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「百済を救う役」と筑紫王権(二) ー 高麗への援軍と「薩夜麻」の捕囚

2024年11月21日 | 古代史
 確かに「倭国」が「高麗」に援軍を送っていたことは『書紀』からも明らかです。

(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。
八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。

是歳。播磨國司岸田臣麿等獻寶劔言。於狹夜郡人禾田穴内獲焉。又『日本救高麗軍將等』。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。

 ここには「日本救高麗軍將」と書かれており、「高麗」に援軍を派遣していることは明らかです。「大系」の注でも「日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとしたことは、海外資料には見えないが、下文元年・二年の関係記事からも確かであろう」としており、高句麗へも軍を派遣したらしいことを推定しています。 
 以上と「大伴部博麻」への持統の詔により「薩夜麻」達が「高麗」支援のため向かったところで唐軍と戦い捕囚となったことが窺えますが、それは『書紀』に明記されておらず、また書かれている「対新羅」や「百済救援」とは異なる戦略を「薩夜麻」達がとっていることが窺えることとなります。このことから「薩夜麻」達は「斉明」とは異なる指揮系統にあり、独自に戦っていたと思われます。さらに言えば「薩夜麻」達の指示により「斉明」たちが動いているということではなかったでしょうか。なぜなら「斉明」達は「筑紫」に来ても「大宰府」に入っていません。より後方の「朝倉」に陣取っています。ここには「宮」も何なかったものであり「朝倉神社」の神木を切って建物を作るという、いわば「暴挙」を行ったわけですが、これは「斉明」たちが「応援部隊」であることを意味していると思われ、また「朝倉神社」に対する「敬意」のかけらもないことから「朝倉」引いては「筑紫」に対するその土地の宗教的環境にも全く無知であったことが窺え、あくまでもは自分たちは「応援部隊」、主たる部隊は「筑紫朝廷」の直轄部隊であったという推定につながるものです。 
 また「日本救高麗軍將等」というのが「筑紫」地域を含む直轄統治領域とその至近の諸国だけの軍であったと思われることは「唐軍」の捕虜となっていてその後帰国した人物として以下の記事の人物が『書紀』『続日本紀』に現ることから推定できます。

①(六八四年)(天武)十三年…十二月戊寅朔…癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」

②(六九六年)(持統)十年…夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人?四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」

③(七〇七年)四年…五月…癸亥。讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸。歴■餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。

 彼らは「筑後」「筑紫」「肥後」「讃岐」「伊豫」等のほぼ「直轄統治領域」の人々であり、(「陸奥」(壬生五百足)が入っていますが彼は当時「防人」として徴発されて「筑紫」にいたのではないかと思われ、そのまま遠征軍に参加させられていたものと推定します)あくまでも「筑紫君」の直接統治可能な範囲だけの軍であったらしいことが推定されます。
 また③の記事では「初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸」とされていますから明らかに「白村江の戦い」で捕虜となったわけではなく、それ以前に「唐軍」に囚われていたというわけであり、そのことは「薩夜麻」の指揮下にあって「高句麗」支援の戦いの中で「唐軍」の捕虜となったことが窺われることとなります。同じことは「大伴部博麻」に対する「持統」の「詔」の中にもうかがえます。そこでは「博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。…」とされ「博麻」と「汝」(土師富杼等)とが同じ「本朝」に属していることが窺え、それは即座に「筑紫朝廷」を指すと見られることから、この時の「薩夜麻」と同時に捕囚となっていた人たちもやはり「筑紫君」の統治範囲の外部の人間ではないことが窺え、軍の構成として「筑紫」とその周辺地域からしか編成されていないことが強く推測できます。
 またそのことは「筑紫朝廷」自身が「難波日本国王権」への帰属を承認していない領域として(これが旧倭国領域として彼らが認識ししていた領域)がかなり狭くなっていることは重要であり、他地域の統治行為を別の権力者により行われていたたという可能性を考える必要が出てくるものであり、それが「難波朝廷」に本拠を構える「日本国王権」であり、実質として「近畿王権」であったとみることができるでしょう。
 ちなみにこの時「薩夜麻」と一緒に捕虜となっている人物として上に見たように「大伴部博麻」がいます。「大伴部」は「大伴氏」の部民であり、「大伴氏」が出陣するときは必ず彼の配下の軍として戦地に赴いたはずです。さらに「大伴氏」が「倭国王」の親衛隊の長であるのは自明であり、「大君の辺にこそ死なめ」と歌った「陸奥出金詔歌」に明らかなように「大伴氏」は必ず「倭国王」と同行していたはずであり、彼の率いる「大伴部」という部民も同様に倭国王の身辺警護に当たっていたはずです。そのことから「大伴部博麻」が「筑紫君」である「薩夜麻」と一緒に捕虜となっているという事実は「薩夜麻」が「大伴氏」とその部民である「大伴部」により警護されるべき「倭国王」であることをいみじくも示していると言えるでしょう。
 ちなみにこの捕虜の様子は、この時の戦いで「博麻」達を率いていた「大伴氏」(個人名は不明)も戦いの中で亡くなったことを示唆するものと言えます。ところで『公卿補任』を見ると「大伴御行」と「大伴安麿」の二人が大伴長徳の子供として書かれています。

大伴宿祢御行…難波朝右大臣長徳連之五男
大伴宿祢安麿…安丸者難波朝右大臣大紫長徳之第六子。

これを見ると「長徳」には六人子供がいたように書かれており、「御行」を「五男」と書いているところを見ると上の四人も男子であった可能性が高いものの、『書紀』にも『続日本紀』にも名前が明らかになっていません。また「御行」の死去した年から考えて「百済を救う役」付近ではまだ十五歳程度と思われますから、「兵士」にはなれず、逆にそれが理由で生き残ったとも言えるでしょう。上の兄たちは倭国王の親征に同行したと思われ、戦死したものと考えるのが相当と思われます。
 ところで「大伴氏」の倭国王に対する忠誠を歌った「陸奥出金詔歌」では「海行波(は)美(み)豆久(づく)屍,山行波(は)草牟須(むす)屍,王乃(の)幣(へ)爾去曾(にこそ)死米(め),能杼(のど)爾波(には)不死 止(と)」というように書かれていますが、これはこの「百済を救う役」の際の戦いの描写ではないかと思われ、海でも山でも多数の戦死者を出したことが書かれており、これは言ってみれば決して勝ち戦の描写ではなく負け戦に他ならず、その意味でも「薩夜麻」が捕虜となった戦いがそれに該当すると思われるわけです。
 大伴長徳は難波朝右大臣というように書かれており、東方に進出した際の「倭国王権」を支えた重臣と考えられますが、「倭国王」の急進的政策に反対の態度を取り、倭京つまり筑紫へ戻ったものとみられ、そのまま筑紫王権で(新たに選ばれた)倭国王(これが「薩夜麻」と考えられる)の警護の役割を果たしていたものと思われます。



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