古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊吉博徳」の遣唐使と日本国の関係

2024年11月21日 | 古代史
 『斉明紀』に見られる「伊吉博徳」が参加した遣唐使は「六五九年の七月」に「難波」を出発し「九月」の終わりには「餘姚縣(会稽郡)」に到着しています。そこから首都「長安」に向かったものの、「皇帝」(高宗)が「洛陽」に行幸していたため、その後を追い彼等も「洛陽」に向かい「十月二十九日」に到着し、「翌三十日」に皇帝に謁見しています。(これらの日付は既に指摘したように一日の錯誤があります)
(以下関係部分の『伊吉博徳書』の抜粋)

「秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。
潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到東京。天子在東京。卅日。天子相見問訊之。日本國天皇平安以不。使人謹答。天地合徳自得平安。天子問曰。執事卿等好在以不。使人謹答。天皇憐重亦得好在。天子問曰。國内平不。使人謹答。治稱天地。萬民無事。天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。使人遠來辛苦。退在館裏。後更相見。十一月一日。朝有冬至之會。々日亦覲。所朝諸蕃之中。倭客最勝。後由出火之亂。棄而不復検。…」

 この記録によると、皇帝に謁見した翌日の「十一月一日」に「冬至之會」が行なわれたとあり、「諸蕃」と共に参加しているようです。通常の「冬至之會」にも「柵封国」は列席し、「正朔」つまり「暦」の頒布を受けるとされていたようですが、この時は「甲子朔旦冬至」という十九年に一度のイベントですから「柵封国」以外にも招請の声がかかったと見るのが相当と思われ、(唐側から見ての認識として)「倭国」及び「日本国」もその例外ではなかったものと思われます。(但し、「冬至之會」の実施を含め「中国側」の資料には何も書かれておらず、その意味では裏付ける史料はないわけですが、逆にそのためにこの『伊吉博徳書』に書かれた内容は重要な史料といえるでしょう。)
 上の「伊吉博徳」等の行程を見ても「十一月一日」には到着していなければならないというある種の逼迫性が感じられ、これは「十一月一日」までという「期限」が切られていた可能性を考えさせるものです。そう考えると、この時の「遣唐使」は「通常の」「遣唐使」ではなく「祝賀使」でもあったと推定されることとなります。それに「蝦夷」を引き連れていったのも、一種の「生口」のつもりであったかも知れません。
 このような「祝賀」の際には「珍奇」な「物品」や「動植物」を持参し貢上するのが習わしであったようですから、この場合も「蝦夷」の人を「珍獣」扱いしていたのかも知れません。(但し「唐」の方では彼らを「蝦夷国」の使者というまっとうな捉え方をしていたようですが)
 この時の「蝦夷」については『伊吉博徳書』の中で「…今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。…」とされており、ここで「本國之朝」という言い方がされていますが、これはつまり「本朝」ということであって、「持統天皇」の「大伴部博麻」への「詔」の中では「筑紫朝廷」を指す用語として使用されていると考えます。

「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」
  
 この「大伴部博麻」に対する「詔」では、「大伴部博麻」らは「唐人」の「計」を「奏聞」しようとしたものであり、そのために「大伴部博麻」が自分の身を売って「衣糧(食料と衣料)」を作ったとされています。ここで彼らが伝えようとしていた「唐人所計」というものが何を意味するかは不明ですが、目的は達したものと推察され、そのことは文中で「富杼等は博麻の計るところに依り「天朝」に通(と)どくを得たり。」と書かれている事でも解ります。
 ところで、ここで「博麻」の言葉として「本朝」と言い、「持統」の言葉として「天朝」と言っている事については以前考察した論を古田史学会報に掲載させていただきましたが、結論として「本朝」とは「筑紫朝廷」を指すとしました。
 「博麻」は「我欲共汝還向本朝」という言い方をしていますから、彼は、彼にとっての「我が国の朝廷」がある場所へ「還向」したいと言っていることとなります。
 「博麻」はそもそも「筑後」の「軍丁」であり、「筑紫」の人間でした。彼が「還り向う」と欲しているなら、その場所は「筑紫」以外には考えられず、そこには「我が国の朝廷」がある、という事とならざるを得ません。
 また彼は、同じく捕囚の身となっていた目前の「筑紫の君」である「薩夜麻」の部下であり、「本朝」とは彼の「口」から出た言葉なのですから、ここでいう「我が国の朝廷」とは「我が君」である「薩夜麻」が統治していた「筑紫朝廷」を指すものと考えるべきでしょう。
 また、「博麻」は「本朝」に「汝共」に「還向」と言っていますから、この「筑紫朝廷」が、彼にとってと言うよりそこにいる「富杼」達全員が「属している」「朝廷」であったものと考えられるものです。
 そして、「持統」はその「本朝」である「筑紫」へ還った(と考えられる)「富杼」達について「天朝」という表現をしているわけです。
 これらのことから「本朝」とは「筑紫朝廷」を指すと判断できるわけですが、他方この時の「蝦夷」達は「難波朝」に「入貢」していたと思われ、「難波朝」も「本朝」と呼称される「朝廷」であったこととなります。
 そもそも「蝦夷」は「難波」から出発した時点で搭乗していたと思われますから、彼らが「入貢」していたのも「難波朝」とみるのは自然です。(『書紀』にもそのような記述があります)このことはこの時点で「難波」が王権の所在地として「蝦夷」から認識されていたこととなりますが、この点については「日本国王権」としての「難波」であることが明確と言えます。
 既に指摘したようにこの段階では「難波」に本拠を置く王権としての「日本国」があり、それとは別に「筑紫」に本拠を置く「日本国」が別途存在していたと思われ、「難波津」からつながる地域は基本的に「倭王権」の直轄領域であったはずですが、そこを押さえたことで「日本国」が「倭国」を併合したという言い分につながっていると思われるわけです。
 「大伴部博麻」の言葉に出てくる「本朝」は「天命開別天皇三年」に発せられたわけですが、この「天命開別天皇三年」というのが何年の事なのかについては、諸説があるものの『書紀』中の「天命開別天皇の何年」という例は全て「称制期間」のことを指していると考えられ、ここでいう「天命開別天皇三年」も同様に「称制期間」と考えられるものであり、そうであれば「六六四年」のこととなると考えられます。また彼らは「天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜」というわけですから、「六六一年」のことであり、この時点で「筑紫」には「朝廷」が存在していたこととなりますが、それは「六五九年」に遣唐使が発した「本国の朝」とほぼ同時代の表記と考えれば、これらの年次を通じて「本朝」「本国之朝」が共通として使用されているわけですが、これは「六五二年」という年次で「白雉」改元が「難波朝廷」で行われたことと深く関係しているといえます。つまり「難波朝廷」も「筑紫朝廷」と同質の権威を持っていたこととなり、この時点で「難波朝廷」が「倭国王権」とは別に東方の統治者として機能していたと推定することができるでしょう。
 本来「近畿王権」は「倭国」を「宗主国」とする体制に「諸国」の一つとして組み込まれていたと思われますが、「難波宮」には「兵庫」があり「斉明天皇」が出陣に際して「御幸」「観閲」したとされていますから、この地点がいわば「最前線」であったことが推測できます。(ちなみに「兵庫」が作られたのは難波宮造成時点と思われ、それがその後もそのまま残っていたものと理解できます。)
 「武器庫」があったということは、いわば「仮想敵」と空間的に近接していることを示すものであり、その意味で「近畿王権」は「筑紫倭国王権」から「警戒」されていたと思われます。

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