『書紀』を見ると、天皇の称号として「根子」というものが現れます。この「根子」という称号についての理解として最も適当なのは「支配者」「統治者」ではないでしょうか。その意味で「最高権力者」だけが名乗れるというものではなかったと思われます。
実際『書紀』によれば「山背根子」「難波根子」と称される人物が出てきます。かれらはあくまでも「山背」「難波」という小領域の権力者であり、また統治者であったと思われ、その意味から類推すると「倭根子」とは「倭」の地域の権力者であることとなるでしょう。
『書紀』では以下のように「日本」は「やまと」と読むようにという指定がありますが(神武紀)、(これは「新日本王権」のイデオロギーによるものと思われるわけですが)、「倭」についてはそのような指示が文中にありません。
「…於是陰陽始遘合爲夫婦。及至産時。先以淡路洲爲胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大日本日本。此云耶麻騰。下皆效此。…」
ここで「神武紀」の始めの部分で「日本」は「やまと」と読むとされ、以下出てくる「日本」は全て「やまと」と読むようにというわけです。それに対し「倭」の場合は読みが指定されていません。たとえば以下のような例があります。(ちなみに「日本」が示す領域は『書紀』の早い段階では「近畿」の一部の小領域を示す意義しかなかったと思われます。それは『旧唐書』において「遣唐使」が「日本旧小国」と表現したことでも明らかです。)
「…亦曰。伊弉諾尊功既至矣。徳文大矣。於是登天報命。仍留宅於日之少宮矣。少宮。此云倭柯美野。…」
ここでは「倭」は「わ」という音を表す意義で使用されています。
「…倭文神。此云斯圖梨俄未。…」
ここでは「音」というより「名称」の読みとして現れます。
「…時弟猾又奏曰。倭國磯城邑有磯城八十梟帥。…」
ここでは読みが指定されていませんが、上の例からみて、基本としては「わ」の音を表す例から考えて「倭」は「わ」としか読まないと思われ「わこく」と発音すると思われるものです。
その「倭」は歴代の中国王朝から「列島」を意味する「地域名」として認知されていたわけであり、『書紀』でも同様の意義で使用されていたと見るのが相当でしょう。
その意味で「倭根子」とは「倭王」の意義以外考えられず、その「倭根子」の使用例として『書紀』に現れる最初の人物が「成務」であるというのは示唆的です。
「成務」は「稚倭根子」という「称号」を持っていますが、以下のように「国郡」「県邑」に「責任者」をおいたとされ、また山河で区切って「国県」を定めたというようなすでにある領域を分割したり境界線を変更するなどの施策を実行しています。
実際『書紀』によれば「山背根子」「難波根子」と称される人物が出てきます。かれらはあくまでも「山背」「難波」という小領域の権力者であり、また統治者であったと思われ、その意味から類推すると「倭根子」とは「倭」の地域の権力者であることとなるでしょう。
『書紀』では以下のように「日本」は「やまと」と読むようにという指定がありますが(神武紀)、(これは「新日本王権」のイデオロギーによるものと思われるわけですが)、「倭」についてはそのような指示が文中にありません。
「…於是陰陽始遘合爲夫婦。及至産時。先以淡路洲爲胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大日本日本。此云耶麻騰。下皆效此。…」
ここで「神武紀」の始めの部分で「日本」は「やまと」と読むとされ、以下出てくる「日本」は全て「やまと」と読むようにというわけです。それに対し「倭」の場合は読みが指定されていません。たとえば以下のような例があります。(ちなみに「日本」が示す領域は『書紀』の早い段階では「近畿」の一部の小領域を示す意義しかなかったと思われます。それは『旧唐書』において「遣唐使」が「日本旧小国」と表現したことでも明らかです。)
「…亦曰。伊弉諾尊功既至矣。徳文大矣。於是登天報命。仍留宅於日之少宮矣。少宮。此云倭柯美野。…」
ここでは「倭」は「わ」という音を表す意義で使用されています。
「…倭文神。此云斯圖梨俄未。…」
ここでは「音」というより「名称」の読みとして現れます。
「…時弟猾又奏曰。倭國磯城邑有磯城八十梟帥。…」
ここでは読みが指定されていませんが、上の例からみて、基本としては「わ」の音を表す例から考えて「倭」は「わ」としか読まないと思われ「わこく」と発音すると思われるものです。
その「倭」は歴代の中国王朝から「列島」を意味する「地域名」として認知されていたわけであり、『書紀』でも同様の意義で使用されていたと見るのが相当でしょう。
その意味で「倭根子」とは「倭王」の意義以外考えられず、その「倭根子」の使用例として『書紀』に現れる最初の人物が「成務」であるというのは示唆的です。
「成務」は「稚倭根子」という「称号」を持っていますが、以下のように「国郡」「県邑」に「責任者」をおいたとされ、また山河で区切って「国県」を定めたというようなすでにある領域を分割したり境界線を変更するなどの施策を実行しています。
「五年秋九月、令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置、並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱、南北爲日横、山陽曰影面、山陰曰背面。是以、百姓安居、天下無事焉。…」(成務紀)
このような事業は「強い権力」の発露というべきであり、「倭」つまり「列島」を代表する権力者として機能していたことを示すものです。その意味で「倭根子」の称号は実態を表しているというべきでしょう。
これ以降の「倭根子」は「孝徳」まで飛ぶこととなります。このことからこの間の「近畿王権」は「倭」の代表権力者として存在していたわけではなかったことが帰結されます。
ところで「孝徳」は「日本倭根子」という特殊な称号を持っています。(『書紀』『続日本紀』中彼が唯一の例)
「(六四六年)大化二年…二月甲午朔戊申(十五日)。天皇幸宮東門。使蘇我右大臣詔曰。明神御宇『日本倭根子天皇』詔於集侍卿等。…」
、これは従来の「倭根子」に「日本」が付加された形となっていますが、これは「倭」の領域としてそれまで組み込まれていなかった「東国」を始めて統治下に入れたことを示すものと思われ、より広域を統治する「王」としての「称号」と思われます。つまりここで初めて「倭」から「日本」へ国号が改まったと見られるのです。
この推測は「改新の詔」で「始めて万国を修(治)める」という言い方をしていることにつながります。
「(六四五年)大化元年…八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方『今始將修萬國』。…」
これ以前は支配が(特に東国に)広く及んでいなかったことを推測させますが、この時点以降統治下に入ったとするわけであり、それを意味するのが「日本倭根子」という表記と見られます。そのことを貫徹するために「東国」に「国司」を派遣するというわけです。
その後「倭根子」称号は『書紀』では見られなくなります。(「倭」から「日本」へと国号が変わったことの反映か)
以下『書紀』と『続日本紀』の「根子」の例
(六八三年)十二年春正月己丑朔庚寅。百寮拜朝廷。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢三足雀。
乙未。親王以下及群卿喚于大極殿前宴之。仍以三足雀示于群。
丙午。詔曰。『明神御大八洲日本根子天皇』勅命者。…
(文武前紀)天之眞宗豊祖父天皇。天渟中原瀛眞人天皇之孫。日並知皇子尊之第二子也。日並知皇子尊者。寶字二年有勅。追崇尊號。稱岡宮御宇天皇也。母天命開別天皇之第四女。『平城宮御宇日本根子天津御代豊國成姫天皇是也。』天皇天縦寛仁。慍不形色。博渉經史。尤善射藝。高天原廣野姫天皇十一年。立爲皇太子。
(六九七年)元年八月甲子朔。受禪即位。
庚辰。詔曰。現御神止大八嶋國所知天皇大命良麻止詔大命乎。集侍皇子等王等百官人等。天下公民諸聞食止詔。高天原尓事始而遠天皇祖御世御世中今至麻弖尓。天皇御子之阿礼坐牟弥繼繼尓大八嶋國將知次止。天都神乃御子隨母天坐神之依之奉之隨。聞看來此天津日嗣高御座之業止。現御神止大八嶋國所知倭根子天皇命授賜比負賜布貴支高支廣支厚支大命乎受賜利恐坐弖。此乃食國天下乎調賜比平賜比。天下乃公民乎惠賜比撫賜牟止奈母隨神所思行佐久止詔天皇大命乎諸聞食止詔。是以百官人等四方食國乎治奉止任賜幣留國々宰等尓至麻弖尓。天皇朝庭敷賜行賜幣留國法乎過犯事無久。明支淨支直支誠之心以而御稱稱而緩怠事無久。務結而仕奉止詔大命乎諸聞食止詔。故乎如此之状乎聞食悟而款將仕奉人者其仕奉礼良牟状隨。品品讃賜上賜治將賜物曾止詔天皇大命乎諸聞食止詔。仍免今年田租雜徭并庸之半。又始自今年三箇年。不收大税之利。高年老人加恤焉。又親王已下百下百官人等賜物有差。令諸國毎年放生。
(七〇三年)三年…十二月…癸酉。從四位上當麻眞人智徳。率諸王諸臣。奉誄太上天皇。謚曰『大倭根子天之廣野日女尊』。是日。火葬於飛鳥岡。
(七〇七年)四年…十一月丙午。從四位上當麻眞人智徳率誄人奉誄。謚曰『倭根子豊祖父天皇』。即日火葬於飛鳥岡。
(元明前紀)『日本根子天津御代豊國成姫天皇』。小名阿閇皇女。天命開別天皇之第四皇女也。母曰宗我嬪。蘇我山田石川麻呂大臣之女也。適日並知皇子尊。生天之眞宗豊祖父天皇。慶雲三年十一月豊祖父天皇不豫。始有禪位之志。天皇謙讓。固辞不受。四年六月豊祖父天皇崩。
(慶雲)四年六月(七〇七年) 庚寅。天皇御東樓。詔召八省卿及五衛督率等。告以依遺詔攝萬機之状。
秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。『現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命』。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐『藤原宮御宇倭根子天皇』丁酉八月尓。此食國天下之業乎日並知皇太子之嫡子。今御宇豆留天皇尓授賜而並坐而。此天下乎治賜比諧賜岐。是者關母威岐『近江大津宮御宇大倭根子天皇』乃与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法乎。受被賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。如是仕奉侍尓。…
(同年)十一月丙申。賑恤志摩國。)以從五位下安倍朝臣眞君。爲越後守。
甲寅。葬倭根子豊祖父天皇于安古山陵。
(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。『現神御宇倭根子天皇』詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。
續日本紀卷第七起靈龜元年九月、盡養老元年十二月」從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子学士臣菅野朝臣眞道等奉勅撰。」日本根子瑞淨足姫天皇元正天皇第■四
(元正前紀)『日本根子高端淨足姫天皇』。諱氷高。天渟中原瀛眞人天皇之孫。日並知皇子尊之皇女也。天皇神識沈深。言必典礼。
神龜元年(七二四年)
…二月甲午。受禪即位於大極殿。大赦天下。詔曰。『現神大八洲所知倭根子天皇』詔旨止勅大命乎親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。高天原尓神留坐皇親神魯岐神魯美命吾孫將知食國天下止与佐斯奉志麻尓麻尓。高天原尓事波自米而四方食國天下乃政乎弥高弥廣尓天日嗣止高御座尓坐而『大八嶋國所知倭根子天皇』乃大命尓坐詔久。此食國天下者掛畏岐藤原宮尓天下所知美麻斯乃父止坐天皇乃美麻斯尓賜志天下之業止詔大命乎聞食恐美受賜懼理坐事乎衆聞食宣。可久賜時尓美麻斯親王乃齡乃弱尓荷重波不堪自加止所念坐而皇祖母坐志志掛畏岐我皇天皇尓授奉岐。依此而是平城大宮尓現御神止坐而大八嶋國所知而靈龜元年尓此乃天日嗣高御座之業食國天下之政乎朕尓授賜讓賜而教賜詔賜都良久。挂畏『淡海大津宮御宇倭根子天皇』乃万世尓不改常典止立賜敷賜閇留隨法後遂者我子尓佐太加尓牟倶佐加尓無過事授賜止負賜詔賜比志尓依弖今授賜牟止所念坐間尓去年九月天地■大瑞物顯來理。…
天平元年(七二九年)…
八月癸亥。天皇御大極殿。詔曰。『現神御宇倭根子天皇』詔旨勅命乎親王等諸王等諸臣等百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐之天皇御世始而許能天官御座坐而天地八方治調賜事者聖君止坐而賢臣供奉天下平久百官安久爲而之天地大瑞者顯來止奈母隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。…
これらを見ると『続日本紀』では「天智」「持統」「文武」が「(大)倭根子」という称号を奉られています。(それ以降は「日本根子」と呼称されています。)「天智」の場合は「筑紫」を制圧して全国統一したものと思われるのでそれを反映して「大倭」根子とされていると思われます。「持統」と「文武」は「薩夜麻王権」が大地震の影響などにより倒れた際の臨時としての王権であったと思われ被害の少なかった筑紫地域の勢力で樹立した王権と思われますから、『倭』根子という呼称は的を射たものと思われるわけです。
また「文武」が「倭根子」とされていることと、「元明」即位以降「持統朝」を「前王権」として否定している姿勢とは共通していると思われます。つまり「文武」も「持統朝」の延長と見ていた節が認められます。
既に指摘したように『延喜式』の中に「持統朝」の「庚寅年」に出された「詔」を否定する施策が書かれており、これは「持統朝」の施策について基本「否定」する立場の表れと見たわけですが、実際には「持統」の死去以降ではなく「文武」の死去以降行われたものと推測したわけです。このことと「元明」以降が「日本根子」と呼称されることは直接つながっていると考えられるものです。
また「元明」以降「宣詔」する場合には「日本根子」という称号が一切出てこないことにも留意すべきです。『続日本紀』を見ると「元明」以降の天皇が「宣詔」する際には「倭根子」称号がかならず使用されており、これはあくまでも「大義名分」として「新日本王権」が歴代の「倭王権」につながる存在であることを宣言することが重要であったものと思われるわけです。
また、「天武」は「(大八洲)日本根子」と表記されており、このことはすでに指摘したように「倭」から「日本」へと国号変更が行われていたことを反映していると思われます。
「(六八三年)十二年春正月己丑朔…丙午。詔曰。明神御『大八洲日本根子天皇』勅命者。諸國司。國造。郡司及百姓等。諸可聽矣。朕初登鴻祚以來。天瑞非一二多至之。傳聞。其天瑞者。行政之理。協于天道則應之。是今當于朕世。毎年重至。一則以懼。一則以喜。是以親王。諸王及群卿百寮。并天下黎民。共相歡也。乃小建以上給祿各有差。因以大辟罪以下皆赦之。亦百姓課役並兔焉。…」
「日本」国号がこの時点で正式国名として使用されるようになったと考えれば、「東国」を直接統治する意義がそこに含まれていると思われます。
ところで既に指摘したように「倭」については『書紀』のなかで「読み」が指定されていません。「日本」は「やまと」と読めというわけですが「倭」については何も書かれていないのです。上に見たように「倭」については「わ」という音で読むべきこととなるわけですが、現在の「辞典」その他では「倭」を「やまと」と読むのが通例のようです。たとえば「岩波」の「大系」でも「日本倭根子」部分には「やまと」とだけ読みが振られており、「倭」がなかったかの如くになっています。しかしそれは『書紀』とは異なる考え方と言うべきでしょう。
『書紀』あるいはそれを編纂した「八世紀の王権」の考え方では「倭」は「やまと」ではなく、別の読み方あるいは呼び方があったものです。それらに付いてはこれもすでに指摘したように「倭」とは「九州島」を中心とした領域を指す言葉ですから、「やまと」であるはずがないことととなります。「ちくし」と呼んだのかもしれませんが不明です。「わ」と呼んだとも考えられます。
史書は中国の伝統では新王朝が旧王朝(前王朝)について記すものであり、その意味で『日本書紀(日本紀)』は旧王権である「日本国」の事績を記した史書と考えるべきと思われる。しかしそうすると新王朝も旧王朝も「日本国ということとなってしまう。
ところで『日本書紀』の中に「日本」は「やまと」と読めという指示がある。これは『書紀』編纂終了時点における「注」と思われ、当初はそのような趣旨ではなかったと思われ、あくまでも「前王朝」の史書となるはずであったものであり、その意味で「日本」は「やまと」と読むべきものではなかったと思われる。この「注」はこの時点における「新日本王権」のある意味「イデオロギー」によるものと思われますが、この「注」も「持統-文武」達の死去とともに書き込まれたものと思われ、これも「元明朝」の意思の表れと見るべきでしょう。
中国の場合新王権の旧領地の地名が新王朝の王朝名となっている例が多いのが特徴です。(「隋」「唐」「宋」など)日本の場合「日本」という漢字がすでに決められ固定されていたものと思われ、読みだけが旧領地を意味することとなったものと考えられます。その意味で「新日本王権」が自国の読みを「やまと」としているのは示唆的です。彼らの「旧領地」あるいは「本拠地」が「やまと」地域であったことを示すものであり、『旧唐書』に言う「日本旧小国」というのは「日本国」の「本拠地」が「小国」つまり「宗主国」とは異なる「附庸」の対象としての「諸国」であったことを意味するものです。(そこが「やまと」という地域であったと言うこと)
史書は中国の伝統では新王朝が旧王朝(前王朝)について記すものであり、その意味で『日本書紀(日本紀)』は旧王権である「日本国」の事績を記した史書と考えるべきと思われる。しかしそうすると新王朝も旧王朝も「日本国ということとなってしまう。
ところで『日本書紀』の中に「日本」は「やまと」と読めという指示がある。これは『書紀』編纂終了時点における「注」と思われ、当初はそのような趣旨ではなかったと思われ、あくまでも「前王朝」の史書となるはずであったものであり、その意味で「日本」は「やまと」と読むべきものではなかったと思われる。この「注」はこの時点における「新日本王権」のある意味「イデオロギー」によるものと思われますが、この「注」も「持統-文武」達の死去とともに書き込まれたものと思われ、これも「元明朝」の意思の表れと見るべきでしょう。
中国の場合新王権の旧領地の地名が新王朝の王朝名となっている例が多いのが特徴です。(「隋」「唐」「宋」など)日本の場合「日本」という漢字がすでに決められ固定されていたものと思われ、読みだけが旧領地を意味することとなったものと考えられます。その意味で「新日本王権」が自国の読みを「やまと」としているのは示唆的です。彼らの「旧領地」あるいは「本拠地」が「やまと」地域であったことを示すものであり、『旧唐書』に言う「日本旧小国」というのは「日本国」の「本拠地」が「小国」つまり「宗主国」とは異なる「附庸」の対象としての「諸国」であったことを意味するものです。(そこが「やまと」という地域であったと言うこと)
逆に言えばその後の「持統朝」が「やまと」であるはずがないこととなるでしょう。彼らは「前王朝」であり、当然「別王朝」と言うべきであり、あくまでも「やまと」は違う本拠地をその直接統治範囲としていた国となりますから、そこが「やまと」ではないことは明白です。
可能性としては「日本」と書いて「ちくし」あるいは「ひのもと」と読む(読んでいた)可能性があるでしょう。(新日本王権のイデオロギーで以前も全て「やまと」であるとしているわけですが、実際には異なっていたはず)、これは「倭」を「やまと」と読まない理由とほぼ同一であり、「倭」も旧王朝の「日本」と同一ルーツを持つ王権(あるいは全くの同一王権)とみればどちらも「やまと」ではなくて当然ということとなります。