達」付近で「天然痘」の「エピデミック」があったらしいことと関連していると考えられます。

 そもそも「申楽延年」というようにこれが「天皇」(倭国王)の寿命を延ばす「呪術」的なものとして始まったと考えられるわけであり、それは「君が代」ともつながるものであった見られることとなります。その「君が代」は「善光寺」への「祈願文」との関係からも「倭国王」の延命を願うものと推察され、その「善光寺」が「天然痘」とおぼしき「熱病」に対する治癒効果のあるとする経典(『請観音経』)を核とした寺院であることを考えると、この「倭国王」についても「天然痘」で苦しんでいたという可能性が出てきます。またそれは「倭国王」だけではなく多くの人々が苦しんでいたことを示唆するものであり、それを救済するために「呪術」的意味も込めて「仮面」を付けて舞うということが行われたものではないでしょうか。つまり元来が「倭国王」に奉仕する一環として制定されたものと見られ、「長命」を「言祝ぐもの」あるいは「延命」を願うものという意義もそこに含まれていたと考えることができるでしょう。

 ただし、『隋書』の記述から、「楽制」が「六世紀末」になって「隋」から倭国に導入されたらしいことが推察されていますが、その際に「楽舞」も改めて定められたものと見られ、それが「申楽」の起源と関係があるという可能性も考えられるところです。
 すでにみたように「古墳時代」つまり仏教が導入される以前から「古墳」(特に前方後円墳)での祭祀に関わるものとして「遊舞」というものがあったと見られ、それが「隋」から「訓令」として「古典的」な「祭祀」について否定され、その影響で「前方後円墳」の築造が停止されると、「遊舞」は「古墳」における「祭祀」から切り離され、「儀仗」などとともに「国楽」として再編成されたとも考えられます。

 「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」は「隋」から「訓令」によって伝えられた「法華経」に深く帰依することとなり、「法華経」の世界をこの世に具現化するために「六十六国」に倭国を分割しその各々の国に「六十六番の遊宴」を割り当てたのではないでしょうか。
 この「六十六国分割」は全国(西海道、南海道、山陽道、山陰道、東海道、東山道)にすでに成立していた各国を「法華経世界の具現化」のために「前・後」などに「強制分割」したり、「小国」はそれを合同する形で一つの国とするなどして「無理」に「六十六」という数字に合わせたものと思われます。そのため、この時点で「筑紫」が「筑前」と「筑後」に「肥の国」が「肥前」と「肥後」に分割されるなどの行政区分変更が行われたと見られます。
 『隋書』に記された「裴世清」の行程中には「竹斯国」という表記が現れており、このことから彼が「倭国」へ来た時点ではまだ「筑紫」は前後に分割されていないこととなり、「六十六国分国」事業はその後のことと推察されることとなります。
 このような「分国」は「法華経」を現実にするための数あわせのためもありますが、統治・支配の徹底のためでもありました。このような行政制度の細分化は即座に王権の意志を末端に短期間に透徹させることができるものであり、「強力」な支配体制を構築するためには必須の制度改正であったと思われます。

 また「申」楽という名称の起源もいろいろあるようです。「世阿弥」の言葉によれば「神楽」なので神という字の旁をとって「申楽」と云う、とありますが、この説明は甚だ不審です。考えられる一番素直なものは「申」年に作られたから、というものでしょう。
 「聖徳太子」(阿毎多利思北孤)の在世中という範囲でこの年の候補を探すと、「六〇〇年」(庚申)が有力と思われます。この年は「遣隋使」を送ったという年でもあります。それは「隋書たい国伝」の「大業三年」の年次に書かれた「裴世清」を迎える記事中に「鼓角を鳴らして」という形容で楽制が定められていたらしいことが書かれていることに対応しているという可能性があるでしょう。(「鼓角」は「能」の伴奏楽器として使用されており、それも「隋」からの「楽制」の導入と「能」(申楽)の始源とが関連しているということを示唆するものです。)


(この項の作成日 2011/01/14、最終更新 2015/05/25)(ホームページ記載記事を訂正加筆)

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