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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「黥面」の刑罰化について(2)

2014年10月05日 | 古代史
 元々中国では「黥」とは「刑罰」のうち最も軽いものとして存在していました。いわゆる「五刑」というものが古代から有り、それは「黥刑」(入れ墨)「劓刑」(鼻そぎ)「髕刑」(足きり)「宮刑」(「陰刑」)「大辟刑」(死刑)が、犯した罪の内容と程度により決められていたというわけです。しかし「倭国」では「刑罰」としてではなく「風習」として「黥」が行われていたものであり、「刑罰」としては機能していなかったと見られることとなります。
 「倭人伝」には刑罰について「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。」とされており、「没」(となる)「滅」(死刑か)という二種類があることが知られますが、中国のような制度はなかったものと見られます。
 しかし、「魏晋朝」と交流が始められた中で、「黥」が「中国」では「刑罰」としてのものであることを知ったとすると、それを「忌避」するようになったと云うことは想定されるでしょう。ただしそれが直後なのかどうかは微妙です。「書紀」では「黥」が刑罰として機能しているようになるのは「履中紀」であり、それ以前の代には現れません。

(日本書紀卷第十二 去來穗別天皇 履中天皇)「元年…夏四月辛巳朔丁酉。召阿雲連濱子詔之曰。汝與仲皇子共謀逆。將傾國家。罪當干死。然垂大恩而兔死科墨。即日黥之。因此時人曰阿曇目。…」

 これによれば「阿雲連濱子」は「謀逆」という罪を犯した結果「死罪」を特に免じられて「墨刑」とされたものであり、「黥」を施されたものです。(彼らはさらに「」とされたものと見られます)
 これによれば「死罪」に次ぐ重刑であったと見られ、中国の制度とはかなり異なることが窺えます。
 つまり、元々単なる「風習」であった「黥面」が、後に「犯罪者」に対してその「しるし」として「顔面」に「黥」を施すこととなったものであり、明らかにそれまでの「風習」としてのものから変質したことを示します。
 このことは「黥」が刑罰化したのはそれほど遡るものではないという可能性が考えられ、「魏晋朝」と言うよりそれ以降の「倭の五王」の時代であったという可能性の方が高いと考えられます。
 つまり、「倭の五王」の初代王である「讃」が「強い権力」を発揮し始めた段階で「黥」などの刑罰を国内にも適用し始めたのではないかと推測されますが、これが中国の刑罰制度の直輸入ではないのはそれ以外の「鼻そぎ」や「足きり」「陰刑」などの実例が「書紀」「古事記」などに全く見えないことに現れています。
 つまり「黥刑」だけが国内に適用されるようになっていたものであり、そのようにして「犯罪者」に対しその「明徴」として「顔面」に「黥」を施すこととなったということはあきらかにそれまでの「風習」としてのものから変質したことを示します。
 逆に言えば「卑弥呼」以降「讃」の前代までに「黥」に対する意識変化が起きていたことを示すものといえそうです。
 それまでは特に普通のことであった「點面」が、ある時期以降「蔑視」されるようなこととなり、そのため「一般人」は「彫る」ことはせず「點面」にとどまるとなったものと見られるわけです。(但し「文身」はまだこの「六世紀末」という時点でまだ遺存しているようですし、「臂」に「黥」する習慣もまだ残っていますが、これらは「衣服」などにより直接見えないことから「刑罰」の意義がないことと考えられたものと思われ、「黥面」だけが「刑罰化」したこととなるでしょう。)
 このような「黥面」の刑罰化は「黥面」の風習を強く保持していた集団あるいはそれらの集団で構成されていた「クニ」の衰退あるいは没落と関係しているのではないかと考えられるところです。
 この「黥面」や(「文身」も)という風習は「沈没」して「漁」をすると書かれている事からも海の民である「海人族」のものであるのは明らかですから、どこかで彼ら「海人族」にとって致命的とも言える政治的事案が起きたということではないでしょうか。
 そう考えてみると、「伊都国」の衰退と関係しているという可能性があると思われます。

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「黥面」の刑罰化について

2014年10月04日 | 古代史
 先に「一大率」の考察の際、「博多湾」に面する地域に「一大率」の拠点があったはずであり、その「一大率」について「倭人伝」では「常に伊都国に治す」と書かれている事から考えて、「博多湾岸」に「伊都国」の支配領域があったという考察をし、さらにその領域が後に「那の大津」というような呼称をされることとなったように「奴国」領域に編入されたらしいことを考察しましたが、それに関連して、「黥面」の記載の変化について考えて見ます。
 「隋書俀国伝」の中には「倭人」の「入れ墨」の風習に関する記述があります。

「男女多黥臂點面文身沒水捕魚」

 この書き方は「魏志倭人伝」の以下の記述を下敷きにしていると考えられそうですが、実は微妙に表現が異なります。

「男子無大小皆黥面文身。…文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」

 ここでいう「黥」とはいわゆる「入れ墨」であり、皮膚表面に「線刻」の傷をつけた跡に「墨」や「黒土」などをすり込むものです。また「點」とは単に「点」を意味する語であり、「墨」や「黒土」などで「ホクロ」のように印をつけることを言うようですが、「黥」とは異なり「傷」をつけることはなく「消すことのできるもの」であったと見られます。
 さらに「文身」は「身体」のほぼ全部に針先などで傷をつけ、そこに「墨」や「色素」などをすり込んで「文様」を描き出すこととされます。
 これらを踏まえて考えてみると、「倭人伝」では「黥面」とされ「面」つまり顔に「入れ墨」がされているとしていますが、「俀国伝」では「面」は「點」とされ、これは「入れ墨」ではなく、消したり書き換えたりができるものと考えられます。

 これらのことは明らかにこの両者の記事はその内容が異なるものであり、「隋書俀国伝」は単に「倭人伝」など前史から記事を引用したのではなく、その時点の最新の風俗を記したものと見られます。それはこの記事が「遣隋使」が自ら語った内容をベースにしたものと考えられる事からも明らかであり、「六世紀末」の「倭国」における「入れ墨」という風習についてかなり確度の高い情報と考えられます。そうであれば、「倭人伝」の時代(三世紀半ば)からこの間三百年間ほど経過している事となりますが、その時間的経過の中で「黥面」に対する感覚の変化とともに「取り扱い」にも違いが生じることとなったと見られることとなります。
 年月が経過する内に事物に対する考え方や感覚が変化することは起きて当然ともいえるわけですが、この場合その変化の原因として最も考えられるのは「犯罪」に対する刑罰としての「黥面」の発生です。
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