江戸時代の日本一の力持ち 越谷市
12年の七夕の昼間、越谷市役所で開かれた「第一回日光街道宿場町サミット in 越ヶ谷宿」という集まりを見に行った。
入り口に並んでいた多くのパンフレットの中で、最も魅かれたのは「越谷で生まれた 江戸時代の 日本一の力もち 三ノ宮卯之助」という一枚だけのものだった。
越谷の人なら誰でも知っている人だろう。何も知らなかったから、私には大ニュース。無知という特権である。これが出かけてみる楽しみの一つだ。
このパンフレットによると、「三ノ宮卯之助」は、もともと「一ノ宮」とか「二ノ宮」とか、神社みたいな名の持ち主ではない。
1807(文化4)年、今から200余年前、岩槻藩領三野宮村(現・越谷市三野宮)で生まれた。「三ノ宮」の方が「三野宮」より格好いいではないか。
卯之助は生まれつき小柄で虚弱だった。猛練習で頭角を現した「努力の人」である。
越谷は、元荒川沿いの低地だったから、幕府の新田開発の力入れもあって、「武州越ヶ谷米」と呼ばれ、「太郎兵衛もち」というもち米は江戸でも評判だった。
収穫した米俵を担ぐためや近くの元荒川に河岸もあったので、力持ちが必要で、力比べも行われていた。
卯之助は単なる力持ちだけではなかったようだ。近隣の力持ちを組織化して、全国興行を打ったのだ。
その足跡は、遠く姫路城の城下にまで及び、姫路市には石を持ち上げる卯之助の銅像もある。
1833(天保4)年、卯ノ助26歳の時には江戸深川の八幡宮境内で、11代将軍・徳川家斉の前で怪力ぶりを披露したこともある。力持ち興行を将軍が見たのは、このほかに例はないという。
卯之助は、1848(嘉永元)年、江戸力持番付で最高位の東大関(横綱はなく大関が最高位)になった。巡業で回った地域も一番広く、残っている力石も所在が分からなくなったのも含め38個と最も多いという。
「力石」という言葉がある。力試しに持ち上げた石のことで、神社などに残っている。その大きなものは「大磐石(だいばんじゃく)」と呼ばれる。
日本一の大磐石(力石)は、桶川市寿町の稲荷神社にある。実に610kg。市の指定文化財に指定されていて、「稲荷神社の力石」として知られる。「嘉永5(1852)年2月」と刻まれているので、45歳の時のものである。(写真)
どのようにしてこれを持ち上げたのか。このパンフレットには、卯之助研究の第一人者である郷土史家・高橋力氏所蔵の卯之助の興行の引札(ちらし)には、仰向けに寝た男が、両足で小舟を持ち上げ、馬に乗った武士と馬引きが乗っている「人馬船持ち上げ」の図がある。このような“足指し”という技を使ったのではないかと推定されている。
小舟に牛一頭を乗せたものを持ち上げるのも「売り物」だった。
地元の越谷市にも力石は、三野宮神社に4個、久伊豆神社に1個など6個あり、市の有形文化財に指定された。県内には力石が全国一多いという。
1854(嘉永7)年、江戸の大名屋敷で開かれた東西力自慢の対決試合で卯之助は勝ち、東西の日本一になった。その祝宴の帰り道、突然、苦しみ出し、48歳で死んだ。毒殺とも食中毒ともいわれる。
越谷市では、卯之助誕生200年を記念して始まった「力持ち大会」が開かれている。
この原稿は、高橋力氏ら越谷の卯之助研究家の書かれたものに基づく。