古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「薩夜麻」の帰国と「大海人」の動向(一)

2024年11月24日 | 古代史
 『書紀』によれば「六七一年」になって「捕囚」の身となっていた「薩夜麻」が帰国します。すでに述べたように「薩夜麻」は「筑紫日本国王朝」の「王」であり、「筑紫君」である彼の直接統治領域に軍を徴発して「高麗」に救援軍を率いて遠征していたものであり、その戦いの中で捕われていたものです。彼がそのような「権威」と「力」を身に着けていたとすると、彼の帰国は政治的、軍事的変動を列島内にもたらしたことは疑えません。特に「天智」率いる「難波日本国朝廷」にとって「激震」をもたらしたのは間違いないと思われます。
 『書紀』では「天智十年十一月」に「薩夜麻帰国」の記事があります。

天智十年(六七〇年)十一月甲午朔癸卯。對馬國司遣使於筑紫太宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩夜麻。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。

(この時派遣された「唐使」以下の「六百人」は「唐人」であり、「送使沙宅孫登」以下の「一千四百人」は「百済人」と考えられ、いずれも「熊津都督府」から差し向けられた人員と考えられます。またこれらの人員はほぼ全員「戦闘員」と考えられ、「平和目的」とばかりは言えないと考えられるものです。)
 この「薩夜麻」の帰国に関して「近江朝廷」からは何のコメントも出ていません。後に「六九〇年」になり帰国した「大伴部博麻」やほかにやはり「唐」で捕囚生活を送っていた人物など、「百済を救う役」で「捕虜」となった人物達の帰国に際しては「顕彰」する「詔」と共に「多大な褒賞」が与えられています。その先駆けとも言うべき「捕囚」からの帰国という事案に対し、当時の「天智」達は『書紀』の上ではこれを「無視」したこととなっています。しかしそのようなことがありうるでしょうか。
 彼という存在の重要性に鑑みると、帰国した「薩夜麻」にも「褒賞」なりが与えられたり、その長期の「捕囚生活」をねぎらう「詔」が発せられて当然と思われ、明らかに『書紀』はこれらの記事を「隠蔽」し、「なかったことと」しています。それはそもそも「薩夜麻」達の出発に関する記事が全くないことと軌を一にするものです。
 また「大伴部博麻」が「顕彰」された最大の理由は「薩夜麻」等に対する「献身」であったと思われる訳ですが、その対象が「ただの人」などではなかったことが重要であったわけであり、その「献身」の対象が「至高の存在」であったことが「博麻」を高く顕彰することとなった最大の理由であったと思われる訳です。つまり「持統」の判断としては「博麻」が「献身」した事により「薩夜麻」の意図が当時「筑紫」を制圧していた「難波日本国王権」に届いたというわけであり、そのことにより「日本国」が維持できたこととなったというわけではなかったでしょうか。このとき「熊津」を占領していた「劉仁願」などの勢力による「陰謀」とも言うべき計画があったとみられ、そのような国家危急に際し「身体」を張って貢献したことが「希有」な事であるとして特に「詔」を出し、またそれを『書紀』に特記する(させる)こととなった理由であると思われる訳です。
 『書紀』には何も記載されていない(というより「天智」は死去したこととなっているが)わけですが、実際にはこの時「天智天皇」はまだ生存中で「筑紫」に「薩夜麻」を歓迎するために「本人」が直接「筑紫」へ向かったのではないかと思われます。少なくとも彼の帰国を無視して、何の意思表示もせず「近江」に居続ける事はできなかったでしょう。そしてそれは「天智」にとって厳しい現実となるであろう事が予想できたものと推量されます。それを示すと思われるのが、「帰国記事」の「直後」の記事である、『書紀』の十一月「丙辰」(二十三日)と思われる条の記事です。

天智十年(六七〇年)十一月丙辰。大友皇子在内裏西殿織佛像前。左大臣蘇我赤兄臣。右大臣中臣金連。蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣侍焉。大友皇子手執香鑪先起誓盟曰。六人同心奉天皇詔。若有違者。必被天罸。云々。於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起。泣血誓盟曰。臣等五人。隨於殿下奉天皇詔。若有違者。四天王打。天神地祇亦復誅罸。卅三天證知此事。子孫當絶。家門必亡。云々

 ここでは、「大友皇子」が「右大臣」「左大臣」など重要閣僚を集め、「泣血誓盟曰」をしていますが、そこには「天智」が存在していません。
 また、ここで彼らが行った、「天智」の「詔」を互いに奉じる事を確認するために行った「誓いの儀式」は、はなはだ「異例」であり、これは「手に香廬を持って」、と表現されているように「仏教儀式」として厳格さを要求されるものであり、裏切りや寝返りをきつく戒める意図であったものと思われ、天智と「難波日本国」に対する忠誠を誓約させるものであったものと思われるのです。このことは「天智」が実際に死去したか、すでに死を覚悟して「近江」を離れたかどちらかの状況であったと考えられ、「大友皇子」に何らかの「遺詔」を残していったものと推察されます。
 『書紀』によれば「薩夜麻」は「壬申の乱」の前に帰国しています。しかし、以降の消息は『書紀』には書かれていませんが、特に「死去」したというような情報がないところを見ると、「壬申の乱」当時存命していたと考えるのが妥当と思われます。特に彼に対して「敗戦」の責任を問うて「死」を賜ったと書かれているわけでもありません。「流罪」になったというわけでもありません。ということは「筑紫の君」として「復帰した」と考えるのが妥当なのではないでしょうか。
 ところで、「壬申の乱」では「大海人」は「吉野」に「隠棲」したとされています。しかし、この「吉野」が「奈良」の「吉野」ではなく、「佐賀」の「吉野ヶ里」であるとする論を以前古田史学の会に投稿したわけですが(吉野が「えしの」と呼ばれている点を捉えての論)、「吉野ヶ里」は(現在は「佐賀」ですが)当時「筑後」にあったわけであり、「筑後」は「筑紫君」の統治下の領域であるわけですから、すくなくとも「薩夜麻」の「了解」や「支援」なしに「大海人」が立て籠もったり、軍備を整えたりするというようなことは「不可能」であると思われます。
 しかし、『書紀』の「薩夜麻帰国」という記事の直後が「大海人吉野入り」なのですから、この記事配列には「意味」があると考えられるものです。つまり、帰国してまもなく「薩夜麻」は「列島」の情勢を把握し、軍事的圧力を「難波日本国朝廷」(この場合は「近江朝廷」となる)にかける必要があることを理解したために、吉野に入ってその準備を整える行動に出たものと考えられ、記事の意図するところはそういうことであると考えられるものです。(つまり「大海人」と「薩夜麻」が同時に記事の中で存在しないように配列されているのです)
 また、「壬申の乱」の際に「栗隈王」及び「子息」とされる「三野王」「武家王」が「近江朝廷」からの参戦指令に従わなかったとされています。
 以下『書紀』の「壬申の乱」の記事より抜粋

「(佐伯連)男至筑紫。時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還之。」

 このことはある意味「当然」であると考えられます。「太宰率」であったとされ、また「太宰府」に所在していたとされる彼らは「筑紫君」と深い関係にあったと考えられるからです。本来「筑紫君」の統治領域は「太宰府」の存在を包括していると考えざるを得ません。しかしこの時点では「難波日本国」が筑紫を含め列島全体を支配していたとみられますから、「太宰」も「難波日本国」の指揮下にあったとみられます。
 上に見るように「壬申の乱」時に「近江朝」から「参戦指示」が出された際にこれを「栗隈王」が拒否する訳ですが、この時のシーンから考えて彼は「赴任」しているというわけではなく、「地場」の勢力としてこの「筑紫」に存在していたと考えられ、彼の「本拠地」ともいうべき場所は「筑紫」であったと考えられるものです。
 「近江朝」(大友)は彼について指示に従わない可能性を感じていたわけですが、「筑紫」の地場勢力と思われる彼らと「薩夜麻」の間には当然深い関係があったものであり、「薩夜麻」が「捕虜」となる以前には「栗隈王」は「薩夜麻」を「天子」と仰ぐ立場にいたと思われ、いかに「補囚」からの帰国であったとしても「大義名分」の重さはいささかも変わることがなかったと考えられ、「近江」側に援軍するということはあり得なかったものであり、それを「近江朝」では危惧し、また予想していたものと思料します。その彼と「以前から」友好的であったという『書紀』の記述からみても「大海人」は「筑紫」に勢力を張っていたという可能性が強いといえるでしょう。
 さらに、「大海人」が「筑紫」に関係が深かったと考えられるのは「天武」の葬儀において「壬生」として「誄」を奏しているのが「大海氏」であり、彼は「阿曇氏」と同族であったとみられる事からもいえます。

「(朱鳥)元年(六八六年)…九月甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。…」

 彼を含む「大海(凡海)氏」は『新撰姓氏録』(右京神別下など)では「阿曇(安曇)氏」と同祖とされており、その「阿曇氏」の本貫が「筑紫」にあったことはその祖先神が「海神」とされ、また「綿津見」とされていることなどから見ても「大海人皇子」自体も「筑紫」に深い関係を持っていたと見て当然でしょう。

 以下『新撰姓氏録』より
477 右京 神別 地祇 安曇宿祢   海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
479 右京 神別 地祇 凡海連   同神男穂高見命之後也
610 摂津国 神別 地祇 凡海連 安曇宿祢同祖 綿積命六世孫小栲梨命之後也

 また「天武」の即位の際の「妃」とその子供達の列挙記事においても彼の出身についてのヒントが窺えます。

「(六七三年)(天武)二年…二月丁巳朔癸未。廿七天皇命有司。設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮。立正妃爲皇后。々生草壁皇子尊。先納皇后姉大田皇女爲妃生大來皇女與大津皇子。次妃大江皇女。生長皇子與弓削皇子。次妃新田部皇女。生舎人皇子。又夫人藤原大臣女氷上娘。生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘。生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大甦娘。生一男。二女。其一曰穗積皇子。其二曰紀皇女。其三曰田形皇女。天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女。次納胸形君徳善女尼子娘。生高市皇子命。次完人臣大麻呂女擬媛娘。生二男。二女。其一曰忍壁皇子。其二曰磯城皇子。其三曰泊瀬部皇女。其四曰託基皇女。」

 ここに出てくる「天武」の「妃」達についての記事から、彼の出身地、あるいは勢力範囲などについておおよそ推定出来るといえます。
 まず後半に書かれている「初めに娶る」とされるのが「即位」以前の婚姻関係であり、「鏡王」の「女」(娘)「額田姫王」を娶ったのが最初とされますが、これは本拠がどこかやや不明ですが彼女との間には「女子(十市皇女)」しかおらず、ついで娶ったのは「筑紫」に拠点があった「胸形君徳善」の「女」である「尼子娘」であり、「高市皇子」が儲けられています。さらに「完人臣大麻呂」の「女」である「擬媛娘」との間に「忍壁皇子」「磯城皇子」と男子がいますが、この「完人臣」とは「獣肉」を調理する立場の「完人部」(宍人部)の長と思われ、当時「猪」などの肉は王権に輸送された後に解体し調理されるものであり、彼はそのような職掌の長たる立場と理解できます。
 「磐井」の墓と称される「岩戸山古墳」にあったとされる「別区」には「猪窃盗犯」に対する裁判風景が描写されているなど(『風土記』による)、「屯倉」から運ばれる「猪」の送り先は「磐井」という「筑紫」の王権であったと思われ、「完人部」(宍人部)は送られてきた猪を解体するのが職掌とすれば、どの地域にでも存在していたというわけではなく、「磐井」のごく近くにしかいなかったこととなります。
 これらのことから彼(大海人)が「即位」以前に「筑紫」と深い関係があったことはは確実と言えます。そうであれば「天武」つまり「大海人」が「筑紫君」とされる「薩夜麻」と深い関係があって当然ともいえる事となります。
 同じ事は「百済を救う役」の「倭国軍」の出発地はどこか、という分析にも言えます。「九州北部」に基地があったという可能性が非常に高いと思われますが、「玄界灘」に面して多量の船が集結したと考えるより、背後の「筑後」に基地があったと考える方が軍事的な常識に沿っているのではないでしょうか。であれば、この基地もまた「筑紫君」の統治下にあったと考えられるものであり、このことから倭国軍を指揮していた「指導者」は「筑紫君」であったと推察されるものです。
 そもそも「大海人」は「百済を救う役」でも、それ以前も全く姿を現しません。「大皇弟」という表記で最初に現れるのが「六六四年」のことであり、「薩夜麻」が「書紀中」で確かに「捕虜」となっているのが確実な「天智四年」より前には姿がないのです。(「大伴部博麻」を顕彰する「持統」の詔の中に「天智四年」という表記で「薩夜麻」が「捕虜」となっているという記事がある)そして彼が帰ってくるタイミングで吉野へ姿を消すのですから、『書紀』は慎重に「大海人」の出現タイミングについて「薩夜麻」とかぶらないようにしていると思われるのです。
コメント    この記事についてブログを書く
« 「日本」は「やまと」になっ... | トップ | 『書紀』で「倭」について「... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

古代史」カテゴリの最新記事