前項で「継体紀」の「日本国王皇太子皇子」が一斉に死去したという記事について実際には六十年遡上した「四七一年」のことであり、それは「武」の上表文文に言う「奄喪父兄」と同一の事実を示すと考えたわけですが、それはまた「教倒改元」の年次でもあったと推定されることとなったわけです。さらにそれに関係していると考えられるのが「埼玉」の「稲荷山古墳」から出土した「金象眼の鉄剣」です。そこには「辛亥年」と書かれており、これについては「五三一年」と「四七一年」の大別二説あるようですが、そこに使用されている「漢字」の表記は原初的な万葉仮名を示していると思われ、それに関してすでに「万葉仮名」としては異色としてこれは「王権」による統一の前のものとしたわけです。その結果「四七一年」という年次に相当すると考えられることとなりました。
この「剣」に書かれた「辛亥」が「四七一年」を意味するとなると、当然この「鉄剣」が鍛造された年次であると思われますが、それはその鉄剣の持ち主と思われる「乎獲居臣」の主たる「関東王朝」の「王」の死に関係していると考えられることとなり、彼はその「王」の墓に陪葬されているわけですから、「殉死」したという可能性が考えられます。
そして、この「関東王朝」の「王」の死というタイミングは上に見たように「倭国王」(済ないしは興)の死と同時期であるわけですから、当然深い関係があると思われ、この「関東」の王が「倭国王」の身内であり、「皇子」の一人であったという可能性を考えさせるものです。
「倭の五王」による「東国」征服の過程は「騎馬」によるものであったと思われ(出土する「馬具」の分析から)、騎馬集団が直接「征服行動」を行っていたと見られますが、それは「武」の上表文の中でも「…自ら甲冑を貫き、山川を跋渉し、寧処に暇あらず…」と表現されているように「倭国」における伝統として「倭国王」ないしは彼の「皇子」による「親征」であったということが考えられます。そう考えると、「倭国王」や「皇子」が「関東」まで遠征し、その後現地に「王」として君臨することとなったとしても不思議ではないこととなるでしょう。そうとすれば「乎獲居臣」も「佐治天下」というようなことを広言する根拠を全く持たないわけではないこととなります。
この「関東」の「王」が「済」の皇子であり、このとき「済」あるいは「興」と共に亡くなったとしたら「乎獲居臣」も「殉死」せざるを得ないという状況もまたあり得ると思われます。
ところで、「本居宣長」が「玉勝間」で引用した「丙辰記」に出てくる「東遊」は、その名の通り起源が「東国」にあるとされていて、後の時代に舞われる際に伴奏にも「和琴」つまり「六弦琴」が使用されるなど東国(関東)と縁が深いものと見られます。
この舞台となった「駿河」の「宇土浜」は「東海道」がまだ伊豆箱根を超えるルートが開拓されていない時代にはここまでが陸路でここから海路であったとみられ、「房総半島」やその背後の「常陸国」など関東諸国との間の交通の要衝であったと思われます。さらにこの至近には「屯倉」も設置されていたものであり(「稚贄屯倉」)、この「屯倉」を「邸閣」つまり「兵糧の集積場所」としてここを拠点として「東国」に対する軍事的行動を起こしていたものと推定され、またその後戦いが終結した後は新規開拓された土地からの貢納物の集積場所として機能したと思われますが、ここに「船」が着いたということは「関東」側からの到着を示すものであり、この「東遊」が関東起源とされることとつながります。それを「九州」の倭国王権が受け入れて自家のもとしたということではなかったでしょうか。
この「教倒改元」という時代が「武」の代の直前と考えれば、「関東」へ「倭の五王」が進出した時代に相当すると思われますから、関東側からの一種の服属儀礼として「新旧」の「倭国王」に対して「舞」を奉納したという事を示すものではないかと推察されます。
この「丙辰」の年は「教倒」から「僧聴」へと改元された年であるわけであり、「教倒」改元から六年経過しています。これはその期間「殯」あるいは「喪」に服していたと見れば、「改元」は「新倭国王」の即位に関連しているという可能性もあるでしょう。つまり「東遊」は「前倭国王」に対する弔意を表すものであると共に「新倭国王」に対する祝意をも表すものではなかったかと推察されることとなります。
「東遊」はその後(平安時代)も宮中の「祭祀」(特に神武天皇を祀る際に)舞われていたことが確認でき、「新日本国」の王権にとって重要な意味を持っていたことが窺えます。
この「剣」に書かれた「辛亥」が「四七一年」を意味するとなると、当然この「鉄剣」が鍛造された年次であると思われますが、それはその鉄剣の持ち主と思われる「乎獲居臣」の主たる「関東王朝」の「王」の死に関係していると考えられることとなり、彼はその「王」の墓に陪葬されているわけですから、「殉死」したという可能性が考えられます。
そして、この「関東王朝」の「王」の死というタイミングは上に見たように「倭国王」(済ないしは興)の死と同時期であるわけですから、当然深い関係があると思われ、この「関東」の王が「倭国王」の身内であり、「皇子」の一人であったという可能性を考えさせるものです。
「倭の五王」による「東国」征服の過程は「騎馬」によるものであったと思われ(出土する「馬具」の分析から)、騎馬集団が直接「征服行動」を行っていたと見られますが、それは「武」の上表文の中でも「…自ら甲冑を貫き、山川を跋渉し、寧処に暇あらず…」と表現されているように「倭国」における伝統として「倭国王」ないしは彼の「皇子」による「親征」であったということが考えられます。そう考えると、「倭国王」や「皇子」が「関東」まで遠征し、その後現地に「王」として君臨することとなったとしても不思議ではないこととなるでしょう。そうとすれば「乎獲居臣」も「佐治天下」というようなことを広言する根拠を全く持たないわけではないこととなります。
この「関東」の「王」が「済」の皇子であり、このとき「済」あるいは「興」と共に亡くなったとしたら「乎獲居臣」も「殉死」せざるを得ないという状況もまたあり得ると思われます。
ところで、「本居宣長」が「玉勝間」で引用した「丙辰記」に出てくる「東遊」は、その名の通り起源が「東国」にあるとされていて、後の時代に舞われる際に伴奏にも「和琴」つまり「六弦琴」が使用されるなど東国(関東)と縁が深いものと見られます。
この舞台となった「駿河」の「宇土浜」は「東海道」がまだ伊豆箱根を超えるルートが開拓されていない時代にはここまでが陸路でここから海路であったとみられ、「房総半島」やその背後の「常陸国」など関東諸国との間の交通の要衝であったと思われます。さらにこの至近には「屯倉」も設置されていたものであり(「稚贄屯倉」)、この「屯倉」を「邸閣」つまり「兵糧の集積場所」としてここを拠点として「東国」に対する軍事的行動を起こしていたものと推定され、またその後戦いが終結した後は新規開拓された土地からの貢納物の集積場所として機能したと思われますが、ここに「船」が着いたということは「関東」側からの到着を示すものであり、この「東遊」が関東起源とされることとつながります。それを「九州」の倭国王権が受け入れて自家のもとしたということではなかったでしょうか。
この「教倒改元」という時代が「武」の代の直前と考えれば、「関東」へ「倭の五王」が進出した時代に相当すると思われますから、関東側からの一種の服属儀礼として「新旧」の「倭国王」に対して「舞」を奉納したという事を示すものではないかと推察されます。
この「丙辰」の年は「教倒」から「僧聴」へと改元された年であるわけであり、「教倒」改元から六年経過しています。これはその期間「殯」あるいは「喪」に服していたと見れば、「改元」は「新倭国王」の即位に関連しているという可能性もあるでしょう。つまり「東遊」は「前倭国王」に対する弔意を表すものであると共に「新倭国王」に対する祝意をも表すものではなかったかと推察されることとなります。
「東遊」はその後(平安時代)も宮中の「祭祀」(特に神武天皇を祀る際に)舞われていたことが確認でき、「新日本国」の王権にとって重要な意味を持っていたことが窺えます。