古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭国への仏教の伝来について(四)

2015年02月12日 | 古代史
 前稿では「百済僧」「観勒」の「上表」は「六二四年」から「一二〇年」程度遡った「五〇〇年」前後ではなかったかと推定したわけであり、「倭国」(九州王朝)への「仏教」の伝来は実は「四二〇年」前後かと推定されることとなったわけです。(同様の結論は既に「古賀達也氏」(※1)やそれに先行する「中小路駿逸氏」(※2)により得られています。)
 これについては従来の「仏教伝来」の時期が「高句麗」「百済」に比べ異様に遅かったのはなぜかという回答になるものであり、上の思惟進行によればそれは「書紀」の潤色による錯誤であって、それらの国々からさほど遅くない時期の伝来となるわけであり、しかも「倭の五王」の活動時期とぴったり重なると言うことは、言われてみれば当然至極とも言えます。
 対国外、対国内とも活発な活動を繰り広げ、海外から文物を多く取り入れていたと見られるその時期に、「仏教」も同様に国内に取り入れたこととなればきわめて自然な進行と考えられます。たとえば、「三国史記倭人伝」の「百済本紀」によると「三九五年」に「始めて」「百済」と「倭国」が「好(よし)みを結」んでいます。その証しとして「百済」からは「太子」である「典支」を「質」として倭国に送っているようです。さらに「父王」の死去に伴い帰国する「典支」に「倭国」側は「兵」百人をつけて護衛しこれを帰らせ、即位を援助しています(「四〇六年」)。
 その後も友好は続き「四一八年」には「百済」より「白絹」五十匹が献上されています。このような友好関係の中で「仏法」が伝えられていたとしても不思議ではありません。

 このように「百済」が「倭国」とこの時期「友好関係」を結んだのは「対高句麗」という「戦略上」の理由が大きいと考えられます。「好太王」の碑文によれば、「倭」軍を「好太王」が「渡海」して「破」ったと書かれており、また「百済」や「新羅」を「臣民」としたという事跡(高句麗の建前論)が書かれています。そして、それが「辛卯」(三九一年)の年のことと考えられているわけであり、これは「三国史記」で「倭国」と「百済」が「友好」を開始したとされる「三九五年」の直前のことなのです。
 このようにこの時期「高句麗」と「倭国」「百済」は互いに「熾烈」な戦いを行っていました。しかし、「好太王」即位以降「高句麗」の勢いが強くなる中で「百済」と「倭国」は「連係」して対応することとしたのだと思われます。とくに、そのような道を選んだ理由は「百済」側により多くの理由があると考えられます。なんと言っても「百済」は「高句麗」と「国境」を接しているわけですから、より強力な軍事能力を獲得する必要があり、そういう意味で「倭国」と連合したものと推察されます。また、「百済」にしてみると「高句麗」と「前線」で戦っている「背後」を襲われてはたまらない、という意味もあったでしょう。
 「高句麗」と「倭国」が手を結ぶというようなことさえも想定して、その前に、あるいはそうはさせないように「画策」したとしても不思議ではないと考えられます。
 そういう意味で「百済」の方に、より「友好」を結ぶべき理由があったと考えられ、そうであるなら、「仏教」をあえて「倭国」に伝えなかったなどと言うことは想定できないこととなるでしょう。「仏教」を「百済」から取り入れず、逆に「高句麗」から伝わってしまったならば、「倭国」が「高句麗」に対して「敵意」を持たなくなるようなことも考えられるからです。
 明らかに「百済」からは各種の「文物」を「友好」の「証」として「倭国」に提供せざるを得ない「事情」があったのであり、その中に「仏教」というものがあったとしても全く不思議ではありません。(「王」同士が同じ「宗教」を信仰しているという方が「連帯の証」としてふさわしいでしょう)
 逆に「倭国」からの使者も「仏教寺院」を目にして何も興味を示さない、というのは想定しがたいものと考えられ、「使者」から「報告」を受けた倭国王は多いに興味をかき立てられたことと思慮されます。

 ところで、『書紀』による「仏教」伝来記事は以下の通りです。

「欽明十三年(五三八年)冬十月。百濟聖明王更名聖王。遣西部姫氏達率怒唎斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶。逐所須用。盡依情。此妙法寶亦復然。祈願依情無所乏。且夫遠自天竺。爰洎三韓。依教奉持。無不尊敬。由是百濟王臣明謹遣陪臣怒唎斯致契。奉傳帝國。流通畿内。果佛所記我法東流。是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。…」(欽明紀)

 この記事によれば「百済」より「仏像」「経論」などが持ち込まれ、それに対し「欽明天皇」は「歡喜踊躍」して喜んだものの「然朕不自决」として「可禮以不」を「群臣」に問いかけた、ということとなっています。
 つまり、「天皇」が「礼拝」するかどうか、と言うわけですから、「国教」とするかどうかということのようです。しかも「天皇」の「詔」として「朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。」とまで言っています。つまり、「今までにこのようなすばらしい教えは聞いたことがない」というわけです。つまり、この「詔」の時点では「国内」に「仏教」が全く入っていないように感じられます。
 また、その後「崇仏」と「排仏」で国内は分かれて争うこととなるわけですが、これが「物部守屋」の滅亡で決着したのが「推古紀」の事として書かれています。
 「欽明紀」の記事が「仏教伝来」のその時点の記事としてリアルな描写であること、「百済僧」「観勒」の「上表」記事では「仏教」の伝来の記事が「干支二巡」ずれていて、それがそのことに限定されるのかということを考えると、「欽明紀」から「推古紀」が揃って「干支二巡」(一二〇年)ずれているという可能性があるのではないでしょうか。


(※1)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か~「仏教伝来」戊午年伝承の研究」(『古代に真実を求めて』第一集一九九六年三月 明石書店)
(※2)中小路駿逸「日本列島への仏法伝来、および日本列島内での漢字公用開始の年代について」(『大手門学院大学東洋文化学科年報』二巻一九八七年)
コメント

倭国への仏教の伝来について(三)

2015年02月12日 | 古代史
 仏教の伝来に関係したこととして、『書紀』の「推古紀」の中に興味深い記事があります。

「(推古)卅二年(六二四年)夏四月丙午朔戊申。三有一僧。執斧毆祖父。時天皇聞之。召大臣詔之曰。夫出家者頓歸三寶具懐戒法。何無懺忌輙犯惡逆。今朕聞。有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼以推問之。若事實者重罪之。於是集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸尼並將罪。於是百濟觀勤僧表上以言。『夫佛法自西國至于漢經三百歳。乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲。而貢上佛像及内典未滿百歳。故當今時。』以僧尼未習法律。輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如。仰願其除悪逆者以外僧尼。悉赦而勿罪。是大功徳也。天皇乃聽之。」

 この記事の中には「夫佛法自西國至于漢經三百歳。」という文章があります。つまり、「仏法」が「西国」から「中国」を経由して「百済」に伝わるまで「三〇〇年」かかったというのです。
 五世紀「東魏」の「楊衒之」が撰した「洛陽伽藍記」では、西国(インド)から中国への伝来は「後漢の明帝」の時代(紀元五十七~七十五年)とされ、一般にはこれは「紀元六十七年」のことと考えられています。

「洛陽伽藍記/卷四 城西/白馬寺」「白馬寺,漢明帝所立也。佛入中國之始。寺在西陽門外三裏禦道南。帝夢金神,長丈六,項背日月光明。胡人號曰佛,遣使向西域求之,乃得經像焉。時以白馬負經而來,因以為名。明帝崩,起祗洹於陵上。自此以後,百姓塚上或作浮圖焉。寺上經函,至今猶存。常燒香供養之,經函時放光明,耀於堂宇。是以道俗禮敬之,如仰真容。… 」
 
 これによれば、「後漢」の「明帝」が「西域」に遣使し「経像」を求めたものであり、それを白馬が背負ってきたので「洛陽」に「白馬寺」を建てたとされ、それが「仏教」の「中国」における「始め」であるとされています。 
 また「百済」に「東晋」より仏教が伝来したのは、「三国史紀」によれば「三八四年」とされています。

(「三国史記」百済本紀)「沈流王元年」(三八四年)「九月 胡僧摩羅難自晉至 王迎之致宮内 禮敬焉 佛法始於此」

 この間は「三八四-六十七=三一七年」ですから、これを「三〇〇年」の経過、と表記するのはそれほど間違いではないと思われます。しかし問題はその後です。「觀勒」の上表文では「乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。」、つまり、百済に伝わってから「僅か一〇〇年」と言っているようなのです。
 「百済」に伝来してから「百年」ということは、この「上表」の年次は「三八四年」+「一〇〇年」=「四八四年」付近のこととなってしまいます。
 さらに「貢上佛像及内典未滿百歳」、つまり「倭国」に「仏教」が伝来してからは「一〇〇年未満」というのですから、「八十年」前後と考えれば、「倭国」への伝来の年次は百済に伝来した年次である「三八四年」に「百-八十年」(=二十年)ほどを加えて「四〇四年」前後、という事となります。こう考えなければ「上表文」の趣旨と合致しません。
 ただし、「観勒」は「西国」から「漢」を経由して「百済」に伝来するまで「三〇〇年」かかったと言っていますが、上記の計算では「三一七年」となり、「十七年」の誤差があります。「観勒」の表現法にはこの程度の誤差があると考えると、「百年」にも「百年未満」という数字にも「十年程度」の誤差があっても不思議はありません。それらの合計として算出された「四八〇年」や「四〇四年」という数字についても、数字の幅として「前後十年」程度の誤差を見るべきでしょう。つまり「伝来」については「四〇〇年」±十年程度と見るべきであり、また上表した時期についても「五〇〇年」程度までその幅を広げて考えるべきと考えられます。ただし、いずれにしても「観勒」の時代として「五世紀末」程度を想定する必要があり、「倭の五王」の一人である「武」に対して行われた「上表」であると見ることが相当ではないでしょうか。

 また、この推定はこの時点で「僧正」「僧都」「法頭」などが任命されたという記事内容とも合致します。

「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。
壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。
秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」

 これらの「僧尼」を統制管理する職掌の「中国」における原型は「東晋」の頃のようですが、「王権」が「僧尼」等に対する監督としての「職掌」として任命したのは「南朝劉宋」の「順帝」の「昇明年間」に「楊法持」という人物を「僧正」としたとされているのが最初と考えられます。

「南史 列傳第六十七 楊法持」の段「宋時道人楊法持與高帝有舊,元徽末,宣傳密謀。昇明中,以為僧正。…。」

 この記事は「武」が「上表文」を提出した年次の至近となります。つまり、彼が派遣した「使者」が「僧尼」を管理する「管掌」としての「僧正」という存在を知識として持ち帰ったという可能性(蓋然性)は非常に高いと考えられますが、このことは「観勒」が上表した結果、それに応じて「僧正」などの任命を行ったという『書紀』の記事と整合するものといえ、彼の「真の」時代が「武」の時代であることを強く示唆するものです。(「観勒」という人物名が五世紀のものであるかは不明です。)
コメント

倭国への仏教伝来について(二)

2015年02月11日 | 古代史
「二中歴」「年代歴」の「明要」のところに「細注」として「文書始出来結縄刻木止了」とあります。また同じく「二中歴」の「年代歴」の冒頭には「年始五百六十九年内、三十九年無号不記支干、其間結縄刻木、以成政」とあります。
 この「二中歴」の書き方からは「文書」ができたのと「結縄刻木止了」は同時であるように受け取られます。ここで言う「結縄」と「刻木」は「漢籍」を探ると以下のように中国の周辺の諸国(いわゆる夷蛮の国)において「メッセージ」(指示や伝達など)を伝える際に使用されていたという記述が確認され、これらは「文字」がない世界ではごく当然のように使用されていたものと見られます。
 まず「結縄」については「漢書」などに「易経」を引用する形で以下のような記事が見えます。

(「漢書/藝文志第十/六藝略/小學」より)「…易曰:「上古結繩以治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸夬。…」」
(「後漢書/志第九 祭祀下/迎春」より)「…論曰:臧文仲祀爰居,而孔子以為不知。漢書郊祀志著自秦以來迄于王莽,典祀或有 未修,而爰居之類眾焉。世祖中興,蠲除非常,修復舊祀,方之前事邈殊矣。嘗聞儒言,三 皇無文,結繩以治,自五帝始有書契。至於三王,俗化彫文,詐偽漸興,始有印璽以檢姦萌, 然猶未有金玉銀銅之器也。」

 また「刻木」については以下のような記事が見えます。

(「三國志/魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十/烏丸」より)「(註)魏書曰…大人有所召呼,刻木為信,邑落傳行,無文字,而部眾莫敢違犯。…」(「後漢書」にも同趣旨の記事があります。)
(「隋書/列傳第四十九/北狄/突厥」より)「…無文字,刻木為契。…」
(「隋書/志第二十六/地理下/揚州/林邑郡」より)「…刻木以為符契,…」

 以上からは「三皇」時代には「結縄」であったとされ「五帝」の時代には「文字」が造られたとされています。また「刻木」は「突厥」「林邑」「烏丸」などにおける風俗として書かれていますから、いずれも夷蛮の地域のものです。
 これらによればどちらかといえば中国の中心域では「結縄」、周辺諸国では「刻木」ではなかったでしょうか。このことから「倭国」における「結縄刻木」という表現からは、中国の古い風習と夷蛮の国らしい珍しい方法とがミックスしていると(魏使には)見られていたこととなるでしょう。

 また、上の「刻木」の例では「烏丸」におけるものが注目されます。(上の三国志の例)そこでは「信」つまり「手紙」やメッセージの代わりとして「刻木」しているとされます。「大人」からの指示が「刻木」として各邑落に伝わり、そこに「文字」がないのに(文様だけがあったと思われます)誰も違反するものがないとされているわけです。
 他にも『隋書』に書かれた「突厥」や「林邑」の例では「刻木」とは「符契」を意味し、それらは身分証明であったり、信用確保のために使用するものであったとされます。(木ないし竹に何らかの「文様」を刻みつけ、それを二つに割った上で両者がそれを所有し、何らかのタイミングでそれを合わせることにより身分証明として使用したもの)
 倭国においてもこれらと同様の意義があったという可能性が考えられる訳です。

 「倭国」において「仏教」が伝来した後もこれを止められなかったとされるわけですが、その理由は「まだ『日本語』を表す文字がなかった」ということではなかったでしょうか。「無文字」とはそういう意味なのだと思われます。
 彼らは情報を伝えるのに、「結縄刻木」していたものであり、このような生活は「弥生」以来なのではないかと思われます。
 「王」も彼等に対して何か「詔」のようなものを発する時には「結縄刻木」で表していたものと思われます。それが「無文字 無号 不記干支 『以成政』」という部分に明確に現れていると言えるでしょう。
 その「結縄刻木」時代に「文字」の代わりとして「刻まれた」文様が「日本語」を表すものであったこともまた当然です。この「結縄刻木」という用語が「無文字」という状態を表すのに常套的に使用されるていることを考えあわせれば、この時点では「公用語」は「日本語」であり、「刻木」されたものは「文様」ではあっても「文字」(それも「漢字」)ではなかったこととなるでしょう。
 そしてその後「仏教」が伝来したことにより「漢語」が流入したわけですが(この場合「漢語」は「経典類」を意味すると思われます)、「公用語」は依然として「日本語」であったと思われます。そのため「結縄刻木」が続かざるを得なかったと理解できます。(また「暦」も未だ伝来していないため、干支も使用されていなかったもの。)
 そしてその後ある程度期間を経た後「結縄刻木」が停止されることとなったわけですが、それはそれまでの「文様」の代わりに、「漢字」を使用して「日本語」を表記できることとなったからと推量されるわけであり、またその時点で「万葉仮名」(の原型と思われるもの)が成立したことを示すと思われるわけです。
 伝来した漢籍の表記に使用されている「漢字」を日本語表記に転用可能であると考え工夫するのにやや時間がかかったとすると、それが「仏教伝来」から「明要年間」までの期間であると考えられます。(約五十年)
 これについては「漢語」を「公用語」としたという理解もありますが(※)、それでは一般民衆に対して布告などを行う際にも「漢語」が使用されたこととなり、とても誰も理解できなかったであろうと推測されます。「結縄刻木」が行われなくなったと言うことは代わりに「文字」が発明されたからであり、それは当然「日本語」を表すものでなければならなかったはずです。でなければ「一般民衆」には伝わらなかったと考えられます。
 また「漢語」を公用語としたという理解は「武」以前の「珍」や「済」がすでに「上表文」を中国皇帝に提出していることと矛盾するといえます。

「宋書」「太祖元嘉二年(四二五年),讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。」

「宋書」「(元嘉)二十八年(四五一年),加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。濟死,世子興遣使貢獻。」

 これらの記事では「表」が提出されたと見られ、「倭国王権」が「漢文」を使用していたことは明確です。それが「渡来人」の手によるものであるかは問題ではありません、その「漢語」による「文書」の存在そのものは「倭国王」を初めとする「倭国王権」が認識していたことは確かであると思われるからです。そうであるなら「明要」年中という「文書始出来」という記述の内容が「漢文」による「文書」の成立を示しているものではないことは当然のこととなります。
 また、確認できる「文書木簡」では明らかにそこに書かれた文章は「日本語」を漢字を使用して表現したというものであり、「漢文」とは言えないと思われます。もちろん「漢籍」にその出典があるような語も確認できますが、基本的には「日本語」としての文章が書かれていると判断でき、このことはこの「文書始出来」とされる「明要年間」において確立したことではなかったかと考えられるものです。

(※)中小路駿逸「日本列島への仏法伝来、および日本列島内での漢字公用開始の年代について」及び「仏法伝来と漢字の国内公用開始についての補足ならびに訂正」大手門学院大学デジタルリポジトリ
コメント

倭国への仏教伝来について

2015年02月11日 | 古代史
 「仏教」の伝来については「高句麗」は「前秦」(北朝)から四世紀前半に、「百済」は四世紀後半に「東晋」(南朝)から伝わりました。しかし、「倭国」(と「新羅」)には六世紀になってやっと伝わったものと従来考えられています。この時間差は何を意味するのでしょうか。

 「倭国」への仏教の伝来については従来二つの代表的な説があるようです。「五五二年」説と「五三八年」説です。
 「五五二年」説の根拠は『書紀』に「欽明天皇十三年」とあるところからです。「欽明天皇」元年の干支が「庚申」であり、これは「五四〇年」に当たり、これから計算して「五五二年」になる、というものです。
 「五三八年」説の方は「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」などに、仏教伝来の年として「欽明天皇七年戊午年」と書いてあることからです。しかし、確かに「戊午年」というのは「五三八年」なのですが、「欽明天皇」の「七年」が「戊午」であるなら、元年は「壬子」となり、これでは欽明天皇の即位年が「五四〇年」ではなく、「五三二年」になってしまうため、『書紀』とは食い違ってしまいます。
 そのため、現在では「五三八年」説が有利なようですが、決着はしていません。またこの当時の「百済」側の外交記事に倭国が「全く」出てこないため、何時の時点で「聖明王」が伝えたのかは不明なのです。
 ちなみに「上田正昭氏」の説によれば「聖明王」の「即位年」から数えて「二十五年目」に伝わったという伝承があり、その「即位年」に二説あったため、それが年次の違いとなったと述べていますが、「日本側資料」は明らかに倭国の「天皇」あるいは「倭国王」の治世の「何年」に伝来したか(その時の干支は何だったか)という事が伝承として残ったはずであり、「百済王」の「即位年」が影響しているとは考えられません。伝来した側の「倭国」の記録にはそのような事柄が関係しているとは考えられないと思われます。
 しかし、「九州年号」の中には「僧聴」という年号があります。これは元年が「五三六」年と従来考えられています。明らかにこの年号は「仏教」に強く影響されたものでしょう。当然この年次以前に仏教が倭国王に伝えられたものと思料されますが、そうすると「五三八年」説であったとしても、「遅れている」こととなるわけです。
 「二中歴」「年代歴」の年号群の中の「仏教」に関連していると考えられる中で、一番古いものが「僧聴」ですが、「細注」には何も書かれていません。この時点で、もし「仏教の伝来」という「重要」な出来事があったのなら、それに対して何の断り書きも書かれていないということはあり得ないと思われ、このことは「この時点」で「仏教」が伝来したと言うわけではないことを感じさせます。しかし、その場合は「二中歴」では「仏教伝来」についてどの年号の細注も何も記載していないこととなります。つまり、「仏教」の伝来はこれらの「年号」成立のかなり以前のことであった、と言う可能性を示唆するものではないでしょうか。

 上で見たように「六世紀」半ば付近で「仏教」が「百済」から伝来した、という事では(通説全体としては)「異論」がないようですが、それでは「朝鮮半島」に渡来してから、「倭国」へ伝来するのに「一〇〇年以上」かかったことになります。
 この「遅れ」については一般には、理由等詮索されることが少ない(ない)ようですが、「倭国」は「五世紀」には(「倭の五王」の時代)「南朝」へ遣使する等、活発な外交活動を展開しており、そのような中でも「仏教」(だけ)が伝来されることがなかったとすると、はなはだ不審ではないでしょうか。
コメント

ペット強制保険

2015年02月01日 | ペット
飼っていた猫が病気になって始めて動物病院の診察料などを気にするようになりました。実際病院に行くと当然自己負担率100%ですから金額はかなりなものになります。
病院にはペットが病気になった際に有効な保険のお知らせが置いてありましたが、当然健康でなければ入れず、それには現在の病気が完治することが条件となってしまいます。(うちの猫の場合はいきなり「予後不良」と診察されましたので、完治の可能性はそこでなくなったわけですが)
病院の待合室で見ていると、多くの人が自分のペットが健康でいるときには何も気にせず、いざ病院へ罹るとなるとその治療費の額に尻込みしてしまい結果的に救える命も救えなくなっている現実があるのではないかと考えました。
またそのような病気になったときに「捨ててしまう」という最悪の結果にもつながってしまうとも思えます。

現在日本で飼われている犬と猫に限って言うと合わせて一千万頭(匹)の犬猫がいずれかの家庭で飼われているとされます。
日本の世帯数は約五千万世帯ですからおよそ五つの家庭で犬か猫が一匹飼われているという荒っぽい計算ができます。
これだけ多くの家庭で飼われているものにも関わらず「制度」という点で立ち後れているのではないでしょうか。

現在は簡単に飼うことができ、また簡単に捨てることができてしまっています。そのような現状を脱却しようとしたら、飼い主及びペットをデータベースに登録し、なおかつ強制保険への加入を課するという制度を作るのが、実際には飼い主にもペットにもさらには動物病院などペットに関わる全ての人たちにとって最善の方法であると思われます。

現在は保険は言ってみれば「任意保険」だけであり「強制保険」がありません。車両の場合「強制保険」があるのは他人に対する最低限の賠償の責任が伴うためであり、そのようなものとは性格は全く異なるものであるのは当然です。
例えば治療の中でも入院して手術を受けるなどすれば、数十万円は確実にかかります。場合によれば百万円かかるような事例もあるでしょう。
このような金額を一般の人が全て自己負担するというのが困難なのは当然であり、そのため「任意」での動物保険があるわけですが、加入者も少なく保険金支払い額や負担割合も飼い主にとってそれほど有り難いわけではありません。
これを「強制」にすると言うのはそれほど困難なことでしょうか。

そもそも、強制保険という制度にすれば当然保険会社は収入が増えます。これは保険料の低減につながると共に支払保険金の増額つまり保険会社の負担割合の増加という点にも現れるでしょう。保険会社にとってみれば当然損は発生しないように保険金などを考慮することとなりますが、現状よりもはるかに被保険者つまり飼い主にとってペットが病気になった際の負担が低減されるのは確実です。簡単な治療ならばほぼ無料となるような場合もあるでしょう。

実際に保険料は年間で千円とか二千円というレベルで収まると思われますから、負担が過重であるともいえないでしょう。(多数飼っている人はとれる責任の範囲内で飼えばいいのです。)現在でも部分的な保証ではあるものの年間負担は五千円程度というのが相場であるようです。
もしこれが採用されれば動物病院にとってみると確実に収入増となります。患者そのものが増加するでしょうし(保険料を払っているのですから病院へ来る抵抗感が少なくなる)、さらに従来治療が断念されるような場合でも治療を受けようとする飼い主が増加するとみられ、高額治療に対し積極的になるという可能性が高く、入院費も含め収入は増えるでしょう。もちろん「任意」で高額保険を掛けることが前提ですが、ある程度の金額までは「強制保険」の範囲でまかなえるとすると、より高額な保険に対する心理的抵抗感も減少するでしょう。
またそのような場合獣医師そのものの需要が高まるという可能性が高く、獣医学部の出身者の受け入れ口が広がるという効用もあると思われます。また病院の収入が増えることによる医師や医療体制の充実などの利点を生む可能性も高いでしょう。CTなど高額医療機器の導入も促進されるでしょうし、その結果医療レベル全体の向上にもつながると思われます。

現在高度医療は大学の獣医学部などで行われている例が多く、間口が狭いため過密になっている例が見られます。それは即座に「順番待ち」の時間が(期間)が長くなることを意味しますし、重大性を伴う病気であるにもかかわらず、入院と治療が速やかに行われないという矛盾が発生してしまいます。
それがある程度の高度医療(当然限定的にはなるでしょうが)が民間の動物病院でも可能となるとするとその集中もある程度分散され軽減されることが見込まれます。
これらの利点は動物保険を強制的に課すると言うことに対して起こるデメリットや反発を遙かに上回るものではないでしょうか。(面倒であるというようなことは反対の理由にもなりません。)

確かにペットを飼う飼わないは自由であり任意ですが、一旦飼うとなった場合は条例などの規制を受けます。特に犬の場合は狂犬病予防の観点から強い規制が加えられています。また捨てられる犬猫は公費でその処分がまかなわれているわけですから、一概に全くの自由というわけでもありません。つまり現在でも各種の法律や制度条例の下でペットを飼育すると言うことが行われているわけであり、その延長線で考えるとしたらそれほど違和感があるとも思えません。

自分自身で言えばそのようなものがあったら何の抵抗もなくそれに従ったのと思います。ペットを飼うというのは他人に対して「責任」を伴うものであると同時に(最も重要なことは)そのペット自身に対する「責任」の発生を意味しますから、その「責任」を全うしようとしたら「保険」が必要であるのは論を待たないからです。それは金銭的余裕の有無にかかわらず発生しますから、自己負担を軽減させる意味でも、また「ペット」に対する十分なケアを行う意味でも「保険」が義務であるというのは当然であるとも思えるからです。
「任意」であっても入るべきであったなと今では思っていますが、それが「飼い主」の自由裁量であると言うことの中に問題があると思っているわけです。
コメント