古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭国への仏教伝来について(九)

2015年02月15日 | 古代史
 前項で「継体紀」の「日本国王皇太子皇子」が一斉に死去したという記事について実際には六十年遡上した「四七一年」のことであり、それは「武」の上表文文に言う「奄喪父兄」と同一の事実を示すと考えたわけですが、それはまた「教倒改元」の年次でもあったと推定されることとなったわけです。さらにそれに関係していると考えられるのが「埼玉」の「稲荷山古墳」から出土した「金象眼の鉄剣」です。そこには「辛亥年」と書かれており、これについては「五三一年」と「四七一年」の大別二説あるようですが、そこに使用されている「漢字」の表記は原初的な万葉仮名を示していると思われ、それに関してすでに「万葉仮名」としては異色としてこれは「王権」による統一の前のものとしたわけです。その結果「四七一年」という年次に相当すると考えられることとなりました。

 この「剣」に書かれた「辛亥」が「四七一年」を意味するとなると、当然この「鉄剣」が鍛造された年次であると思われますが、それはその鉄剣の持ち主と思われる「乎獲居臣」の主たる「関東王朝」の「王」の死に関係していると考えられることとなり、彼はその「王」の墓に陪葬されているわけですから、「殉死」したという可能性が考えられます。
 そして、この「関東王朝」の「王」の死というタイミングは上に見たように「倭国王」(済ないしは興)の死と同時期であるわけですから、当然深い関係があると思われ、この「関東」の王が「倭国王」の身内であり、「皇子」の一人であったという可能性を考えさせるものです。

 「倭の五王」による「東国」征服の過程は「騎馬」によるものであったと思われ(出土する「馬具」の分析から)、騎馬集団が直接「征服行動」を行っていたと見られますが、それは「武」の上表文の中でも「…自ら甲冑を貫き、山川を跋渉し、寧処に暇あらず…」と表現されているように「倭国」における伝統として「倭国王」ないしは彼の「皇子」による「親征」であったということが考えられます。そう考えると、「倭国王」や「皇子」が「関東」まで遠征し、その後現地に「王」として君臨することとなったとしても不思議ではないこととなるでしょう。そうとすれば「乎獲居臣」も「佐治天下」というようなことを広言する根拠を全く持たないわけではないこととなります。
 この「関東」の「王」が「済」の皇子であり、このとき「済」あるいは「興」と共に亡くなったとしたら「乎獲居臣」も「殉死」せざるを得ないという状況もまたあり得ると思われます。

 ところで、「本居宣長」が「玉勝間」で引用した「丙辰記」に出てくる「東遊」は、その名の通り起源が「東国」にあるとされていて、後の時代に舞われる際に伴奏にも「和琴」つまり「六弦琴」が使用されるなど東国(関東)と縁が深いものと見られます。
 この舞台となった「駿河」の「宇土浜」は「東海道」がまだ伊豆箱根を超えるルートが開拓されていない時代にはここまでが陸路でここから海路であったとみられ、「房総半島」やその背後の「常陸国」など関東諸国との間の交通の要衝であったと思われます。さらにこの至近には「屯倉」も設置されていたものであり(「稚贄屯倉」)、この「屯倉」を「邸閣」つまり「兵糧の集積場所」としてここを拠点として「東国」に対する軍事的行動を起こしていたものと推定され、またその後戦いが終結した後は新規開拓された土地からの貢納物の集積場所として機能したと思われますが、ここに「船」が着いたということは「関東」側からの到着を示すものであり、この「東遊」が関東起源とされることとつながります。それを「九州」の倭国王権が受け入れて自家のもとしたということではなかったでしょうか。

 この「教倒改元」という時代が「武」の代の直前と考えれば、「関東」へ「倭の五王」が進出した時代に相当すると思われますから、関東側からの一種の服属儀礼として「新旧」の「倭国王」に対して「舞」を奉納したという事を示すものではないかと推察されます。
 この「丙辰」の年は「教倒」から「僧聴」へと改元された年であるわけであり、「教倒」改元から六年経過しています。これはその期間「殯」あるいは「喪」に服していたと見れば、「改元」は「新倭国王」の即位に関連しているという可能性もあるでしょう。つまり「東遊」は「前倭国王」に対する弔意を表すものであると共に「新倭国王」に対する祝意をも表すものではなかったかと推察されることとなります。
 「東遊」はその後(平安時代)も宮中の「祭祀」(特に神武天皇を祀る際に)舞われていたことが確認でき、「新日本国」の王権にとって重要な意味を持っていたことが窺えます。
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倭国への仏教伝来について(八)

2015年02月15日 | 古代史
 前稿までの推論は『二中歴』の記事について「干支一巡」の移動を考慮することが必要であることを示すものですが、これに適合すると思われる事例を別の角度から考察してみます。それは「継体紀」に書かれている「継体天皇」の死去した年次についての混乱ぶりです。
「継体紀」には以下のように書かれています。

「(継体)廿五年歳次辛亥(五三一年)崩者。取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。」

 つまり、「百濟本記」には「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事があり、こちらのほうを信用して「書紀」もこれにならったというわけです。しかし、近畿王権の国内伝承にはこの時点でそのような「王の一家の主要な人物が一斉に死去した」というものは存在していなかったのです。このため「編纂者」(これは「唐人」「続守言」と考えられます)も困惑していると見られるわけですが、これは「干支一巡」(=「六十年」)のズレが招いたものではないでしょうか。
 当時の「百済」の記録は「干支」によっていたため「六十年」単位で移動する可能性があると思われます。それに関して「百済」には年号使用の形跡が亡いことがあります。「武寧王」の墓誌にも年号ではなく「干支」が使用されています。このように年次記録が「干支」によるとすると「定点」がないこととなり、ある程度年数が経過して、他の資料などが散逸し始めると年次を誤認する可能性が高くなります。
 また「百濟本記」は「現存」しておらず、『書紀』などに引用される形でしか残っていません。このため、信憑性については疑問があり、全面的にはそれに依拠することはできないと考えられます。

 この記事の干支が実際には「六十年」遡上したものとすると「四七一年」となりますが、『二中歴』も「六十年」移動することとして考えていますので、この『百済本紀』-『二中歴』の関係はそのまま維持されることとなります。つまり、移動した「辛亥年」は「四七一年」となり、それは「教倒」改元の年であるわけで、さらに「南朝」の皇帝に対して「武」の上表文が書かれる七年前のこととなります。そして、その上表文の中では「倭国王」と「皇太子」が「ともに」亡くなっている、と書かれているわけですから、「百濟本記」の記事にかなり近似していることとなるでしょう。つまり、ここで示された「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事は「武」の上表文に書かれた「奄喪父兄」という「倭国王」「済」と「興」の死亡に関する記事と強く関係していると推量します。

 この「武」の上表文の「記事」以外には「百濟本記」の「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事と合致するものは全く確認されないわけであり、これは「百濟本記」に「誤伝」した可能性が強いものと考えられます。というより、『二中歴』も「六十年」時期が下る方向で「ずれている」わけですから、そのことと「百済本紀」が同様に「ずれている」と推定されることとは深い関係があると思われます。つまり、いずれも「原資料」が共通していて、その「原資料」段階で既に「ずれていた」という可能性です。元の資料は同じであったという可能性があるように思われます。
 
 また、上のように「武」の上表文に書かれた内容と『書紀』(百済本紀)とが同一であるという推定をした場合、「武」の上表文が書かれるまで「時間」(年月)がかかっているようにも思えますが、これは「武」が当時まだ「未成年」であったため、「成人」を待っていたと言うこともまた可能性としてあると思われます。
 「興」以外にも兄がいて「父兄」とは「済」と「興」だけではなく、他の「兄」も含んだ表現であるとすれば、「武」は「末子」であったという可能性があり、まだ幼少であったためにすぐ即位できず、成長を待って「即位」し「上表」する事となったということではないでしょうか。(「百濟本記」でも亡くなった中には「太子皇子」がいたらしいことが書かれてあり、上の推定を裏付けるものです)
 また「父」と「兄」の「服喪期間」があったために「上表」して「称号」を受けるまで時間がかかったという可能性もあります。この時代はまだ「三年以上」の「殯」の期間があったと考えられ、「父」と「兄」とが相次いで亡くなったとすると少なくとも六年分あったこととなり、「上表」までの年数も整合的となるでしょう。(「武」の上表文によれば「南朝」の皇帝の死去に伴う「諒闇」もあったとされますから、さらに年数が増えることとなります。)
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倭国への仏教伝来について(七)

2015年02月15日 | 古代史
 前稿までの推論は『二中歴』の記事について「干支一巡」の移動を考慮することが必要であることを示すものですが、さらに他の例で検討してみます。
たとえば「教倒」の項に書かれた「教倒五元辛亥舞遊始」という記事についても、これを通常「五三一年~五三五年」と理解するより六十年遡上した年次である「四七一年」と見る方が妥当ではないかと思われることを示します。

 この「教倒」年間は「四七一年~四七五年」のこととなりますが、この「年次」は「斉」と「興」が共に亡くなり「武」が跡を継いだとされる時期に相当します。
 「武」が「四七八年」に提出した上表文では「奄喪父兄」と書かれ、「父」(斉)と「兄」(興)の両者を「同時」に失ったように書かれていますが、実際には「四六二年」の「興」の遣使の時点では「斉」は死去しているとされ、また「興」自身も彼は「将軍号」を授号されていますから、当然同時には亡くなっていないこととなります。しかし、それほど長年月にわたって彼が存命したということでもないものと思われ、その死去した年次は「四六二年」以降の「四七八年」までのどこかと考えられます。そうすると、この『二中歴』に書かれた「舞遊」は彼らの「葬儀」と「鎮魂」あるいは「新倭国王」の即位に関するものと考えることもできるのではないでしょうか。

 ところで、「筑紫舞」を伝えた「傀儡子(くぐつ)」の伝承によれば「高貴な方の前で」舞う、あるいはそれら高貴な方の墓である「古墳」で舞うという事が彼らの職掌であったようです。(福岡県にある「宮地嶽古墳」などで実際に行われていたもの)
 このことは彼らの舞が、元々高貴な方が主催する「祭祀」などで「舞う」=「歌舞」する、というものであったのではないかと思えます。そもそも、「古墳で舞う」と云うことは「死者」を鎮魂するのが目的であり、さらに新王者への継承を「鬼神」(死者)に対して報告する意義があったものともられ、弥生時代以来の「墳墓」(古墳)設営に必需の鎮魂作業であったと思われます。

 「大宝令」の「解釈集」である「令集解」には「遊部」という項目があり、それによれば、「遊」とは天皇の崩御に伴う「殯(もがり)」に奉仕することであり、「鎮魂歌舞」を「殯」の場所で行うのが職掌でした。つまり「舞遊」とは単なる歌舞ではなく、古墳時代以前からの「殯」の儀式につながっていたものです。
 『隋書俀国伝』には「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞」と書かれており、葬儀の場で「歌舞」すると書かれています。
 これらのことから「舞遊始」とは「葬儀」に関わる儀式であったものが「原初型」ではないかと推察されるものです。

 また「本居宣長」の著書「玉勝間」には「東遊」に関して「體源抄」(豊原統秋著)という書籍からの引用として以下の文章があります。

 「丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり」

 ここには「東遊」の起源が書かれていますが、「教到六年」という「九州年号」が見えるように、ここに書かれた「天人」とは九州から派遣された「哥舞」を為す人たちであり、彼らにより、伝えられたものが「東遊」の起源となったとされていると思われます。
 (ただし、「九州年号」の「教倒」は「五年」までで「丙辰」の年は「僧聴」に改元されていることになっています)
 ここでは「夕べ」、つまり「日の暮れる頃」になって「海岸」に船が着き、そこから下りてきた人々により「歌舞」が行われたもののようであり、これは「日の暮れる頃」という時間帯でもわかるように「儀式」、特に「葬送儀式」にまつわるものと考えられ、前述したように、倭国王「斉」と「興」の「葬儀」や「鎮魂」の儀式と関連して行われたものではないかと思慮されます。(年号の切り替わりと重なっているのもそのことを示唆します)

 また、九州に多い「装飾古墳」で描かれる光景として古墳の主である「貴人」の葬儀の場合、「遺体」を船に乗せ「陸上から引っ張って陸地に上げる」という儀式を行っていたと見られ、この「東遊」とされるものも本来、同様の趣旨のものであった可能性が高いと考えられるものです。そうであれば「九州」との関係も理解できるものです。
 推測によれば「済」や「興」の生前の業績と関連の深い場所が何カ所か選抜されて各地で「葬送の儀式」が行われたのではないかと考えられ、そこで「歌舞」が行われたものと考えられます。(天女伝説のいくつかは同様の趣旨のものではなかったでしょうか)
 このような儀式には参加者(「周瑜」に例えられていますから、「男性」と考えられます)が「白衣」等を身につけ(当時「喪服」と言えば「白」(麻)と決まっていたようです)、「歌舞」するものと思われ、それを見ていたものがいたのでしょう。
 このような儀式は(特に高貴な方の葬儀など)、関係者以外は「参加」できないものであったとも考えられ、それを「或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見」ていたことが「丙辰記」に書かれたものと推察されます。
 (「常陸国風土記」の「建借間命」の「国栖」征伐のシーンに出てくる「七日七夜 遊楽歌舞」というものも「葬送」に関わるものではないかと考えられ、これと同種のものであったかと推察されます)(※)
 つまり、この「東遊」の起源となったとされている「教到六年」も「通常の理解」である「五三六年」ではなく、「六十年」過去に移動した「四七六年」である可能性が高いと考えられるわけです。
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倭国への仏教伝来について(六)

2015年02月15日 | 古代史
 「二中歴」の「年代歴」について「六十年遡上」という可能性を考察しているわけですが、「明要」の項にある「『明要 十一 元辛酉「文書始出来結縄刻木止了」』という内容について考えてみます。

 すでに「仏法」の伝来を「五世紀初め」であるとしたわけですが、それ以来、倭国内ではその支持がなかなか拡大しなかったとみられます。それは「鬼神信仰」の存在と「対東国」「対半島」というような拡張主義とでもいうべき王権の政治体制と合致しなかったからではないかと考えられます。これらに対して「仏教」はその「不殺生」というような思想でわかるように「武力」と対極にあったと考えられていたものであり、そのため「伝来」後多数の信者を獲得するというような状況にはなかったものと思われます。しかし「五世紀後半」の「武」の時代になり、「武」ないしはその後継者であると思われる「磐井」により積極的に受容されるようになった結果、その「教典」を自分たちだけではなく、一般民衆に理解させようとすることとなったものと推察されます。そこで「仏典」を「日本語」に「訳す」必要が出て来たものであり、「日本語」を表記するのに必要な「文字」を生み出すことになったものと思われます。
 つまり、「普通の人」でも「日本語」を書いたり読んだりできるようにするために「文字」(「仮名」)が発明されたと考えられるのです。逆に言うと「王権」の上層部などでは「漢文」で事が足りていたという可能性が考えられ、必要な文章は「漢文」として書けばよいとされていたものとみられますが、一般民衆にはその様な事は不可能でしたから、通常は「結縄刻木」(特に「刻木」)によっていたものですが、複雑な内容を伝えようとすると「結縄刻木」では足りず、かといって「漢文」の知識もない民衆達には、それを伝えることも困難なことであったと思われます。

 それまでは、支配者層は民衆に対しては、基本的に「力」を示し「絶対服従」を強制する態度(体制)で接していたと思われ、民衆の文化レベルを上げるようなことは念頭になかったものと思われますが、「武」の時代以降「制度」を整え、文化的側面を強調されるようになったもののようであり、そのような流れの中に「文字文化」の国内への「敷衍」というものがあったと想定されるものです。
 このようにして、日本語を表記する必要に迫られたわけですが、そのために漢字の発音である「音」を利用して「表音文字」として利用することを考えついたのでしょう。そして、一大プロジェクトとして「勅」により「漢和辞典」の製作が始まり、それが完成したのを記念して「明要」と改元したものと思われるのです。
 ここで年号として使用された「明要」という字義は「大事なことを明らかにする」という意味であり、「辞書」などに使われる形容詞に「明解」とか「要解」とかありますが、同義と思われます。
 幕末の元治元年「一八六四年」村上英俊という学者により「佛語明要」というフランス語字典が完成しています。この「明要」と同様な用法と思われ、この「明要」改元時点で「漢語対和訳」辞書が完成したのでしょう。
 「四八一年」という年は「漢和辞典」が完成し、それを参照すれば「結縄刻木」をする必要がなくなったという年であり、そのことを記念して「明要」と改元したものと思われます。そして、この「漢和辞典」を作るとき編み出されたのが「万葉仮名」だったと思われます。

 「万葉仮名」は基本的にはこの時に出来たと考えられますが、民間レベルではそれ以前から生活の便法として使用されていたのではないかと思われ、特に渡来してきた朝鮮半島人や中国人などは逆に「結縄刻木」が理解できず、日本人と意思疎通をするために必要に迫られ、すでに自主的に工夫、開発されていたものと思われます。
 たとえば埼玉の「稲荷山鉄剣」の銘文には日本人の名前と思われるものを「漢字」で書いており、「漢字」を「表音文字」として使用しているのが理解できますが、それに使用している漢字はこの地域で独自の発展したものと推定されるものです。そこでは「て」の表記、「き」の表記、「は」の表記、「け」の表記などで、後の「一般的」な「万葉仮名」では使用例の少ない漢字を使用しています。
 この銘文は全体としては漢文ですが、人名は「日本語」を表記したものであり、「万葉仮名」であると言えます。その「万葉仮名」を表記するため選ばれた「漢字」に、後の「万葉集」や「記紀」「推古朝遺文」などでは使用されることの少ない漢字が使用されているのです。このことは、この「辛亥」の年を六十年後の「五三一年」という意見を否定するものでしょう。それでは「勅」により「統一」されたはずの「万葉仮名」とは違う漢字を使用していることとなってしまい、整合しないと考えられるのです。
 つまり、この「鉄剣」に記された「辛亥の年」は「四七一年」と推定され、日本語を表記するのに「漢字」を使用した例としてはかなり早いものと考えられるものです。

 このように各地で「試行錯誤」があったものと思われますが、いずれも広い範囲で「共通」に使用可能とするのが目的ではなかったため、地域による異同が多かったと思われ、それもあって国家として「共通語」的なものが必要となったということではないでしょうか。
 もちろん、当初目的としては「仏典」の読み書きを容易にする、というものであったわけですが、それ以上に「日本語」を表記できる「文字」が必要であったのは当然とも言えます。このことを「最重要」として「勅」により「標準発音表」とそれを使用した「漢和辞典」が作成されたものと推定されます。

 万葉仮名を見るとかなり難しい字が使用されていることもあり、このような「万葉仮名」を一個人で完成させるのは非常に困難と考えられ、「倭国王」(「武」)が朝廷のインテリを集結させて作成させたものと思われます。
 この時出来た「漢和辞典」は後の「五十音表」のような「発音表」(万葉仮名によるもの)と共に、主要な漢字・漢語(特に仏教経典中に出てくる漢字・単語など)の読みと意味が書いてあるような形ではなかったかと思われ、これが完成し、人々にも示されたことにより、一般民衆でも自分の意志を示すのに「漢字」(万葉仮名)を使用することが可能となり、各種の文献が作成されていくこととなったものと思われます。(学校のようなものができた可能性もあります)
 この「万葉仮名」により、人々は「通信」(手紙など)をするようになり、また文字成立以前から存在していたと考えられる「歌謡」(その当時は口伝と考えられますが)を「仮名」(万葉仮名)を使ってさらに発展させていったものと思われます。
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倭国への仏教伝来について(五)

2015年02月14日 | 古代史
 前々項で「僧正」というような「僧尼」を管理する体制が「五世紀」の南朝劉宋時代に制度化されたとみたわけですが、「書紀」にはそれと一連の記事として「僧尼」の戸籍ともいうべきものが作成されたと書かれています。(以下再掲)


「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。
壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。
秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」

 このデータベースには「度之年月日」つまり「得度」した日付が記録されているとされますが、それはこの時代に「元嘉暦」が導入されたと考えられる点からも首肯できるものです。さらに「結縄刻木」が停止されたという「明要」の項の記事とも整合するといえるでしょう。「文字」が成立して初めて「具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁」なども記録できるようになったとみられるからです。
 そして、この「元嘉暦」の導入と関係しているのが「年号」の使用開始です。

 『二中歴』には「継体二十五(応神五世孫 此時年号始)」(「継体天皇」は「応神天皇」の五世の孫であり、その治世は二十五年間続き、主要な事項は年号の使用開始である)と書かれています。
 これは従来、「六世紀前半」の記事であり、「継体」の時代というのは、通常「倭の五王」の一人である「武」の時代から後継者としての「磐井」の時代であり、成文法としての「刑法」が制定され、「律令政治」の原型が作られた時代と考えられています。(磐井の墳墓の様子を記した「風土記」の記事から「刑法」の存在が想定されているわけです)
 このような時期に「年号」の「使用開始」という記録があるわけで、これは一見「律令」の開始という様なことを想定すると、整合性は高いものと思われ、このことからこの『二中歴』の細注には「正当性」があると考えて、余り関心を払われていなかったと思われます。しかし、この時期を「六十年」過去側に修正すると「四五七年」となります。
 『書紀』の日付の研究(※)から、「元嘉暦」の使用開始時期について、遅くても「四五六年八月」と判明しています。それ以前の「三九九年」から「四五六年八月」までは「儀鳳暦」でも「元嘉暦」でも合うとされていますが、実際には「南朝」で「元嘉暦」を使用開始したのが「四四五年」とされており、この年次以降のどこかで「倭国」に伝来したと考えられることとなりますが、「六十年」の年次移動の結果「年号」の使用開始が「四五七年」となると、これは「暦」の解析から導き出された「元嘉暦」の伝来時期の下限とされる「四五六年」とまさに「接する」年次となり、「暦」が伝わった時点で、同時に「年号」も使用し始めたと考えると非常に整合的だと思われます。 
 日付表記法は「干支」によるか「年号」によるかですが、いずれにしろ、「一年」の長さを正確に把握しなければならず、「暦」と「年号」というものが不可分であるのは当然であり、「元嘉暦」の導入と「年号」の使用開始が「同時」であったとしても、何ら不自然ではありません。(ただしこの「元嘉暦」の伝来は「百済」を経由したものと推定されますが。)

 これに類する例を挙げると、「三国史記」に「真徳女王」時代のこととして、「唐」から「独自年号」の使用を咎められたことが書かれており、その際の「新羅使者」の返答によれば、「唐」から「暦」の頒布を受けていないから「独自年号」を使用しているとしています。

「二年冬使邯帙許朝唐。太宗勅御史問 新羅臣事大朝何以別稱年號。帙許言 曾是天朝未頒正朔 是故先祖法興王以來私有紀年。若大朝有命小國又何敢焉」

(以下大意)
「二年冬、邯帙許を使者とし、唐に朝貢させた。その時太宗は御史を通じて、(以下のように)問いただした。新羅は大朝(唐)に臣として仕えているのに、どうして別な年号を称しているのか。邯帙許は(次のように)言った。いまだかつて、天朝(唐)は正朔(暦)を(新羅に)頒ち与えたことがありません。そのため先祖の法興王以来、勝手に年号を使っています。もし大朝から命令があるならば、小国(わが国)はどうしてあえてこれに反対しましょうか。」

 ここでは「正朔を奉じる」こと、つまり「宗主国と同じ暦を使用する」ということと、「宗主国」の年号を使用するということがセットになっていることが判ります。
 「倭国」の場合は「暦」は伝わったものの「南朝劉宋」からは「年号」の使用の強制がなかったのではないかと考えられ、「暦」だけを受容することとなったと見られます。それは「高句麗」が独自年号を使用していたことと関係があると思えます。
 このような「年号」使用開始というのものは、その「王権」の権威の高揚や「統治」の固定化などにより強く作用するためのツールとして使用されたと見るべきであり、その意味で「半島内」の覇権を「高句麗」と争っていた「倭国」にとって、「年号」の点で後れを取るのは「あってはならないこと」であったのではないでしょうか。
 また、国内的にも「東国」への進出と同時期に「年号」の使用開始が行なわれていると見られることとなりますから、それもまた「東国」に対する統治の強化等に有効に作用したであろう事が推察できるものです。
 このようなことから考えると「年号」の使用開始と「元嘉暦」の伝来とは直接的な関係があると考えられ、逆に「暦」の伝来から「六十年」も隔たって「年号」を使用開始したとすると、著しくタイミングがずれているといえるのではないかと推量します。

 この時期に「年号と「暦」を使用開始したとすると、それは「倭国王」の「済」の時代のこととなると思われます。「済」は「四四三年」「四五一年」と「遣使」記事があり、その後「世子」である「興」が「四六二年」に遣使していますから、「四五七年」という年次はほぼ「済」の年代を指すと考えて間違いないようです。

(※)小川清彦『日本書紀の暦日について』一九四七年
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