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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「納音」と「琴」(1)

2014年10月08日 | 古代史
 「中国」では「詩」は「曲」に乗せて「歌う」ものでした。その場合多くは「琴」が伴奏として使用されていたものです。先に挙げた「帝舜」の「春風」も同様であったものであり、「五弦琴」を弾きながら「詩」を歌ったものです。このような場合元々「詩」の「一音」が、「曲」の「一音」に対応するものではなかったかと考えられます。つまり、「詩」の「一区切り」の音数と「弦の数」とが元々対応していたのではないかと考えられ、「五弦琴」の存在は原初的な「詩」における「一区切り」の数が「五音」であったことを示すものではないでしょうか。

 「琴」の演奏の原初的な演奏法は「開放弦」による演奏が基本であったと思われ、「指」で「絃」を押さえて「違う音階」を発生させるのはそれに継ぐ段階であると考えられるわけです。
 「詩」が本来「曲」に乗せて歌うものであり、またそれを「五弦」に乗せて歌うなら「五言詩」がしっくりくるでしょうし、「七弦」ならば「七言詩」がふさわしいといえるのではないでしょうか。
 つまり、詩の形式の発展と「琴」の弦数とは関係があるのではないかと考えられることとなります。

 「詩」の形式においては「唐代」以前の「詩」を「古体詩」と呼び、「四言」「五言」「七言」などいくつか種類があるようですが、「漢の武帝」の時代(紀元前一二〇年)宮中に設けた音楽を司る役所を「楽府」といい、またその後そこに集められた民間の歌謡を指すものともなったとされます。当然「曲」が先行して存在しており、「役人」としての「楽人」が典礼用の詩を作り、それをそれらの「曲」に乗せて歌ったもののようです。ただし「曲」にはすでに「題」がついているわけであり、新しく作った詩にも同様の「題」が適用されたものです。
 「魏」の「曹操」の「楽府」に納められた「詩」では「五言詩」が非常に多く、この時代の詩曲の多くが「五音」単位で作られていたことを示しています。
 「曹操」は民間歌謡に取り上げられた「題」を使用して(というか「借りて」)多くの詩を歌っています。それらの多くは「散逸」して失われましたが、一部にはそれが残っており、その中から一例を示します。
 ここでは例として「韮露」という作品を挙げます。

(「宋書楽志 楽府詩集二十七」より)
「惟漢廿二世/所任誠不良/沐猴而冠帯/知小而謀彊/猶豫不敢断/因狩執君王/白虹為貫日/己亦先受殃/賊臣持国柄/殺主滅宇京/蕩覆帝基業/宗廟以燔喪/播越西遷移/号泣而且行/瞻彼洛城郭/微子為哀傷」

 このメロディーのように「五音」で構成される「詩曲」はまさに「五弦」による伴奏が最もふさわしいと思えます。一音一語と考えれば五言が複数繰り返される型の詩文に曲をつける際には「五弦」の楽器が最も適切に思われるわけです。

 「詩」が本来「メロディー」を持つものであり、楽器演奏が必須であったと考えると、「詩」と「音階」と(というより「音律」というべきでしょうか)には深い関係があることとなるでしょう。
 中国語は日本語と違って極端な高低アクセントがあり、中国人の話しているのを聞くと「音楽的」という印象を受けるという意見がありますが、それは「詩文」を吟ずる際には特に顕著になったものと思われ、「楽器」で伴奏するのも当然と思われますが、その際に中国語のイントネーション(「平仄」というべきか)とマッチしなければならず、「音階」や「音律」と「言語」の間には直線的関係があったこととなるでしょう。それは「五絃」と「五言」の間に関係があると考えることにつながるものです。

 ところで「五行説」というものがあります。それはこの宇宙が「五つの要素」でできているとする考え方であり、それが移り変わることで「陰」と「陽」が変転するというものです。このような思想が「倭国」に到来したのがいつのことなのかは明確ではありませんが、海外との折衝が頻繁に行われていたのが「五世紀」の「倭の五王」時代のことであることを考えると、少なくとも最後の「武」以前ではないかと考えられることとなるでしょう。しかしその本格的な導入は「書紀」では「推古紀」に記された「百済」からという「暦本」「天文」「方術」などを扱う人間が来倭したとする記事が注目され、「六世紀終わり」という時期が最も考えられるものです。

 この「五行」はそれぞれ「木」「火」「金」「土」「水」に配され、それに対応する「色」として「青」「赤」「黄」「白」「黒」の五色があるとされます。しかし、「色」だけではなく「音階」も配されているのです。それは「納音」と呼ばれています。
 「納音」は「五行」を音階で表したものであり、それは「五行」に当てはめられていることから考えて、その音階を表す楽器が「五弦」以上のものであることが推察されます。その音階としては「宮」、「商」、「角」、「徴」、「羽」の五つの音階が相当するとされ、これが「干支」に配されて年ごとの吉兆を占うものとして考えられました。これは「五弦琴」あるいは「七弦琴」の「第一絃」から「第五絃」までの「開放弦」の音階そのものであり、年次(生まれ年)に応じて「音階」つまり「納音」が定まっていたものです。
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「光源氏」と「聖徳太子」(「七弦琴」との関わりで)

2014年10月06日 | 古代史
 「源氏物語」の中では主人公である「光源氏」は「七弦琴」の名手とされています。しかし「源氏物語」が書かれた「十世紀末」から「十一世紀初頭」という時代には「七弦琴」(きん)は既に廃れており演奏されることもなくなっていました。にもかかわらず「光源氏」という人物については「七弦琴」が彼を特徴付けるものとして描かれているわけです。

 「源氏物語絵詞」などを子細に観察すると、それらは平安後期以降に書かれたものではあるものの、描かれた絵画の中では「七弦」の琴が描かれている例が多数に上ることが確認されています。(※1)
 この「七弦琴」は「源氏物語」の中では「きん」「きむ」と仮名書きされており「琴」(こと)とは異なるものと考えられていたようです。これは「音」で表現することが最善と考えられていたことを示し「外来」のものであることが示唆されるものであり、「和琴」とは異なる出自を持つものと考えられるものです。ところで、その「琴」(きん)を得意としていた「光源氏」のモデルとされているのが「聖徳太子」であるとする研究があります。(※2)
 それによれば「聖徳太子伝暦」という平安時代の書物に出てくる「聖徳太子」に関する記述と「源氏物語」中の「光源氏」とが非常によく似ているとされています。そこには「百済」から「日羅」を招請し彼がそれに応え「来倭」した際に「聖徳太子」と面会したというエピソードが書かれており、その情景などの描写が、「源氏物語」の中で「光源氏」が「高麗」から来た「人相」を見る人との対面するシーンに酷似しているとされます。

(「聖徳太子伝暦」の記述)「(推古)十二年 癸卯 穐七月 百濟賢者韋北達率日羅…太子密諮皇子御之微服…指太子曰那童子也是神人矣…日羅跪地 而合掌白曰敬礼救世觀世音大菩薩傳燈東方粟散王云云人不得聞太子修容折磬而謝日羅大放身光如火熾炎太子亦眉間放光如日輝之枝…」

 (以下酷似しているとされる「源氏物語」の一部を記述)「そのころ、高麗人のまゐれるが中に、かしこき相人ありけるを…いみじう忍びて、この御子を、鴻臚館に遣はしたり。…相人驚きて、あまたゝび傾きあやしぶ。「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。…「光る君」という名は、高麗人の愛で聞こえて、つけたてまつりける」とぞいひ伝へたるとなむ。」

 「百済」を「高麗」に変えてはいますが、「微服」を「いみじう忍びて」とするなど基本は同じ内容の表現であり、そのシチュエーションの細部までよく似ているとされるわけですが、この「聖徳太子伝暦」は、一説には「紫式部」の曾祖父である「藤原兼輔」が書いたものとされていますから、それを「紫式部」が幼少の頃から見慣れていたという可能性もあるでしょうし、またその「伝暦」の原資料となったものそのものが彼女の周辺にまだ残っていてそれを参照したという可能性も考えられるところです。そう考えると、「聖徳太子」と「七弦琴」の間に「実際に」何らかの関係があったということも可能性としてはあり得ると思われます。
 ところで一般には「七弦琴」の「倭国」への伝来は「唐代」とされていますが、既にみた「隋」の「楽制」の伝来という中に含まれていたという可能性が考えられ、「古式」ともいえる「五弦琴」の存在を知った「隋皇帝」(文帝)からの、最新のものを知らしめようという意味の贈呈品であったという可能性もあるでしょう。
 この「七弦琴」は「平安時代」以降、「琴の琴」「箏の琴」「和琴」等複数ある「琴」の中の最高位のものとされ、日本では「天皇」を始めとした「高位」にあるものしか弾くことのないものとされていました。それは「数」が少なかったこともあるでしょうけれど、本来「隋皇帝」からの下賜品であったという経歴がそのようなランク付けがされる原因となっていたのではないでしょうか。その「隋」から「七弦琴」を下賜された当時の「倭国王」は「阿毎多利思北孤」であると考えられますから、「聖徳太子」という人物と「七弦琴」が関連しているとされるのは「聖徳太子」に「阿毎多利思北孤」という人物が投影されていることを如実に示すものです。

 このように「七弦琴」が「聖徳太子」に結びつけられて「源氏物語」が構成されているというわけですが、その「光源氏」に「高麗」の「相人」が語ったという「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。」という言葉は「聖徳太子」には適合しないのは周知の通りです。彼は「皇太子」ではあったものの「即位」せず、その一生を「摂政」の身で終わったものであり、「帝王」や「国の親」というような呼称が似つかわしい地位にいたとは考えられません。このような呼称はその「聖徳太子」に投影されていた「倭国王」であった「阿毎多利思北孤」にこそ適用されるものであったと見られます。そのような「形容」が「阿毎多利思北孤」に実際に為されていたものであり、それが後に「聖徳太子」に対するものとして変化して伝えられたものとみられます。
 「推古紀」に「聖徳太子」(厩戸豐聰耳皇子)が亡くなったときの記事がありますが、その中には「如亡慈父母」という表現が見られ、まさに「国の親」を失った表現であふれています。

「(六二一年)廿九年春二月己丑朔癸巳。半夜厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒而臨酢之味在口不嘗。『少幼者如亡慈父母』。以哭泣之聲滿於行路。乃耕夫止耜。舂女不杵。皆曰。日月失輝。天地既崩。自今以後誰恃或。」

 これは「阿毎多利思北孤」の「崩御」時点の人々の心情を表したものと思われ、それが強く人々の記憶に残り「書紀」など各種の記録に遺存・伝承されたものと見られます。


(※1)川島絹江『源氏絵における琴(きん)と和琴の絵画表現の研究』東京成徳短期大学紀要第四十三号二〇一〇年

(※2)川本信幹「源氏物語作者の表現技法」日本体育大学紀要二十二巻一号一九九二年
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倭国の「楽」と「五弦琴」

2014年10月06日 | 古代史
 以前に書いた『「遣隋使」と「遣唐使」』の中で「倭国」の楽と「隋」の「楽」の関係について触れましたが、「隋書俀国伝」では「倭国」の「楽」として「五弦琴」があると書かれています。

(隋書/列傳第四十六/東夷/倭國 )「…樂有五弦琴笛…」

 ここに書かれた「五弦」が「五弦の琴」を指すものなのか「(五弦の)琵琶」なのかについてやや議論があります。この「五弦」を「琵琶」とすると「琴」の弦数については言及していないこととなりますから、当時の「隋」と同じく「七弦」であったと考えられる事となりますが、遺跡からは「七弦琴」が確認されないため、この「五弦」を「五弦琴」とつなげて理解して「五弦の琴」という意味と理解することもまた可能かと思われます。
 そのような理解に正当性があると思えるのは、同じ「隋書」内の「南蛮」の国々に対して「五絃」と「琵琶」が書き分けられている例があるからです。

(隋書/列傳第四十七/南蠻/林邑)「…樂有琴笛琵琶五絃,頗與中國同。…」
(隋書/列傳第四十八/西域/康國)「…有大小鼓琵琶五絃箜篌笛。…」

 これらの例では「琴」とは別に「琵琶」と「五絃」が存在していることが明らかであり、「五絃」という表現が「琵琶」を示すものではないと考えられることとなります。つまり「倭国」を含むこれらの国々には「五絃」と称される「琵琶」とも「琴」(七弦琴)とも異なる楽器が存在していたことを示すものであり、最も考えられるのは古代に「帝舜」が奏していたという「五絃の琴」ではなかったかというものです。

 「礼記」などに「帝舜」と「五弦琴」についての逸話が書かれています。

「礼記」「楽記」「…昔者舜作五弦之琴以歌南風,夔始制樂以賞諸侯。故天子之為樂也,以賞諸侯之有者也。…」

 このエピソードは「隋・唐代」においても著名であり、このことから「五弦」といえば「帝舜の五弦琴」というように連想されていたものと思われます。
 またこの「五弦琴」については「帝舜」の歌が「南風」を歌ったものと言う事もあり、特に中国南方地域に強く遺存していたようです。「北宋時代」に編纂された「太平御覧」の「州郡部」に引用されている「湘中記」の中でも「江南道潭州」(現在の長沙市付近か)では「帝舜」の「遺風」があるとされ、「古老は五弦琴を弾ずる」とされています。

(「太平御覧」州郡部十七「江南道下」「潭州」)「《湘中記》曰:其地有舜之遺風,人多純樸,今故老猶彈五弦琴,好爲《漁父吟》。」

 このように「南方地域」で「五弦琴」が見られるわけですが、それは「隋書」の「林邑伝」において、習俗として「文身断髪」とされるなどその記述が南方的であることと、そこに「五弦」と書かれている事とがつながっているように思われ、この「五弦」が「帝舜」の「南風」に影響された「五弦琴」であることを推察させるものです。
 また、「林邑伝」に描かれた習俗は「倭国伝」にも近似しており、そのことは同様に「服装」などが南方的と思われる「倭国」における「五弦」も「帝舜」の「五弦琴」と関係があると考える余地がありそうです。
 他の史料においても「五弦」とある場合ほぼ全て「五弦琴」を指すことが確かめられ、それに対し「五弦」の「琵琶」の場合は明確に「五弦琵琶」と書かれる場合が多いという実態が確認されます。

 また「林邑伝」で「楽器」を列挙した後に「頗與中國同」と書かれているのは、その先頭に「琴」が置かれていることと関係しているでしょう。つまりこの「琴」は「七弦琴」であり、それも含めて「楽器」は(「五弦」の存在を除けば)「隋」によく似た構成であると言う事ではないでしょうか。そうであれば「倭国」や「高麗」が「五弦」「琴」と始まってなおかつ「隋」と同じとは書かれていない事もまた重要であると思われ、ここには「七弦琴」が存在していないことを示すものと考えられるものです。
 これに関して「源氏物語」の主人公である「光源氏」が「七弦琴」を得意としていたという記述もそれなりに重要であると思われます。なぜなら「光源氏」は「聖徳太子」がモデルという説があるからです。
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「伊都国」について

2014年10月05日 | 古代史
 「伊都国」について「倭国」の中では「伝統」と「権威」があった過去があり、それが衰退していく過程が「黥面」の刑罰化と関係していると考察したわけですが、その伊都国(および奴国)については「魏志倭人伝」に官名として特徴のあるものが確認できます。そこでは「觚」という文字が最後に使用されています。

「…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰『泄謨觚』、『柄渠觚』。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里。官曰『兕馬觚』、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。…」

 ここに書かれた「觚」は古代中国で祭祀や儀礼に使用された「酒」や「聖水」などを入れた「器」であり、そこから「爵」で移して飲んだとされているものです。
 このような「典拠」のある漢字をあえて「魏使」や著者「陳寿」が選ぶ必要はなく(貴字に属すると思われる)、明らかに「倭国側」(「奴国」と「伊都国」)側で「選択」したものであると考えられます。
 当然「倭国側」としては「觚」の意味やそれがどのように使用されたのかを明確に踏まえた上の「撰字」と思われ、「表意文字」として漢字が選ばれていると考えられます。
 つまり、彼等には「実態」として「觚」が授与されており、その形状などがそのまま「官」の名称になっていたのではないかと考えられます。またこの「觚」はそもそも「周代」などにそれで「酒」を飲み、その後「天子」と面会するという儀礼があったものであり、そのことから「伊都国」「奴国」でも同様に宮廷儀礼としてその「觚」で「酒」を飲んでいたという可能性もあるでしょう。
 それに対して「邪馬壹国」や他の国の「官職名」は、明らかに「倭語」を漢字に写したものであり、「表音文字」として使用されていると思われます。
 つまり、「伊都国」「奴国」は「漢字先進地域」であり、より中国の文化を深く受け入れていたと考えられ、このことから「伊都国」「奴国」にはかなりの「渡来人」がいたのではないかということが想定されます。そのことは「伊都国」には代々王がいるとされていること、その伊都国が「中国」からの使者の「常駐」場所であるという記述とも重なります。

 「東南陸行五百里、到伊都國。…郡使往來常所駐。」

 つまり、ここ(「伊都国」)には「郡使」を饗応する施設があったものと見られ、その意味からも「中国文化」の受容には積極的であったと思われます。
 「伊都国王」の大きな仕事がこのような時点における「饗宴」の「ホスト」としてのものではなかったかと考えられ、「倭国王」と関係の特に深い「伊都国王」ですから、「倭国王」の「名代」として「郡使」などと対応するには適任ではなかったか思われます。
 さらに言えば「伊都国王」という「王権」の確立に「中国」からの文化や人間が活躍したという想定はかなり容易でしょう。また、そのような「先進地域」に人が集まるのも自然な現象です。(同様に「觚」という字が官名に使用されている「奴国」の人口が多いのもそのような理由によるものでしょうか)
 しかし、「倭国中枢」である「女王国」(「邪馬壹国」)などは古来からの「職名」がそのまま遺存していると言えると思われます。
 これは「漢字文化」「中国文化」に対してやや「後進的」「保守的」であるという可能性を感じるものであり、それは「邪馬壹国」まで「外国」からの使者が直接訪れるということが余り多くなかったという可能性とも関連しているともいえるでしょう。少なくとも、「伊都国」段階で(「一大率」により)「文書」の内容などが「翻訳」され、「品物」についても「確認」が済んでいるとすると、「邪馬壹国」にはそのような人材を豊富に置いておく必要はなかったと考えられることとなります。

 また、「伊都国」などに「觚」という官職名(位階)が存在していたことは、「伊都国王」が「中国」の天子(この場合は「周」か)から「爵」位を受けていたという可能性が考えられます。なぜなら「爵」は「諸候王」に対して「天子」が「卿」と認めた場合授けるものであり、「觚」よりも一段高い位であったと考えられるからです。そうでなければ、ここで「觚」が「伊都国」の官位として採用されることはなかったともいえるのではないでしょうか。そこには位階に関する一種の階層性が表れているものと考えられるものです。
 さらにその場合、それは「伊都国」「奴国」と「中国の天子」との間の関係であってそこに「邪馬壹国」が介在していないこととなるのが重要であると思われます。
 これらのことは「後漢書」に「使人自稱大夫」(使人自ら大夫と称す)と書かれることにつながるものであり、この「大夫」という「官名」は「周」の制度にあるものですから(「士・卿・大夫」という順列で定められたもの)、それは一見「倭国」側の単なる「自称」と見られがちですが、実際に「周」の王の配下の諸王の一人、と認められていたという可能性もあるでしょう。
 そのため、派遣された倭国王の部下はその下の「大夫」を名乗ったということになるわけですが、このことからこの「光武帝」への貢献は「觚」という語を負った官職の人物が使者として派遣されていたと云うことが考えられ、「伊都国」あるいは「奴国」からのものではなかったかという推測につながるものです。
 つまり「帥升」により「倭国内」が統一され「強い権力」が発現する以前の段階における「倭国」の代表権力者は「伊都国」(あるいは「奴国」という可能性もある)の王であったという事がいえるのではないでしょうか。
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「黥面」の刑罰化について(3)

2014年10月05日 | 古代史
 「伊都国」はその支配領域が「海」に近接した領域であり、また「邪馬壹国」と関係の深い「クニ」でもあり、「形骸化」はしているものの「倭人伝」で諸国の中では唯一「王」の存在が書かれている「クニ」でもあります。
 「倭国」において指導的「権威」を長く保持し続けてきた「伊都国」が海に深く関係しているとすれば、「黥面」という倭国の一般的風習の形成に「伊都国」が関係していたという可能性も大きいのではないでしょうか。
 「魏志」の「韓伝」においても(「弁辰」の項)『「倭」と接しているところでは「文身」している』とされています。(「男女近倭,亦文身。」)
 「韓」から近い「倭」とは「対海国」や「一大国」「末廬国」あるいは「伊都国」などを指すと思われますから、この地域と「文身」という習慣が密接な関係があるのは確かと思われます。(但し「韓伝」では「黥面」については書かれていませんから、「黥面」は「倭人」独自の習慣であったものでしょうか。)
 しかし、その「伊都国」は「倭人伝」でも「一大率」が「伊都国王」を差し置いて「刺史」の如く統治権を行使しているように書かれており、既にかなりその権威が低下している風情がみられ、これがその後さらに進行し、推測によれば「博多湾」に面した「大津城」が「伊都国」の支配下から「奴国」に編入されるという事案が発生したとみられる時点以降、「伊都国」そのものがいわば消滅したものではないかと推量され、このような政治的変化が(あるいは闘争を伴って)起きて以来、「伊都国」を象徴するものとして存在していた「黥面」が、その「伊都国」という権威の否定と共に「刑罰」化したものではないでしょうか。(倭人伝時点で既に「戸数」も少なくなっており、実力はほぼなかったと思われますから、伝統とそれに基づく権威だけで存在していたと見られ、その意味でも消えゆく運命であったともいえるものです。)
 またそれは「海人族」一般の没落をも意味していると思われ、その後の「倭の五王」などの時代には「海人族」は傍流という立場とされていたのではないでしょうか。このことは相対的により内陸にあった勢力が伸張したことを示唆するものであり、「筑紫」から「筑後」そして「肥後」というように「玄界灘」から奥まった地域に倭国の権力中心が移動したことを暗示するようです。
 そして以後この「黥面」は「罪」を犯して「」となった人々以外にも「東国」など「被征服民」とされた人々など「部民」とされた人々に対しても同様に施されたものであり、これが「刑罰」としても停止されるのは「六世紀末」の「阿毎多利思北孤」の改革まで待たなければならなかったものです。
 「隋書俀国伝」によれば刑罰としては「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重或流或杖」という記載があり、これによると「黥刑」(墨刑)がありません。「丈刑」(棒で叩く)「流刑」(遠隔地へ追いやられる)「没刑」(奴刑)「死刑」などがあり、これは後の「笞丈徒流死」にかなり近いものであり、かなり近代化されていることがわかります。これは「黥刑」を含む「古代的刑罰」から一歩進んだものであり、これは「倭の五王」以降の段階を示すものであると同時に「遣隋使」などの積極的な外交政策を推進しようとしていた「阿毎多利思北孤」の時代付近で確立されたものではなかったかと推定できるものです。その意味でも「黥面」が「點面」になってしかも「ファッシヨン」となっていたらしいことは注目されるものです。「女性もしている」という中にそれが「化粧」としての扱いを受けていたらしいことが窺えるものです。

 このように「伊都国」について衰えゆくものと考えられるのは、逆に「伊都国」が「伝統」と「権威」を長く保ってきたとみられることの裏返しであると思われます。
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