古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

肥の国と「天子宮」

2018年04月24日 | 古代史

(以下は「古川清久氏」の研究(※)に準拠します。)
 「肥の国」は「肥前」(佐賀・長崎)と「肥後」(熊本)に分かれています。間に「有明海」を挟んでいます。というより、「前・後」に分割される前は一国だったわけですが、(間に「筑後」が割り込んだ形となっている)当然その領域「支配地域」には「海」を含んでいます。小さいながら「海峡国家」であったわけです。
 この「肥前」と「肥後」の両地域には「同一地名群」が存在しています。それは玉名市の「伊倉」周辺と佐賀県の「江北」町周辺です。そしてそこには更に共通なものとして「天子社」というものがあります。
 多数ある「天子社」の分布の「変遷」を見てみると、「太宰府天満宮直轄領」には「天子宮」が存在していましたが、どんなに距離が近くても「宇佐八幡宮直轄領」内には存在していなかったとされます。
 「天神社」の分布はこれと逆になっていて、「天満宮直轄領」内には「天神社」はなく、「八幡宮領」内にしか存在しないのです。互いに「排除」しあっていたわけです。
 (これは「江戸時代」初期のころのこととされており、その後「相互に排除する」関係は目だたなくなっていったと思われます。)

 「天神社」は一般に「菅原道真」の怨霊封じのために祀ったものと考えられていますが、それにしては「天満宮」から拒否されているのが理解しにくいことです。実は「菅原道真」が「天神」として祀られる以前から、「天神社」は存在していたものなのです。
 これが何を意味するのかというと、諸説はありますが、私見によれば元々(この地域では)「天神社」は「物部」を祀っていたのではないでしょうか。そして「天子社」は『隋書』にいう「倭国王」「阿毎多利思北孤」を祀っていると考えると、互いに排除している理由がわかります。
 「太宰府天満宮」は倭国(倭国王)直轄神社ですから、「天子社」があって不思議はありません。「物部」と「宇佐八幡宮」に関係があるとすると「天神社」を容認している理由もわかります。
 「高良記」によれば、「宇佐八幡宮」は九州全体の「宗廟」の座を「高良大社」から譲られたとされていますが、この「高良大社」は「物部」そのものであったとされています。この「高良大社」から「平和的」に禅譲された理由も「宇佐八幡」と「物部」の間に「ある関係」があったからではないかと考えられます。

 「阿毎多利思北孤」は「開皇末」(六世紀末)に「隋」に使節を送り、その中で自らを「天子」と称し、「隋皇帝」に対等性の主張をして不興を買っています。そもそも「阿毎多利思北孤」の「北」と「孤」は「天子」に関わる用語であり、「北」は「天子の座」を示し、「孤」は「天子」の「自称」(謙称)とされますから、「阿毎多利思北孤」と名乗った最初の「遣使」時点ですでに「天子」(皇帝)の意識があったこととなります。そして、その時点ではまだ「肥後」に拠点があったものと思われるわけです。
 「肥」の国が「倭国」の中心であったのは「倭の五王」以降のことであったと思われ、それは「筑紫」に首都を設け「難波」に副都を設けるということとなった七世紀初め付近まで継続していたものと思われるわけです。
 その時点で「肥の君」や「阿蘇の君」等の「地場」の有力な勢力の支援の元、「肥の国」から「拡張倭国」としての「筑紫」「豊」を中心とした「列島」の諸国を支配する体制へ移行することとなったものでしょう。その当初の中心が「玉名市伊倉町」周辺だったものであり、副都的な仮宮を「肥前」「佐賀県江北町」に設けたというとではないでしょうか。
 
 この「肥後」の地に「倭国王」がいたことを示唆するように『肥後国風土記』(逸文)や『肥後国史』には「腹赤魚」(ニベ)についてのエピソードが書かれ、それに拠れば「贄」(にえ)として「毎朝」「倭国王」の元に「腹赤魚」が「献上」されていた、と書かれているようです。つまり、「産地」直送の新鮮な魚を献上していたというものであり、後の時代の「調」として献上された「塩漬け」などの魚とは趣を異にするものです。これは「倭国王」の所在するところまで「僅かな時間」で行けることが前提の話のようであり、これは前記した「玉名市伊倉」周辺に「倭国王」の宮殿があったのなら可能なストーリーとなっているところが重要です。(「日の出」「日の入り」など天文観測を行った場所としてもこの「玉名」付近(「鞠智城」も含む)地域が措定され、その場所が「都」であったことが推定されることとなっています。

 この「肥前」と「肥後」の間に「筑後」が割り込んできたのは「筑紫」に中心を移動させることとなった「七世紀初め」のことと考えられ、「利歌彌多仏利」による「六十六国分国」の時点の事と考えられます。
 その「六十六国分国」の行われた時期は「古代官道」の敷設された時点が考えられ、この「官道」はその性格上それを越えた往来が事実上出来ないものであり、そのため「地域」が分断され「国境」が形成されることとなったと思料されます。
 この「古代官道」は「肥前」と「筑後」の境界を形成しており、「肥」の領域が「筑後」によって分割された時点がこの「官道」の敷設時期であることが推測され、それは「筑紫」が拡大されたことを意味しますから、この時点付近で「倭国王」は「筑紫」へ「移動」し、そこに本拠を構えることとなったものと推測されますが、それに併せ「拠点」として「玉名」から「菊地」付近に場所を変更し、そこに「山城」を築き、「官道」を通して、「阿蘇」などとの「軍事的連係」を考えた「交通体系」を構築したものと思料されます。
 このように「強い権力」を持った「王」により「官道」が敷設され、その「官道」によって「肥」領域は「強制的」に分割され、一部の領域を「筑紫」側に「割譲」するという事態が発生したわけであり、そのことと分割された「肥前」と「肥後」の「天子宮」周辺に同一地名があることは関係していると思われ、「肥後」を治める「王」と「肥前」を治める「王」の二人により分治することとなったのではないでしょうか。


(※)古川清久「伊倉(いくら) 天子宮は誰を祀るか」(『古田史学会報』八十一号 二〇〇七年 八月十五日)他


(この項の作成日 2011/01/14、最終更新 2014/04/28)(ホームページ記載記事に加筆)

コメント (3)

「阿蘇山」と「如意寶珠」

2018年04月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』には「遣隋使」が「隋」を訪れ「隋皇帝」から「下問」された際の返答として「倭国」の風俗が種々書かれていますが、そこには倭国の名勝として「阿蘇山あり」と書かれており、その噴火の様が「理由なく『火』が起こり、天に接する」と書かれています。また「祷祭を行う」と書かれており、宗教的な儀式がそこで行われていたとみられます。
 ところで、縄文時代の遺跡として「ストーンサークル」といわれる遺跡が国内で多く発見されていますが、これらが火山の周辺で発見されるものであり、ここで当時の人々により「火祭り」的儀式が行われていたことは確実と考えられます。
 日本は火山国ですから、各所で地震や火山の噴火が絶えず、これらが古代の人々にとって「異とする」(『隋書』による表現)ことであったのは当然です。(現代においても事情はあまり変わらないでしょう)

 「古墳時代」を通じて、近畿などで「阿蘇灰色凝灰岩」を「石棺」の材料に使用した古墳が見られるわけですが、一般に「葬儀」あるいは「殯」というものが高度に宗教的儀式なのはいうまでもありません。そのことは「埋葬」に使用される「石棺」というものも、この宗教的な儀式で重要な役割を果たすわけであり、その材料を「あえて」遠方の九州より取り寄せてまで使用する動機、というものもやはり「宗教的」な部分が多いこととならざるを得ないものと思われます。
 もちろん「政治的」、「軍事的」圧力のもとではありますが、「九州」とか「阿蘇山」というものに「祭政」や「宗教」についての「重要な」意味がある、ということと推察されます。
 時代が下って国内に仏教的観念が導入されても何らかの「儀式」が火山に対して行われたであろう、と考えられます。つまり、死者の魂を送る儀式としての「火祭り」という形式がすでに以前から存在していて(古神道形式か)、それが九州では「阿蘇山」と関係していたのですが、仏教が導入された際に、仏教の形式を用いた「死者の魂を送る儀式」に変化したものであり、それが『隋書』にいう「祷祭」と考えられるのです。

(以下『隋書俀国伝』の一節)
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如鶏卵、夜則有光、云魚眼精也。」

 以上のように『隋書』によれば「阿蘇山」の噴火に関係して「祷祭」が行われ、その中で「如意寶珠」が使用されている、というわけです。
 この記事からはこの情景描写が「伝聞」ではなく、「実見」したものと言うことがいえると思われます。それは「云」という後が「魚眼精也」だけにかかっていることから明らかだからです。この記事が「遣隋使」が「所司」に問われて答えたものであるとすると、この「祷祭」や「如意宝珠」を実見したのは「遣隋使」であるということとなります。つまり、実際に「遣隋使」本人はその「如意宝珠」を見ているが、その実体が何かは判らないというわけで聞くところによると「魚」の「眼精」とのことであるというわけです。
 またこの「如意寶珠」記事はそのつながりから「阿蘇山」とそこで行われている「祷祭」に関係しているのは明らかですから、「阿蘇山」が「遣隋使」の行動範囲に入っているのは確かでしょう。つまり「遣隋使」として選ばれた彼は(彼ら)は「九州」しかも「肥の国」に深く関係した人物であると推測できるわけです。

 これに関しては古田氏は「隋使」(裴世清)が実見したと理解されていますが、そうではないと考えます。それはこの情景描写を含む「倭国情報」全体が、「隋」を訪れた「遣隋使」が語った内容と考えられるためです。
 さらに、ここで「無故」という言い方がされており、これを古田氏は生前に講演などで「禁止」の意に取って解釈されていましたが、「無故」自体には「禁止」の意はなく、それを含む文章全体として「禁止」の意味がある場合があると云うだけのものと思われます。
 たとえば『書紀』の「有馬皇子」の「乱」の一節や、『続日本紀』の『文武紀』にも「無故」は登場していますが、そこでは「理由もなく」という意味以外には使用されていません。

「(斉明紀)有間皇子與一判事謀反之時 皇子案机之脚 『無故』自斷。其謨不止 遂被誅戮也。」

「文武四年(七〇〇)八月戊申(丙午朔三)宇尼備。賀久山。成会山陵。及吉野宮辺樹木、『無故』彫枯。」

また「中国」の使用例でも同様に「理由がない」という以上の意味はありません。

「冬十月,武皇有疾。是時晉陽城『無故』自壞,占者惡之。」「(新)唐書卷二十六 武皇 李克用 紀下 」

「…又,北夢瑣言載趙崇凝之辭曰 張策衣冠子弟『無故』出家不能參禪訪道。抗跡塵外、乃于御簾前進詩。希望恩澤如此行止豈掩人口。某十度知舉十度斥之。…」「梁書列傳卷十八 梁書十八 列傳第八 張策」

 他の「中国」の史書の類にもいくつか散見されますが、「禁止」の意義が確認できるものがありません。『隋書俀国伝』の例も同様であると判断せざるを得ないものです。
 更に古田氏はこの「無故」に続く文章は「阿蘇山」とは関係がないという見方をされていたようですが、それでは「有阿蘇山」という文章が「浮いて」しまうでしょう。またそれに続く「其石」というのが「何の石」なのかも不明となってしまいます。明らかにここでいう「其」という指示代名詞は「阿蘇山」に掛るものであり、「其石」とは「阿蘇山の石」としか理解しようがありません。そうすると「無故」とは「其石」に関することとしか考えられないこととなります。とすれば「無故」なのは「阿蘇山の石」のこととなるわけで、決して「高良山」の山城の石垣のことではありません。そんなことはそれこそ「どこにも」書いていないことです。
 別の見方をすると、そうでなければここで「阿蘇山」という「特徴」のある「山」が取り上げられる理由がないこととなります。つまり、「阿蘇山」は有史以来活動を続けている火山であり、「阿蘇山」と言えば「噴火」「墳煙」「地鳴り」など「活火山」特有の「驚嘆すべき」現象がその最大の特徴ですから、人々はこれを「畏敬」の対象としてきたものとして不思議はありません。
 『隋書俀国伝』で「阿蘇山」が登場する理由、すなわち「遣隋使」が「倭国の風俗」を語る際にこれは外せないと思ったのもほぼ同様の理由と考えられ、「中国人」にわかりやすく「火山」を形容する文章として「其石無故火起接天者」という文章が書かれたと考えられるものです。(これは「火山弾」つまり、噴火の際に「噴火口」から周囲に「火の塊」となって飛散する「溶岩」が冷えたものが一面に散乱していることを説明した文章ではないかと考えられます)
 当然ここに書かれた「祷祭」も「延々」と続く「阿蘇」の火山活動と共に行なわれてきた「縄文」以来の「火祭り」的儀式の延長と考えられ、この地で古くから行われてきたものと推察されるものです。そして、その中に「如意寶珠」といういかにも仏教的なものが登場するわけです。

 仏教の経典によれば「如意寶珠」とは「大魚の脳中」にあるものであり、これは実体としては「魚の眼精である」という『隋書』の記事と符合しています。このように仏教の一般化というものが、既存の「日本古来」の伝統と融合しながらの伝搬・拡大であったことが知られます。
 この「倭国情報」記事は「遣隋使」の語ったものをまとめたものが中心と思われますが、その「遣隋使」の派遣された時期が従来の想定よりもっと遡る時期(開皇年間前半)であったことが推定されており、その中で「如意寶珠」信仰が書かれていることは「火祭り儀式」の「仏教化」というものがこの時点をかなり遡上する段階で進行していたことを示すと考えられます。
 ただし、ここで「如意寶珠」という仏教用語が出てくるのはただ単にそれが「倭国」の「俗」として存在していたからと云うわけではなく、それが「隋」の「皇帝」(高祖)からの下問に答えるものであったという状況が重要であると思われます。
 「高祖」は「北周」から「受禅」の後、それまで抑圧されていた仏教を解放し、国教として大々的に拡大していたものです。この時の「倭国」からの使者もそれを知っており、それに「合わせる」形で「高祖」の気に入るような返答をしたという可能性があるでしょう。「如意寶珠」信仰が「俗」として広範囲に行われている、という実態を述べることで「仏教文化」が存在していることを匂わせることで「高祖」から好印象(歓心)を得ようとしていたことが推定できます。(この「如意寶珠」が「北朝」からの伝搬であったことを承知していたものかとも推察される)

 ここで行われている「祷祭」が「阿蘇山」という「山」に関係した人々の信仰に関わるものであることは明白ですが、一方「如意寶珠」は上で見たように元々「大魚」の「脳中」にあるとされ、「海」に縁が深いものであり、「海」の人々の信仰とも深い関係があったと見ることができます。
 この事は「山」の人々に受け入れられる前に、海の人々(海人族)にまず受け入れられ、その後「山」の人々が受け入れていった過程が表されていると考えられますが、このような「如意寶珠」受容のプロセスは、「神話」の「海幸彦」「山幸彦」の説話を彷彿とさせるものです。
 「神話」では「山幸彦」(彦火火出見尊)が海に行きそこで「海神」より「干満の珠」を受け取り、それを操って「山」にいる「海幸彦」を支配下に置く、というストーリーが語られますが、これは上に見る「如意寶珠」受容過程と非常に近似していると考えられます。つまり「干満の珠」と「如意宝珠」とが同一化されていると思われ、この事は「海幸彦山幸彦神話」の「祖型」というものが、「遣隋使」派遣時点をかなり遡上する段階で形成されたことを強く示唆するものです。そう考えると、「如意寶珠」に関連するものとして、「宇佐八幡宮」に伝わる『八幡宇佐宮御託宣集』の中に「一にいわく、彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意寶珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」とあるのが注目されるでしょう。
 さらに、『香椎宮縁起』から引用した文章が、『八幡宇佐宮御託宣集』にありますが、それによれば「善紀元年壬寅年」に「大唐」から「八幡大菩薩〔大帯姫也〕」が日本に「還り給いて」、「筑前國香椎に住み居り給う。」とあります。また別の文書『八幡宇佐宮繋三』によれば「文武天皇元年壬辰(ママ)大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ」とあり、「大菩薩」が「如意宝珠」を求めている事が記されています。
 これは「如意宝珠」が原初的な形で一旦倭国内に入り、「如意寶珠」信仰が始まって後、かなり時間が経過してから、「法華経」の伝来に伴い再度「脚光」を浴びるような事態が起こったことを示すのではないかと考えられるものです。
 
 すでに述べたように仏教の伝来そのものが当初「北朝」系統のものであった可能性が指摘されています。それは「倭国」に仏教を伝えたのが「百済」からと見られる訳ですが、その「百済」の仏教は当初「高麗」からの伝搬であったからであり、更にその「高麗」の仏教は「北朝」の前身である「前秦」からのものであったと考えられているからです。
 「前秦」に伝えられた仏教は「天竺」(古代インド)からのものであり、南方の要素を含んでいました。「摩訶陀国」からという伝承にはそのような傾向が読み取れるものであり、「倭国」への仏教の伝来も「北朝」経由のものであったと考えられる訳ですから、「如意寶珠」信仰という南方要素がここで見られるというのは不思議ではないこととなります。そして、それが「九州島」の中から大きくは広がらず「阿蘇山信仰」と合体同化することにより、九州島の中で熱烈な信仰となっていたという可能性が考えられるでしょう。


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2014/12/25)(ホームページ記載記事を訂正加筆)

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倭国の「本国」と「附庸国」

2018年04月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』の中に行路記事、つまり倭国への道順が書かれている部分があります。そこには以下の様に書かれています。

「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於倭」

 注目すべきは、この中の「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現です。「附庸」とは「宗主国」に対する対語であり、「従属国」であることを示します。また『隋書』内での「以東」、「以上」などの表現例から帰納すると、「附庸」されている国に「竹斯国」が入るのは自明と考えられます。つまり「竹斯国」と「秦王国」は倭国に「附庸」されている国であることがわかります。
 すでに見たようにこの「裴世清」が派遣された年次は『隋書』や『書紀』に記されている「六〇八年」ではなく「開皇年間」(六〇〇年以前)であったと考えられ、その段階では、「竹斯国」は「倭国」の本国ではなかった事を意味すると思われます。(ただし、「竹斯国」と「秦王国」が「附庸」されている国で国名が特記されているのは、それだけ有力な国であったことを示すものではあると思われます。)
 このことは「倭京」元年つまり「六一八年」に始めて「筑紫」に都城が造られたと考えられることと整合すると言えるでょう。つまり、この時点までは「筑紫」には「都城」(京師)はなく、他の場所に存在していたとみられるのです。
 では、この時点における「都」はどこであったでしょうか。

 上の『隋書俀国伝』の表現から「近畿」に倭国の中心がある、という様に受け取る向きもあるようですが、そのような理解は不審です。もし仮に倭国の中心地が「近畿」にあったとすると、その国でさえも「筑紫国以東」の範囲に入ってしまうこととなるのは当然であり、「属国中に宗主国の都がある」という「ねじれ現象」が発生してしまいます。
 「近畿」に「倭国」の中心があるにも関わらず、「竹斯国以東」という表現が用いられることはないでしょう。そのような場合、より適切なな表現法としては「近畿の西側のある地域(境界領域)「までは」皆倭国に附傭する」という表現が使われるでしょう。ここではそれに類する表現は使用されておらず、そう考えると近畿の方向(東)には宗主国は存在しないことは明確であると思われます。つまり、原則として基準点から「附庸国」がある、というように指定された方向には「中心」となる国はないこととなります。(言い換えると「竹斯国」の東側は全て「倭」の範囲に属する「附庸国」であるという表現であるわけです。)
 ではどこが「倭国」の「本国」なのかというと、「附庸国」の方向として指定された「竹斯国以東」とは異なる方向、(以西や以南)が倭国の本拠地(「宗主国」であり、「本国」)なのだというように考えられます。その場合可能性があるのは「肥」の国でしょう。

 『隋書』には「筑紫国以西」「以北」「以南」の情報は、行路記事には書かれていませんが、「遣隋使」の言葉として「阿蘇山」が触れられているのと同時にその「阿蘇山」においての信仰の状況が「如意寶珠」をキーワードとして書かれています。
 「阿蘇山」は「竹斯国」の「南方」に位置するのですから、「遣隋使」がもたらした「阿蘇山情報」も「竹斯国以南」の情報と考えられますが、行路記事からはこの「竹斯」南方地域に対して「附庸」という表現が使われていません。つまり、この方面の地域は「倭国」の「本国」の一部であり、また「倭国王」が「直接」統治している領域であると考えられ、「附庸国」ではないと思料されます。

 また『隋書』中では「倭国王」が都する「邪靡堆」を「無城郭」としていますから、「城」もそれを巡る「郭」(囲い)もなかったとされています。このことは「筑紫」周辺に存在していたと考えられる「神籠石」などの「朝鮮式山城」とも「無縁」の環境に当時の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」が居在していた事を示すものです。しかし、「筑紫」の「山城」や「神籠石」はかなり「古いもの」とされており、また、確認された数も「筑紫」中心に多数が確認されています。「神籠石式山城」に限定しても「筑紫」には「筑前」「筑後」を併せて「七個所」、「豊前」で二個所、「肥前」には三個所確認されているものの、「肥後」(及び「豊後」)にはその存在が確認されていません。
 これらの「山城」は一部は「卑弥呼」の時代から存在していたものと思料され、それは「当然」「七世紀の初め」という段階でも存在していたわけですから、「隋使」の行路や都の至近にあったなら、それについてコメントしない、あるいは「都」には「城郭」がない、というような表現をしないのではないかと思料されるものです。つまり、「筑紫」は「朝鮮式山城」の密集地域であるわけですから、「隋使」が実見した「倭国」の王都とその周辺地域は(「行路記事」に明確なように)「筑紫」を指すものではない可能性が高いものと推量され、都が「肥後」であった蓋然性は更に高まると考えられるものです。

 また、「無城郭」と言うことから、「城」やそれを巡る「郭」を伴った「都城」は「遣隋使」が「隋」の「大興城」やそれ以前の「長安城」に関する情報を入手して初めて「倭国」に形となって現れたものと思われ、それが「筑紫」に「七世紀の前半」(「九州年号」の「倭京」年間(六一八年))に、初めて「本格的都城」として結実したものと思われます。
 ところで「鞠智城」は「筑紫」の「大野城」などのいわゆる「朝鮮式山城」と共通する性格を持っているとされるものの、他方それらとは大きく異なる部分もあるとされます。たとえば、他の「山城」と違い急峻な山腹に「城」を築くと言うより、より「平坦」な「台地」上の場所に「城」を築いていることや、周囲に「郭」つまり「外界」と区画する木製や土製あるいは石製の仕切りが見られない、などの相違点が確認されます。その意味では「無城郭」という形容と大きくはずれるものではありません。またその内部には「政庁的」建物と考えられる大型建物群が存在しており、「官衙的中枢管理区域」の存在が指摘されています。

 また、「六一八年」という時点で「竹斯」に都城を造り、「遷都」することとなったわけですが、その理由としては「筑紫」が「古都」である、という事も確かでしょう。
 「筑紫」は「卑弥呼」の時代も含め歴代の倭国王の所在する場所であったものですが、「倭の五王」の時代以降「外的圧力」をかわす意味で「内陸」である「肥後」にその中心を移動していたとみられます。
 そもそも「筑紫」は、東方の附庸国(吉備や播磨、難波など)への「にらみ」を利かす意味で、平野部が広く都市設計がしやすい場所であると考えられますが、何よりも「半島」に面していて、交通の要衝であるという利点が大きかったものと見られます。「肥(日)の国」は「半島」や「本州」とある意味隔絶していますから、安全度は高く「守備」には最適ですが、より積極的な交渉を望むなら「筑紫」に進出するのが当然ともいえるでしょう。
 (あるいは、「阿蘇山」の活動が活発になったため、筑後川沿いに北上した場所に「避難」の意味も込め、遷都したという事も考えられるでしょう。)


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/03/04)(ホームページ記載記事に加筆)

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『隋書』に出てくる「倭語」について

2018年04月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』には「軍尼」という官職名様の用語が書かれています。これは「遣隋使」が「隋皇帝」(高祖「楊堅」)の問いに答えたものを「文書」化したものであり、遣隋使の「発音」を聞いて「隋」の官人が書き留めたものが基本であると思われます。そうであればこの「軍尼」という表記は「表音」を現わしているものであり、その「漢字」の発音は「漢音」として書かれたものと考えられます。(これが「表音表記」であるというのは、その直後に「猶中國牧宰」というような「説明」が付いていることでも知られます。「表意」であればその文字の中に「意味」が含まれているわけですから、「説明」書きは別に必要ないこととなるからです。)
 「隋」の発音はその後の「唐」の発音と同じであり「中国北方音」です。これを「漢音」と称するわけですが、これは現在の「日本漢音」とほぼ同じと考えられ、そうであれば「軍」の漢音は「クン」ないし「コン」、「尼」の漢音は「ジ」ですから、「クンジ」あるいは「コンジ」と発音するのが正しいと思われ、「クニ」とは結びつきません。もし「遣隋使」が「クニ」と発音したのならば、「隋」の「官人」は「尼」という漢字は使用しないことでしょう。それは「隋」では「ニ」とは発音しない漢字だからです。(『隋書』の中では「尼」という漢字は本来の「出家した女性」という意義の他は異蛮における個人名などにしか使用されておらず、この『俀国伝』の使用例も後者に類するものであり、「表音」として考えるべきものと思われ、そこに「意味」は特にないと考えるべきでしょう。)
 これに関しては「倭の五王」の派遣した使者が「軍郡」(軍郡事)という官職を任命されたという記事が関連している可能性があると思われます。

 「倭の五王」の上表によれば「南朝」の皇帝に遣使していた「倭国王」の配下には複数の「軍郡」(「軍郡事」のこと)がいたわけであり、彼等は「南朝」から「印綬」を授けられたと考えられます。

「…讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。」「宋書夷蛮伝」

 これら二十三人の軍郡は「除する」とされていますから、正式に任命されたこととなり、「南朝」の規定に則り「銅印環鈕」他を授けられたものと思われますが、この「軍郡事」を「倭国内」では「コンジ」と呼称(発音)していたという可能性もあるでしょう。

 同様に「伊尼翼」は「イジヨク」と発音するものと考えられ、これも「稲置」(イナギ)とは似ても似つかないものとなります。
 ちなみに「阿毎多利思北孤」については「国書」の「署名」と考えられ、これは「倭国側」からの表記ですから、「呉音」で発音するべきものと思料され、「アメ(マ)タリシホコ」となると思われます。ただし、「利歌彌多仏利」は「軍尼」「伊尼翼」と同様「倭国」からの使者が話した言葉の聞き書きであり、「漢音」で発音すべきものと考えられますが、発音としては「リカビタフツリ」と発音すべきものと思われます。
 「隋」はその後の「唐」と同じ「北方系」民族である「鮮卑族」が主体の国家であり、「言語」も全く共通していて、後に「唐」の都「長安」の発音を称して「漢音」と称したということから、「隋」の都(大興城、これも長安)の発音もまた「漢音」と称されるべきものであることが分かります。
 彼らは「漢民族」との混血が進んでいたことは確かですが、言語は明らかにそれまでの「漢民族」の発音と異なっていたものであり、それを「玄宗皇帝」の後代になって「漢音」という呼称するようになったために「正当化」されてしまったものです。
 その「漢音」を「日本国」が後に受け入れることとなったものであり、その「日本漢音」と「中古音」としての「漢音」は非常によく近似しているとされており、そのことから「上」のような「復元」(推論)が可能であると思われるわけです。

 ところで「軍尼」や「伊尼翼」とはどのような「倭語」を聞いて書き留めたものでしょう。何か近い言葉が今も残っているという可能性も考えられ、発音の似た単語を思い浮かべると、「伊尼翼」(いじよく)については「うじやく」(氏役)という言葉が関係しているとも思われます。「うじ」(氏)「やく」(役)つまり、「氏」のことに関する「責任者」という意味合いがあるかと思われます。
 「氏」はいわゆる「同族集団」を意味する言葉であり、基本的には居住する地域も同一である場合が多いようです。そのため、地域の責任者はすなわち「氏」の責任者であると言うこととなる場合が多かったと推察され、そのような人物が「里長」のような存在であったものとしても不思議ではありません。
 (但し、「翼」という漢字が使用されているのは「助ける」「補助する」という意味合いがこれにあるからではないかと考えられ、それは「隋」の「官僚」がその「伊尼翼」という職掌から考えて「最適」と思われる漢字を選んだ結果という可能性もあります)

 また「軍尼」は「クンジ」ないし「コンジ」と発音すると推定した訳ですが、『隋書』や後の『旧唐書』などを見ると、すでに見たように「尼」という文字が出家した女性のことを意味する使用法は「唐」国内と言うよりその直轄領域に限られ、夷蛮の地域では地名や名前の「音」を表すものでしかない事がわかります。そして、その「音」は「ジ」と推定されます。
 たとえば『万葉集』には「軍布」という表記があり、それが現在の「昆布」を指す言葉として使用されているようです。つまり「軍布」を「コンブ」と発音していることとなります。このことから「軍尼」は「コンジ」と発音するものと考えられますが、これは元の「倭語」がそもそも「倭語」ではなく「漢語」であり、「音」で発音されていたと見るべきことを示唆します。つまりその点から見ても「軍郡事」という官職がそれに該当する可能性があると思われるわけです。
 それは「埼玉」の「稲荷山古墳」から出土した「鉄剣」の「銘文」からの類推からもいえます。そこには「獲居」という「万葉仮名」による表記と「臣」という「漢語」表記が混在していました。
 そして「臣」という表記が「訓」表記(例えば「於彌」など)ではないということから、この「臣」は「音」で発音していたのではないかと推測され、「シン」と呼称していた可能性があると思われます。それは「磐井」の墳墓に設営された「裁判の場」を表す形容に「漢語」が使用されていた『風土記』の記述を想起させるものです。そこには「臓物」「盗人」という法律用語が使用されていました。同様に「中国」や半島からの輸入とでもいうべき「法律」用語や官職用語には「漢語」がそのまま使用されていたと見るべきですが、「倭語」も漢語のように「音読み」をしていたという可能性があるでしょう。
 この「稲荷山古墳」から「磐井の墓」にいたる時期は、「五世紀末」から「六世紀前半」のことと考えられ、「倭国王権」の拡大期に当たると思われますが、今問題としている時期は「六世紀末」以前のことであり、時期的には連続していると思われます。
 そこで「中国の制度」を導入したらしいと思われるわけですが、その時点で「漢語」をそのまま「役職名」として使用するようになっていたという可能性は高いと思われ、それは「臣」を「シン」と発音したという可能性と重なっていると思われるわけです。


(この項の作成日 2011/08/24、最終更新 2016/11/10)(ホームページ記載記事に加筆)

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『隋書』に見える倭国の諸風俗について

2018年04月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』では『魏志倭人伝』と同様「氣候温暖、草木冬青」とあり、また「人庶多跣足」とありますから、冬でも滅多に雪が降らず、「裸足」でも歩けるような温暖な気候であるように書かれています。これも「近畿」というより「九州」の中部以南の方が明らかに似つかわしいと思われます。
 しかも「筑紫」つまり現在の福岡県付近は冬季かなり降雪が見られ、「草木冬青」というにはやや抵抗がありますから、これは「熊本」「宮崎」という九州島でも南半部を想定した方が合致していると思われます。
 
 また婚姻に関する風俗で「嫁に入るときはまず『火』を跨ぐ」という風習が書かれていますが、婚姻儀礼には、しばしば祓(はら)い清めの意義をもった呪術的儀礼が伴っていた事を物語るものです。
 現代は同じような風習はさすがに残っていませんが、古代でこの「嫁入りの時に火をまたぐ」という習俗が集中的に分布していた「関東地方」と「長野県」では、それに加えて左右に掲げられた松明の間を花嫁にくぐらせる形式の儀礼も行われていました。
 これは「文化のドーナッツ現象」とでも言うべきものであると思われ、「地方」である「関東」や「信州」地方に遺存している文化は本来「筑紫」の文化であったと思われ、それは「諏訪」と「宗像」の関係を考えると分かることでもあります。

 また、「筑紫」など同様「君」姓である「上毛野氏」の存在があります。彼等は後の「百済」への軍派遣の際にも関東から唯一の勢力として「将軍」として派遣されるなど、「王権」との距離がよほど近かったと思われ、「風俗・習慣」などにおいても共通のものがあったと考えられます。
 またこの風習は中国東北地区の満州族の間にもつい最近まで行われていたという研究もあり、「北方系」の習俗のようでもあります。このようなものは「新羅」を通じて伝わったものではないかと考えられ、「筑紫」を含め、これらの地域と「新羅」の関係を考えさせるものです。

 また「毎至正月一日、必射戲飲酒」とあり、「大射礼」が行われていたようです。これは一種の矢当てコンテストであり、後の「筑紫」宮殿以降の宮廷でも熱心に行われ、かなり賑やかな催しであったようです。
 これが行なわれた日付は「一日」とされていますが、後の宮廷行事としての「射礼」はおよそ「十七日」前後の日付が選ばれていたようであり「八世紀」以降は正式に「十七日」となったとされます。
 ちなみに『書紀』で「射礼」記事が出てくるのは「大化二年」記事が最初であり、以降「不連続」に現れます。この『隋書俀国伝』記事によればもっと早期から行なわれていたようにも見られ、「七世紀前半」の「空白」が理解しにくいところです。これについても『書紀』の記事には「移動」が考えられるものであり、本来の年次はもっと早かったのではないかと考えられます。
 この「射礼」は当初は「ゲーム」的感覚であったようですが、後には「軍事的緊張」が高まると、実戦的なものとなったと見られ「命中率」に応じて褒賞が出るなど、競争的雰囲気の中で行なわれるようになった模様です。

 また「節」の行事は「中国と同様」であるとされています。

「…其餘節略與華同。」

 つまり「三月三日」などの節句についても「隋」との交流以前から倭国には浸透していたものと思われ、倭国としてはごく普通の年中行事であったものと思われますが、上の「毎至正月一日、必射戲飲酒」という記事と合わせて、この時点で「倭国」では「俗」つまり「大衆」においても「暦」が使用されていたことが明確となります。暦がなければ「正歳四節」を知ることはできません。『倭人伝』ではその「正歳四節」がわからなかったとするわけですが、さすがに「六世紀」も後半には日常の行事として「節句」が浸透していたものであり、そのことは「倭の五王」の時代に「元嘉暦」が伝わり、倭国で使用されていたとする考察とも矛盾しないものです。ただしこの時の暦がどのようなものであったかは不明ですが、「倭の五王」以来の「元嘉暦」であったと考えるのが最も自然といえるでしょう。

 また「食事」の際の方法として「藉以柏葉、食用手餔之。」と書かれており、「柏」の葉っぱで食事をしていたことが書かれています。
 後に「有馬皇子の乱」事件の際に、捕らえられた有馬皇子が刑場に連行される途中詠んだという「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」という「辞世」の歌がありますが、この時代になると「笥」という食器に盛っていたようです。これは「遣隋使」などが持ち帰った知識を導入したものと思われます。しかし、宮廷で「食事」を担当する人の職掌を「膳部」と書いて「かしわで」と読むなど、名称としてはその後も遺存したことがわかります。
 
 また、「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」と書かれており、活発な半島との接触が書かれているようです。ただしこれは「倭国」からの使者の話の中に出てくるものと思われますから、全て事実と考えるのは早計であり、ある程度身びいきがあったと考える必要があるでしょう。
 また、ここには「高句麗」との関係が書かれておらず、関係が疎遠であった可能性を示唆しますが、それは「元興寺」の丈六仏を造る際に「高麗」から「黄金三百二十両」を調達したという『書紀』の記事と明らかに反するものです。これはその「大興王」が本当に「高麗王」なのかという点で疑問が惹起されることはすでに述べました。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/07/08)(ホームページ記載記事に加筆)

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