古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「釆女」と「兵衛」-2

2024年01月21日 | 古代史
「釆女」と「兵衛」について引き続き検討します。

「裴世清」の来倭記事を『書紀』に見ると以下のような流れとなっています。

「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。
秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。」

 これを見ると、餝船(飾り船)三〇艘とあり、また餝騎(飾り馬)七十五疋とありますが、その主体が「軍」であったのは疑えないでしょう。当時「馬」に乗るのは「軍関係者」に限られていたはずです。推測によれば彼らは「倭国王」直属の「兵士」であり、「舎人」のうち「警衛」に特化した者達ではなかったかと思われます。(額田部連比羅夫はその長(率)か。)
これをさらに明確にするのは『隋書』(俀国伝)の記事です。

「倭王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多■,從二百餘騎郊勞。」

 この両者が同一の出来事を指すものとは思われないのはその内容を見ると明らかですが(すでに述べましたが)、それは別としてこの時の歓迎の人々を見ると、「設儀仗」とされていることからも「兵士」を含んでいることは明らかであり、ここでいう数百人は「六-七〇〇人」ではなかったかと思われます。それは「釆女」と同様「伊尼翼」の子弟から徴発された人達であり、人数も同様と見られるからです。
 彼らが「兵士」であるのは「鼓角を鳴らして」という表現にも表れています。『隋書俀国伝』には「倭国」(俀国)の楽器として「鼓」や「角」(これは「つのぶえ」)があるとは書かれていません。そこには「樂有五弦、琴、笛」としか書かれておらず、これでは「鼓角を鳴らして」歓迎はできないはずです。これについてもすでに検討しましたがこの『隋書俀国伝』に書かれた記事が第一回目の来訪記事ではないという点にその理由があるでしょう。それ以前に「隋使」(裴世清)は来ており(その時点での彼の職掌が「鴻臚寺掌客」であったもの)、その時点において「鼓角」を持参し「隋使」との交渉時にそれを使用して歓迎するという「隋」の儀礼を教授したものと推察されます。そしてその「鼓角」を使用しての歓迎は「隋」において「軍」の行うべきこととされ、いわば「軍楽隊」が存在していたことと推察されるわけですが(「隋」ではこの「鼓角」が加わった形で「楽制」が整備されたのは「開皇十三年」(五九四年)とされます(『『隋書/志第八/音樂上』)、同様に「倭国」においても「軍」が「鼓角を鳴らして」歓迎する役割を与えられていたと見られるものです。(※1)その意味でもこの時の「阿輩臺」が率いていた「数百人」の一部は確実に「軍関係者」であり、「兵衛」であったろうと推察されるわけです。
 またここで「小徳」という官位の人間が来迎の指揮を執っていますが、倭国には「小徳」を含む「内官」の制度があるとされており、「内官」が「隋」など中国で「王権内部」(というより「京域」ともいうべき地域)における人事階級制を示すものですから、彼も「京師」に所在する立場の人間であったことが推定できます。また、そのことから「京師」がこの段階で存在している事は確実ですが(それはこの記事で「入京」とされていることでも分かりますが)、「阿輩臺」も「京師」に所在する役職であり、ここで書かれた「数百名」が兵士が主体であるなら、それらを率いている彼(阿輩臺)は文字通りその「率」と思われます。
 また「臺」は「弾正臺」等の名称と同様の「政府の役所」という意味と思われ、また「倭国王」が「『阿輩』[奚+隹]彌」と自称していることから「阿輩」が「倭国王」に関わるものであることが推定でき、その意味で「阿輩臺」は個人名と言うより「職掌」であって「倭国王」に直結する組織(兵衛)であった可能性があるでしょう。つまり彼は「兵衛率」であったと見られるわけです。
 ところで少なくともこの時点ですでに「京師」を含む「畿内」とその他の地域(畿外)の別なく一律の「制度」として「階級制」があったと見るべきでしょう。(※2)なぜならそれ以前に「倭国」という政府組織そのものは(それほど中央集権的ではなかったにせよ)あったと見られるわけですから、そこに属する者達の「差別化」は指揮命令系統の構築という意味でも絶対に必要だったはずだからです。それを示すのが「平安時代」に「大江匡房」が著したという『江談抄』の中に「物部守屋と聖徳太子合戦のこと」という段があり、その中で「中臣國子」という人物について書かれた部分に以下のことが書かれています。

「…太子勝於被戦畢于時以『大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連公』奉勅使今祈申於天照坐伊勢皇太神宮始リト云フ。」(『江談抄』巻三より)

 また、同様の内容の記録は『皇太神宮諸雑事記』(『続群書類従』所収)などにもあり、これをみると「対物部守屋」の戦い時点以前に「大錦上」という肩書きと「小徳」という階級とが併存している様子が窺えます。このうち「小徳」については『隋書俀国伝』では「内官」に十二等あるとされている中にあり、その「内官」とはすでに見たように「隋」「唐」においては「在京」の官人を指すものでした。そう考えると「遣隋使」が「内官」という用語を使用した裏にはこれらの「隋」における体制が念頭にあったと見られ、これらの十二階の冠位が「隋」においてもそうであったように「京内」の「諸省」の官人に対するものであることが推定できるでしょう。では「京」の外部の人たちには「階級制」はなかったのかと云うこととなるとそれは考えられません。「内官」という表現自体が「外官」の存在を前提にしていると思われ、「外官」に対しても何らかの階級制度があったものと見るべきこととなるでしょう。つまり「大錦上」のような「官位」が本来「内官」「外官」の別に関わらず付与されていたと推定されるものです。
 (ちなみに「内官」という階級的制度は『隋書』の夷蛮伝を渉猟しても当時東夷では「倭国」だけにあったものであり、その意味では「倭国」の統治体制がかなり中央集権化していたことが示唆されます。)

(※1)元京都府立大学学長の渡辺信一郎氏はその著書『中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流』(文理閣 二〇一三年)の中で同趣旨のことを主張されており、それでは「遣隋使」自体が早期に送られていたこととなるとして波紋を呼んでいるようです。(ただしその主張は六〇〇年の遣隋使の実在を主張するもののようですが)
(※2)同様の議論はすでに「大越邦夫氏」によって行われていますが(大越邦生「多元的「冠位十二階」考」(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集一九九九年新泉社))、『隋書』に書かれた「内官」の制度と、「冠」をかぶることを制度として定めたと言う事は一見同じことを指しているようですが、その『隋書』の中の現れ方は全く異なる文脈においてのものであり、そのことはこの二つは全く別のことではないかと思われることを示します。少なくとも『隋書』の中では「隋に至って」から「内官」の制度が始められたというようなことは書かれていないことは重要と考えます。

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