古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「太宰府」の組織

2018年04月29日 | 古代史

 『大宝令』の中で「筑紫太宰府」の組織が決められていますが、規模が他の地方組織とは全く異なっており、その定員は延べ五十名にも達するほどであり、「筑紫」以外の「地方」の国における役所の規模がせいぜい九名しか規定されてないのに比べ格段の差が見られます。
 その組織は独特なものであり、地方組織というよりも、ほぼ『大宝令』当時の「日本国王朝」の組織と重なるものです。たとえば「神祇官」と同様な位置を占めると考えられる「主神司」などがあります。このような地位は他の地方官衙にはまったく存在しません。しかもほとんどの上級官僚が正副二名体制になっているなどの点は中央八省にさえないものなのです。
 「八世紀」に入り「文武朝廷」以降の「日本国」政府が「中央集権体制」を構築し、それを強めていっていた中で、「地方組織」であるはずの「筑紫」にこのような「太宰府」の規模と体制が必要であったかどうかはかなり疑問であり、とすればこれらの組織は「新たに制定された」もの、というより、それ「以前」までの体制を「暫定的」に保存したもの、と考える方が正しいと思われます。

 では『大宝令』以前になぜこのような規模の役所が「筑紫」に必要だったのでしょう。「新羅」などの外国からの使節などの対応のため、と言う説明がされることもありますが、この時代「唐」との関係はほぼ途絶しており、(遣唐使も八世紀まで三十年間送られていないわけです)半島は「新羅」に統一されているため、煩雑な職務がそれにより発生していたわけでもないと考えられます。それよりも「軍事的」位置づけは重要であったと考えられ、それに関係する職種の人間がいるのは理解できます。「大宰」につけられた「官職名」と思われる「帥」も「率」も本来「軍事的責任者」という意味であり、「筑紫」がそういう意味で重要であったことは間違いないところですが、「主神司」のような「神職」の役目は少ないと考えられ、まして「組織の最高位」にランクされている、というのは理解しがたいものです。(ただし大宝令で定められた官位としては低い)
 「主神司」が行っていたであろう「神に仕える」仕事は、「祭政一致」という当時にあっては本来「国家」、「天子」に直接関わる仕事であり、「一地方組織」であるはずの「筑紫」の地にそのように官職が必要であるはずがありません。
 これは明らかに「筑紫」に「天子」がいたことの証明であるわけですが、この「主神司」については、後に「伊勢神宮」の齋官として存在が継続していることが注目されます。このことは「伊勢神宮」と「倭国九州王朝」に深い関係があることが示唆されるものですが、この「伊勢神宮」の元々の祭神が「宇迦之御魂神」であった可能性が指摘されていることから考えて、「筑紫」(「太宰府」)においても同様に「宇迦之御魂神」が祭神であったという可能性が考えられます。

 そもそも「廣瀬・龍田」という「宇迦之御魂神」を祭る神社に対し、倭国王権は「使者」を派遣して祭祀を行なっていたわけですから、国家としての祭祀の対象であったものであり、それは「筑紫」における状況を反映したものであったものではないでしょうか。
 その「伊勢神宮」の創立に関する事が「皇太神宮儀式帳」に書かれており、そこには「中臣香積連須氣」という人物の時に「大神宮司」と称するようになったとされ、実質的な創立者であると考えられますが、それが「中臣氏」であるのは示唆的です。そもそも「中臣氏」は古来より「神祇」に仕える職掌であったと思われ、「忌部氏」が神と交わした言葉を伝達する役目であったものです。それは「大宰府」においても同様であったと思われます。(「伊勢神宮」においても「主神司」は中臣や忌部で構成されているもののようです)

 近年の調査で「太宰府の条坊制」の起源は非常に早く、少なくとも「七世紀前半」と言われていますが、すでに見たように「筑紫都城」はその形式から考えて「六世紀代」には存在していたと考えられ、その時点から既に「条坊」があったと見られることとなったわけです。後の「藤原京」はその一応の完成が「六九五年」とされていますが、それが事実であれば一〇〇~二〇〇年程度は「太宰府」の方が先行することとなってしまいます。
 このように「条坊制」が早期に整えられている、という事は「外見」としての「都域」整備に伴って、組織・機構などの整備も同様に早期に造られたと考えるべき事を示します。「筑紫太宰府」記事が示すものはそのような「組織」の発達・進化というものではないでしょうか。少なくとも「太宰府」宮殿(政庁)は「七世紀後半」に再建(礎石作り瓦葺きとした)されたと考えられ、その際に以前の条坊と食い違う結果となったことが示されており、「条坊」の成立がそれに先行する時期であることは明確となっています。これらのことは、後の「日本国」の組織の「原型」はずっと以前(多分六世紀初めあたりか)に「筑紫太宰府」にあった、ということを示すものと推量します。
 このような組織は「八世紀」になり、「新・日本国」王朝が成立するまで、この列島には他には存在していなかったものです。「太宰」という存在が「七世紀初め」の時点で確実であったと見られること、『隋書』に「阿毎多利思北孤」の「太子」と書かれた「利歌彌多仏利」の行なった改革(「国県制」並びに六十六国分国を始めとした諸事業)に先行するものと考えられるという事は、「太宰」という存在が一人「太宰」だけがいたわけではないのは当然であり、必要な「組織」もそれ以前の時点で既に造られていたということを意味するものと考えられるわけです。

 ところで、その中心的位置にある「太宰」の「率」という職掌について考えると、確かに「太宰」そのものは南朝に由来する官職であり、また「南朝」と国交を通じて導入されたものと思われますが、「太宰率」となるとそれは「南朝」にはない官職でした。
 また後の『令義解』の中の「官位令」には官職が順次書かれていますが、そこでは「大宰帥」に対し「おほみこともちのかみ」と訓読されています。しかし「大宰率」となるとそもそも書かれておらず、「後代」には「率」という官職については消失してしまっていたものと思われます。
 しかし元々官職名などは「音」で発音することを前提に表記されていたと思われます。それは『書紀』が「漢語」として書かれていることや『大宝令』など律令も全て「漢文」で書かれていることに現われています。つまり国家の制度というものは「中国」に倣ったものであり、「官職」を「漢語」で発音するというのが当初の基本であったはずと思われるわけです。そう考えると、「訓」が与えられるようになるのは「後代」のことであり、その「訓」が与えられる段階では既に使用されなくなっていた「率」の発音について、「訓」はなく「音」しかなかったと考えるのが正しいと思われることとなります。その場合、その「音」とは「漢音」なのか「呉音」なのかというと、当然「呉音」であったと見るべきこととなるでしょう。「漢音」が流入し使用されるようになるのは「八世紀」以降であり、その時点では「率」は使用されなくなり「帥」に取って代わられているわけです。そのような歴史的経緯を考えても当初「呉音」として国内に流入したものと見ざるを得ないと思われることとなります。
 そもそも『書紀』における「率」の初出は『天智紀』です。

「(天智)七年(六六八年)…秋七月。高麗從越之路遣使進調。風浪高故不得歸。以栗前王拜『筑紫率』。」

 ここでは「筑紫率」と出てきますが、これは「筑紫太宰率」の縮約型であると思われ、このことから「率」は古典的な使用法であることとなり、「漢音」使用という状況が八世紀以降のものであることを考えると、この「率」が「呉音」であったと考えるのは当然ということとなるでしょう。つまり「筑紫太宰率」は「ちくしだざいの『そち』」と読まれていたものであることとなります。(「率」は「漢音」では「りつ」あるいは「そつ」であり、「そち」ではありません。)
 このように他の官職名と「(筑紫)太宰率」はその成立時期も事情も異なると考えられることとなります。そう考えれば、「率」という官職は「律令制」のはるか以前から存在していたものであり、それはもちろん「隋・唐」の影響ではなく(「隋・唐」にも「率」という官職はありませんから)それを遡る時期に導入されたこととなるでしょう。しかもそれを遡る時期の「南北朝期」にも「太宰」はあっても「太宰率」はなかったわけですから、さらにそれを遡上する必要があることとなります。
 以上のことは、「率」という官職名に関連があるものとして考えられるものが「魏晋朝」にまで遡ることを示すものであり、そこで思い起こされるのが「一大率」であり、「魏朝」から授与されたという「率善校尉」や「率善中郎将」という官職です。
 これらの「率」が「そち」と発音されるものであったと考えるのは「魏晋朝」の発音が現在の「日本呉音」に最も近いという研究成果から明らかであり、「卑弥呼」の段階で「率」という語が付く官職があり、しかもそれは「そち」と発音されていたということとなるでしょう。その「一大率」が「博多湾岸」にその本拠を持っていたと私見では考えたわけですが、それが「太宰率」につながり、「太宰府」につながるとすると、そのような推定に合理性があることとなります。
 もちろん「百済」などに「率」が付く官職(「達率」「恩率」など)が制度としてあったことも影響しているでしょう。この「百済」の制度も実際には「魏晋朝」に遡上する淵源を持っていたという可能性が考えられ、このような環境が「太宰率」という官職が生まれる背景としてあったものと思われます。
 さらに『養老令』でも「兵衛府」の長官は「率」と称するようであり、「衛士府」「衛門府」の長官が「督」とされているのと異なっています。これはその起源の時期の差であることが推定でき、「兵衛府」そのものが「筑紫率」と関連が深い組織であることを示しています。
 いずれにしても通常の見解では「倭国」の中心は「近畿」であり、「行政」の中心も「近畿」にあったと考えるわけですが、この「近畿」よりも「古く」かつ「しっかりした」組織が「筑紫」に造られていた、ということが明白となったわけです。これについては多くの関係者が率直に認める必要があるでしょう。

 また、『書紀』の記述(建前上)でも、『大宝律令』の中で「国司」制度が実施された後も「筑紫太宰府」だけが存続させられています。(太宰の帥が任命されているのです)上でみたように「主神司」なども存続されたものと見られ、「倭国」体制の基本がそのまま「太宰府」の組織として残ったと言うことが言えると思われます。(『養老令』に至って「筑紫」という呼称が外され単に「大宰府」となったもの)
 このように、以前からのシステムを保存しているとみられるわけですが、その理由としては「統治」を容易にするための工夫とも考えられます。これについては敗戦日本において天皇制が保存された事を連想させます。
 また可能性としては「九州」の王朝と「並立」していた時期があったからということも考えられるでしょう。つまり『大宝令』が出された時点ではまだ「筑紫」に「旧王権」の勢力がかなり保存されており、独自に活動していたというケースです。それであれば『大宝令』には新王権側からの「九州統治」の具体的組織がまだ構築できていなかったこととなり、旧勢力の組織をそのまま生かしていたということになります。

 なお『書紀』では「大宰府」と「大」の字を使っていますが、南朝の制度に実際にあったものは「太宰府」であり、現地(福岡)では「南朝」と同様に「正統」に「太」字を使用して表記していることが注目されます。ただし、各種史料では「大」と「太」は共通しており、『大宝令』も「太宝令」と書かれた例もあるなどやや混乱していたようです。ただし官印には「大宝」と書かれていることから考えると、「新王権」の意識としては「南朝」否定の傾向はこの時点から既にあったとみられます。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2016/12/25)(ホームページ記載記事を転記)

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「太宰府」建築の歴史

2018年04月29日 | 古代史

 昭和四十三年以来行われている「太宰府政庁」の発掘調査の結果から次のことがいえるようです。
 発掘したところ、現在地上に見える礎石の下約60cmに同じような配置の礎石が確認され、さらにその下層に「掘立柱建物」の柱穴があることが明らかになりました。「通説」では、この「掘立柱建物」は「六六三(二)年」の「白村江の戦い」後の建造であり、その上層の礎石建物は『大宝令』施行の「七〇二年」頃に建造されたものであるという事になっています。そしてこの建物は「九四一年」に起きた「藤原純友」の乱により焼失し、現在地上に見えている礎石は、その後再建された建物のものである、というのが「通説」でした。
 しかし「大野城」・「基肄城」は「礎石建物」なのです。「六六三(二)年」の「白村江の戦い」後にこれらの建物が「太宰府政庁」と同時期に建てられたとすると、一方が(政庁建物が)「掘立柱建築」、一方(城)が「礎石建物」というように、建築形式が「矛盾」することになります。
 「出雲国府」跡の遺跡からは「礎石建物」の下層に「掘立柱」の柱根が残っていた例もあり、時代的な前後関係を示していますが、「太宰府政庁」においても両者には明らかに建造時期に相当のずれがあると考えるべきでしょう。
 また、後世になり城などの建築において本丸などの重要な施設については「礎石建物」、それ以外の建物については「掘立柱建築」と建築手法を区別している例が多数あり、それらにならえば「政庁建物」の重要性の方が低いことになる矛盾もあります。 
 
 ところで、近年の調査により、太宰府政庁遺跡が周辺の「条坊」遺跡と微妙に方向が食い違っていることが判明しています。(※)「政庁」の方に使用されている「基準尺」と、「条坊」に使用されている「基準尺」及び都城設計の「基準点」が異なっているのです。
 このことは、現在確認できる「政庁遺跡」は「後から」条坊制の中に組み込まれたものであることを示すものと思われ、その段階で「最新」の知識と技術を導入した結果、以前の条坊制とは食い違ってしまったことを示していると考えられています。
 いわゆる「大宰府政庁(第Ⅰ期)」(筑紫都城)は「七世紀」の始めに整備されたと考えられていますが、その時点以前にも「宮域」が存在していたものと思われ、それは「都城」の「北端」にはなく、中央部付近にあったものと考えられています。
 『隋書たい国伝』(開皇二十年記事)には「無城郭」とされていますが、ここで言う「城郭」とは「城」とその周囲を廻る「塀」のようなものを指し、これは当時の「隋」の都である「洛陽」やその後新しく造られた「大興城」(その後の長安城)には明確に長大なものが存在しており、それと比較した結果の記述と思われます。(前述したように「南朝」の都城には明確な「郭」がなかったようですから、これに類似していたという可能性があります。)
 この時点では「城」やそれを廻る「郭」はなかったとされますが、「条坊」を伴う都市がなかったとは即断できません。「倭国」の都が存在していたのは当然であり、それが「城郭」という姿を成していなかったという意味であると思われ、この時点では単に条坊があり、またその中心に宮殿があったものと見られます。このような形態では「城郭」という表現が使えないのは当然でしょう。
 その後「倭国」においても「隋」から新しい「宮域」のあり方についての知識を得たものと思われ、それによって「宮域」を「条坊」の北端へ移動することとなったとみられるわけですが、その際「隋制」により「度量衡」と「歩-里」という体系についても見直しが行われた可能性があります。これらを反映したものにより再設計が行われたものと見られ、その結果それ以前の条坊と「食い違い」が出たものと思料されるわけです。
 
 中国において「都城」設計やコンセプトといえるものは「都城」の理想型を記したとされる『周礼考工記』によっていたと考えられますが、実際には「周礼」がそのまま現実のものとなったのは数多くはなかったと思われ、『周礼工考記』の思想がかなり忠実に現実化されたのは「北魏」の「洛陽城」に至ってからのことであったと思われます。しかしこの「洛陽城」はその後「争乱」の中で廃絶してしまい、それは「隋初」でも同様であったものです。そのため「北周」から禅譲された「隋」の高祖は当初「北周」の首都であった「旧長安城」をそのまま首都としていましたが、彼は「受命」を意識したらしく「遷都」を決行し、その新都を「大興城」と名付けたものです。しかし、これは「隋代」には結局完成することはありませんでした。(その後「唐代」になり「新・長安城」として完成します)
 「隋初」に「遣隋使」が訪れた時点では「旧・長安城」に「皇帝」(文帝)は所在していたと思われ、「遣隋使」はその「旧・長安城」についての知識を持ち帰ったのではないかと考えられます。その結果「倭国」においても(それまでの「無城郭」という状態から脱皮して)、「都城」が造られることとなり、その際その「都城」の「北辺」に(「旧・長安城」同様)「宮」が造られることとなったものと思われます。
 また、この事から現在の「政庁遺跡」の場所以外に「政庁」的建築物(宮殿)が建築されていたこととなりますが、候補として挙がっているのは「通古賀地区」であり、「扇屋敷」という字地名が残る場所です。
 
 また、「改新の詔」の中には「畿内」(四至)に関する規定が書かれており、これはこの時「都城」と同様「周礼」に則り「畿内」が設定されたことを示唆するものです。
 その場合「周礼」にあるとおり「方千里」を「帝都」として「直轄地」とするものであったと思われますが、この「里」が「短里」であったと見られることからその範囲は「約80㎞四方」となり、これは「都城」である「太宰府」を中心に現在の地図に落とすと、ちょうど「筑紫」全体をほぼカバーするものであったと思われ、想定が合理的であることを窺わせます。
 この段階で自らを「天子」と称した「倭国王」はこの範囲を「直轄地」とし、その周辺に「斥候」や「防人」を配するような体制を築いたものと思料されます。

 その後「難波」に宮殿が建てられますが(「前期難波宮」)、その「難波宮殿」は「掘立柱」に「板葺き」という旧来の形式を採用しています。但し「難波都城」の「北辺」に位置していると考えられ、これは「北朝形式」ですから、「大宰府」(筑紫都城)と同じように「隋」の都城形式を学んだものと思料されます。
 つまり、この「難波宮殿」の整備に前後して(ほぼ同時か)「筑紫」においても「都城整備」が始まり、その中で「中心域」に存在していた「宮殿」を(「難波宮殿」と同様)、都城の「北辺」に移動する事業を断行したものと推察されます。
 この「整備」は「王城」域の拡大を目指したものであり、当初の広さの「四倍」に拡大したものと考えられます。また、その中で「北辺」に「宮殿」を「移築」したものですが、これが「難波宮殿」建設とほぼ同時であったことから、その建築方式についても同様に「掘立柱」に「板葺き」という構造であったものと思料します。
 また「方位」についても「難波宮殿」と同様「正方位」に変更されたものであり、そして、この時点で、「大野城」などが「周辺防備施設」として建てられたものと考えられます。
 「大宰府政庁Ⅱ期」とされる「政庁中門」の中軸線を延長すると「基肄城」の「東北門」が位置しており、この門が「測量」の際に利用された可能性が強く、「基肄城」と同時の築造と考えられる「大野城」から出土した「木材」の年輪年代が、「六四八年」であったことから、「基肄城」と「大宰府政庁Ⅱ期」の築造の時期もその至近の年次が想定されるものです。難波宮殿下層から発見された木簡に「戊申」という年次が書かれており、それが「六四八年」を意味しているのも「示唆的」です。
 つまり「難波宮殿」と「太宰府政庁Ⅱ期」がほぼ同時の建設であったと考えられるわけであり、それは「倭国」の首都と副都が同時期に同内容で整備された事を示すものですが、規模として「難波宮」が大きいのは「近隣」の「近畿王権」に対する「威圧」という意味があったのではないでしょうか。それは「近畿王権」を警戒していたことの裏返しであったと思われ、「大坂山」と「龍田」に「関」を設けたという中にそれが現れているといえるでしょう。


(※)井上信正「太宰府条坊区画の成立」考古学ジャーナルNo.588 平成21年7月号


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/03/21)(ホームページ記載記事を転記)

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「評制」と「都督」の関係

2018年04月29日 | 古代史

 「九州倭国王権」は「六世紀末」という時期に「近畿」へ勢力を進出させ、「難波」に拠点として仮宮を設けたと思われますが、その際に「評制」を全面的に施行し、「評督」や「助督」(あるいは評造)という「制度」(職掌)を定めたと見られます。そしてこれらの「制度」の「トップ」と言うべき存在は「都督」であったと思料されます。
 『書紀』の『天智紀』には「熊津都督府」から「筑紫都督府」への人員送還記事があります。

「百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」「(天智)六年(六六七年)十一月丁巳朔乙丑条」

 これによれば「六六七年」という段階で「都督府」が存在していることとなりますから、(当然)「筑紫」には「都督」がいたことと考えざるを得ません。そして、この「都督」が「評督」と深く関係している制度であると言うことはすでに「古田氏」の研究により明らかになっていますが(「大化の改新と九州王朝」「市民の古代・古田武彦とともに第6集」1984年「市民の古代」編集委員会)、「都督」は文字通り「首都」防衛の最高責任者であり、「畿内」を制定し、「評制」を施行し「防人」を徴発する体制を確立した時点で、その「軍事的」防衛線の最高責任者として、「阿毎多利思北孤」段階で施行・任命されたものと考えられます。
 そもそも南朝の制度では天子の下に「太宰」がおり、天子に次ぐ権力を有し、さらにこの下に「都督」がいました。つまり、都督は天子の臣下中ナンバー2の存在なのです。倭国でも、政治的な責任者である「太宰」と軍事的責任者である「都督」は本来は別の人間が当てられていたものと思われ、倭国では「太宰」の役には「皇子」が任命されており、「摂政」として政務をみていたとみられます。
 つまり「阿毎多利思北孤」段階では「太宰」-「国宰」という「行政システム」と同時に、「都督」-「評督」という組織が重なるように出来たわけであり、これは「太宰」-「国宰」ラインがより「政治的」なシステムであったのに対して、「都督」-「評督」ラインは「軍事的」なシステムであった事が大きく相違していると考えられます。

 「難波副都」を制定し「難波宮殿」などが造られるという時点である「七世紀前半」は、「隋」が滅び「唐」が建てられた時期であり、また「隋」を滅ぼした「高句麗」の影響により「新羅」「百済」が対外戦闘能力を強化させるなどの策を講じていた時期でもあります。そのような時期に「最前線」とも言うべき場所にある「首都」「筑紫」に対する「防衛線」の構築という重要な事業が為され、その中で「都督」が任命され、「都督府」が設置されたと考えるのは大変「自然」であり「妥当」であると考えられるものです。
 そして、その「都督」の「配下」と考えられる「評督」という官職名にも、軍事的要素が含まれていたものであり、「評」が意味する地域の権力者と言うだけではなく、その地域の「軍事的」あるいは「警察・検察機構」としての指導力(治安維持能力)を持った人間を指すと思われます。それは「都督」という用語が「総大将」とか(特に)「首都の軍事的責任者」という意味合いがあるように、「評督」にはその地域の軍事的責任者(将軍)という意味合いが持たせられているのではないかと思われます。後に『大宝令』でも、兵衛府・衛門府等の長官職のことを「督」と呼ぶのはそのような職掌の名残ではないでしょうか。

 「六世紀末」の倭国中枢部は「富国強兵」策を取ろうとしていたと見られ、「軍事・警察」面強化という部分に着目し、「評」という制度を「天下」(国内)に全面的に適用し大規模に「徴兵」を開始したことと推量されるものです。
 このことは「国家体制」の頂点では「太宰」と「都督」、末端側では「国宰」と「評督」が並立・併用されていたことを意味していると考えられますが、この時代は「阿毎多利思北孤」と「弟王」という兄弟統治をしていたと見られますから、不自然ではありません。
「国宰」の管掌する範囲のなかには複数の「評督」がいたと考えられますが、「国宰」には軍事に関する権能がなかったと思われ、「評督」を管掌しているのは「総領」がいる地域では「総領」が、いない地域では「都督」直接が管掌していたものと見られ、「国宰-大宰」とは別の指揮命令系統があったものと考えられます。
 その分担の中身としては、「阿毎多利思北孤」が「評制」施行に主体的役割を演じ、「東国巡行」をして「難波」に仮宮を築き、「評制」施行を実行したものと考えられます。しかし、その後彼は「宗教的権威」に身を転じ、「政治」の世界から遠ざかったと見られ、「軍事的システム」である「評」制の頂点にいたのは「弟王」(それに擬される人物)であったと考えられます。

 その後『三国史記』や『旧唐書』『新唐書』などによると、「六七四年二月」という時点の事として「唐」の高宗が「新羅」の「文武王」の官位を剥奪し、「唐」と「新羅」は「戦闘状態」に入ったとされます。また『書紀』によればその直後の翌「六七五年」に「新羅」の王子「忠元」が来倭しています。
 この「来倭」記事が特異なのは「王子」がまだ「筑紫」滞在中と思われる翌月(三月)に、筑紫太宰「栗隈王」を「兵政官長」(軍事部門の最高責任者)にし、「大伴連御行」をその次官である「大輔」に任命したことであり、さらに彼等「新羅」からの使節がまだ滞在中に「新羅」に向けてこちらから使者を送っていることです。このような急な動きが「軍事」に関することらしいことは容易に推測できるものであり、ここに「兵政官長」が任命された理由もあると思われるわけですが、この「兵政官長」は実際には「都督」ではなかったかと考えられます。
 この時代はまだ「評制」の時代であるわけですから、「都督」も存続していたと考えられます。この「兵政官長」というのは「大系」の「頭注」でも「兵政官は後の兵部省(軍事部門)に相当する官司)」とありますから、「兵政官長」というのはその「長」というわけですので、まさに「都督」とその職務内容が一致するものであり、ここでは「太宰」と「都督」が兼任されているものと推察されます。(この「兵政官長」という表記は「都督」という名称を書かずに済まそうとした、「八世紀」「書紀編纂者」の「偽装」であると考えられるものです)
 つまり、「筑紫太宰」という行政府の長たる職掌にある「栗隈王」に対し、軍事面においての「長」である「都督」も兼務するという人事が行われたと見られるわけです。このような兼務は『二中歴』の「都督歴」によれば「蘇我日向」以来のようですが、実際には「太宰」はその後は「親王任国」の対象であったものであり、親王(つまり「天皇」の後継資格を持った人物)が任命されていたと思われるわけです。
 記録によれば「弘仁年間」の「多治比今麿」が「臣下」における「大宰帥」記事の最後であり、以降「大宰権帥」が「大宰府」の最高権力者となります。

「弘仁十一年条 参議 従四位下 多治比今麿 六十八 正月七日従四上。同月日正四下。十二月五日従三位。任大宰帥。」(公卿補任)

 これについては「大宰帥」が「親王任官」となっており、しかも実際には「大宰帥」職に赴任しないで任官するシステムとなっていたため現地にいる「大弐」(大貳)ないしは「権帥」が実質的に№1となり「都督」と認識されていたもののようです。
 この「親王任国(但し「不任)」は「延暦年間」以降始まったようですが、この「親王任官(国)」というシステム自体が旧倭国の状況を反映しているという考え方もできそうです。というのは「上野」「常陸」「上総」という三国については「令」による「親王任国」の対象国とされていますが、それとは別に「太宰府」の長官、つまり「大宰帥(率)」は「慣習的に」(つまり法令による根拠を持たないにもかかわらず)「親王任国」の制度があったものなのです。このような「慣習」がそれ以前にあった何らかの制度の反映あるいはその「記憶」にその原型があり、その後も「制度」によらないにも関わらず維持・継続されることとなったことからも、その原型の持つ「潜在的なパワー」が大きかったことが推定されます。その意味で本来「王権」に直接関係する人物が「筑紫」に「大宰」として存在し、彼を「武力」の面で補佐する役目として「都督」がいたことが推定されるものであり、「大宰大弐」や「権帥」という存在が「都督」とされているのは元々そのような組織が「倭国」にあった過去を反映しているともいえるでしょう。

 『書紀』には「大宰」はかなり出てきますが、「都督」は上記の「都督府」という形でしか出てきませんしそれもただ一度だけです。「都督」は「首都防衛軍」の長であるわけですから、「倭国九州王朝」の直属の人間で構成されていたと考えられ、そのことにより「都督」関係記事については「詳細」な描写や記事は「御法度」となったものではないでしょうか。
 このことから、『書紀』(つまり「八世紀」の新日本国王権関係者)が本当に隠したかったのは「都督」であり「都督府」であったと思われます。逆に言うと「大宰」は隠蔽の程度が薄いと考えられ、そのことは「阿毎多利思北孤」の「弟王」(難波王)以降については「近畿王権」との関係が深かったという可能性が考えられるところです。

 
(この項の作成日 2011/01/13、最終更新 2015/07/06)(ホームページ記載記事に加筆修正)

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