以下は以前すでに投稿したものですが、改めて記して仏教の伝来についての常識を疑ってみます。
仏教の伝来については「高句麗」は「前秦」から四世紀前半に伝わったとされ(『三国史記』による)、また「百済」には四世紀後半に「東晋」から伝わったとされます。『三国史紀』によればそれは「三八四年」の記事とされています。
「沈流王元年」(三八四年)「九月 胡僧摩羅難自晉至 王迎之致宮内 禮敬焉 佛法始於此。」(『三国史記』百済本紀)
しかし、「倭国」(と「新羅」)には六世紀になってやっと伝わったものと従来考えられています。この時間差は何を意味するのでしょうか。
「倭国」への仏教の伝来については従来二つの代表的な説があるようです。「五五二年」説と「五三八年」説です。
「五五二年」説の根拠は『書紀』に「欽明天皇十三年」とあるところからです。「欽明天皇」元年の干支が「庚申」であり、これは「五四〇年」に当たり、これから計算して「五五二年」になる、というものです。
「五三八年」説の方は「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」などに、仏教伝来の年として「欽明天皇七年戊午年」と書いてあることからです。しかし、確かに「戊午年」というのは「五三八年」なのですが、「欽明天皇」の「七年」が「戊午」であるなら、元年は「壬子」となり、これでは欽明天皇の即位年が「五四〇年」ではなく、「五三二年」になってしまうため、『書紀』とは食い違ってしまいます。
そのため、現在では「五三八年」説が有利なようですが、決着はしていません。またこの当時の「百済」側の外交記事に倭国が「全く」出てこないため、何時の時点で「聖明王」が伝えたのかは不明なのです。
ちなみに「上田正昭氏」の説によれば「聖明王」の「即位年」から数えて「二十五年目」に伝わったという伝承があり、その「即位年」に二説あったため、それが年次の違いとなったと述べていますが、「日本側資料」は明らかに倭国の「天皇」あるいは「倭国王」の治世の「何年」に伝来したか(その時の干支は何だったか)という事が伝承として残ったことと考えられ、「百済王」の「即位年」が影響しているとは考えられません。伝来した側の「倭国」の記録にはそのような事柄が関係しているとは考えられないと思われます。
しかし、「九州年号」の中には「僧聴」という年号があります。元年が「五三六」年と従来考えられています。明らかにこの年号は仏教に強く影響されたものでしょう。当然この年次以前に仏教が倭国王に伝えられたものと思料されますが、そうすると「五三八年」説であったとしても、「遅れている」こととなり、時期として合いません。
『二中歴』「年代歴」の年号群の中の仏教に関連していると考えられる中で、一番古いものが「僧聴」ですが、「細注」には何も書かれていません。この時点で、もし「仏教の伝来」という「重要」な出来事があったのなら、それに対して何の断り書きも書かれていないということはあり得ないと思われ、このことは「この時点」で仏教が伝来したと言うわけではないことを感じさせます。
「沈流王元年」(三八四年)「九月 胡僧摩羅難自晉至 王迎之致宮内 禮敬焉 佛法始於此。」(『三国史記』百済本紀)
しかし、「倭国」(と「新羅」)には六世紀になってやっと伝わったものと従来考えられています。この時間差は何を意味するのでしょうか。
「倭国」への仏教の伝来については従来二つの代表的な説があるようです。「五五二年」説と「五三八年」説です。
「五五二年」説の根拠は『書紀』に「欽明天皇十三年」とあるところからです。「欽明天皇」元年の干支が「庚申」であり、これは「五四〇年」に当たり、これから計算して「五五二年」になる、というものです。
「五三八年」説の方は「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」などに、仏教伝来の年として「欽明天皇七年戊午年」と書いてあることからです。しかし、確かに「戊午年」というのは「五三八年」なのですが、「欽明天皇」の「七年」が「戊午」であるなら、元年は「壬子」となり、これでは欽明天皇の即位年が「五四〇年」ではなく、「五三二年」になってしまうため、『書紀』とは食い違ってしまいます。
そのため、現在では「五三八年」説が有利なようですが、決着はしていません。またこの当時の「百済」側の外交記事に倭国が「全く」出てこないため、何時の時点で「聖明王」が伝えたのかは不明なのです。
ちなみに「上田正昭氏」の説によれば「聖明王」の「即位年」から数えて「二十五年目」に伝わったという伝承があり、その「即位年」に二説あったため、それが年次の違いとなったと述べていますが、「日本側資料」は明らかに倭国の「天皇」あるいは「倭国王」の治世の「何年」に伝来したか(その時の干支は何だったか)という事が伝承として残ったことと考えられ、「百済王」の「即位年」が影響しているとは考えられません。伝来した側の「倭国」の記録にはそのような事柄が関係しているとは考えられないと思われます。
しかし、「九州年号」の中には「僧聴」という年号があります。元年が「五三六」年と従来考えられています。明らかにこの年号は仏教に強く影響されたものでしょう。当然この年次以前に仏教が倭国王に伝えられたものと思料されますが、そうすると「五三八年」説であったとしても、「遅れている」こととなり、時期として合いません。
『二中歴』「年代歴」の年号群の中の仏教に関連していると考えられる中で、一番古いものが「僧聴」ですが、「細注」には何も書かれていません。この時点で、もし「仏教の伝来」という「重要」な出来事があったのなら、それに対して何の断り書きも書かれていないということはあり得ないと思われ、このことは「この時点」で仏教が伝来したと言うわけではないことを感じさせます。
上で見たように「六世紀」半ば付近で仏教が「百済」から伝来した、という事では(通説全体としては)「異論」がないようですが、それでは「朝鮮半島」に渡来してから、「倭国」へ伝来するのに「一〇〇年以上」かかったことになります。
この「遅れ」については一般には、理由等詮索されることが少ない(ない)ようですが、「倭国」は「五世紀」には(「倭の五王」の時代)「南朝」へ遣使する等、活発な外交活動を展開しており、そのような中でも仏教(だけ)が伝来されることがなかったとすると、はなはだ不審ではないでしょうか。
「播磨」に「明要寺」という寺があります。この寺は「百済」から「王子」が来倭して、「勅」(つまり倭国王)により建てられた、と開基に関する文書である「丹生山縁起」に書かれています。この伝承の中では、「赤石(明石)に上陸した百済王子『恵』が一族を引き連れて明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てた。王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」または舟井坊と呼んだ。」とされています。この「明要」という年号は「九州年号」の中に存在しているものであり、その「元年」は「辛酉」であり、年次としては「五四一年」と考えられています。(ここでは「百済」からとされています当の百済には「明要」という年号があったないしは使用されたという形跡が全く認められず、これは「西方」から伝わったということを示していると思われ、「九州」からの伝搬の暗喩ではないかと思われます。)
ここでは「勅許」つまり、寺院を開基する許可を「倭国王」から得た、という風に書かれているわけですが、『書紀』では「欽明天皇」が仏法を受け入れるかどうするか、という詮議の際に「蘇我」に「試し」に拝ませることとし、その師を「播磨」に求めた、という風に書かれており、全く状況が食い違っています。
この記事からは「播磨」にすでに仏教に関連する事物が存在していることを示しているわけですが、「明要寺」はその「播磨」にある寺なのですから、これが「近畿天皇家」の「勅許」で建てられたはずがないこととなります。
仏教受容に関する近畿王権内部の混乱は「丹生山縁起」に言う「勅許」を与えるような状況でなかったのは明らかですから「近畿天皇家」ではない「他の誰か」により「勅許」が与えられたこととならざるを得ません。しかも「勅許」というのですから、その主体は「倭国王」以外にはありません。つまり「近畿王権」は「倭国王」ではないと言うことに自動的になってしまいます。
さらに、この時点で「勅許」が与えられている、という事はこの時点の「倭国王」は仏教について理解があり、国内に仏教が広がることを許容していた、あるいは積極的に推進していた、という可能性とともに、仏教の伝来がこの時点よりかなり「以前」のことであったのではないか、という可能性をも示唆するものでもあります。
ところで「九州倭国年号」の中には仏教に関連すると思われるものが散見されます。また、『二中歴』の「年代歴」の「細注」には仏教に関連することが書かれている場合があります。たとえば「法清」という年号があります。『二中歴』の細注には「法文〃唐渡僧善知傳」とあります。
「法清四元甲戌(五五四~五五七)(法文〃唐渡僧善知傳)
ここで「法文」と書かれていますが、これは辞書などでは「経」や「論」「釈」など仏教に関連する文章や文書などを言うと書かれています。また『二中歴』では「中国」の事を全て「唐」と表現していると思われ、実際には「唐」から伝わったという事を示すものではないと考えられます。
また「上記」二中歴の文章の中の「〃」は「自」の誤りではないかと考えられ、もしそうであれば「『法文』が『唐』(中国)から渡った。僧の『善知』が伝えた。」と言う文章と理解できます。
同様に『二中歴』「年代歴」の「明要」のところに「細注」として「文書始出来結縄刻木止了」とあります。この『二中歴』の書き方からは「文書」ができたのと「結縄刻木止了」は同時であるように受け取られます。ここで言う「結縄刻木」とは「結縄」により「数字」や「暦」を表し、「刻木」により文字に代わる情報を伝達するというものであったと推量されます。
つまり「文字」(及び「数字」)が成立していない時代の「コミュニケーションツール」であり、これは「弥生」以来「倭国」では伝統的に使用され続けていたと思われます。しかし仏教の伝来と共に「漢字」に対するアプローチが変化し、さらに「暦」の伝来を一代契機として「列島」に「文字」が成立したものであり、その時点を以て「文書」ができたとするわけですから、逆に言うと「文書始出来」たとすると当然「文字」がなければならないこととなります。さらに「文字」ができるためには「於百濟求得佛經」がすでに済んでいなければならず、このことから「百済」から仏法が伝来したあと、ある程度時間が経過し、その後日本語としての「文字」が成立したと見られることとなります。そしてその時点で「文書」というものが作られたものであり、それを以て「結縄刻木止了」となる、という時系列が推定されるわけです。
(この項の作成日 2011/07/13、最終更新 2015/02/11)
この「遅れ」については一般には、理由等詮索されることが少ない(ない)ようですが、「倭国」は「五世紀」には(「倭の五王」の時代)「南朝」へ遣使する等、活発な外交活動を展開しており、そのような中でも仏教(だけ)が伝来されることがなかったとすると、はなはだ不審ではないでしょうか。
「播磨」に「明要寺」という寺があります。この寺は「百済」から「王子」が来倭して、「勅」(つまり倭国王)により建てられた、と開基に関する文書である「丹生山縁起」に書かれています。この伝承の中では、「赤石(明石)に上陸した百済王子『恵』が一族を引き連れて明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てた。王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」または舟井坊と呼んだ。」とされています。この「明要」という年号は「九州年号」の中に存在しているものであり、その「元年」は「辛酉」であり、年次としては「五四一年」と考えられています。(ここでは「百済」からとされています当の百済には「明要」という年号があったないしは使用されたという形跡が全く認められず、これは「西方」から伝わったということを示していると思われ、「九州」からの伝搬の暗喩ではないかと思われます。)
ここでは「勅許」つまり、寺院を開基する許可を「倭国王」から得た、という風に書かれているわけですが、『書紀』では「欽明天皇」が仏法を受け入れるかどうするか、という詮議の際に「蘇我」に「試し」に拝ませることとし、その師を「播磨」に求めた、という風に書かれており、全く状況が食い違っています。
この記事からは「播磨」にすでに仏教に関連する事物が存在していることを示しているわけですが、「明要寺」はその「播磨」にある寺なのですから、これが「近畿天皇家」の「勅許」で建てられたはずがないこととなります。
仏教受容に関する近畿王権内部の混乱は「丹生山縁起」に言う「勅許」を与えるような状況でなかったのは明らかですから「近畿天皇家」ではない「他の誰か」により「勅許」が与えられたこととならざるを得ません。しかも「勅許」というのですから、その主体は「倭国王」以外にはありません。つまり「近畿王権」は「倭国王」ではないと言うことに自動的になってしまいます。
さらに、この時点で「勅許」が与えられている、という事はこの時点の「倭国王」は仏教について理解があり、国内に仏教が広がることを許容していた、あるいは積極的に推進していた、という可能性とともに、仏教の伝来がこの時点よりかなり「以前」のことであったのではないか、という可能性をも示唆するものでもあります。
ところで「九州倭国年号」の中には仏教に関連すると思われるものが散見されます。また、『二中歴』の「年代歴」の「細注」には仏教に関連することが書かれている場合があります。たとえば「法清」という年号があります。『二中歴』の細注には「法文〃唐渡僧善知傳」とあります。
「法清四元甲戌(五五四~五五七)(法文〃唐渡僧善知傳)
ここで「法文」と書かれていますが、これは辞書などでは「経」や「論」「釈」など仏教に関連する文章や文書などを言うと書かれています。また『二中歴』では「中国」の事を全て「唐」と表現していると思われ、実際には「唐」から伝わったという事を示すものではないと考えられます。
また「上記」二中歴の文章の中の「〃」は「自」の誤りではないかと考えられ、もしそうであれば「『法文』が『唐』(中国)から渡った。僧の『善知』が伝えた。」と言う文章と理解できます。
同様に『二中歴』「年代歴」の「明要」のところに「細注」として「文書始出来結縄刻木止了」とあります。この『二中歴』の書き方からは「文書」ができたのと「結縄刻木止了」は同時であるように受け取られます。ここで言う「結縄刻木」とは「結縄」により「数字」や「暦」を表し、「刻木」により文字に代わる情報を伝達するというものであったと推量されます。
つまり「文字」(及び「数字」)が成立していない時代の「コミュニケーションツール」であり、これは「弥生」以来「倭国」では伝統的に使用され続けていたと思われます。しかし仏教の伝来と共に「漢字」に対するアプローチが変化し、さらに「暦」の伝来を一代契機として「列島」に「文字」が成立したものであり、その時点を以て「文書」ができたとするわけですから、逆に言うと「文書始出来」たとすると当然「文字」がなければならないこととなります。さらに「文字」ができるためには「於百濟求得佛經」がすでに済んでいなければならず、このことから「百済」から仏法が伝来したあと、ある程度時間が経過し、その後日本語としての「文字」が成立したと見られることとなります。そしてその時点で「文書」というものが作られたものであり、それを以て「結縄刻木止了」となる、という時系列が推定されるわけです。
(この項の作成日 2011/07/13、最終更新 2015/02/11)