古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「日本」は「やまと」になったが、その前の「日本」は「ひのもと」である。

2024年11月21日 | 古代史
『日本書紀』(あるいは『日本紀』)はその史書名に「日本」という名称(国号)がついているのが注目されます。これら『日本書紀』『日本紀』とも「歴代」の「中国」の史書の例に漏れず「前史」として書かれたものと思料されます。
 「中国」の歴代の史書は全て「受命」による「王朝」の交替と共に、前王朝についての「歴史」を「前史」として書いています。
 『漢書』は「後漢」に書かれ、『三國志(魏志)』は「晋(西晋)」の時代に書かれ、『隋書』は「初唐」に書かれているわけです。そうであれば、『日本紀』が書かれるに至った理由も、「新王朝」成立という事情に関係していると考えられ、「前史」として書かれたものと推察できることとなります。その場合「前王朝」であるところの「日本国」と、新王朝であるところの「日本国」が存在していたこととなり、共に「日本」であるところが重要です。再三書いているように「新日本国」と「旧日本国」が同じ国号なのは、同じ日本国から二つに分かれたからであり、それが分かれたのは「白雉五年記事」の 遣唐使派遣時点であると思われるわけです。
 八世紀に入ってからの「旧日本国」から「新日本国」への権力移動が「禅譲」なのか「革命」なのかが問題となりますが、『書紀』『続日本紀』とも「持統」から「文武」へという禅譲を謳っています。しかし「年号」は「大宝」において「建元」とされていますから、実態としては「前王朝」とは隔絶していることとならざるを得ません。
 「中国」の例でも「禅譲」による新王朝創立の場合(たとえば「北周」から「隋」、「隋」から「唐」など)は「改元」されていますが、「改元」とはそもそも「天子」が不徳の時、「天」からの意志が示された場合(天変地異が起きるなど)それを畏怖して「ゼロ」から再スタートするとした場合「改元」するものです。さらにそれにも従わないとすると「天」は有徳な全く別の人物に「命」を下し「受命」させるものであり、この場合は「新王朝」樹立は「革命」であり、「建元」となります。
 このようなことを考えると、「禅譲」はまだしも「天」の意志に沿っているともいえるものであり、この場合は「改元」されることとなります。つまり、「禅譲」は「前王朝」の権威や大義名分を全否定するものではありませんから、「改元」は妥当な行為といえるでしょう。
 たとえば『旧唐書』などに、「初唐」の頃に「江南地方」(旧「南朝地域」)などを中心に各所で「皇帝」を名乗り「新王朝」を始めたという記事が多く見受けられますが、それらは全て例外なく「建元」したとされています。これらの新王朝は「受命」を得たとし、新皇帝を自称して「王朝」を開いているわけですが、そのような場合には当然「建元」されることとなるわけです。このことの類推から、『日本紀』という史書の国号として使用されている「日本」は「前王朝」のものであり、それとは別に全くの新王朝として新しく「日本」が成立したと見るべきこととなります。この場合、「新王朝」と「前王朝」の国号は一見同じに見えますが、当然異なるはずです。(別の王朝なのですから当然です。)それを示すのが『書紀』の中で「日本」について「やまと」と読むようにという指示です。これは『書紀』編纂時点における新王権のイデオロギーによるものと言えます。
 たとえば中国の場合新王権の旧領地の地名が新王朝の王朝名となっている例が多数です。「隋」も「唐」も高祖(初代皇帝)の旧領地の地名です。ただし日本の場合「日本」という漢字が「孝徳朝」時代にすでに決められ固定されていたものと思われ、「読み」だけが旧領地を意味することとなったものと思われるのです。
 『旧唐書』にいう「日本は旧小国」というのはその日本国(これは「難波王権」であり、新日本国と同系統王権)の旧領地が小国であったことを意味する
ものです。その意味で新王朝が「やまと」を国名にしているということとその実態が「難波日本国」であるということは直接つながっているのです。それに対し旧王朝であるところの「持統朝」が「やまと」であるはずがないこととなります。彼らはあくまでも「やまと」は違う旧領地をその統治範囲としていた国ですから「やまと」ではないことは明白です。
 可能性としては「日本」と書いて「ちくし」と読むのではなかったでしょうか。(これは古田氏も言及していたように覚えています)
 ところで「白村江の戦い」後「唐」は倭国に対し「驥尾政策」が行われたという議論があります。しかし私見ではそのようなこととがあったとは全く思われません。
 確かに「都督府」や「都護府」が置かれるのは「戦争当事国」の首都である例がほとんどであるが、あくまでもその当事国自体が「戦闘領域」となった経緯があるのが前提であり、その意味で倭国(筑紫日本国)は戦争当事国でなかったとは言わないまでも、少なくとも「戦闘領域」ではなかったものであり、そのような場所に都督府が設置された例がないことを考えると、この時「筑紫」に「都督府」を「唐」が設置するとは考えられのません。
 「熊津都督府」が一時孤立した例を考えても「遠隔地」に「都督府」を設置して万が一「百済」のように当事国の国内勢力が「唐」に対して反旗を翻す自体を想定すると、援軍を送る手段とそれに要する時間の困難さを考えると、このような遠隔地に都督府を設置するとは考えにくいのです。
 たとえば「唐代」(太宗の時代)に反旗を翻した「高昌国」を討った際、「太宗」は「高昌国」を「府県制」に置こうとしましたが側近の「魏徴」に以下のように反対されたとされます。

「(貞観)十四年(庚子、六四〇)秋八月庚午」「作襄城宮於汝州西山。立德,立本之兄也。…上欲以高昌爲州縣,魏徴諫曰:「陛下初即位,文泰夫婦首來朝,其後稍驕倨,故王誅加之。罪止文泰可矣,宜撫其百姓,存其社稷,復立其子,則威德被於遐荒,四夷皆悅服矣。今若利其土地以爲州縣,則常須千餘人鎭守,數年一易,往來死者什有三四,供辧衣資,違離親戚,十年之後,隴右虚耗矣。陛下終不得高昌撮粟尺帛以佐中國,所謂散有用以事無用。臣未見其可。…」(『資治通鑑』巻百九十五による)

 ここでは「高昌国」に対して「唐」の「府県制」を適用しようという「太宗」の考えに対して「魏徴」が、「高昌国」の鎮守のためには常に千人以上の兵が必要であり、また頻繁に交替させる必要があるなど軍事的負担が大きすぎるとして反対しています。これは基本として「遠距離」であることが最大の原因であり、「高昌王」がここは「唐」の支配領域から遠く、その間に砂漠があるなど地の利を誇っていたこと(以下の記事)を間接的に認めるものです。

「(貞観)十四年夏五月壬寅」「高昌王文泰聞唐兵起,謂其國人曰:「唐去我七千里,沙磧居其二千里,地無水草,寒風如刀,熱風如燒,安能致大軍乎」」

 これは「倭国」の場合とは異なるものの「遠距離」であって「海を隔てる」などの不利な点があり、「軍事的負担」となる可能性が高いという点で共通します。
 以上からこの「筑紫都督府」は「唐」ではなく「難波日本国」が設置したと考えるのが相当です。
 「都督府」が征服した王朝の首都におかれるものと考えると、「筑紫」地域は「難波日本国」と別国であり、倒れた(あるいは倒した)国である「筑紫日本国」の首都であると推定できます。
 「筑紫日本国」が高麗の援軍に行きほぼ全滅したらしいことを考えると、筑紫地域周辺は彼らによる軍事的勢力はほぼ皆無であった可能性があり、日本国がその空白を埋めるべく軍事的に占拠した可能性があり、その際首都防衛軍の長である「阿倍比羅夫」(大宰府長官とされる)さえも出動していたのは記録からも明らかであるから、ほぼごく少数の勢力しか残存していなかったと思われ、彼らと「難波日本国」の占領軍との間で戦闘が行われたとして不自然ではなく、またそれは圧倒的に「筑紫」側に不利に進行したであろうことが推定できます。
 これに関しては「壬申の乱」の際に大友皇子から当時の筑紫太宰とされる栗隈王に対して行われた軍出動指令について、これを断るシーンで彼は重要な指摘をしています。

「…且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。…男至筑紫。時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。…」

 つまり「筑紫」は外敵からの防衛を任務としており、もし軍を出して国を空にすると社稷が傾く恐れがある」というわけです。この発言は上に見るように「筑紫太宰」であった「阿倍比羅夫」が「筑紫」の守りをせず「軍」を出して「国」が空になり、社稷が傾いた(つまり筑紫日本国が滅びた)前例を踏まえていると思われるわけです。
 「筑紫」を制圧した「難波日本国」はそこに「唐」をまねて「都督府」を設置したとみることができるでしょう。彼らは自称として「鎮西筑紫大将軍」と称したものと思われ、それが『善隣国宝記』に引かれた「海外国記」に書かれた「筑紫太宰の言」として記録されたものと思われます。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著『鎮西将軍』。『日本鎮西筑紫大将軍』牒在百済国大唐行軍總管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 ここでは「日本鎮西筑紫大将軍」という呼称をしていますが、これはすでに述べた推定を明確に反映しているものであり、「日本」は「難波日本国」を指し、「鎮西」は「難波日本国」から見て西の「筑紫」を制圧している意味であり、その「筑紫」に所在する軍事的勢力の長として「筑紫大将軍」という人物がいることを強く示唆する称号となっているのです。
 この後「唐」から「倭国王」であった「薩夜麻」が帰国したことにより政変が起き、「難波日本国」から「筑紫日本国」が一旦政権を奪取するという「壬申の乱」が起き、これが持統朝まで継続していたものと思われますが、この場合元々は(隋代以降)「日本」と書いて「ちくし」と呼んでいた可能性があるものの、難波に東方統治を行うため進出した時点で「日本」を「ひのもと」と呼び変えた可能性があると考えます。
 しかし当時の「日本倭根子天皇」の政策が破綻し東方直接統治を諦めた時点で主たる勢力が筑紫に戻ってから以降、旧呼称である「ちくし」に戻ったかそのまま「ひのもと」と呼んだかは若干不明です。ただし少なくとも「持統時点」(庚寅年)の改革の一環で「朱鳥」と改元していますがこれを「あかみとり」と訓読みしており、これは国号が「にほん」ではなく「ひのもと」という訓読みであることと深く関係していると見るべきと考えると「東方統治」の時点から継続して「ひのもと」と呼んでいたという可能性の方が強いと言えるでしょう。つまり「日本」が「やまと」となる前の「日本」は「ひのもと」と呼んでいたという可能性が高いものと考えます。

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